規則に従うとは何か。規則に従うことと真理を実践することとの違いは何か
関連する神の言葉:
人間が今成し遂げなければならないことは、今日の人間の現状に即しており、現代人の素質と実際の霊的背丈にそったものであり、規則に従うことは要求されない。それはあなたの古い本性に変化を生じさせ、あなたが自分の観念を捨てるようにするためである。あなたは戒めのことを規則だと思っているのか。戒めとは、人間に課せられる正常な要求事項だということができる。戒めは従うべき規則ではない。たとえば、喫煙の禁止を考えてみたまえ。これは規則であろうか。規則ではない。これは正常な人間性が要求することである。これは規則ではなく、人類全体に求められていることである。これまでに定められた十数ヵ条の戒めもまた、今日では規則ではなく、正常な人間性を獲得するための必要事項である。過去、人々はこのようなことを身につけておらず、知ってもいなかったのだが、今日これらを達成するよう求められているのであり、これは規則には入らない。律法は規則と同じではない。わたしが言う規則とは、儀式、形式的な行為、人間の逸脱した、あるいは間違った実践のことである。これらは人間にとって助けにも恩恵にもならない規則と規制であり、何の意義もない手順である。これこそが規則の典型であり、このような規則は排除しなければならない。人間に恩恵をもたらさないからである。実践しなければならないのは、人間にとって恩恵となるものである。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(1)」(『言葉』第1巻)
あなたは宗教的慣習をいくつ守っているだろうか。神の言葉に逆らって、自分の道に行ってしまったことが何回あるだろうか。神の重荷を真に考慮し、神の旨が成就されることを求めて、神の言葉を実行したことが何度あるだろうか。神の言葉を理解して、それを実行に移しなさい。すべての行動と行いに原則を持ちなさい。それは規則に従うということではなく、体裁のために何かを渋々するということでもなく、真理を実践し、神の言葉によって生きるということである。そのような実践こそ、神を満足させることができるのだ。神を喜ばせる行為とは、規律を遵守することではなく、真理を実践することである。一部の人々には周りの注意を引こうとする傾向がある。そのような人たちは、兄弟姉妹の前では神に恩義があると言うかもしれないが、陰では真理を実践することもなく、まったく違うことを行っている。彼らは宗教熱心なパリサイ人ではないか。神を心から愛し、真理を持っている人というのは、神に忠実でありながらそれを誇示しない人のことだ。そうした人は必要であれば喜んで真理を実践するし、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。そして問題が起きると賢明さを示し、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ、真に神に仕えることができる。中にはただ口先だけで神に恩義があると言う人もいる。彼らはしかめっ面をし、わざとらしくみじめな表情を装って日々を過ごしている。なんと卑劣な態度だろう。もし彼らに、「どんな風に神様に恩義があるのか教えてください」と尋ねたら、彼らはきっと言葉を失うだろう。あなたが神に忠実ならば、そのことを大っぴらに話してはいけない。その代わり、神に対するあなたの愛を実践で示し、そして心から神に祈りなさい。神にただ言葉でおざなりに対応している人たちは、すべて偽善者である。
『神の出現と働き』「信仰においては現実に集中せよ――宗教的儀式を行うことは信仰ではない」(『言葉』第1巻)
正常な霊的生活には、祈り、讃美歌を歌い、神の言葉を飲み食いし、神の言葉について熟考することが絶対に必要であるとほとんどの人が信じている。そのような実践が実際に成果を生んでいるかや、真の認識につながるかは無関係である。そのような人は表面的な手続きに従うことばかり気にして、その結果については無頓着であり、宗教儀式の中に生きていても、教会の中では生きておらず、まして神の国の民などではない。彼らが祈り、讃美歌を歌い、神の言葉を飲み食いするのは、すべて規則に従うことにすぎず、強迫的に、また時流に乗るために行っているのであって、自発的でも心からでもない。そのような人たちがどれだけ祈り歌おうとも、その努力は実を結ばない。彼らが実践しているのは宗教の規則や儀式であって、神の言葉を真に実践しているわけではないからである。自分がどのように実践するかにばかり気を取られ、神の言葉を従うべき規則として扱う。そのような人は神の言葉を実践しておらず、ただ肉を喜ばせ、人に見せるための演技をしているにすぎない。そのような宗教の規則や儀式はすべて人間が起源であり、神から来たものではない。神は規則に従うことはなく、いかなる律法に支配されることもない。むしろ神は日々新しいことを行い、実践的な働きを成し遂げている。三自愛国教会の会衆は、毎日朝の礼拝に参加し、夕の祈祷と食前の感謝の祈りを捧げ、すべてにおいて感謝するなどの実践しかしない。どれだけ回数を重ねても、どれだけ長い間行っても、聖霊の働きを得ることはない。人が規則の中で生き、実践方法にこだわっていると、聖霊は働けない。人の心の中が規則や人間の観念で一杯になっているからである。それでは神は人に干渉し働きかけることができず、人は律法の支配下でしか生き続けられない。そのような人たちは永遠に神から称賛を受け取ることができない。
『神の出現と働き』「正常な霊的生活について」(『言葉』第1巻)
以前、人々が経験する方法には逸脱が多くあり、馬鹿げたことさえあった。彼らは神が要求する基準をまったく理解していなかったので、人々の経験が歪む分野がたくさんあった。神が人に要求するのは、普通の人間性を生きられるようになることである。例えば、人々が食べものや衣服について現代の慣習に従い、スーツとネクタイを身につけ、現代美術について多少学び、余暇に芸術や文化や娯楽を楽しむのはまったく問題ない。思い出に残る写真をいくつか撮り、本を読んで何らかの有益な知識を得て、比較的良好な生活環境をもつことができる。これらはどれも普通の人間性の生活にふさわしい事柄だが、人々はそれらを神にひどく忌み嫌われることだと考え、そうすることを控えている。彼らの実践はいくつかの規則に従うことでしかなく、そのせいで水たまりのようによどんだ、まったく意義のない生活を送っている。実のところ、人々がそのように物事を行なうよう、神が要求したことは一度もない。人々はみな自分の性質を抑制することを望み、霊の中で絶えず祈って神により近づこうとしており、心は絶えず神の意図を熟考し、目は絶えず周囲を見回してあれこれ観察し、神とのつながりが何らかの形で断ち切られることを強く恐れている。これらはどれも人が自分で至った結論である。つまり、それらは人々が自分のために設けた規則なのである。あなたが自分の本性と本質を知らず、自分の実践がどの程度に達することができるかを理解していなければ、神が人に要求する基準を正確に判断する術はないし、実践の正確な道をもつこともない。人に対する神の要求がいったい何かをあなたは理解できないのだから、あなたの心は常に揺れ動き、あなたは頭脳を振り絞って神の意図を分析し、聖霊によって動かされ、啓かれる方法を手探りで探し求める。結果として、自分がふさわしいと信じる実践の方法を発展させるのだ。神が人にいったい何を要求するのか、あなたにはまったくわからない。あなたはただ自分自身の一連の実践を脳天気に行ない、その結末を考慮することはほとんどなく、まして自分の実践に逸脱や過ちがあるかなどは気にしない。このようにして、あなたの実践は自然と正確さを欠き、原則のないものになる。とりわけ欠けているのは正常な人間の理知と良心、そして神による賞賛と聖霊による確証である。ひたすら自分の道を進むのがまったく簡単になってしまうのである。このような実践は単に規則に従うこと、あるいは自分を控えて制御しようとさらなる負担をわざと背負うことである。それでもあなたは自分の実践が完全に正確だと考えており、自分の実践の大半が不要な過程や儀式から成っていることを知らない。自分の性質が基本的に変化せず、新たな認識がなく、新たな入りもないまま、長年にわたってこのように実践する人は数多い。そのような人は同じ古い過ちを知らぬ間に再び犯し、自分の野蛮な本性を自由に活動させた上で、理不尽かつ無慈悲な行為を何度も行ない、人々が頭を抱えて困惑するような振る舞いをするまでになる。そのような人が性質の変化を遂げたと言えるだろうか。
『神の出現と働き』「実践(1)」(『言葉』第1巻)
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。