責任を避けた結果
2021年2月のある日、指導者に言われたの。数ヵ所の教会を引き受けてほしいと。いずれも真理を受け入れたばかりの新人で構成されている。びっくりしたわ。ずっと福音の働きをしていて、教会の働きは初めてだったから。新人を潤したことはないし、スペイン語も話せない。きっと問題や困難がたくさんあるけど、どう解決すればいいかわからない。新信者は赤ん坊みたいなもの。すぐに潤さないと真理を理解できず、真の道に踏み出せない。彼らが去ったら、それはわたしの悪事にならない? 解任され、淘汰されることだってあり得る。前任者は、仕事ぶりが悪くて解任された。それらの教会での働きは始まったばかり。その多くは模索中で、容易なことじゃない。自分にはとても無理。でもその本分を与えられたからには、断われない。なのに気持ちが落ち着かなかった。今まで福音の働きはうまく行ってたし、毎月大勢の人に神を証しできてた。でもそれらの教会での働きは難しく、仕事ぶりがまずいと解任される。もう不安がいっぱいで、ちゃんとできるか自信がなかった。福音伝道に戻りたかったわ。そこで神に祈り、御旨を理解して服従できるよう導きを求めたの。
次の日、ある兄弟から問題を伝えられた。こう言うの。「ますます多くの人が終わりの日の神の働きを受け入れてる。教会が分かれていると、信徒をほったらかしにする無責任な教会指導者がいるものだ。グループ集会を開かず、神の御言葉を読めない。新人からのメッセージを見てほしい」転送したメッセージを開くと、こんなのがあった。「兄弟、あなたは全能神教会の人ですか? わたしは教会の集会グループに属していません。全能神の御言葉をオンラインで交わりたいので助けてくれませんか? 全能神の御言葉を飲み食いできないのが悲しいです」こう言う新人もいた。「兄弟、わたしは全能神の御言葉を飲み食いできずにいます。神の家の外にいて、本当につらいです。集会に出られるようにしてくれませんか?」日々集会を待ちわびる人がいても、指導者は何の手も打っていない。この兄弟は立腹してた。「君らがどう新人を潤しているかわからない。どれだけ忙しくても、どれだけ仕事が難しくても、福音を受け入れた人たちが集まれず、御言葉を読めないなんて腹立たしくないか? もう少し気を配っていれば、彼らが神の家を去ることはなかった」って。兄弟の話を聞き、彼らのメッセージを見てつらくなり、涙を抑えられなかった。わたしたちの怠慢のせいで、新人が神の家を離れてる。教会生活を送ることも、御言葉を読むこともできず、いのちが害を受けてる。でもわたしは、教会の問題を見ても責任を負わず、彼らのいのちを背負わなかった。教会生活をすぐに正す方法を考えず、逃げようとした。本当に自分勝手! 神の御言葉が浮かんだわ。「皆が自分は神の重荷を思いやっており教会の証しを守るつもりだと言うが、一体誰が本当に神の重荷を思いやったのか。自問してみなさい、あなたは神の重荷に配慮を示した人間なのか。……わたしの旨をあなたの中で成就させることができるか。最も重要なときに、自分の心を捧げたのか。あなたはわたしの旨を行う者か。こうしたことを頻繁に自問し、考えてみなさい」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十三章」〔『言葉』第1巻〕)。神の一言一句がわたしに向けられてるような気がして、落ち込み、罪悪感を覚えた。わたしがそれらの教会の働きを担当することになったのは、神の旨を思いやれるようになるため。わたしは心と思いを一つにして兄弟姉妹を潤し、集まって御言葉を読み、真の道に踏み出せるようにする必要があった。それらの教会は設立されたばかり。すぐに対処すべき問題が山ほどある。でもわたしは神の旨に配慮しなかった。その本分を受け入れてから、自分の前途を考えるばかりで、仕事ぶりが悪いと暴かれ、いい結果を得られないのではと不安だった。本分を背負わず、責任感もなかった。本当に卑劣で人間性がない! あの兄弟が新人のメッセージを送ってくれた裏には神の御旨がある。それは、自分が引き受けた責任を理解し、真の重荷を背負えるよう、わたしの麻痺した心を目覚めさせること。わたしは神に祈り、自分の前途を考えるのはもうやめて、神にすがって本分を引き受け、しっかり本分を尽くし、みんなと真理を求め、教会の問題をできるだけすぐに解決しようと思った。
そして数人に指示して、集会に出られない新人のために采配をさせた。それに、教会の働きを実際に理解してもらおうと試みたわ。多くの教会は設立されたばかり。仕事に不慣れでどうしていいかわからない監督者もいれば、ぐずぐずと仕事をして、新信者の問題にすぐ対処しない人もいた。助けるか、それとも解任しないと。特に、牧師に惑わされて集会に出なくなった新人もいるし、その数は増えるばかり。そうした問題を見て、不安にならずにいられなかった。引き受けてしばらく経つけど、事態は改善してない。わたしには否定できない責任があるし、暴かれるのは時間の問題。ますます落ち込んだわ。いつも駆けずり回ってるのに、心はプレッシャーで一杯。月末になると、集会に出ない新信者はさらに増えていた。わたしは麻痺してこう思った。自分はこの本分を引き受けたばかり。すぐにやめれば、悪事を犯して働きを遅らせることもない。このまま続けて新信者の問題を解決できず、彼らが教会を去れば、悪事を犯したことになる。解任は間違いないし、終着点と結末も駄目になってしまう。諦めようという思いは膨らむばかりで、結局そうすることにした。そう考えて立ち上がると、突然もの凄い目まいがしたの。あらゆるものがぐるぐる回り、気絶しそうになった。こんな感覚は初めて。ストレスのせいかと思ったわ。それをある姉妹に伝えると、こう交わってくれた。この事態には神の御旨があるし、教訓を学ぶべき、って。それを聞いて心が落ち着いたから、探求と反省を始め、自分の堕落を理解できるよう啓いてくださいと、神に祈った。
御言葉の一節を読んだのよ。672ページの第二段落。「神の言葉を飲み食いし、祈りを実践し、神の重荷を受け容れ、神が自分に委ねる任務を受け容れることはすべて、自分の前途を拓くためである。神の委託による重荷が大きければ大きいほど、神によって完全にされることが容易になる。神に仕える中で、召し出されても他者と協力したがらない者がいるが、そうした者は怠惰で、ただ快楽に溺れることを望んでいる。他者と協力して神に仕えることを求められれば求められるほど、得られる経験が多くなる。そしてより多くの重荷と経験を持つことで、完全にされる機会も増えることになる。そのためあなたが誠意を持って神に仕えることができれば、あなたは神の重荷を心に留めるようになるので、神によって完全にされる機会を一層多く得られるようになる。現在完全にされているのは、まさにこうした人々である。聖霊があなたに触れるほど、あなたは神の重荷を心に留めるために割く時間が増え、より一層神によって完全にされ、より神のものとされて、最終的には神に用いられる者となる。現在、教会のための重荷をまったく担っていない者もいる。そうした者は怠惰で不注意で、自らの肉のことしか考えていない。彼らは極度に自分勝手で、盲目でもある。この事実を明確に理解できないなら、あなたは重荷を担わないだろう。あなたが神の旨に配慮すればするほど、神があなたに託す重荷も大きくなる。自分勝手な者はそうした物事に煩わされたがらず、代償を払いたがらず、その結果として、神に完全にされる機会を失うのだ。これは自らを害する行為ではないだろうか。あなたが神の旨に配慮する者であれば、教会のために真の重荷を抱くようになる。実際、それは教会のために担う重荷というよりも、自分自身のいのちのために担う重荷と呼んだほうがいい。なぜならあなたが教会のために抱くこの重荷は、あなたがその経験によって神に完全にされるためのものだからだ。したがって、教会のために最大の重荷を担う者、いのちに入るための重荷を負う者は、神によって完全にされる者である。このことを明確に理解しているか。あなたが属する教会が砂のように乱れているにもかかわらず、あなたが憂慮も懸念もせず、兄弟姉妹が神の言葉を普通に飲み食いしていなくても見て見ぬふりさえしているなら、あなたは何の重荷も負っていない。そのような者は神に好まれない。神が好む者は、義に飢え渇き、神の旨に配慮している。だから、あなたがたはたった今神の重荷を心に留めるべきである。神がその義なる性質をすべての人間に表したら、それから神の重荷を心に留めようといって待っていてはならない。そのときにはすでに手遅れではないか。今は神に完全にされる好機である。もしこの機会を逃したなら、あなたは一生後悔するだろう―カナンの良き地に入れずに一生後悔して、自責のうちに死んだモーセのように。神がその義なる性質をすべての民に表すと、あなたは後悔の念に満たされることになる。神があなたを罰しないとしても、あなたは自責の念で自らを罰するだろう」(『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のこの一節から、本分のために責任を負うことは、完全になれるかどうかに関係するとわかった。責任を負えば負うほど、神の重荷に思いを致し、神に祝福される。でも、教会の働きと本分に対して責任感がまったくなく、教会の利益を守らず自分を守るだけなら、それは自分勝手で卑劣な人。神に完全にしてもらえない。わたしも自分勝手で、真の重荷を担わず、神の御旨に配慮せず、自分の前途ばかり考えてたことを反省した。ちゃんと集会に出られない新人が増えてるのに、わたしは急いで解決策を見つけ、彼らを支えるのでなく、本分を続けて暴かれ、淘汰されることを恐れた。そこで自分を守り、その本分を辞めようとした。神への忠誠が一切ない。本分で自分の利益ばかり考えてたの。利益を得られず、苦しんで責任を負う必要があれば逃げたくなり、逃げ道を残した。順調なときは喜んで働くけど、問題が持ち上がり、自分の前途が危うくなると、諦めようとした。本当に神のほうを向いていないし、誠実な心もない。狡猾で、自分が大事で卑しく、まるで信頼できない。わたしみたいに自分勝手でずるい人を、神は完全にしない。そう考えれば考えるほど、良心がない自分を憎んだ。神の前で生きる資格なんかない。罪悪感と後悔で一杯になったわ。
どうして本分で自分の利益と前途ばかり考えるんでしょう? なぜこんな自分勝手なの? わたしもそれが不思議だった。デボーションで、反キリストを分析する御言葉を読んで、多少はっきりわかったの。全能神は言われます。「通常の状況において、人は本分の変更を受け入れ、それに従うべきです。また、自分を反省し、問題の本質を認識して、自分の欠点に気づくべきです。これは非常に有益で、ごく簡単に成し遂げられることです。さほど難しいことではありません。本分の変更は乗り越えられない障害ではなく、誰でもよく考えて明確に理解し、正しく扱えるほど単純です。自身の本分に対して調整が行なわれたとき、人は少なくとも従い、自分を反省することから利益を得て、自分の本分遂行が基準に達しているかどうかを正確に判断すべきです。しかし、反キリストにとってはそうではありません。何が起きようとも、彼らは普通の人とは違います。その違いはどこにありますか。彼らは従わず、積極的に協力せず、ほんの少しも真理を探し求めようとしません。むしろそのことに反感を抱き、抵抗し、それについて分析、熟考し、頭脳を振り絞って推測します。『わたしはなぜ、この本分をさせてもらえないのか。重要でない本分に転任になるのはなぜなのか。これはわたしを暴いて追放するための手段なのか』。彼らはこれまでに起きたことを頭の中で考え続け、いつまでも分析して反芻します。……本分での異動といった小さな事柄に関して、反キリストがここまで騒ぎ立て、騒動を引き起こし、あの手この手で事をここまで大きくするとは、誰にも想像できません。なぜ彼らは単純なことをこれほど複雑にするのですか。理由は一つしかありません。反キリストは決して神の家の采配に従わず、自分の本分や名声、地位や祝福を受ける望みと将来の終着点に常に密接に結びつけています。それはあたかも、ひとたび地位と名声を失えば、祝福と報いを得る希望もなくなるかのようで、これは彼らにとって生命を失ったも同然なのです。それゆえ、祝福の夢を壊されまいと、彼らは神の家の指導者や働き手を警戒します。これが祝福される唯一の望みだと考えているので、地位と名声にしがみつきます。反キリストは祝福されることを、天そのもの、いのちよりも偉大なもの、真理の追求、性質の変化、人の救いよりも重要なこと、そして立派に本分を尽くし、基準に達した被造物であることよりも大事なことと見ています。基準に達した被造物であり、立派に本分を尽くして救われることはどれも口にする価値すらない、取るに足らないことだと考え、ただ祝福を得ることが生涯で決して忘れることができない唯一のことなのです。何かに遭遇するたびに、その大小に関わらず、彼らはそれを神に祝福されることと結びつけ、信じられないほど警戒し、注意深くなり、常に自分の逃げ道を確保します」(『反キリストを暴く』「第12条 彼らは地位も自分が祝福を得る望みもないと、引き下がろうとする」〔『言葉』第4巻〕)。これを考えるうち、本分で自分を守り、自分の利益を考えてたのは、神が暴く反キリストの性質を示していて、本当に利己的だとわかった。祝福と個人の利益しか考えてなかったの。信仰の動機は神に祝福されること。何かあるたび、自分の結末と終着点をまず考え、いのちと同じくらい祝福を大事にした。あらゆる点を考慮して神を警戒し、逃げ道を残し、気をつけないと暴かれ淘汰されると心配した。神への真の信仰はなかったの。それらの教会を任されてからは、多くの困難を見るたび、福音伝道に戻りたいと思った。福音伝道では成果を上げていたから、神の約束を受け取り、美しい終着点を得られるはず。それらの教会で起きた問題を見て、ちゃんと潤さないとみんな去り、わたしが責任を問われて淘汰されると思った。地位と前途に影響が及び、祝福されないと考え、その本分を尽くすのが嫌で尻尾を巻いて逃げ出したかった。わたしが本分を尽くしていたのは、ただ祝福を得て神と取引するため。神に服従して被造物の本分を尽くすためじゃない。パウロもヨーロッパ中を駆け回って福音を広め、たくさん苦しみ多くの教会を建てたけど、その努力はすべて祝福されるため。自分の努力を使って神と取引しようとした。だからこう言ったの。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)わたしもパウロと同じで、誠実に本分を尽くしてなかった。表面的な努力と引き換えに、神から代償と祝福を求め、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」という害毒で生きてたの。本分を尽くしてるなんて言えない。神の家に潜り込んだ、風見鶏の不信者に過ぎないの。本当にいかがわしい人。対処すべき問題が教会に多数あったのに、わたしはそれに専念せず、自分の結末と終着点、祝福されるかどうかばかり考えてた。人間性がまるでない。そうわかると罪悪感を覚え、神に祈った。もう結末のことは考えません。心を落ち着けしっかり本分を尽くします、と。
別の御言葉を読んで、とても啓かれたの。1167ページの第2段落。「人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、つまり、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、その人の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと、裁きを受ける過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも、それに影響を与えることもない。自分の奉仕に欠点があるかもしれないと恐れて、奉仕をやめたり、妥協して退いたりする者たちは、すべての人の中で最も臆病である。奉仕する中で表すべきことを表せず、本来可能なことを成し遂げられず、その代わりにのらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの機能を失ったのである。こうした者たちはいわゆる『凡庸な』人で、無用の長物である。どうしてこのような者たちが被造物と呼ばれ得るのか。外見は立派でも中身は腐った堕落した存在ではないのか。……人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である。人間が徐々に変えられるのは、自身の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自身の忠実さを実証する。ゆえに、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け取り、あなたの表現もますます現実のものになる」(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。このおかげでわかった。本分は、祝福や呪いとは関係ない。本分を尽くすのは、被造物であるわたしの義務。祝福と結びつけてはだめ。本分でどんな困難に見舞われようと、心を捧げて責任を負うべき。本分をしっかり尽くせず交代や解任になっても、学ぶことがある。暴かれ淘汰されるのを恐れて諦めてはだめ。神の家には解任と淘汰の原則がある。神の家から淘汰されても、それは特定の本分を尽くしているとか、本分で過ちを犯したからじゃない。それで淘汰されることはないの。それは真理を追い求めず、正しい道を歩まず、あくまで悔い改めないから。真理を追い求める兄弟姉妹には、過ちを犯してもまだ機会がある。支援と取り扱いがあれば、自己認識し、悔い改めて変わるなら、教会に留まれる。また、本分をしっかり尽くしているかを神が判断するとき、その人がどれだけ自分を費やし成果を上げたかではなく、真理の探求と原則の遵守に集中しているかどうか、心と努力を捧げているかどうかをご覧になる。どれだけ多くの問題に見舞われようと、神の旨を考慮し、真理を追い求めるなら、神は啓いてくださる。すると全部解決できるの。真理を追い求めず、自分の損得ばかり考え、ぐずぐず本分を尽くして悔い改めないなら、その人はきっと暴かれ、淘汰される。神の御旨がわかるともう一度祈り、自分の損得を考えるのはやめ、本分にすべてを捧げることにした。
それからは本分に打ち込み、教会での働きを細かな点までじっくりチェックし、実際に存在する問題をすべて書き出した。解決できないものは指導者に相談し、他の教会の指導者と交わった。原則と実践がわかると、多くの問題を処理できたわ。態度を変えて前途を考えるのをやめ、兄弟姉妹と協力して新人の問題を解決することに専念すると、教会生活が少しずつ正しい軌道に乗った。集まれなかった新人たちも徐々に教会生活を取り戻し、御言葉を飲み食いできるようになったの。それにかなりの新人が福音の伝道を始めた。わたしは神の導きと祝福を見たわ。「被造物として本分を尽くそうと積極的に追い求めることが成功の道であり」という神の御言葉を、自ら経験したの。いま振り返ると、まずそれらの教会に多くの問題があり、やがて徐々に正しい軌道へ乗り、新信者たちが正常な教会生活を送っているのは、すべて神の働きの成果。神の働きをなさるのはまさに神自身で、人はその一部に過ぎないとわかったの。どんな本分や問題があっても、損得を考えずに服従しなければならない。真理を求めて神の御旨に配慮し、全力で本分を尽くす必要がある。そうすれば神の祝福を見られるわ。
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