主イエスによって表された真理と、全能神によって表された真理との違い

2017年11月21日

参考聖書箇所:

「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

関連する神の言葉

イエスの働きは人類の贖いと十字架のためだけにあった。そのため、イエスは人を征服するために、それ以上の言葉を語る必要はなかった。イエスが人に教えたことの多くは聖書の言葉から来ており、たとえイエスの働きが聖書を越えなかったとしても、イエスはやはり十字架の働きを達成することができた。イエスの働きは言葉の働きでも、人類を征服するためになされた働きでもなく、人類を贖う働きであった。イエスは人類のために罪のいけにえとして行動しただけで、人類のための言葉の源泉として行動したのではなかった。イエスは異邦人の働き、つまり人間を征服する働きはしなかったが、十字架の働き、つまり神の存在を信じた人々のあいだでなされた働きをした。たとえイエスの働きが聖書に基づいて実行され、またパリサイ人たちを非難するために、昔の預言者によって言われたことを用いたとしても、これは十字架の働きを完成するのに十分であった。もし今日の働きが依然として聖書にある昔の預言者たちの預言に基づいて実行されるなら、あなたがたを征服するのは不可能であろう。というのも、旧約聖書にあなたがた中国人の不従順さと罪の記録はなく、またあなたがたの罪の履歴もないからである。ゆえに、この働きがまだ聖書に残っているなら、あなたがたは決して屈しないであろう。聖書に記録されているのはイスラエル人の歴史の一部だけであり、あなたがたが善か悪かを判断したり、あなたがたを裁いたりすることができるものではない。わたしがイスラエル人の歴史に従ってあなたがたを裁くと想像してみなさい。今日のように、あなたがたはわたしに従っているだろうか。あなたがたは自分たちがどれほど難しい人間かわかっているのか。この段階で言葉がまったく話されなかったら、征服の働きを完成することは不可能であろう。わたしは十字架にかけられるために来たのではないので、あなたがたが征服されるよう、聖書とは別の言葉を話さなければならない。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(1)」(『言葉』第1巻)

山上での説教

八福の教え(マタイによる福音書 5:3-12)

塩と光(マタイによる福音書 5:13-16)

律法(マタイによる福音書 5:17-20)

怒り(マタイによる福音書 5:21-26)

姦淫(マタイによる福音書 5:27-30)

夫婦の離縁(マタイによる福音書 5:31-32)

誓い(マタイによる福音書 5:33-37)

目には目を(マタイによる福音書 5:38-42)

敵を愛す(マタイによる福音書 5:43-48)

施しに関する指示(マタイによる福音書 6:1-4)

祈り(マタイによる福音書 6:5-8)

(中略)

まずは「山上での説教」の各部分について検討しましょう。これらの各部分は何に触れていますか。それらの内容はすべて、律法の時代の規律と比べて格段に向上し、より具体的になり、人間生活に近いものになったと確信をもって言うことができます。現代の言葉で言うと、これらは人々の実際の行動により関連しているのです。

以下の具体的な内容を見ていきましょう。八福の教えをどう理解すべきか。律法について知るべきことは何か。怒りはどのように定義すべきか。姦淫する者をどのように取り扱うべきか。離縁についてどう述べられているか、それに関してどのような規則があるか。離縁できる者、できない者はそれぞれ誰か。誓い、目には目を、敵を愛する、施しに関する指示についてはどうか、などです。これらはどれも、人間の神に対する信仰の実践、神に付き従うことにまつわる各側面に関連しています。これらの実践の中には、現時点で人々に求められているものより浅いものの、現在に適用できるものもあります。それらは人々が神への信仰において直面する、極めて基本的な真理なのです。主イエスが働きを始めたときから、神はすでに人間のいのちの性質に対する働きを開始していましたが、神の働きにおけるそれらの側面は律法に基づくものでした。そうした事柄についての規則や言葉は、真理と関連していましたか。もちろん、大いに関連していました。以前の規律や原則、恵みの時代の説教はどれも、神の性質と、神が所有するものと神そのもの、そして真理と関連していたのです。神が何を表わそうと、またどのような表わし方や言語を用いようと、神が表わすことの基礎、起源、そして出発点はいずれも、神の性質の原理、および神が所有するものと神そのものの原理の中にあります。これは絶対に真実です。したがって現在では、神の述べたことが多少浅薄に思えますが、依然としてそれが真理でないとは言えません。なぜなら、これらの事柄は、恵みの時代の人々が神の旨を満たし、いのちの性質を変化させる上で不可欠だったからです。それら説教の中に、真理と一致しないものが一つでもあると言えますか。いいえ、言えません。それらはどれも真理です。すべて人間に対する神の要求だったからです。それらはどれも神から与えられた原理と範囲であり、人が自分の行ないをどう律するべきかを示すとともに、神の性質を表わすものなのです。しかし、当時における人間のいのちの成長度合いに基づけば、彼らが受け入れて理解できるのはそれらの物事だけでした。人間の罪がいまだ解消されていなかったので、主イエスが発することのできる言葉はそれしかなく、この範囲内に含まれる簡単な教えを用いることで、どう振る舞うべきか、何をすべきか、いかなる原理と範囲の中で物事を行なうべきか、どのように神を信じて神の要求を満たすべきかを、当時の人々に伝えたのです。それらはすべて、当時の人間の霊的背丈に基づいて決められました。律法の下で暮らしていた人々にとって、それらの教えは受け入れがたいものでした。ゆえに主イエスが教えたことは、その範囲内に留まらざるを得なかったのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。ヤーウェが律法の時代に旧約の律法を定めたとき、なぜその時恵みの時代の働きを行わなかったのか。なぜ恵みの時代の働きを前もって明らかにしなかったのか。そうすれば人が受け入れるための役に立ったのではないだろうか。ヤーウェは男の子が生まれて、指導者になると預言しただけで、恵みの時代の働きを前もって実行はしなかった。各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。

『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」(『言葉』第1巻)

「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

今の時代に神によって話される言葉は、律法の時代に話された言葉とは異なり、また恵みの時代に話された言葉とも異なる。恵みの時代には、神は言葉の働きをせず、全人類を贖うためにキリストは十字架に磔にされると語っただけである。聖書は、イエスがなぜ磔にされる運命にあったのか、さらに、イエスが十字架上で受けた苦しみ、そして人がどのように神のために磔にされるべきかだけを記述する。その時代を通じて、神によってなされる働きはすべて、キリストの十字架上の死を中心に展開していた。神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実質である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった」。このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが、終わりの日を通じて、肉となった神によっておもに成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるか、エジプトに何が起こるかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩調は加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、肉となった神によって終わりの日に何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の職分が何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の堕落した性質および人間の本性の実質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考え、さらに人間の知識と文化を一掃することである。これらのことはすべて神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

当時、イエスは弟子たちにとって不可解な働きを多数行ない、人々には理解できないことを数多く言った。これは当時イエスが何一つ説明しなかったからである。そのため、イエスが去ってから数年後、マタイがイエスの系図を作り、他の者も人間の意志による働きを数多く行なった。イエスは人を完全にして自分のものとするために来たのではなく、働きの一段階を行なうために来たのである。それは天の国の福音をもたらし、磔刑の働きを完成させることであり、イエスが十字架にかけられた時点でその働きは完了している。しかし、現在の段階、つまり征服の働きにおいては、より多くの言葉が語られ、より多くの働きがなされ、そして多くの過程を踏まなければならない。イエスとヤーウェの働きの奥義も明らかにされ、それによってすべての人が信仰において理解と明瞭さを得られるようにしなければならない。なぜなら、それは終わりの日の働きで、終わりの日は神の働きの終わりであり、働きが完了するときだからである。働きのこの段階はあなたに対し、ヤーウェの律法とイエスの贖いを明確にするだろう。この働きはおもに、あなたが神の六千年にわたる経営(救いの)計画の全体像を理解し、六千年の経営計画の意義と本質をすべて理解し、イエスによってなされたすべての働きとイエスが語った言葉の目的、そして聖書に対するあなたの盲目的な信頼と崇拝さえも理解するためである。それにより、あなたはそのすべてを完全に理解できるだろう。イエスによってなされた働きと今日の神の働きの両方を理解するようになるだろう。すべての真理、いのち、そして道を理解し、目の当たりにするだろう。イエスによってなされた働きの段階で、イエスはなぜ締めくくりの働きを行なわずに去ったのだろうか。それは、イエスによる働きの段階が完了の働きではなかったからである。イエスが十字架に釘付けにされたとき、イエスの言葉もまた終わりを迎えた。磔刑の後、イエスの働きは完全に終わったのである。現段階は違う。言葉が最後まで語られ、神の働きの全体が完了したあと、そこでようやく神の働きは終わる。イエスによる働きの段階の期間、多くの言葉が語られないままだったか、あるいは明確に述べられなかった。しかしイエスの職分は言葉による職分ではなかったため、イエスは自分が何を語って何を語らなかったかは気にかけず、そのため、十字架にかけられた後に去って行った。その段階の働きはおもに磔刑のためであり、現段階とは異なる。この現段階の働きは、基本的には完了すること、片づけること、そしてすべての働きを終結させるためのものである。もし言葉が最後の最後まで語られないなら、この働きを終える術はないだろう。この段階の働きにおいて、すべての働きは言葉を用いて終わり、達成されるからである。当時、イエスは人に理解できない数多くの働きを行なった。イエスは静かに去り、今日依然としてイエスの言葉を理解できない人が多数いる。彼らの理解は間違っているが、それでも彼らは正しいと信じており、間違っていることを知らない。最終的に、この現段階は神の働きを完全に終わらせ、その終結をもたらすだろう。すべての人が神の経営計画を理解し、知るようになるだろう。人の中にある観念、意図、間違った理解、ヤーウェとイエスの働きに関する観念、異邦人についての見方、そしてその他の逸脱と間違いは正されるだろう。そして人は人生の正しい道、神によってなされた働き、および真理をすべて理解するだろう。そうなったとき、この段階の働きは終わりを迎える。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」(『言葉』第1巻)

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