神の御言葉がわたしの誤解を消し去った

2023年10月6日

2019年9月、僕は終わりの日の全能神の働きを受け入れた。集会では、いい交わりで理解が早く、素質が優れてると褒められた。やがてグループリーダーに選ばれたあと、すぐ福音執事に選出された。その後はより積極的に本分を尽くし、福音伝道や集会の主催を始めた。兄弟姉妹は僕の交わりを喜んで聞き、教会指導者も仕事ぶりを褒めてくれた。僕は嬉しくなり、自分の素質は優れてるんだと思った。もっと尊敬されようと、神の御言葉をさらに読み、神の家の映画や御言葉の朗読動画をたくさん見たけど、文字通りの理解が多少あり、自分を誇示することに満足して、神の旨の探求はどうでもよかった。集会では、自分のほうが理解していると思われるよう、できるだけ広範に交わった。何でも知ってると思われたくて、よくわからないことを交わったこともある。それに、指導者にいい印象を残そうと、とても強い振りをした。例えば、最初は神の働きに観念を抱いていたけど、それを誰かに言ったら、真理を理解してないと指導者に思われるから、わざと指導者から自分の観念を隠した。仮面を被っていたようなものだ。みんなが見ている僕は幻想。

数ヵ月後には教会指導者に選ばれ、福音の働きを担当することになった。それには素質、識別力、そして仕事の能力が必要だ。そうした条件を満たす人は、この教会には僕しかいない。だからこの本分を尽くすのは、神が予定されたことなんだ。また昇進したことで、自分はみんなと違い、真理の追求に一番熱心で、神に愛される人だと思い込んだ。福音の働きに責任を負う自分は、神の家の門の守衛だと思ったくらいだ。誰が神の家に入れるかは、僕が決められる。徐々に傲慢さが増してゆき、自分は兄弟姉妹の上に立ち、問題を解決できる、みんな自分の言うことを聞くべきだと思った。教会の働きでは、物事をいつも自分で決めようとした。有能で原則を熟知していて、他人の見方や意見は必要ないと思っていたからだ。僕は兄弟姉妹を見下してた。平均的な素質のグループリーダーがいたけれど、その仕事ぶりに関係なく、僕は彼女を解任しようと思った。そのうえ、兄弟姉妹を手下と見なし、好きなように取り扱えると思い込んだ。例えば集会で、兄弟姉妹が福音伝道について話していると、僕はやり方がまずいと考え、すぐに叱り、こうしろと命令した。ある姉妹は自分のやり方で本分を尽くしていたけど、僕はそれじゃあ駄目だと考え、原則を説かずに厳しく取り扱った。やがて、もうあなたとパートナーは嫌だと、その姉妹に言われた。その後の集会で、困難がある人はいるかと指導者が訊くと、この姉妹は僕の問題を直接指導者に報告し、真理をまったく説いていない、取り扱いがいつも厳しいと言った。他の数名も、僕が恣意的に人を取り扱ってると言い、御言葉を使って僕の傲慢さを暴いた。

実は傲慢さという問題を僕に意見する人もいた。また仕事ぶりを訊くときに厳しすぎるものだから、こんなメッセージを送る人もいた。「兄弟、あんな話し方はありません。兄弟姉妹が消極的になってしまいます」。他にも「あなたはいつも偉そうに話し、みんなと同じ位置に立とうとしません。中にはあなたと話すのをためらう人や、責められて本分が嫌になった人もいます」。繰り返し叱責され、取り扱われて、僕のプライドは傷ついた。神に愛され、好まれる人だと思っていたのに、兄弟姉妹から暴かれ、拒まれて、消極的になったし、好印象と威信を失い、本分を尽くす気力もなくなった。毎日同じことを繰り返し、通知を送るだけで、細かい仕事や、兄弟姉妹の本分の確認はせず、みんなの問題解決もどうでもよくなり、何が必要か気にしなかった。

その後、僕の状態がよくないことに気づいた姉妹が、御言葉の一節を送ってくれた。神は言われます。「サタンによる人類の堕落以来、人の本性は劣化し始め、人は徐々に、正常な人が持つ理知を失いました。現在、人はもはや人間の立場で人間として行動しておらず、野心に満ち溢れ、人間の地位を超えようと望みながら、より高みに登ろうとさえしています。この『高み』とは何を指しますか。彼らは神を超え、天を超え、他のすべてのものを超えたいと願っています。人がこのような性質を表わすことの根本には何があるのでしょうか。つまるところ、人間の本性は過度に傲慢なのです。大抵の人は『傲慢』という言葉の意味を理解しています。これは軽蔑的な意味をもつ単語です。誰かが傲慢さを示すと、他の人たちは、この人はいい人ではないと考えます。誰かが傲慢であると、他の人たちは必ず、この人は悪人だと見なします。自分の形容としてこの単語が定着することを望む人は誰もいません。しかし実際には、誰もが傲慢であり、堕落した人間にはすべてこの本質があります。中には『わたしはほんの少しも傲慢ではない。大天使になりたいと思ったことはないし、神を超えようとも、誰か他の人を超えようとも思ったことはない。わたしは常に、ひときわ振る舞いがよく、本分を守ってきた』と言う人がいます。必ずしもそうではありません。こうした言葉は正しくないのです。ひとたび人の本性と本質が傲慢さを増すと、その人はたびたび神に逆らって抵抗し、神の言葉に従わず、神に対する観念を生み出し、神を裏切ること、そして自分自身を賛美し証しすることができてしまいます。自分は傲慢ではないと言っても、たとえば教会を任せられ、導くことを許されたとします。そしてわたしはあなたを取り扱わず、神の家の誰もあなたを批判せず、助けもしなかったとします。導くようになってしばらくたつと、あなたは人々を自分の足元に連れてきて、自分の前に従わせ、あなたを尊敬し、崇めるまでにするでしょう。なぜそのようなことをするのでしょうか。それはあなたの本性によるもので、自然な発露に他ならないはずです。他の人からそれを学ぶ必要はなく、他の人に教えてもらう必要もありません。他の人からそうするように指示されたり、強いられたりする必要もありません。そのような状況は自然と起こるものなのです。あなたが行なうことはどれも、人々に自分を称揚させ、褒め称えさせ、崇めさせ、自分に従わせ、あらゆることで言うことを聞かせることです。あなたを指導者にならせることで、こうした状況が自然に起き、それを変えることはできません。では、この状況はどのように生じますか。それは人間の傲慢な本性によって決まります。傲慢さの表われは神への反逆と抵抗です。傲慢で、尊大で、独善的な人は自身の独立王国を築き、自分のしたいことを何でも行なう傾向にあります。そうした人はまた、他人を自分の手中に連れてきて取り込みます。そうした傲慢なことをできるというのは、その人の傲慢な本性の本質がサタンのそれと同じであることをまさに証明します。大天使のそれと同じなのです。傲慢さと尊大さがある程度まで達すると、その人の心に神の居場所はもはやなく、神は脇へのけられます。そしてその人は自分が神になりたい、人々を自分に従わせたい、大天使になりたいと望みます。あなたがこのようなサタン的で傲慢な本性を有しているなら、神はあなたの心に居場所を持ちません。たとえ神を信じていても、神はもはやあなたを承認せず、悪人と見なして淘汰します(『終わりの日のキリスト講話集』「傲慢な本性は、神に対する人の抵抗の根源である」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んで、今までの振る舞いを考えた。信仰の最初から、兄弟姉妹は僕を励ましてくれた。素質が優れ交わりも立派だと言われ、何度か昇格すると、自分は特別で、みんなより優れていると思い込んだ。傲慢な本性のせいで、自分は神に愛され、好まれる人だと考えた。自分は傑出し、みんなより優れてると思い、地位を盾にみんなを叱り、萎縮させ、果てはみんなを操り、言うことを聞かせようとした。まさに大天使の振る舞いだ!自分への評価が高すぎだ。暴かれ、取り扱われ、自分は思うほど完璧じゃないとわかった。むしろひときわ傲慢で、堕落してたんだ。みんなの上に立ち、神に好まれてると思ってたけど、想像でしかなかった。

数日後、反キリストを暴いて分析する別の御言葉を読んだ。全能神は言われます。「反キリストは自分の地位のため、自分の野心を満たすため、そして教会を支配して自ら神になるという目標のためならどんな代価でも支払います。たびたび夜遅くまで働き、夜明けとともに起き、早朝に説教の下稽古をしますが、それはすべて、高尚な説教をするのに必要な教義を身につけるためです。彼らは日々、高尚な教えを説くのに神のどの言葉を用いるか、どの言葉を用いれば選民の尊敬と称賛を勝ち取れるかを熟考し、それらの言葉を暗記します。そして、大学合格を目指して必死に努力する学生のように、それらの言葉をどのように解釈すれば、自分の聡明さと知恵を証明できるかを考えます。誰かが優れた説教、何らかの照らしをもたらす説教、あるいは何らかの理論を提供する説教を行なうと、反キリストはそれを集めてまとめ、自分の説教にします。反キリストにとっては、努力してもし過ぎるということはないのです。では、彼らのこのような努力の背後にある動機と意図は何ですか。それは、神の言葉を説き、明瞭に易々と述べ、流暢に操れることです。それにより、人がこの反キリストを、自分よりも霊的で、神の言葉をもっと大事にしており、神をもっと愛していると思うようにするためです。そうすることで、反キリストは周囲の人の何人かに尊敬され、崇拝されることができます。反キリストにとっては、こうするのは価値があり、あらゆる努力、代価、苦難に値するのです(『反キリストを暴く』第10条(7)〔『言葉』第4巻〕)。「反キリストの振る舞いの本質は、地位を獲得し、人々を説き伏せて自分に従わせ、敬わせるという目標を達成すべく、常に様々な手段や方法を用いているということなのです。心の奥で人間を巡って故意に神と争っているわけではないかもしれません。けれども、一つ確かなことがあります。つまり、たとえ人間を巡って神と争っていなくても、やはり人のあいだで地位と権力を持ちたがっているということです。自分が地位を巡って神と張り合っていることに気づき、自分をわずかに抑える日が来たとしても、なおさまざまな手段を使って地位と威信を追い求めます。他者の承認と称賛を勝ち取ることで正当な地位を確保できると、心の中ではっきりわかっているのです。つまり反キリストのなすことはすべて、一見すると本分を尽くしていることで成り立っているように見えますが、その成り行きは、人を騙し、自分を崇めて付き従うようにさせることです。その場合、そのように本分を尽くすことは、自分をほめそやし、自分の証しをすることです。人を支配し、教会で地位と権力を得るという彼らの野心は決して変わらないのです。これは正真正銘の反キリストです。神が何を言おうと、何を行なおうと、そして人々に何を求めようと、反キリストは神の言葉や要求に沿う形で義務を果たしたり、本分を尽くしたりせず、神の発する言葉と真理、および真理の意味をわずかながら理解しても、権力や地位の追求を諦めません。彼らの野心と願望はそのままで、それらがやはり彼らの心を占め、その存在全体を支配し、行動と思考を指揮して、自分が歩む道を決定します。これが正真正銘の反キリストです(『反キリストを暴く』第5条〔『言葉』第4巻〕)。反キリストは人に自分を讃えさせ、崇めさせ、表面的な苦しみで幻想を生み、人を惑わすと神は言ってる。これはまさに自分のことだ。いつも名誉と地位を求め、ただ仰ぎ見られようとした。御言葉を読むことに時間をかけ、夜遅くまで起きてることもあったけど、それは自分を誇示できるよう、より多くの教義を理解するため。僕は気づいた。御言葉が示す反キリストの表われが、自分にもあったと。神に咎められた気がして、とても不安になった。でも、兄弟姉妹に本当の状況を言おうとしなかった。反キリストと見られて追放されるのを恐れたから。そのころ、教会の反キリストが見つかり、追放された。表向きは神のために費やし、御言葉を探してみんなと交わってたけど、彼女自身は御言葉を実践せず、観念に合わないことがあると消極性を広め、終わりの日の神の働きを拒み、真の道の考察を邪魔さえした。だけど自分にもそれに似たところがあったんだ。神の御言葉を探して交わっていたけど、僕自身は御言葉を実践してなかった。困難があると自分の頭脳と素質で解決を試み、神の旨を求め、真理を実践するのはどうでもよかった。自分の表われも、あの反キリストと同じで、御言葉が暴く反キリストの他の表われも、僕に当てはまった。だから反キリストになるのをますます恐れた。そのころ、みんなの前では全力で不安を抑えようとしたけど、本当に惨めで、死刑を宣告された気がした。用心深さと疑いが段々深刻になって、自分にはみんなをたやすく騙して操る悪い本性があり、いずれあの反キリストのように、神の家の働きを乱すと思った。そう考えてますます怖くなったよ。当時は、反キリストの性質と本質の違いがわからず、この環境における神の旨もわからなかった。自分は反キリストと同じく淘汰される人で、祝福される希望はない。だから不満を抱いた。「僕は家族の反対を無視して本分を尽くし、前途も捨てて故郷を離れ、新しい地で福音を広めてる。こんな高い代価を払ったのに、地獄に落ちて懲罰されるなんて。こんなことになるなら、ここまで多く払わなかった。少なくとも、肉体の快適さは得られたはずだ」。そのころは自分の終着点ばかり考え、神の旨を求めようとしてなかった。だからいつも神を警戒し、誤解してた。結局、僕は指導者を辞めた。このまま重要は本分を尽くしていたら、絶対に追放だと思ったからだ。それに、正体を知ったみんなに批判され、取り扱われるのを恐れ、自分の殻に閉じ困った。本分で誰ともパートナーを組まず、みんなとの距離も離れていった。その後、実家で福音を伝えると言い訳して、不信者の家族のもとに戻ったけど、家族の迫害と批判に遭って、ますます消極的になった。集会には出続けたが、動作を繰り返すだけ。とても弱り、信仰ももう終わりだと思って、神の家を去ることにした。

教会を去ったあと、心はうつろで、自室に閉じこもり、外の世界を遮断した。家族の迫害はなくなり、肉体的には快適だったけど、恐怖と罪悪感しか覚えなかった。神を裏切ったことで懲罰され、地獄に落ちて死ぬのを恐れた。そこで不安を和らげようと、社会科学の本をたくさん読んだ。魂を慰める何かを見つけたかったけど、無駄だった。何も内なる苦痛を軽くできなかったんだ。じっと死を待つしかないように思えた。その後、神に祈り、苦境から逃れられるよう導きを願った。そして賛美歌を聴いたり御言葉を読んだりしたけれど、御言葉のおかげで心が目覚めた。こんな御言葉を読んだんだ。「反キリストの性質を持ち、いくらかの堕落した性質をたびたび吐露する人がいます。しかし、そのように吐露するのと同時に、自己を反省して認識し、真理を受け入れ実践することができるので、しばらくすると、その人には変化が見られます。このような人は救いの対象になり得ます(『反キリストを暴く』第4条〔『言葉』第4巻〕)。「神の言葉を読むと、神が人の堕落した性質を暴いたり、人を断罪したりするために、しょっちゅう観念や誤解をもつようになる人がいます。このような人は消極的、軟弱になり、神の言葉は自分に向けられているとか、神は自分を見捨てており、自分を救うことはないなどと考えます。消極的になるあまり涙を流し、もう神に従いたくないと思います。実は、これは神を誤解しています。あなたは、見捨てるとはどういうことかを知らず、神はどの人を見捨てるのか、どのような状況で見捨てるのかを知りません。神が人を脇にのけたり、完全に見捨てたりすることには原則と背景があります。こうした細かな事柄についてすっかり見通していないのであれば、いとも簡単に過敏になりがちで、数少ない神の言葉にもとづいて自分のことを決めつけてしまいます。これは問題ではありませんか。……ときに神は人を遠ざけることがあり、またしばらくのあいだ人を隅へ追いやって自省させることもありますが、それでも人を見放したわけではありません。ただ悔い改める機会を与えているのです。神が真に見放すのは、多くの悪行を行う悪人、不信者、反キリストだけです。中には、『わたしは聖霊の働きを得ていない気がするし、もう長いこと聖霊の啓きを得ていないと感じる。わたしは神に見放されたのだろうか』と言う人もいますが、それは思い違いというものです。ここには性質の問題があります。人は気まぐれで、常に自分の論法に従い、いつも愚かで、理知がありません。これは性質の問題ではありませんか。あなたは、神が自分を見放した、神は自分を救わないと言いますが、ならば神はあなたの行く末を定めたのですか。神は怒りの言葉を少しあなたに言っただけです。神は自分を見捨てた、神はもう自分を欲していないなどと、どうして言えるのでしょうか。人が聖霊の働きを感じられないことはありますが、神はあなたから神の言葉を読む権利を取り上げてはおらず、あなたの行く末を決定してもおらず、救いへの道を切り捨ててもいません。ならば、あなたは何のことでそれほど動揺しているのですか。あなたは悪い状態にあり、あなたの動機、思想上の視点には問題があり、あなたの精神状態は歪んでいます。真理を求めることでこうした問題を解決しようとせず、絶えず神を誤解して責め、神に責任を押しつけ、『神はわたしを欲していない。だからわたしはもう神を信じない』とまで言うのであれば、あなたは愚かではありませんか。理不尽ではありませんか(『終わりの日のキリスト講話集』「観念を解消することでのみ、神への信仰の正しい道に踏み出せる(1)」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉が心に語りかけ、僕はわかった。神は僕を淘汰も断罪もしてないし、結末を決めてもいない。御言葉を用いて僕の堕落した性質と、間違った道を示した。そうしなければ自己認識できないから。これは変わるチャンスなんだ!神の裁きと取り扱いは、どれも僕を救うためなんだ!でも僕は、自分の観念で神を誤解し、神の裁きの中に断罪を見て、淘汰されると思った。自分には反キリストの表われがあり、神は僕を望んでない、きっと滅ぼされると思い込んだ。でも実際には、僕の表われはどれも神から見て普通のものだった。反キリストの性質を表わしてたけど、反キリストと判断されるほどではなかったんだ。反キリストの本質がある人を、神は淘汰し懲罰なさる。彼らの本性と本質は悪で、真理を憎んで嫌うから、決して悔い改められない。どんな間違ったことをしてもそれを認めず、手段を選ばず名声と地位を守る。でも僕は、自分も深く堕落し、間違ってると気づけたから、悔い改めの機会がある。反キリストの性質があるだけで、真理を受け入れない反キリストじゃないんだ。でもそのときは、神の旨も神の愛や義なる性質もわからなかった。神はもう僕を望んでいないから、努力したって無駄だと思っていた。この世で肉体の快楽を享受できなければ、自分には何もない。今振り返ると、自分のしたことが本当に恥ずかしい。一生付き従うと神に何度も誓ったのに、今回裁かれ、暴かれると、消極的になって神の救いを拒み、神への信仰を失い、俗世に戻って肉体の快楽を選ぶほどだった。良心があるとはとても言えない。神の旨がわかった今、希望が再び生まれ、生き返ったように感じた。他はすべて捨て去り、御言葉を考え、賛美歌を歌い、御言葉の朗読を聞き、神の旨を求め始めた。神を信じる道を新たに歩み始めた気分だ。再び神の慈悲を受け取り、神の存在を感じた。内なる安らぎと喜びを段々見つけたし、教会に戻る願望も感じた。でも、神の家は僕を受け入れてくれるだろうか?そこで神に祈り、慈悲と救いを願った。

数週間後、別の御言葉の一節を読んだけど、おかげで神の旨がもう少しわかった。神は言われます。「この段階の働きが始まって数年後、神を信じているものの、真理を追い求めない人がいました。この人が望んだのは、金を稼いで伴侶を見つけ、金持ちの生活を送ることだけでした。そのため教会を去りました。数年間さまよい歩いたあと、この人は今になって戻ってきました。心の中で強い後悔を感じ、人知れず涙を流してきました。これは、この人の心が神から完全に離れていなかったことを証明しており、それはよいことです。この人には救われる機会と希望がいまだにあるのです。信じるのをやめて、未信者と同じになっていたら、この人は完全に終わりだったでしょう。真に悔い改めることができるなら、その人にはまだ希望があります。これは希で貴重なことです。神がどのように振る舞おうと、人をいかに扱おうと、また、たとえ神が人々を憎み、忌み嫌い、呪っても、人が回心できる日が来れば、わたしは大きな慰めを得るでしょう。それは、人の心の中に神の居場所がわずかに残っていること、人が人間の理知や人間性を完全に失ったわけではないこと、依然として神を信じたいと思い、神を認めて神の前に立ち返る意志が少なくとも多少あることを意味するからです。心の中に神を真に抱いていれば、神の家をいつ離れようと、もしその人が戻り、この家をいまだ大事にしているなら、わたしは多少感傷的に愛着を抱き、そこにいくぶん慰めを得ます。しかしその人が二度と戻らないなら、わたしはそれを残念に思うでしょう。もし戻って、真に悔い改めることができるなら、わたしの心はとりわけ喜びと慰めに満たされるでしょう。この人がやはり戻ってくることができたということは、神を忘れていなかったということです。この人が戻ってきたのは、心の中でいまだに神を切望していたからです。わたしたちが会ったときは、とても感動的でした。去って行ったとき、その人が極めて消極的で、悪い状態にあったことは間違いありません。しかし、今になって戻ってこられたということは、神への信仰をまだ抱いていることを証明しています。とは言え、人はすぐに変わるものですから、この人が前進し続けられるかどうかは未知の要素です。恵みの時代、イエスは人類に憐みと恵みを持ちました。百頭の羊のうち一頭でも迷えば、九十九頭を残してその一頭を探します。この一文が表わすのは機械的な方法でも、規則でもなく、むしろ人に救いをもたらす神の切実な意図と、人への深い愛を示しています。それは物事の作法ではなく、一種の性質、一種の心理です。ゆえに、半年または一年間にわたって教会を離れる人がいて、どれほど多くの弱みがあっても、あるいはどれほど多くの誤解に苦しんでいても、その後現実に目覚め、認識を得て回心し、正しい軌道に戻れるなら、わたしはとりわけ慰めを感じ、多少の喜びを得られます。この華やかさと壮麗さの世界、この悪しき時代において、神を認めて正しい道に戻れることは、人の心に大きな慰めと感激をもたらすことです。子育てを例にとってみましょう。子どもが親孝行であろうとなかろうと、その子があなたを認めず、家を離れ、二度と戻らなかったらあなたはどう思うでしょうか。心の奥底で、その子のことをやはり心配し続け、絶えずこのように思うでしょう。『息子はいつ戻るのだろう。あの子に会いたい。どうあろうと、あの子はわたしの息子だし、理由もなくあの子を育て、愛したわけではないのだ』。あなたはいつもこのように考え、その日が来るのをいつも待ちわびています。この点では誰もが同じように感じますが、神については言うまでもありません。人が迷ったあとになんとか戻ってくること、放蕩息子が戻ってくることを、神はなおさら強く望んでいるのではありませんか。現在の人々は霊的背丈が小さいものの、神の旨を理解する日がいつか来ます。ただし、真に信仰する意思がなく、不信者ならば話は別で、その場合、そのような人は神の懸念に値しません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んでひときわ感動したよ。神が面と向かって、まるで母が子に語りかけているようだった。僕が絶望の底にあったとき、神は僕を慰め、希望を与え、人への愛が本物であることを見せてくれたんだ!神が気ままに人を断罪したり、殺したりすることはないとわかった。神は人類を救うため、終わりの日に受肉された。僕の想像と違い、神は決して離れなかった。むしろ、堕落した性質のために、僕を裁いて罰したけど、それは神の義、僕を変える方法なんだ。神は僕の悔い改めを待ってたけど、僕は観念をたくさん抱き、神を誤解してた。神の裁きと救いを淘汰や懲罰と見なし、神の旨がわからず、服従しなかった。いつも個人的な視点に立ち、自分の意見を真理と受け止めた。僕は反抗的だけど、神は僕に欠けてるもの、どこで躓き失敗するかをご存じで、僕が目覚めて理知を取り戻すまで、一歩ずつ導いてくださった。人を救う神の意図の真摯さがわかったよ。人が神の名と道を守る限り、神は必ず救いの手を差し伸べる。僕が思う以上に神は僕らを愛し、みんなのいのちに責任を負ってる。真摯に悔い改めれば、まだ手遅れじゃないとわかった。堕落した性質を変えて救われる機会はまだあるんだ。ひとたび神の旨がわかると、消極的な状態と誤解が正された。

その後、御言葉の別の一節を読んで、神の裁きの働きが多少わかった。全能神は言われます。「今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んで、自分が神の裁きの働きを理解していないことがわかった。神の働きを最初に受け入れたとき、僕は神の愛、慈悲、そして聖霊の啓きをたくさん享受し、神の恵みを受けるだけで満足してた。自分は神の手中にある赤子、神に大事にされる人で、特別で完全だから、神に厳しく裁かれることはないと思ってた。だから神の厳しい裁きと刑罰が来て、御言葉が僕の反抗と抵抗、反キリストの性質を暴くと、神に淘汰されると思い込んだけど、実際には神の旨をわかってなかった。人はサタンに深く堕落させられてる。神の厳しい裁きと刑罰だけが、人の堕落した性質を変え、サタンの支配から僕らを完全に救える。僕は堕落のあまり、サタンの化身になり、神の厳しい裁きと刑罰で目覚める必要があった。この種の働きがなければ、サタンによる堕落という醜い外見がわからないからだ。そうして初めて、自分を憎んでサタンを捨て去れる。それがなければ、自分は完全で神に愛されてると思い込み、真理を求めず反省もしなかっただろう。死ぬまで反キリストの間違った道を歩んだはずだ。神を信じてるのに、苦しむ気がまったくなく、神に甘やかされ、赤子のようにいつまでも神の慈悲と祝福を受けたがっていた。どうして神に清めてもらえるだろう?僕は無知と利己心のせいで、神の裁きの働きにある愛と祝福が見えなかった。だから神を誤解し、神から離れ、神を裏切った。自分の無知と利己心のせいで重い代価を払ったんだ。神の裁きの働きにある重大な意義を悟った僕は、神に従い、神の働きを経験する自信を得た。神の働きが僕の観念に合おうと合うまいと、どれも僕を清め、堕落した性質を変えるためだとわかったからだ。それはサタンの支配から完全に救うため、裁きと刑罰は神が人を救う最高の方法なんだ。

その後、御言葉をいくつか読んで神の要求がわかった。僕が真の被造物になり、神の主権と施しを受け入れ、本分を尽くし、神を知って証しすることを神は望まれてる。実際、僕の地位は兄弟姉妹と同じだ。神が僕に何らかの賜物や才能を与えたり、指導者になる機会を与えたからといって、僕の地位がみんなより高いことにはならない。僕はやはり被造物なんだ。そうした賜物や才能は神から与えられたものだから、見せつけてはいけない。立派に本分を尽くし、真の被造物になるのが大事なんだ。

それに気づくと実践の道を得て、安心を感じた。今すぐ教会に戻って本分を続けたいと思ったけど、今回、神に従う決意はさらに強かった。パソコンや電話から神への信仰に関係ないものをすべて消し、他はすべて脇にのけ、神に従おうと決心した。数日後、教会に戻り、福音伝道を続けた。神に感謝!最初からやり直し、兄弟姉妹と意識的に協力した。問題に遭うたび、兄弟姉妹に意見や提案を求め、参加するよう頼んだ。もう独断で決めることはなく、みんなに意見を押しつけもしなかった。代わりにアドバイスし、協力して、いい実践の道を探したんだ。それに、仰ぎ見られるよう自分を誇示したり、みんなを操ろうともしなかった。権力なんてもういらなかった。むしろ、みんなと真理を求めることを学んだんだ。こう実践してると、これまでにない大きな安心感を覚えたよ。今、兄弟姉妹との関係はずっと気楽なものになり、みんな進んで協力してくれる。一新する機会を与えてくれた神に感謝してるよ。神の御言葉だけが僕の堕落した性質と地位の追求を変えられると実感してる。僕が被造物になり、みんなと協力して本分を尽くし、人間らしく生きられるのはそのおかげだ。

この厳しい裁き、刑罰、刈り込みと取り扱いを通じ、神の愛を経験して、自分の堕落した性質が多少わかり、神の働きをはっきり見て、信仰もさらに強まった。神の裁きと刑罰は人を断罪して滅ぼすためじゃないと、心から感じてる。御言葉にこうある通りだ。「神の刑罰と裁きは光、人間の救いの光であり、人間にとってそれ以上の祝福と恵みと加護はない(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。僕の本性が傲慢すぎ、野心が大きすぎ、サタン的性質が深刻すぎたから、神はそうした厳しい裁きと刑罰で僕を清めて変え、正しい道に導く必要があった。神の救いに感謝する!

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全能神は言われます。「この終わりの日における神の働きの現在の段階では、神はもはや以前のようにただ恵みと祝福を人間に与えるのではなく、また人間をなだめて前に導くこともありません。この働きの段階で、人間は経験した神の働きのあらゆる側面から何を見ましたか。人間は神の愛と神の裁きと刑罰を…

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僕はペルーの小さな町に住んでた。家族は全員カトリック。村人の大半もそうだった。でも村の教会には管理する神父がいなくて、誰も聖書を学びに来なかった。2020年5月22日、僕はオンラインで全能神の御言葉を読んだ。御言葉を読んで、主イエスが戻られ、それが終わりの日のキリスト、全能神だと…