真理現実に入るには、どのように真理を実践すべきか

2021年3月19日

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どんな問題に直面したときも、自分の利益ばかり守っていてはなりません。そうではなく、真理を求め、内省することを覚えなければならないのです。自分の中のどんな堕落が暴かれようと、それを見過ごすことはできません。自分の堕落した本質を顧みて、それを認識することができれば最善です。日常的な状況の中で、どうやって自分の堕落した性質を解決すべきか、どうやって真理を実践すべきか、真理の原則とはどういったものかと考え回しているなら、あなたはどのように真理を用いて、問題を神の言葉に従って解決すればよいかを学ぶことができます。そしてそうする中で、徐々に現実に入っていくことになるでしょう。どうすればより高い地位に昇れるか、あるいは自分を尊敬させるために他人の前で何をすべきかで心が一杯なら、あなたは間違った道を歩んでいます。そのことは、あなたがサタンのために物事を行なっていることを意味します。あなたは奉仕しているのです。どのように変化すればますます人間らしくなり、神の旨と一致し、神に従い、神を畏れることができ、何をするにも節制を示して神の吟味を受け入れられるかといったことで心が一杯なら、あなたの状態はますますよくなります。これが、神の前で生きる人になることの意味です。そこには二つの道があります。一つは行為に集中するばかりで、自分の野心、欲望、意図、および計画を満たそうとする道です。これはサタンの前、サタンの支配下で生きることです。もう一つは、神を畏れて自分の本分を立派に尽くせるよう、いかにして神の旨を満たし、真理の現実に入り、神に従い、神に対して誤解や反抗心を抱かないかに集中する道です。これが神の前で生きることの意味です。

『キリストの言葉の記録』の「真理を実践することでのみ正常な人間性を有することができる」より引用

神のために自分自身を真に費やす人は、自身の全存在を神の前に並べる。そうした人は神が発するすべての言葉に心から従い、神の言葉を実践することができる。また神の言葉を自分の存在の基礎とし、どの部分を実践すべきなのか突き止めるべく、神の言葉の中を真剣に探し求めることができる。これが真に神の前で生きる人である。あなたの行なうことが自分のいのちに有益であり、またいのちの性質が変わるよう、神の言葉を飲み食いすることを通じて内面的な要求や不十分な点を満たすことができるなら、それは神の旨を満たすだろう。神の要求に応じて行動し、肉ではなく神の旨を満足させるなら、それは神の言葉の現実に入ったということである。神の言葉の現実へと入ることについてさらに現実的に語れば、それは自分の本分を尽くして神の要求を満たせることを意味する。この種の実践的な行動だけが、神の言葉の現実に入ることと呼べる。この現実に入れるなら、あなたは真理を自分のものにする。これが現実に入る端緒である。まずはその訓練を行ない、その後初めてさらに深い現実へと入ることができる。

『神の出現と働き』「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」(『言葉』第1巻)

神を信じるようになって以来、人は多くの間違った意図を心に抱いてきた。真理を実践していない時、あなたは自分の意図はすべて正しいと感じているが、自分に何かが起こると、あなたは自分の中には間違った意図がたくさんあることがわかる。従って、神が人を完全にする時、神は神に関する人の認識を妨害する観念が人の中にはたくさんあることに気付かせる。自分の意図が間違っていることを認めた時、自分の観念や意図に従って実践するのをやめることができ、自分に起こるすべてのことにおいて神へ証しをすることができ、自己の立場を守ることができるなら、これはあなたが肉体に反抗したことの証明となる。肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンは人を肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする。しかし、神の言葉は人を啓き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の物事をおもに取り扱い、神の心に従っていない思いや観念を取り扱うためである。聖霊は人の心を感動させ、人を啓き、そして光を当てる。ゆえに、起こることすべての背後には戦いがある。人が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体にとってうまく行っているように見えるかもしれないが、実のところ、人の心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり、この激し戦いの後で初めて、膨大な熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人の中の意図の多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人の観念と食い違っているので、人が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、舞台裏で人は悲しみの涙を数えきれないほど流し、ついに神を満足させる決心をする。人が苦しみや精錬に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、本当に神の側に立つことができれば、あなたは神を満足させることができる。真理を実践する際、内なる苦しみを被ることは避けられない。真理を実践する時、人の心の中のすべてが正しかったら、人は神に完全にされる必要はなく、戦いもなく、人は苦しまない。人の心の中には神が使用するのに適さないものがたくさんあり、肉体の反抗的性質も多いので、人は肉体に反抗する教訓をもっと深く学ぶ必要がある。これが神が人に神と共に経験することを要求した苦しみである。あなたが困難に出会ったら、急いで神に次のように祈りなさい。「おお、神様。わたしはあなたに満足して頂きたいのです。わたしはあなたの心に満足していただくために最後の困難に耐えたいです。そしてわたしが出会う挫折がどんなに大きくても、わたしはあなたに満足していただかなければなりません。たとえわたしの全生涯を諦めなければならないとしても、わたしはあなたに満足していただかなければなりません」。この決意を持って、このように祈る時、あなたは固く証しに立つことができる。真理を実践するたびに、精錬を受けるたびに、試されるたびに、そして神の働きが人に及ぶたびに、人は激しい痛みに耐えなければならない。このすべては人への試練であり、そのためすべての人の心の中では戦いがある。これは人が支払う実際の代償である。神の言葉をさらに読み、さらに走り回ることはその代償の一部分である。それは人がしなければならないこと、本分、果たすべき責任であり、心の中にあって脇にどけておくべきものは、脇にどけなければならない。さもなければあなたの外面的苦しみがいかに大きくても、走り回ろうとも、すべては無駄になる。つまり、心の中を変えることだけがあなたの外面的困難に価値があるかどうかを決定することができる。あなたの内面的性質が変わり、あなたが真理を実践した時、あなたの外面的苦しみはすべて神の承認を得られる。内面的性質に変化がまったくなければ、いかに苦しみに耐えようとも、外面から見ていかに走り回ろうとも、神からの承認はない。そして神に認められない困難は無駄である。従って、払った代償が神に認められるかどうかは、あなたに変化があったかどうか、あなたが真理を実践して、神の旨の満足、神に関する認識、神への忠誠心を得るために自分の意図や観念に反抗するかどうかによって決定される。どんなに走り回ろうとも、自分自身の意図に反抗することをいまだ知らず、外面的行動や熱心さを追い求めるだけで、いのちに全く注意を払わなければ、あなたの困難は無駄なことになるであろう。ある環境下で何か言いたいことがあっても、心の中では、それを言うのは正しくなく、兄弟姉妹のためにならないし、彼らを傷つけるかもしれないと感じているならば、あなたはそれを言わず、むしろ内面で苦しむほうを好む。これらの言葉が神の旨にかなうことはできないからである。この時、あなたの中では戦いがあるが、あなたは進んで痛みに苦しみ、あなたが愛するものを断念する。神を満足させるためにこの困難に進んで耐え、心の中で痛みに苦しむが、肉体に迎合することはなく、神の心は満たされるので、あなたも心の中で慰められる。これが本当に代償を払っていることであり、神が希望する代償である。あなたがこのように実践すれば、神は必ずあなたを祝福する。これを達成できなければ、あなたがどんなに理解しても、いかにうまく話すことができようと、すべては無益である。神を愛する道を歩んでいる途上で、神がサタンと戦う時に、神の側に立つことができ、サタンの方へ後戻りしないならば、あなたは神への愛を獲得し、固く立って証しをしたことになる。

『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」(『言葉』第1巻)

要約すると、神への信仰においてペテロの道を歩むとは、真理を追い求める道を歩むことであり、その道はまた真に自分自身を知り、自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を正確に言ってどのように歩むのか、またそれをどのように実践に移すかをはっきり知らなければなりません。第一に、自分自身の意図や不適切な追求だけでなく、自分の家族や肉体にかかわるすべてのことさえも脇へのける必要があります。心から献身的であらねばなりません。つまり、神の言葉に自分自身を完全に捧げ、神の言葉を飲み食いすること、真理を探求すること、そして神の言葉の中にある神の意図を探し求めることに集中し、すべてにおいて神の心を把握しようと努めなければなりません。それが最も根本的にして極めて重要な実践の方法です。ペテロがイエスを見たあとに行なったのもそれであり、そのように実践することでのみ、人は最高の結果を得られます。神の言葉への心からの献身はおもに、真理を探し求めること、神の言葉の中にある神の心を探し求めること、神の心を把握することに集中すること、神の言葉からさらなる真理を理解し獲得することが含まれます。神の言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の言葉を守る数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。またイエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。ペテロは神の言葉から、自身を本当に理解しただけでなく、神の言葉において表現されるもの、すなわち神の義なる性質、神が所有するものと神そのもの、働きに関する神の心、神の人間への要求といったことの言葉から、神を完全に知るようになりました。ペテロは神の性質と本質を知り、神が所有するものと神そのものに加え、神の愛らしさ、そして神の人間への要求を知り理解するようになったのです。当時、神は今日ほど多くを話しませんでしたが、これらの側面においてペテロに成果がそれでも達成されたのです。これは希にして貴重なことです。ペテロは数百の試練を経ましたが、無駄に苦しんだわけではありません。神の言葉と働きから自己を認識するようになっただけでなく、神を知るようにもなったのです。加えて、ペテロは特に神の言葉の中にある人類への要求を重視しました。どの側面において人間が神を満足させ、その心意に一致すべきであるにせよ、ペテロはそれらの側面に大きな努力を払い、完全にはっきりさせることができました。これは彼自身の入りにとって極めて有益なことでした。神が何を語ろうと、その言葉が自分のいのちになり得る限り、そしてそれらが真理に属する限り、ペテロはそれを心に刻み、常にじっくり考え、正しく認識することができたのです。イエスの言葉を聞いたあと、ペテロはそれを心に留めることができましたが、そのことは、彼がとりわけ神の言葉に集中し、最後は本当に成果を挙げたことを示しています。つまり、ペテロは神の言葉を自由自在に実践すること、真理を正確に実践すること、神の心意と一致すること、完全に神の意図に従って行動すること、自分の個人的な意見や想像を捨てることができたのです。このようにして、ペテロは神の言葉の現実に入りました。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用

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