困難から得られた収穫
2019年の終わりに、親せきが終わりの日の全能神の福音を広めてくれました。全能神の言葉には権威があり、その言葉が真理で、神の声だと思ったので神の新たな御働きを喜んで受け入れました。毎日御言葉を読み、集会にもかかさず出席しました。時々、ネット接続が切れたり、停電があったりしてオンラインの集会に参加できない時はとても胸が痛みましたが、すぐに集会の内容に目を通して、御言葉に対する自分なりの理解を班のみんなに送ったり、兄弟姉妹と連絡をとったりして、全力で本分を尽くしました。
その後、教会指導者に選ばれました。最初は他の2人の指導者と責任を分担していたので、難しさやストレスはあまり感じませんでした。間もなくして、複数の教会を担当する役に選出されました。最初は、気が進まなかったんです。指導者としてあまり実践を積んでいない気がしたのと、欠点もわからないことも多かったので、本分をしっかりこなす自信がなかったんです。その後、この御言葉を読みました。「ノアはほんのいくつかの伝言を聞きましたが、そのとき神はまだ多くの言葉を表わしていなかったので、ノアが多くの真理を理解していなかったことに疑問の余地はありません。現代科学や現代的な知識を理解していたわけでもありません。ノアは普通過ぎるほど普通の人で、人類の目立たない一員でした。けれどある点においては、他の誰とも違っていました。ノアは神の言葉に耳を傾けることを知っており、神の言葉にどう従うべきか、神の言葉をどう守るべきか、人間の立場はどういうものかを知っており、神の言葉を真に信じ、それに真に従うことができたのです。それだけです。こうした数少ない単純な信条は、ノアが神から託されたことをすべて成し遂げるには十分でした。しかも、数ヵ月、数年、数十年どころか、一世紀以上もこのようであり続けたのです。驚くべき年数ではないでしょうか。ノア以外の誰にこのようなことができたでしょうか。(誰にもできません。)それはなぜですか。真理を理解していないからだと言う人がいます。けれど、それでは事実と一致していません。ノアは真理をいくつ理解していましたか。ノアが達成したことをすべてを成し遂げられたのはなぜでしょうか。今日の信者は神の言葉を多数読み、多少の真理を理解していますが、それではなぜ同じようにできないのですか。それは人間の堕落した性質のせいだと言う人もいます。では、ノアには堕落した性質がなかったのですか。ノアにはできたのに、今日の人にはできないのはなぜでしょうか。(今日の人は神の言葉を信じておらず、神の言葉を真理として扱うことも従うこともないからです。)では、神の言葉を真理として扱えないのはなぜですか。神の言葉に従えないのはなぜですか。(神への畏れがないからです。)では、人が真理を理解せず、真理を多く聞いたことがない状態で、神への畏れがどうして生まれますか。人の人間性においては、あらゆるものの中で最も貴重な二つのものがなくてはなりません。一つは良心であり、もう一つは正常な人間性の理知です。良心と正常な人間性の理知を有していることは、人間であるための最低限の基準です。つまり、人間を測る最も基本的な最低限の基準なのです。しかし今日の人にはこれがないので、どれほど多くの真理を聞いて理解していても、神への畏れに達することができません。では、ノアと比べると、今日の人の本質はどのように違っているますか。(今日の人には人間性がありません。)では、人間性がないことの本質は何ですか。(獣であり悪魔です。)『獣であり悪魔』というのはあまりいい響きではありませんが、事実と一致しています。もっと丁寧な言い方をするなら、彼らには人間性がないのです。人間性と理知がない人は人ではなく、獣より劣ります。ノアが神の委託を成し遂げられたのは、神の言葉を聞いてそれを記憶に刻むことができたからです。ノアにとって、神からの委託は生涯にわたる事業であり、ノアの信仰は揺るがず、その意志は百年間変わりませんでした。神がノアに方舟の建造を託したのは、ノアには神を畏れる心があり、真の人間であり、最高の理知を有していたからです。ノアと同じくらい理知を有する人は極めて希で、そのような人をもう一人見つけるのは非常に困難です」(『反キリストを暴く』「補説2 ノアとアブラハムはどのように神の言葉に耳を傾け、神に従ったか(1)」〔『言葉』第4巻〕)。ノアはそれまで深い教えを聞いたことはなく、真理も多く理解していなかったけれど、神を恐れ神に従う心があった。洪水を起こして人類を絶やすので方舟を作るよう神に言われたノアは、ためらうことなく従いました。神からの委託は決して簡単なことではありませんでした。方舟を作るには、木を伐り出し、正確に寸法を測らなければならない。難しく大変な仕事でしたが、ノアはひるまなかった。神の委託だと分かっていたからです。この御言葉でわかったのは、自分にはノアのような人間性や理知がないということ。指導者に複数の教会の担当を打診された時、神への信仰心がなく自分の能力だけを頼ろうとした。自分の能力が不足していること、教会指導者として経験が浅く、多くの欠点があることを理由に、うまくこなせないと考えて、本分を受け入れることをためらった。ノアのような神への信仰もなく、神を恐れ神に従う心がないどころか、ノアのような人間性も理知もなかった。これに気づいて、不安がなくなり、ノアのように本分に従い受け入れようと決心しました。
でも、実際に仕事を始めて、新たな難問に直面したんです。やるべきことが山積みでした。例えば、教会の兄弟姉妹の状態を把握することや、集会に来ない兄弟姉妹をサポートすること、兄弟姉妹の本分に関する問題を認識して、交わりを通して解決することや、本分への取り組み方を教えることなど、このすべてが自分の仕事でした。問題が起こっても、まず何をすればいいかがわからなかったし、どうすればうまくこなせるかもわからず、とても悩みました。問題の多さに消極的になってしまい、指導者に訴えようと思いました。自分には経験がないし、仕事をこなすのに苦戦している、この本分には向いていません、と。その後、私の状態を知った指導者が、助けになればとこの御言葉を送ってくれました。読んでみますね。「神がモーセを遣わし、イスラエル人をエジプトから連れ出させたとき、神からこの使命を与えられたモーセはどう反応しましたか。(自分は雄弁でなく、話し方が遅いと言いました。)モーセには、自分は雄弁でなく話し方が遅いという、一つの小さな懸念がありました。けれど神からの使命に逆らいましたか。それをどう扱いましたか。モーセはひれ伏しました。ひれ伏すとは何を意味しますか。それは服従し、受け入れることを意味します。モーセは個人的にどうしたいかということは顧みず、自分のすべてを横たえて神の前にひれ伏し、自分の困難には一切触れませんでした。神がモーセにさせようとすることが何であれ、モーセはただちに行ないました。自分にできることは何もないと感じたときでさえも、モーセが神からの使命を受け入れることができたのはなぜですか。心に真の信仰があったからです。すべての物事への神の統治をモーセは多少経験しており、四十年にわたる経験の中で、神の統治が全能であることを認識するようになっていました。そのため神からの使命をすぐさま受け入れ、それ以上何も言わず、神から託されたことの遂行に乗り出したのです。乗り出したとは何を意味しますか。それは、モーセが真に神を信じ、真に神にすがり、真に神に服従したことを意味します。モーセは臆病ではなく、自分で選択したり、断わろうとしたりしませんでした。その代わり、完全に信頼しつつ信仰に満たされて、神から託された使命の遂行に乗り出しました。彼の信仰はこのようなものでした。『神が託したのなら、それはすべて神が言うとおりになされる。イスラエル人をエジプトから連れ出せと、神がわたしに言うのだから、わたしは行く。これは神が託したことだから、神が働きに赴き、わたしに力を与える。わたしは協力すればいいだけだ』。これがモーセの洞察でした。……当時の状況は、イスラエル人にとってもモーセにとっても好ましいものではありませんでした。人間から見ると、イスラエル人をエジプトから連れ出すというのはまったく不可能な任務でした。エジプトは紅海によって隔てられていて、それを渡るという別の難題もあったからです。この使命を果たすことがいかに困難か、モーセが本当に知らなかったということがあり得るでしょうか。モーセは心の中でわかっていましたが、自分は話し方が遅く、自分の言葉を聞き入れる人は誰もいないだろうとしか言いませんでした。彼は神からの使命を心では拒んではいませんでした。イスラエル人をエジプトから連れ出せと神から告げられたモーセは、ひれ伏してそれを受け入れたのです。そうした困難に触れなかったのはなぜですか。荒野を四十年間さまよった後も、世間の険悪さ、エジプトでは事態がどうなっていたか、イスラエル人の当時の苦境をモーセは知らなかったのですか。こうしたことがはっきり見えなかったのですか。そういう状況だったのですか。絶対に違います。モーセには知性と知恵がありました。彼はそうしたことをすべて知っていて、人の世でそういうものを目にし、経験し、身をもって耐えてきており、忘れることは決してありませんでした。すべてを実によく知っていたのです。では、神から与えられた使命がいかに困難か、モーセは知っていましたか。(はい。)知っていたのであれば、どうしてその使命を受け入れることができたのですか。モーセには信仰がありました。生涯にわたる経験により、彼は神の全能を信じていたので、疑いをほんの少しも抱くことなく、信仰に満ちた心で神からのこの使命を受け入れたのです。……言いなさい。神において困難なことは何もなく、人間は神の手中にあることを、モーセは荒野における四十年間で経験することができましたか。確かにできました。それが彼の何よりも真実な経験だったのです。荒野における四十年で、生命を危機にさらすことが多数あり、それらを生き延びることができるのか、モーセにはわかりませんでした。日々生き延びるために格闘し、神に祈って加護を求める。それがモーセの唯一の願いでした。その四十年間に彼が何よりも深く経験したのは、神の統治と加護でした。その後、神からの使命を受け入れたとき、モーセがまず考えたことはこうだったに違いありません。神において困難なことは何もない。神がそれはできると言えば、確かにそうなる。神がわたしにこの使命を与えたのだから、神が取り計らうはず。行なうのは神で、人間ではない。人間なら行動を起こす前に計画を立て、準備しなければなりません。まず事前の用意をする必要があるのです。神は行動に先立ち、こうしたことをする必要がありますか。ありません。あらゆる被造物は、どれだけ影響力があろうと、どれだけ有能で強力であろうと、どれだけ夢中になっていようと、神の手中にあります。モーセにはこの信仰、認識、経験があったので、心の中に疑念や恐怖はほんの少しもありませんでした。このように、神への信仰はひときわ真実で純粋だったのです。信仰に満ちていたと言えます」(『終わりの日のキリスト講話集』「真の従順なしに真の信仰はない」〔『言葉』第3巻〕)。この御言葉でわかりました。自分は神を信じない弱虫で、神への信仰心もなかったんだと。神はモーセを呼び、イスラエル人がこれ以上奴隷にされないよう、彼らを連れてエジプトを出るよう指示しました。モーセには王と戦う軍隊などなく、この委託を行うのはとても難しかったにもかかわらず、モーセは神の言葉に従うことができた。神の民がエジプトを出られるよう、神が導いてくれると信じた。一方自分はというと、できない仕事が多いからといって、本分を投げ出そうとした。大きなストレスを受けて、この本分を負担に感じ、完了できないと思った。神を信頼せず、神への信仰もなかった。自分の限られた能力だけを信じた。本分をうまくできるかどうかは、自分の素質と経験によると考え、働きはすべて神が行い、人は補助にすぎないとは思わなかった。とても傲慢でした。私が本分を尽くせるのは、神の御許しがあるからで、すべては神の統治と取り計らいによるのだから、私は信仰心をもって協力しなければ。それ以降、本分を拒むことはできなくなりました。神にすがって仰ぎ見る限り、きっと私を導き助けてくださり、あらゆる困難から真理を学び、様々な原則を理解させる。この本分を尽くすことで、自分に信仰がないことがわかり、おかげで欠点を補い、より多くの状況を経て、真理を理解できました。
ベネズエラでは、水や電気、インターネット、経済の状況が悪く、場合によっては、家族を支えるために人一倍働かなければいけません。私と父は毎朝3時に漁に出て、帰るのは午後3時、4時です。一日中海にいるので体はくたくたですが、家に帰っても休もうとは思いませんでした。本分でやるべきことがたくさんあったし、学習し、真理を身に着け、欠点を補い、本分を尽くせるようになるためにもっと時間が必要でした。本分をうまくこなせなければ、神をがっかりさせてしまいます。恵みの時代の聖人のことを考えました。彼らは主イエスに従い、福音を広め、本分を尽くし、多くの困難や危険に直面し、大きな苦しみを味わった。それに比べれば私の苦しみなんて何でもない。だから、毎日家に帰るとまず最初に電話を確認して、どんな仕事や任務があるか調べ、兄弟姉妹にメールを送って、問題がないかを尋ね、本分のやり方が分からない人がいれば、その人を助けるため、自分が本分で得た収穫の話をしました。本分を尽くすなかでも、神に頼ることを学び、兄弟姉妹が困難に陥っている時は、神の導きを求め、彼らを助ける御言葉を見つけられるよう祈りました。御言葉を伝え、自分の経験と理解を交わることで、彼らの状態を少し改善することができました。兄弟姉妹を助けることを通して、いくつかの収穫が得られ、真理に対する理解もより明白になりました。この経験からわかったのは、どんな困難があっても、心から神にすがる限り、神は必ず導くということ。毎日何かしらの問題がありましたが、最初の頃のように気弱になることはありませんでした。でも間もなくして、別の大問題に直面しました。。
インターネットの信号が安定しなくて、集会への参加や兄弟姉妹との連絡に支障がでるようになり、本分を尽くすことができなくなったんです。この問題は私の手には負えないので、神に長い祈りを捧げ、導きを求めました。祈った後、段々と心が落ち着いてきました。そしてこの御言葉を読みました。「あなたがどん底にいて、神を少しも感じられないとき、最も苦しく一番孤独を感じ、自分は神から遠く離れていると感じるとき、絶対にすべきただ一つのことは何ですか。それは神を呼び求めることです。神を呼び求めると、あなたは強くなります。神を呼び求めると、神が存在することを感じられます。神を呼び求めると、神の支配を感じられます。神を呼び求め、神に祈り、自分の生命を神の手に委ねると、神があなたのすぐそばにいること、神はあなたを見放してはいないことを感じられます。神は自分を見放していないと感じ、神が自分のそばにいると実感できるとき、あなたの信仰はどうなっていますか。時の経過によって消し去ることができますか。できません」(『終わりの日のキリスト講話集』「真の従順なしに真の信仰はない」〔『言葉』第3巻〕)。困った時は心から神を求めれば、信仰心と力をもらえます。人の能力には限界があって、目に見えないものを見通す力はありません。だから、目の前にある問題を恐れてしまうのです。神は万物を支配するので、心から神を頼れば、本分を尽くすうえで神の導きと助けを得られます。御言葉が私に信仰心と力をくれました。多くの困難があるからといって本分で失敗するわけにはいかない。神に祈り神を頼ってこの困難を乗り越えよう、そしてもっと懸命に本分を尽くそうと思いました。そして、街に出て、ネット回線が安定している場所をさがし、そこで集会をすることにしました。自分が集会の進行役を務める時は夜の8時に家を出て、集会が終るのが10時半や11時になることもありました。帰宅する時は、いつも不安でした。マルガリータでも治安の悪いところに住んでいたので、誰かに電話を奪われるのでは、とおびえました。そうなれば集会も本分も続けられなくなります。私はよく神に祈りました。困った状況を乗り越える力を下さいとお願いしたんです。間もなく、一通のメールが届きました。私の状況を知った兄弟が自発的にこんなメールを送ってくれたんです。「兄弟、今あなたは大変な状況にいて、本分を尽くすために夜遅く町に出ているそうですね。とても危険です。自転車があるので、もしよかったら使ってください。移動の役に立つと思います」と。これらの困難から多くを学び、神を頼ることも学びました。万物を支配しているのは神であり、一人ひとりのために状況を用意しているのも神です。この経験を通して神の御行為を実際に目にしたことで、神への信仰が強まりました。兄弟姉妹が同じような問題に直面した時は、御言葉を伝え、彼らを助け、信仰心を与えられるよう、自分の経験を交わりました。
毎日漁から帰ると、家の中で御言葉を読んで過ごし、集会の時間が来たら、自転車で街へ出て、ネット回線が安定した場所を探しました。神に祈るたびに、本分をもっとうまく尽くせるよう導いてくださいと祈りました。もう問題に頭を悩ませることもなく、神の御旨と御要望に従い、本分をしっかりと尽くそうと思いました。たとえもっと多くの困難が待っていようとも、神の統治と采配に従おう、神が私のために用意した状況を経験し、神の御心を満たすことを望みました。それからしばらくして、兄弟姉妹の助けもあって、ネット回線が比較的安定したいい家を見つけることができ、全能神に心から感謝しました。ここでなら本分をもっとうまく尽くせるからです。そして神の導きの下、本分を大きく進歩させることができました。数日前、また指導者から話がありました。もっと多くの責任を担ってもらいたい、これまでより負担が増え、仕事の量も多くなるし、担当する兄弟姉妹の数も増えると。でも不安も不満も感じませんでした。神を信じ、神を頼りさえすれば、神の導きと助けで本分をうまく尽くせるからです。
神は言われます。「あなたが神の旨に配慮すればするほど、あなたの重荷は大きくなり、その重荷が大きければ大きいほど、あなたの経験は一層豊かになる。あなたが神の旨に配慮するとき、神はあなたに重荷を与え、あなたに委ねた務めについてあなたを啓いてくださる。神があなたにこの重荷を与えると、あなたはそれに関連するすべての真理に留意しながら、神の言葉を飲み食いするようになる。あなたが兄弟姉妹のいのちの状態に関する重荷を負っているとすれば、それは神があなたに委ねた重荷であり、あなたは日々の祈りの中で常にその重荷を負うことになる。神の行いはあなたに課せられており、あなたは神が望むことを喜んで行なう。これが、神の重荷を自らの重荷として背負うということである」(『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」〔『言葉』第1巻〕)。「多くの場合、神の試練は神が人に与える負担です。神があなたに授ける負担がどれだけ大きくても、それがあなたの引き受けるべき負担の重さです。神はあなたを理解しており、あなたがそれに耐えられることを知っているからです。神があなたに与える負担が、あなたの霊的背丈や耐えうる限度を超えることはないので、あなたがそれに耐えられることに疑問の余地はありません。神があなたにどのような負担や試練を与えようと、一つ、このことを覚えておきなさい。神の旨を理解していようといまいと、祈りの後、聖霊に啓かれ照らされようとされまいと、この試練が神によるあなたへの懲らしめであろうと、警告であろうと、あなたが理解していなくても重要ではありません。本分の遂行を遅らせず、本分を忠実に守ることができるなら、神は満足し、あなたは証しに揺るぎなく立つことになります」(『終わりの日のキリスト講話集』「神の言葉を頻繁に読み、真理を熟考することだけが前進の道である」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んでわかりました。人が背負えないほどの重荷を神が課すことはなく、神は人の背丈や、何ができるかも理解しています。人が神の御旨に心を配り、本分で重荷を背負うほど、経験が豊かになり、神への理解も深まります。私がすべきなのは、神に祈り、誠実さと服従心をもってこの重荷を受けいれ、困難の際は真理を求め、背後にある御旨を理解しようとすること。なぜなら、私の心は鈍く、多くの観念を抱え、背丈は小さく、神への信仰も弱いからです。このような困難を経験した今、わかったことがあります。困難に直面した時こそ、自分や神の御行為をより深く認識し、神への信仰を強められるんだと。本分を始めたばかりの頃は、あまり神に祈ることはなく、神の導きを求めず、自分の能力だけに頼って本分を尽くそうとし。神への信仰がなかった。御言葉を読み、御旨を理解した後は、信仰を強め、本分を懸命に尽くし、常に神に祈り、神を頼り、指導者と交流し、本分に関連する原則を認識し、教会の働きのやり方や方向性を理解できるようになりました。この状況を経験したことで、消極的な状態を抜け出すことができ。毎日何かが起こるたびに、真理を求め、細心の注意を払って本分を正しく尽くそうとし、問題に直面した時は、神に祈ることで、神の導きを助けを通してあらゆる状況や困難を乗り越えられ、悩みやストレスもあまり感じなくなりました。もし困難に直面していなければ、神の御啓きは得られず、これを理解するどころか、真の経験もなく、本分を正しく尽くすことができていなかったでしょう。今ならこの御言葉の意味がわかります。「あなたが神の旨に配慮すればするほど、あなたの重荷は大きくなり、その重荷が大きければ大きいほど、あなたの経験は一層豊かになる」(『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」〔『言葉』第1巻〕)。神の愛に報いるため、さらに重荷を背負うつもりです。
最近でも、ベネズエラは経済、公共サービス、インターネットなどで多くの問題を抱えています。ストレスを感じることもありますが、神に頼り、神を求め、神を信じることを学びました。これらの困難が無ければ、本分を尽くすことの大切さを知らず、困難の中で神を求めようともしなかったでしょう。このような収穫と知識を得させてくれた神に感謝します。
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