もう名誉を争わない

2022年4月5日

韓国 司凡

二年前、新人を潤す本分を任され、神による引き上げだと思いました。しかも本当に重要な本分なので、新人をきちんと潤せるよう真理に力を入れることにしました。彼らがすぐ真の道に踏み出せるように。時間があるたび御言葉を読んで真理を備え、集会では新人の疑問や問題を真剣に考え、御言葉の中に交わりと解決を求めました。理解や解決ができないと、他の兄弟姉妹と探求しました。やがて、みんな問題があるとわたしのところへ交わりに来るようになったんです。わたしは思いました。潤しを始めて間もないのに、みんなもうわたしを仰ぎ見てる。心から嬉しくなってますます本分に励みました。

その後、指導者の采配でチェン姉妹と働くことになりました。しばらくすると、本分への責任感が強く、働きの問題を突き止めるのに優れてるとわかりました。集会での交わりも明快かつ系統的で、問題を解決できます。みんな彼女に賛成で、問題があると彼女を探して交わるんです。これを見てわたしは不安になりました。「チェン姉妹は新入りなのに、みんなもう彼女を評価してる。助けが必要になると、わたしじゃなく彼女を探してる。わたしじゃかなわないってこと? いいえ、もっと頑張らなきゃ。わたしは脇役なんかじゃなく、問題を解決できるってみんなにわかってもらおう。そうしなければ心の中で軽んじられる」そこで兄弟姉妹の状態や困難を聞き出し、集会の前は神の御言葉を見つけてメモしました。集会中も、わたしのほうが有能だと思われるよう、優れた交わりをするにはどうすればいいか、そればかり考えてました。驚いたことに、ある日指導者が、チェン姉妹にグループリーダーを務めてもらうと言いました。わたしはびっくりしました。「聞き間違い? チェン姉妹がグループリーダーですって? どうしてこんなことに? わたしのほうがこの本分を長く尽くしてる。みんなこれを知ったらどう思うだろう? 彼女のほうが優れてると思うかしら? もう顔向けできないわ」考えれば考えるほど不当に扱われてる気がして、どうしても受け入れられません。闇に包まれ苦痛でした。そう考えちゃいけない、名誉と地位のために生きているとわかっていても、自分を抑えられません。こんなの大丈夫、心配せずにきちんと本分を尽くせばそれでいいと、自分を慰めようとしました。この点について真理を求めることも、自己反省することもなかったんです。

ある日、チャン姉妹のご家族が共産党の噂と嘘に騙され、彼女の信仰を止めようとしていることを知りました。そのせいで集会にも来なくなったの。わたしは交わりをしようと連絡しましたが、チェン姉妹に会って探求と交わりをしたと言うんです。これを聞いて動揺しました。以前はわたしに相談してたのに、今はチェン姉妹のところに駆け込んでる。わたしじゃ駄目ってこと? みんなわたしのことを忘れようとしてるの? そう考えると本当に自信がなくなって、チェン姉妹に出し抜かれたと思い、彼女への偏見を膨らませました。彼女のメッセージにも返答せず、「はい」と短く返事するだけのことも。兄弟姉妹とオンライン集会を開いたときのことです。チェン姉妹がある姉妹の質問に答えて交わりをしましたが、わたしは上の空で、彼女に主役の座を奪われることばかり心配してました。自分も交わりをしたい。そうすれば、わたしも真剣で、問題を解決できるとわかってもらえる。チェン姉妹の話が終わると、質問したその姉妹は、彼女の交わりは実際の問題を解決していないと言いました。わたしはぞくぞくしました。痛いところを突いてたんです。「ずいぶん話したけど、実際の問題は解決してない。的外れなのよ。面目丸潰れね。みんなすぐにわかるわ。このチャンスを生かして見せつけなきゃ。わたしの交わりが一番優れてるって」そこですぐに交わりを始めましたが、それが終わると、自分がその姉妹の質問をまったく理解していないのは明らかで、返答も的外れでした。注意のメッセージが来たほどです。自分は間抜けで、穴があったら入りたい気分でした。そのとき急な用事ができて、わたしは切断しました。その後、みんなが集会を続けてるのを見て、邪悪な考えが頭に浮かびました。「あなたがた、いつまでそんな風に話し続けるつもり? わたしが集会に出られないなら、誰だって無理よ。さもないと見世物になるのはあなたがた」そこで何も考えず、こんなメッセージを送信しました。「集会の時間はもう過ぎてます。だらだら引き延ばしてはいけません。問題はあとで話し合いましょう」数分後、みんなオフラインになりました。わたしはコンピュータの前で、とても動揺していました。自分の交わりが恥ずかしく、チェン姉妹の失敗を喜んだことを、申し訳なく思った。わたしは何をしてたの? 協力してきちんと本分を尽くすのでなく、事あるごとに嫉妬に狂って争い、彼女を傷つけようとした。本分を尽くしてると言える? どうしても心が落ち着きません。

その後、自己反省しました。自分にいったい何があったのか。事あるごとに自分とチェン姉妹を比べて生きるのは、とても疲れるし苦痛で一杯。神の言葉から啓きを得られず、祈りも通り一遍で、集会も無味乾燥で光がない。心は闇に包まれてる。苦痛の中、わたしは神の御前に出て祈りました。「神よ、わたしは名誉と地位のために生きています。いつも争い、人と自分を比べ、尊敬されたがっています。正しい状況でないのはわかっていますが、そこから逃れられません。神よ、自己認識できるようどうかお導きください」

ある日、集会でこの御言葉を目にしました。「反キリストの同類が本分を尽くすとき、それが何であろうと、どのグループにいようと、彼らははっきりとした形の振る舞いを見せます。つまり、人を押さえつけて操る傾向が常にあるのです。彼らは人を率い、決定権を持つことをいつも望みます。人に見られ、注目を浴びることをいつも望みます。より多くの人の目にさらされ、注目されることを望みます。反キリストが集団に加わるたび、その人数がどうであろうと、その集団にどのようなメンバーがいようと、彼らの職業や身分がどういったものであろうと、反キリストはまず、立派に話すのは誰か、印象的なのは誰か、高い技能を持つのは誰か、資本が一番多いのは誰かを確かめようとします。そして、打ち負かせるのは誰か、打ち負かせないのは誰か、自分を超える者は誰か、自分より劣る者は誰かを確かめようとします。これらが、彼らが最初に評価する事柄です。状況を素早く見定めたあと、彼らは自身の働きを始め、自分の下にいる人たちを脇にのけ、無視します。自分より優れていると思う人、何らかの威信や地位がある人、賜物があって有能な人がいれば、真っ先にその人のもとへ向かいます。彼らは最初にそうした人たちと自分とを比較します。これらの人たちのうち、兄弟姉妹に尊敬され、神を長く信じ、立派な立場の人がいれば、妬みの対象となり、競争相手となるのです。そして反キリストは、尊敬され、地位があり、言葉で兄弟姉妹を従わせることができるそれらの人たちと自分とを密かに比べ、彼らが何をでき、何に習熟しているかに目を向けます。反キリストは観察を重ね、それらの人たちが特定の職業に精通しており、また神を長く信じているために、あるいはその他の理由により、みんなに尊敬されていることを認識します。ひとたびそうした『獲物』を発見し、そうした競争相手に気づき、その原因を探り出すと、反キリストは行動計画を立てます。競争相手にかなわないのはどこかを見極め、そこで働きに取りかかります。ある職業で他の人ほど優れていないと、彼らはその職業を研究し、ありとあらゆる情報を集め、へりくだって他の人に指示を請います。その職業に関係するありとあらゆる仕事に参加し、徐々に経験を積み、自分の力を蓄えます。競争相手に対抗する資本ができたと確信すると、彼らはいつも立ち上がり、自分の『賢明な見方』を知らしめようとします。また競争相手をわざと否定して貶め、愚かに見せると共に、その人の評判に泥を塗ることもよくあります。それにより、自分が他の人たちとひと味違い、競争相手より賢明であることを示せるのです。平均的な人はそうしたことを認識できるでしょうか。その過程を通じて、反キリストが何をしているかを知っているのは彼ら自身だけです――いや、彼ら自身と神だけです。普通の人が見るのは彼らの熱意、追求、苦しみ、支払う代価、そして一見よい振る舞いだけです。しかし、物事の真相は彼らの心の奥底に隠されています。彼らの核となる目標は何でしょうか。それは地位を得ることです。彼らの知らぬ間に、自身のすべての働き、苦労、そして支払う代価の対象は、心の中にあって忘れることも捨て去ることもできない事柄、つまり地位に向けられるのです(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(3)」)。神の御言葉は痛いところを突き、わたしは恐怖を感じました。それに、神はわたしの考えや思いをはっきり見抜いているとも思いました。考えると、わたしは潤しの本分に就いて以来、それを自己顕示のチャンスと捉えていました。みんなの問題を解決することで、尊敬され、認められようとしてたんです。チェン姉妹と協力するよう指導者に采配されると、どうすれば協調して本分を尽くせるかなど気にせず、彼女と争い、彼女と自分を比較しました。兄弟姉妹が誰に助けを求めるか、どっちのほうが信頼され、傑出しているかばかり気にしてた。みんながチェン姉妹を仰ぎ見ていると危機感を覚え、疎外感を抱き、彼女を競争相手として見るようになった。何につけても彼女を打ち負かして超えたいと思い、あの手この手でわたしのほうが優れてると思わせようとした。わたしは野心と願望に取り憑かれ、地位を求めて彼女の失敗を喜びさえしました。本分を尽くしているように見えながら、それをきちんと尽くすにはどうすればいいか、集会で成果を挙げるにはどうすればいいか、問題を抱えた兄弟姉妹をどう助ければいいかなんて考えなかった。わたしのしたことはどれも評判と地位のため。それは反キリストの性質ではないでしょうか? 反キリストは地位と威信を最優先にします。自分より優れている人を妬み、その人と競い、自分と比較します。地位のためなら手段を選ばず人を踏みつけ、貶め、中傷します。自分を高めて誇示するために。わたしのすることはどれも、反キリストと同じ隠れた動機があるのでは? そのような目的で本分を尽くすのは、反キリストの道を歩んで神に逆らうこと。それに気づいたわたしは後悔で一杯になり、変わらなければと思いました。しっかり真理を求めて自己反省し、堕落した性質を解消しなければなりません。

わたしもそれを考えて探求し、神に祈りました。心から悔い改められるよう、お導きになってその原因を教えてくださいと。ある日、神の御言葉の一節を読みました。全能神は言われます。「小さな事務所であろうと大規模な組織であろうと、または大衆のあいだであろうと上流階級のなかであろうと、サタンの陣営において、彼らはどのような雰囲気の中で行動しますか。彼らの行ないの原則と指針はどういったものですか。一人ひとりに自分の法があり、自分の道を進みます。自分の利益によって行動し、自力でものを行ないます。誰であれ、決定権は権威を持つ人にあります。彼らは他者のことを考慮せず、自分の意のままに振る舞い、名声と富と地位を求めます。真理を理解せず、実践することもなければ、神の言葉を授けられていないという状況の中で、あなたがたは彼らとどう違うでしょうか。まったく違いはありません――絶対に彼らと同じはずです。未信者が戦うのと同じように戦い、未信者が格闘するのと同じように格闘するでしょう。朝から晩まで妬んで口論し、陰謀を企むでしょう。この問題の根源は何ですか。それはすべて、人が堕落した性質に支配されているからです。堕落した性質による支配はサタンによる支配であり、堕落した人類は例外なく、サタン的な性質の中で暮らしているのです。なので、自分は善良だから、あるいは柔和で誠実だから、権力や利益を求めて争うことはないと考えてはいけません。真理を理解せず、神に導かれていないなら、あなたは決して例外でなく、柔和で親切であっても、あるいは歳が若くても、自身の評判と地位を求めて争い、それを掴み取ろうとすることは絶対に避けられません。戦い、掴み取り、格闘する――これはすべて、サタンの悪しき本性を象徴する振る舞いです。誰もが例外なく、どんな犠牲を払っても、名声と富と地位を求めて戦い、争い、競い合います。この目標を成し遂げようと努力する中で、人は自分の堕落した性質を表わします。したがって、真理を理解せず、真理を受け入れず、原則を基に行動することができなければ、それらの堕落した性質があなたの思考を支配し、行動を決定するのです。そこから逃れることはできません。現在、神の家で本分を尽くす中で、あなたは多少従順で、心がしっかりしており、いくぶん真剣であって、多少の責任感を持ち、地位への関心を脇にのけて戦いを避け、優しく穏やかに協力し、求めて待つことができます。このような態度に至るにはどうすればよいですか。これは神の施しと指示に関係しています。それらがなければ、人はそうした物事を理解しません。人は子どものころから、『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』と教えられ、多くの親が自分の子どもに、『戦って一番になりなさい。一番になろうと戦わなければ、お前は価値のない臆病者だ。みんなに見下され、いじめられるぞ』と教えます。すこし年をとると、両親に教えられなくても自分でそのように考え、どこに行っても戦います。戦わなければ馬鹿だと考えるのです。人の集団の中にいれば、そこで何らかの信頼を築くことができず、威信が少しもないと、自分は役立たずだと思います。そのため、想像、観念、知識を除けば、人にあるのは堕落した性質だけなのです。人類の実質は堕落した性質であり、サタンの姿を生きています。行動や行ないはどれもサタンの性質、サタンの思考を中心に回っています。そこから逃れられる人は誰もいません(『終わりの日のキリスト講話集』の「人の行動を導くべき原則」)。御言葉を読んで、名利を巡って争わずにいられない理由がわかりました。サタンの観点と毒に浸かって堕落し、学校でも家でも「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「人は上を目指し、水は下に流れる」「労なくして得るものなし」といったことを教えられたからです。だからどのグループにいても、みんなに尊敬されたがり、崇拝され称賛される感覚を喜んだ。立派で価値ある人生はそれだけだと。誰かの下にいると自分は無価値で、顔向けできないと思った。神の家で本分を尽くすときも、やはりそうしたサタンの考えや観念に従い、尊敬されることを追い求めた。でも兄弟姉妹と本分を尽くすのは、相互に支え、互いに欠けているものを補い、さらに成果を挙げること。助け合う人、それ以上に、パートナーにならなければならないの。でもわたしはチェン姉妹を敵として扱い、彼女を出し抜くことばかり考えた。それができないと卑劣な手段に頼り、集会で彼女の交わりを邪魔した。そうした非人間的な行為は、わたしの性質がいかに邪悪で陰険かを示しました。高い地位に就いて尊敬されることだけが立派な生き方だといつも思ってた。そうしたサタンの毒で生きるうち、野心は膨らみ、視野はますます狭くなった。しまいには他者に受け入れられず、神にひときわ嫌われる振る舞いに及んだんです。それのどこが立派なんでしょう? サタンの毒でどれほど深く堕落していたか、やっとわかりました。いいことと悪いことの区別もできず、良心と理知を失っていたんです。教会から追放された反キリストは、真理を一切追い求めず、名誉と地位を求めるだけで、最後は追い出されて淘汰されました。そうしたものを絶えず追い求めるのは、神に逆らい滅ぶ道です。そのような生き方の結末がいかに恐ろしいかがわかりました。また、神の御言葉に暴かれなければ、決して自己認識できなかったことも。そうなれば、どんな悪事を犯してたでしょう?

ある朝、わたしは別の一節を読みました。「神が人に求めるのは、ある一定数の仕事を完了させたり、何らかの大事業を成し遂げたりする能力ではありません。また神は、その人たちが何らかの大事業に乗り出すことも必要としていません。神が望むのは、人々が地に足をつけて全力を尽くし、神の言葉通りに生きられるようになることです。あなたが偉大になったり栄誉を得たりすること、あるいは何らかの奇跡を起こすことを神は必要としておらず、またあなたの中に何らかの嬉しい驚きを見出すことも望んでいません。神はそのようなことを必要としていないのです。神が必要としているのはひとえに、あなたが神の言葉に耳を傾けることであり、また聞いたあとはそれを心に留め、地に足をつけてその通りに実践することです。それによって神の言葉はあなたが生きるもの、あなたのいのちとなります。このようにして神の旨は満たされるのです。あなたはいつも偉大さや崇高さや威厳を求めています。つまり称揚されることをいつも求めているのです。神はこれを見てどのように感じますか。神はそれを憎み、見たいとも思いません。あなたが偉大さや崇高さ、あるいは他人に優ること、卓越すること、傑出すること、注目されることを追い求めるほど、神はあなたに嫌悪を抱きます。神に嫌悪される人になってはいけません! では、どのようにすればそれを実現できますか。人の立場に立ちつつ、着実に物事を行ないなさい。ぼんやり夢を見たり、名声を求めたり、傑出しようとしたりしてはならず、それ以上に、すべての人を超える偉人、あるいは人々の中で傑出し、他人に崇められる人になろうとしてはいけません。それはサタンが歩む道であり、神はそのような被造物を望みません。最後に神の働きがすべて終わるとき、このようなことを追い求める人が依然としているなら、その人の結末は一つしかありません。すなわち淘汰です(『終わりの日のキリスト講話集』の「本分を正しく果たすには調和的協力が必要である」)

御言葉から気づきました。神が人に求めるのは、有名人や偉人になることでも、とてつもない偉業を成し遂げることでもない。神の御言葉を実践し、被造物の本分と責任を果たすことだけを求められる。そうした人だけが神から見て立派で、神を喜ばせる。でもわたしの追求は、被造物の本分を尽くすことではなかった。ひたすら人に自分を尊敬させ、称賛させ、他者の中で地位を築くことで、神のお求めとは正反対。人の心は神の神殿で、神を崇めて称えるべき。問題に直面したときは神に祈ってすがり、御言葉によって生きなければ。でもわたしは、みんなに尊敬され、崇拝されるために、人の心を占めようとした。神の地位を奪おうとし、神の性質に背いていた。真理現実がまったくありませんでした。理解できないことや解決できないことがたくさんあるのに、教義をまくしたてるだけ。それでも自分は立派だと思い、高く評価してた。恥知らずにもみんなに褒められ、崇拝されることを望み、そうならないと争った。自分をまったく知らない恥知らずだったんです! 神は創造主で至高の存在。自ら肉となって地上に来られ、真理を表わし人類を救う。そんなすごい働きをなさったのに、それでも自分を誇示せず、神としてそびえることもなく、謙虚に隠れてる。神の本質は本当に素晴らしい。そう考えるとますます恥ずかしく、申し訳なく思い、肉を捨てて真理を実践しようと決意しました。そこで神の御前に出て祈りました。「神よ、わたしの野心は手がつけられません。いつも争い、自分と他者を比べ、尊敬されようとしています。これはよい道でなく、あなたに嫌われます。もうこんな生き方は嫌です。あなたの御言葉で生き、しっかり本分を尽くしたいのです。どうかお導きください」その後、チェン姉妹に会って自分の状態と堕落を打ち明けました。そして調和の取れた協力の重要性を交わりました。その瞬間、心が安定して落ち着きました。

それ以来、共に働く中でチェン姉妹と競いたくなることもありますが、すぐに気づいて祈りを唱え、肉を捨てて御言葉に従います。チェン姉妹が集会の当番だったとき、忙しすぎて準備できなかったので、わたしはみんなの問題を解決する御言葉をいくつか見つけたんですが、こう思ったんです。「この御言葉を見つけたのはわたし。集会がうまく行けば、みんなはチェン姉妹のおかげだと思うかしら? わたしよりも重荷を負ってると思うかしら? 今回はわたしが主催すべきかも」でも口を開こうとしたまさにそのとき、また名誉と地位を求めていることに気づいたんです。そしてこの御言葉が頭に浮かびました。「あなたは、そうした物事を捨て去って脇にのけ、他人を推薦し、他人が傑出するのを認められるようにならなければなりません。傑出したり栄誉を得られたりする機会が到来した瞬間、それを利用しようと争ったり、焦ったりしてはいけません。引き下がることを覚えて、本分を尽くすことを遅らせてはなりません。人知れず静かに本分を尽くす人、忠実に本分を尽くしつつ他人に自己顕示しない人になりなさい。自分の体面と地位を捨てれば捨てるほど、また自分の利益を捨てれば捨てるほど、心は一層安らかになり、心の中にますます余裕ができて、自分の状態も改善されます。葛藤して競えば競うほど、自分の状態は暗くなります。それが信じられなければ試してみればいいでしょう。こうした状態を解決したいと望み、そうした物事に支配されたくないのであれば、まずはそれらを捨て去る必要があります(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。神の御言葉が実践の道をもたらしました。自分を誇示する機会を諦め、他の人にスポットライトが当たるようにしなければ。自分を誇示することも他者に尊敬されることもないけれど、心が自由になれる。堕落に支配されているのではなく、神に認めていただいてるんです。それが最大の収穫。そこでこうメッセージを送りました。「明日の集会はお願いします。わたしが手伝いますから」翌日の集会では、自分がどう見られるかを考えず、神の御言葉をどう交わって、みんなの問題を解決すべきかを考えました。チェン姉妹と一緒に交わり、互いに相手を補足しました。その後、この集会は本当に有益だったとみんなに言われました。わたしは神に感謝し、真理を実践する喜びを実感しました。

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