どのように悔い改めて再び罪を犯さないかについて、私は実践の道を見つけた

2019年9月16日

蒙(モン)愛(アイ)は三世代にわたるクリスチャンで、ずっと教会で奉仕してきましたが、ここ数年、固い信仰と主への奉仕にもかかわらず、自分の夫に対してさえ寛容でも寛大でもいられないほど、自分がいまだ罪の束縛に捕らわれていることに気づきました。そして「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:45)という神様の御言葉を読み、このまま頻繁に罪を犯し続ければ、主のお顔を拝見する資格が得られないと認識しました。これは彼女を本当に苦しめました。しかしいま、彼女は罪から自由になる道を見つけ、夫との関係も調和のとれたものになっています。蒙(モン)愛(アイ)はどのようにして罪から逃れる道を見つけたのでしょうか。彼女の経験を見てみましょう。

罪の中、恐ろしい苦痛の中で生きる

私は子どものころから教会に通い、主の御言葉について兄弟姉妹と交わるのがいつも大好きでした。結婚後も、夫と私は教会での働きを第一にし、教会への奉仕や大小の行事に積極的に参加していました。

しかし時が経つにつれ、兄弟姉妹たちがみんな罪の中で暮らし、主の教えを守れていないことに気づきました。例えば牧師の説教には光がなく、そのうえいつも私たちに献金させようとし、彼らの金銭に対する関心は私たちのいのちへの関心よりもはるかに大きいものでした。牧師と長老は個人的な地位や利益を巡って絶えず争いと口論を繰り広げ、兄弟姉妹はますます教会の奉仕に参加しないようになり、中には教会に来てもつまらないおしゃべりや遊びの話しかしない人もいれば、説教のあいだに居眠りする人さえいました。そのようにして、彼らは仕事のストレスを解消していたのです。

私自身も主のお導きを感じられず、働きに出かけることや教会への奉仕に参加することがいつも本当におっくうでした。中でも苦痛だったのが、自分が罪を犯しては告白するという悪循環の中で暮らしていたことです。帰宅した夫がオンラインゲームに没頭して、すべきことをしていないのを見るたび、私は夫に腹を立て、傲慢な口調であれこれしなさいと言わずにはいられませんでした。夫が私の存在を無視して私の言葉を真剣に受け止めていないように思われると、私はさらに腹を立てて本当にきつく怒鳴っていました。夫の行動があまりに遅いせいで堪忍袋の緒が切れてしまい、あなたは何をやっても下手で不器用と文句を言うこともありました。そのようなことが理由で、何年も信者でありながら何も変わっていないと、夫にたしなめられることがしばしばありました。

私は夫にたしなめられて罪の意識を感じ、主イエスの次の御言葉を思い浮かべました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか(マタイによる福音書7:3-4)主は私たちに、他人の短所や欠点にばかり目を向けるのではなく、自分自身の欠点をもっと見つめるよう教えられました。しかし夫が私の気に入らない言動をするたび、私は夫に我慢できなくなり、そのうえ頻繁に腹を立てて夫の文句を言っていました。そのせいで私たちのあいだに亀裂が生まれたのです。それを考えるのは本当につらいことでした。神様は「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:45)とおっしゃいました。神様は聖くていらっしゃり、聖くない人は主のお顔を拝見できません。しかし私はいつも罪を犯していて、主の教えを守れませんでした。私のような罪人が天国に入れるのか。いつもこの疑問を考えては、本当に不安な気分でした。

私は苦痛の中で主に訴えました。「ああ主よ、私は罪を犯したくないのですが、自分を抑えることがまったくできません。罪の中で暮らすのは本当につらいのに、そこから逃れる方法がわかりません。主よ、私には何ができるでしょう。私がこのまま進めば、あなたは私をお捨てになりますか」

牧師は罪の問題を答えられない

苦痛と無力感の中、私はこの問題を追求しようと牧師のもとへ向かいましたが、牧師はこう言うだけでした。「心配いりません。私たちはいま多くの罪を犯しますが、主イエスはすでに私たちの罪をすべてお赦しになりました。だからどんなときでも、私たちは主に祈って告白するだけでいいのです。そうすれば主がお戻りになるとき、私たちは天国に入ることができます。あなたはご主人といるのがつらく、あまりに多くの欠点があると感じています。私たちは寛容と忍耐をもっと実践すべきなのですよ……」牧師の答えは私にとって受け入れがたいものでした。主の教えを守れずにいつも罪を犯しているのに、主がお戻りになるとき本当に天国へ入れるでしょうか。その後、私は次の聖書の言葉を読みました。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない(ヘブル人への手紙10:26)私はこれら二節から主の御心を理解しました。罪深い本性をもつ人は誰ひとり主に認めていただけず、主のお顔を拝見する資格がまったくありません。罪だと知りながらそれをわざと行なうなら、罪のためのいけにえはありません。牧師の言葉を基に考えれば、頻繁に罪を犯し、主や友人を売り渡し、献金をくすね、放蕩を行ない、嘘をついて騙し、悪しき流行を追う人であっても、本当に主に祈って告白するだけで、天国に入ることができるのでしょうか。この疑いが私から離れませんでした。

私は罪から自由になるためにどうすればよいかわからなかったものの、夫との関係をよくしようと、牧師の言葉に従って寛容で忍耐強くなろうとしました。しかし私たちの関係は何も変わりませんでした。苦痛の中で再び牧師のもとへ向かいましたが、牧師はいらだたしげに首を振ってこう言うだけでした。「いつも罪を犯しては告白するという問題について、私にはよい解決法がありません。聖書にはこう記されています。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』(ローマ人への手紙7:18-19)私たちはどうしても罪を犯してしまいます。だから、もっと頻繁に悔い改めて主に告白しなさい。私もあなたのために祈りましょう」牧師がこう言うのを聞いて、私は希望をすっかり失いました。私にできるのは祈り、罪から自由になる道へと導いてくださるよう、主にお願いすることだけなのです。

人が終わるところで神様は始まる――罪の根源を見つける

2018年5月28日、私はインターネットでスーザン姉妹と出会いました。私たちはしばしば聖書の文章について交わり合いましたが、彼女は聖書についてまったく独自の見解をもっていました。彼女の話は光に満ちており、教会が荒廃した根源を説明することができました。それは教会で聞いたことがないものでした。その後、私は何年ものあいだ困惑していた問題をスーザン姉妹にぶつけました。「姉妹、私は長年にわたる信者ですが、いまだにいつも罪の中で暮らしています。忍耐と寛容を実践することさえできません。聖書にはこう記されています。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:45)もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない(ヘブル人への手紙10:26)主は聖くていらっしゃいますが、いつも罪の中で暮らして清められていない私たちのような人が、天国に入ることはできるでしょうか。私はこれについて牧師に質問しましたが、私たちは頻繁に罪を犯すものの、主はすでに私たちの罪を赦されており、私たちが主に告白して悔い改める限り、おいでになったときに私たちを天国へ連れてくださると言うだけです。私はこれに疑問をもっています。スーザン姉妹、これについてあなたの考えを聞かせてください。」

スーザン姉妹はこのように話しました。「あなたの質問は本当に重要で、私たちが完全に救われて天国に入るという重大な問題に直接関係しています。たいていの場合、宗教界の牧師や長老は、主イエスが十字架につけられて私たちの罪を残らず赦されたので、私たちは頻繁に主に祈って告白する限り、主がおいでになったとき期待どおり天国に入ることができると信じています。しかし、この認識は真理と一致しているでしょうか。主の信者である私たちの罪は赦されてきましたが、そのことは主がおいでになるとき、私たちが天国に直接入れることを意味しているでしょうか。私たちは罪を赦されたので天国に入れると、主イエスがおっしゃったことはありません。それとは逆に、主は私たちにこうおっしゃいました。『すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書8:34-35)また、ヤーウェ神ははっきりとこうおっしゃいました。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:45)神様は義にして聖く、汚れたすべてのものをお嫌いになります。頻繁に罪を犯して神様に反抗する人や、完全に汚れた人を、神様は絶対に天国へとお連れになりません。自分の堕落した性質を完全に捨て去り、清められ、本当に神様を崇拝し、神様に服従し、神様を愛する人になって初めて、私たちは天国へ入る資格を得られるのです」この話は私に深く鳴り響きました。私はこう考えました。「本当だわ。こんなに汚れた私たちが、どうして天国に入れるでしょう。神様の義と聖さが、どうしてこのような形であらわされるでしょう」

スーザン姉妹は話を続けました。「たいていの場合、私たちは心から主に祈りを捧げて告白し、主の教えを実践することに全力を尽くしていますが、どれだけ懸命に働いても罪の拘束から逃れることはできません。私たちは昼間に罪を犯して夜に告白するという、自分ではまったく逃れられない悪循環の中で暮らしています。いったい何が起きているのでしょう。次の二節を読めばその問題がはっきりします」スーザン姉妹は一冊の本を開いて読み上げました。「人は贖われ罪を赦されたが、それは神が人の罪を思い出さず、人の罪に応じて人を取り扱わないからである。しかし、人が肉に生き、罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからだ。…」 (『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕) 「人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)

これらの御言葉を読んだあと、スーザン姉妹は話を続けました。「いまの二節を読んで、私たちが罪の足かせという束縛から決して逃れられない理由が少しははっきりしたのではないでしょうか。それはおもに、私たちがサタンによってあまりに深く堕落させられてきたためであり、たとえ主イエスに贖っていただいたとしても、私たちに罪を犯させるサタン的な本性がいまなお深く根ざしているのです。私たちが頻繁に罪を犯して神様に反抗せずにいられないのはそれが理由です。私たちはみな、主イエスが恵みの時代に肉となられ、贖いという働きの段階をなさって人類を罪からお救いになり、私たちが律法による断罪と拘束から逃れられるようになさったことを知っています。そのようにして、私たちは神様の御前へ出る資格を得られたのです。主イエスは私たちの罪を赦されましたが、傲慢、利己心、不誠実、邪悪といった私たちのサタン的性質を贖われたわけではありません。私たちはいまなお罪を犯しては告白するという悪循環の中で暮らし、そこから解放されることができません。例えば、私たちの本性は信じられないほど狡猾で、不誠実で、利己的で、卑劣なものであり、私たちが何をしようとそれは自分の利益のためです。他人との交流においても、自分の利益や地位や体面を守るために嘘をつき、不誠実に行動せずにはいられません。私たちは主のお求め通りに生きられません。つまり、幼子のように純粋かつ正直ではいられないのです。私たちの本性は信じられないほど傲慢であり、何事においても他人が自分の思い通りに行動するよういつも望みます。自分を不快にさせることを誰かがしたとたん、私たちは腹を立て、その人を叱ったり押さえつけたりします。しかも、私たちは主を信じながら、主の御言葉や要求を実践することに集中しません。その代わりに世間の悪しき風潮に従うほうを好み、非信者と同じく、金銭や名声や地位といった肉体的な快適さと快楽を追い求めます。これだけではありませんが、私たちにはサタン的な性質が実に深く根ざしているので、主の教えに背かずにはいられませんし、本当にたびたび告白したとしても、私たちの本性そのものは神様に反抗したままです。私たちはいまだに天国へ入ることができません。神様は私たちを完全に罪からお救いになれるよう、終わりの日にさらに多くの真理を表現なさっています。神様は私たちの堕落した性質をお裁きになり、正しくない動機や不純さを取り除いて、私たちが完全に清められ、変わるようになさっています。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、神様が表現なさる真理を得ることでのみ、私たちは自分の堕落した性質を完全に捨て去り、神様の御国に入る資格を得られるのです」

スーザン姉妹が読んでくれた御言葉と彼女の話を聞いたあと、夫が気に入らないことをするたび、どれだけ必死に自分を抑えようとしても腹立ちを我慢できないのは、ひとえに自分の罪深い本性のせいだと理解しました。主イエスは贖いの働きをなさりましたが、それは単に私たちの罪をお赦しになるためであり、私たちの罪深い本性をお赦しになったわけではありません。私たちはいまだ罪深さに操られているので、頻繁に罪を犯して神様に反抗します。神様と相容れることができず、いまだに御国へ入る資格がないのです。では、私たちは罪を捨て去るために何ができるでしょうか。その考えが頭に浮かんだとき、私は自分の当惑を彼女に伝えました。

神様の裁きは私たちが罪から解放される唯一の道

スーザン姉妹は私の疑問を聞いて笑みを浮かべ、さらに話をしました。「実を言うと、それはずっと以前に聖書の中で預言されていました。主イエスはこうおっしゃいました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書16:12-13)わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書12:48)また『ペテロの第一の手紙』第1章5節には、『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである』と記されています。これらの聖書の聖句は、主イエスの救いを受け入れた私たちが律法の断罪と束縛から自由になり、いつでも神様の御前に出て告白して悔い改められるとしても、私たちの霊的背丈がいまだに小さすぎることを示しています。主イエスが働きをなさっていた当時、私たちが神様に清められて完全に救っていただけるよう、神様がすべての真理をもたらして私たちの性質を変えようとなさったとしても、私たちはそれを受け入れることも理解することもまったくできなかったでしょう。私たちが性質の変化を経て完全に救われるべく、神様が終わりの日にすべての真理を表現なさるのはそれが理由であり、また私たちが完全に神様のものとなって最後は御国に連れていただけるよう、神様の家から始まる裁きの働きの段階をなさっているのもそれが理由なのです」。スーザン姉妹は熱心な口調でこう続けました。「姉妹、実を言うと、私たちが熱心にお待ちしてきた主イエスはすでに戻られています。それは終わりの日のキリスト、全能神であり、すでにお姿を現わして私たちのあいだで働きをなさっているのです。全能神は私たちの堕落した性質を裁いて清め、最後は私たちを心から神様に従い神様を愛する人にして、神様の御国へとお連れになるべくおいでになりました。私たちが主イエスによる贖いの働きを受け入れるだけで、終わりの日における全能神の裁きの働きに従わないなら、罪の束縛から解放されることはなく、性質の変化を成し遂げることもできません。そのうえ、神様の御国に入る資格も得られません」。

スーザン姉妹の話には多くの理知があり、私はすっかり納得しました。主イエスはもうお戻りになっており、人類を裁いて清める働きをなさっていると聞いたとき、私は特に興奮しました。それと同時に、夫も私も終わりの日における神様の裁きの働きをまだ受け入れていないせいで、二人とも罪の中で暮らしており、それどころか私は、牧師は長いあいだ神様を信じてきたのだから、きっとより多くのことを理解しているに違いない、ゆえに私の問題を解決できるに違いないと考えて、牧師のもとに通い続けていたことに気づきました。しかし驚いたことに、その牧師も罪の中で暮らしていたのです。ならば、罪から解放される道をどうして私に語れるでしょう。私はそこまで愚かだったのです。キリストだけが真理であり、道であり、いのちでいらっしゃり、神様だけが私たちの道と方向を指し示すことがおできになります。そのことを考えていると、自分はまさに命綱を掴んだかのように感じられました。私は喜びに満ちあふれ、主が私を見捨てられなかったことに心から感謝しました。ようやく罪の足かせから自由になり、このような苦しい生活から逃れられたのです。全能神が終わりの日における裁きの働きをどのようになさるのか、私はスーザン姉妹に急いで尋ねました。

すると彼女は全能神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人が神の真の顔と、自らの反抗心についての真相を認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識して知り、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻))

それを読んだあと、スーザン姉妹は話を続けました。「終わりの日、神様は堕落した人類の必要に応じて真理の様々な側面を表現なさり、私たちのサタン的な本性と性質を暴いて分析なさってきました。神様はまた、私たちが理解できるようにご自身の性質を表現なさり、ありとあらゆる堕落した性質から自由になって完全な救いを得る道を指し示してこられました。神様の御言葉による裁きと刑罰を通じ、私たちは自分の堕落した本性と、私たちがサタンに堕落させられてきた真相に関する真の認識を徐々に得ることができます。自分がどれだけ深くサタンに堕落させられてきたかや、私たちには人間らしさのかけらもなく、傲慢で、不誠実で、狡猾で、利己的で、卑劣なサタン的性質に満ちていることを目にするのです。私たちはたとえ神様を信じて神様のために自分を費やしたとしても、人間がもつべき良心や理知をこれっぽっちももたないまま、神様から得られるお恵みや祝福のことを考えてばかりいます。神様の働きが自分の観念に合わないとき、自分の家族に不幸が降りかかったり、その他の望ましくないことが起きたりしたとき、私たちは神様に関する観念を膨らませてその働きを裁きます。私たちには神様を畏れる心がまったくありません。私たちは真理の啓きを通じて、自分のサタン的な本性を心から嫌悪するようになるとともに、神様の義なる性質と聖なる本質についても真の認識をいくらか得るようになります。また、私たちは正直な人になることを求め、神様のために無私に働いて自分を費やすとともに、神様の働きや御言葉が自分の観念に合っていようといまいと、被造物の立場に立って神様に服従し、その采配に従うべきであることも知ります。すると時が経つにつれ、神様の性質についてますます多くの認識を得て、自分の堕落と欠点、入るべき実践の道がより明確になります。そして神様を畏れる心が私たちの中で徐々に膨らみ、悔い改めること、真理を求めること、意識的に肉を捨てて真理を実践することに重点を置き始めます。神様の御言葉による裁きと刑罰をいつも経験し、その御言葉を実践してそれに入ることで、私たちの堕落した性質は様々な程度で変化し、神様を真に畏れて服従するようになります。私たちはわずかばかりの人間らしさをもち始めるのです。全能神による終わりの日の裁きの働きを数年間経験した兄弟姉妹はみな、私たち堕落した人類が清められることを望むなら、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れなければならないことを知ります。それが罪から自由になり、信仰の中で神様に完全に救っていただく唯一の道なのです」

神様、感謝いたします、全能神の御言葉とスーザン姉妹の話を聞いたあと、私の心は本当に明るくなりました。私たちが自分の堕落した性質を認識できるよう、神様は御言葉を発して私たちの堕落を裁かれるのだとわかりました。なんと実践的でしょう。私は長年にわたって主を信じながら、罪の束縛から逃れられずに大きな苦痛の中で暮らしていましたが、ついに道を見つけたのです。私は神様の御前に出て心から祈りを捧げ、いつかすぐに自分の堕落した性質が清められて変化するよう、今後は生活の中で神様の御言葉の裁きを進んで経験することに集中しようと思いました。

その後は日々、全能神が表現なさった御言葉を読むとともに、全能神教会のアプリを使って全能神教会による福音動画を毎日閲覧し、賛美歌に耳を傾けました。また他の兄弟姉妹と定期的に集会に参加するようになり、全能神の御言葉について語り合いました。私は聖霊のお導きを感じることができ、霊の喜びを大いに得ました。また神様の御言葉を読むことで、サタンがいかに人類を堕落させるか、神様がいかに働かれて人類をお救いになるかを理解し、神様に抵抗して裏切る人の本質についてもいくらかの認識を得ました。全能神の御言葉には本当に権威と力があり、私たちの堕落と内面の考えを残らず暴きます。人間は誰ひとりとしてこのような言葉を語ることができませんが、それは神様だけが私たちの心と精神を深く吟味なされるからです。全能神はお戻りになった主イエスでいらっしゃると、私は心から確信するようになりました。

神様の御言葉を実践したあとの家庭の調和

ある日、午後十一時過ぎに仕事を終えて帰宅すると、夫はまたもやビデオゲームで遊んでいました。それを見て怒りがわき上がり、こう考えました。「私はこんなに一生懸命働いているのに、あなたは気楽で、こうして一日中自宅でビデオゲームに夢中になっているだけじゃない」私は自分の胸の内をぶつけようと思いましたが、それが口から出ようとした瞬間、数日前に読んだ神様の御言葉の一節が突然頭に浮かびました。「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。…… 」(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)より)

神様の御言葉は私の堕落した性質を痛烈に暴きました。夫が自分の思い通りに行動しないのを見たとき、冷静さを失って夫を叱ろうとするのは、ひとえに自分の傲慢な本性のせいだと気づいたのです。夫も私も堕落した人間なので、自分が上位にあるかのように夫を叱ってはいけないのです。私の腹立ちは自分のサタン的な性質をあらわすものです。それは自分の憤りを発散するためであり、よくないことです。以前のように自分の堕落した性質に行動を支配させてはいけません。さもないと、それは決して変わらないでしょう。自分自身を反省していると徐々により冷静になり、怒りを夫にぶつけることは二度とありませんでした。

この経験は、神様による終わりの日の裁きの働きがいかに必要かを私に示しました。神様の御言葉による啓きと裁きがなければ、私たちは決して自分の堕落した性質を認識せず、どれだけ寛容で忍耐強く、控えめであろうと、それは単に表面的な振る舞いに過ぎず、その下にある罪深さの問題を決して解決できません。いま神様の御言葉の裁きを真に経験して初めて、自分の傲慢な性質がどれほど深刻かがわかりました。それは私の魂の奥底にあり、裁きと刑罰を経ることでのみ清められて変わることができるのです。

しばらく経って、私は自分の堕落した性質について浅い理解を得始めました。夫との交流において堕落した性質に頼ることはもはやなく、いつも彼に目を向けるようになりました。そのような状況に遭遇すると、まずは自分を静めて神様に祈り、神様の御言葉からお導きを求めて道を探し、意識的に肉を捨てて真理を実践するようになったのです。ある日、夫が出し抜けにこう言いました。「きみは本当に変わったね。全能神を信じてからというもの、別人になったようだ。もう簡単に我を忘れることもないし、問題があるときはちゃんと話し合いで解決する」私は心の中で何度も何度も神様に感謝を捧げました。それが神様の御言葉による裁きと刑罰を通じて成し遂げられたことを、私は知っていたのです。さらに驚きだったのは、夫が率先して全能神による終わりの日の働きを調べ、それを受け入れたことです。その後、夫は神様の御言葉から、ビデオゲームはサタンが引き起こした悪しき風潮の産物であり、サタンが人間を誘惑して堕落させる方法の一つだと認識しました。オンラインゲームの本質と、それがもたらす害についていくらかの認識を得たのです。祈り、神様に頼り、神様の御言葉を読むことで、ゲームで遊ぶのは虚しく退屈なことだと徐々に感じるようになり、以前のように没頭することはもはやありませんでした。

現在、神様の御言葉は私たちの交流のすべてにおける原則です。何かがうまくいかないと、神様の御言葉の中にその解決法を見つけ、私たちの家はようやく笑いと喜びで満ちあふれるようになりました。神様の御言葉による裁きと刑罰を通じて私が成し遂げた変化はいまだに限られていますが、自分の経験を通じて、堕落した性質を清めて変える唯一の方法は神様の御言葉による裁きと刑罰だと心から感じています。神様による終わりの日の裁きの働きは、私たちが清められて完全に救われるためにまったく必要なものです。いま、私はようやく清められる道を見つけ、心はとても穏やかで平和です。神様に感謝いたします。

蒙(モン)愛(アイ)(台湾)

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