性質の変化と善良な振る舞いの違いは何か。

2017年11月25日

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性質の変化とは、おもに人の本性の変化のことを言います。人の本性に関する物事は外面的な振る舞いに見られるものではありません。そのような物事は、その人の生存の意義や価値とじかに関係しています。つまり、それらは人の人生観や価値観、魂の奥底にあるもの、そしてその人の本質と直接かかわります。真理を受け入れられない人は、それらの側面で変化を遂げません。神の働きを経験し、すっかり真理に入り、自分の価値観、および生存と人生についての見方を変え、自分の視点を神の視点と合わせ、完全に神に従い、忠実でいられるようになってのみ、性質が変わったと言えるのです。あなたはいくらか努力しているように見えるかもしれませんし、困難にあってもめげないかもしれません。上層部から来る働きの手はずを遂行できるかもしれませんし、行けと言われたところへはどこへでも行けるかもしれません。しかし、こういうことは些細な振る舞いの変化に過ぎず、性質の変化に数えられるには不十分です。たくさんの道を走り、多くの困難に苦しみ、大変な屈辱に耐えることができるかもしれません。あなたは神をとても近くに感じ、聖霊があなたに何らかの働きをするかもしれません。しかし神があなたの観念に合わないことをするように言うと、あなたはやはり従わず、それどころか言い訳を探し、神に逆らって抵抗し、神を批判して反抗するまでになるでしょう。これは深刻な問題のはずです。これは、あなたにはまだ神に反抗する本性があり、何の変化を遂げていないことを示しています。

『キリストの言葉の記録』の「性質の変化について知るべきこと」より引用

性質の変化について何を知っていますか。性質の変化と振る舞いの変化の本質は異なり、実践での変化も異なります。これらは全て本質において異なるのです。殆どの者が、特に神に対する信仰においてどのように振る舞うかに重点を置き、その結果そうした者の振る舞いに多くの変化が起きます。神を信じるようになった後、そうした者は他者と対立しなくなり、争わなくなり、他者を侮辱しなくなり、喫煙や飲酒を止め、釘1本であれ、板切れ1枚であれ、公共の器物を盗まなくなります。またそれにもまして、自分達が損害を被ったり不当な扱いを受けたりしても、訴訟を起こさなくなります。そうした者の振る舞いには何らかの変化が起こることは確実です。それは、神を信じるようになった後、真理の道を受け容れることによりそうした者は特に良い気分になり、また聖霊の業の恵みを味わったため、そうした者は特に熱意が高まり、そうした者に出来ないことや捨て去れない物事は無いからです。しかし、3年、5年、10年、30年と信じた後、最終的には、そうした者のいのちの性質に変化が無く、従前の状態に戻り、傲慢さや高慢さが高まって、権力や利益のために争うようになり、教会の金銭をむさぼり、自分の利益に資するあらゆることをして、地位や快楽を切望し、神の家の寄生虫のような存在となります。特に、殆どの指導者が皆に放棄されます。これらの事実により、何が証明されるでしょうか。表面的な振る舞いのみの変化は継続不可能です。人間のいのちの性質に変化が無い場合、遅かれ早かれ、その者の邪悪な面が自然と表れるでしょう。そうした者の振る舞いの変化の根源は、情熱と聖霊のその時点における多少の業の組み合わせであるため、一時的に情熱を高めることや良好になることは、その者にとって極めて容易です。信者以外の者が「善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである」と言う通り、人間は、善行を一生涯行うことが出来ません。人間の振る舞いはいのちにより主導され、人間のいのちがどのようなものであれ、それがその者の振る舞いとなり、自然と明示されるものが、いのちと、その者の本性を表します。虚偽の物事は続きません。神が人間を救うために業を行う時、それは人間に良い振る舞いをさせて引き立てるのではありません。神の業は、人間の性質を変化させ、新しい人間として生まれ変わらせるためのものです。したがって、神の人間に対する裁き、刑罰、試練、精錬は、全てその者の性質を変化させ、そうすることでその者が神に対する完全な服従と忠誠、そして神に対する正常な崇拝を実現するためです。これが神の業のねらいです。良い振る舞いをすることは、神に服従することとは異なり、ましてやキリストの味方をすることに等しいということはありません。振る舞いの変化は教義に基づき、情熱に由来します。それは神に関する真の認識や真理に基づくものではなく、ましてや聖霊の導きに基づくものではありません。人間の行動には聖霊に導かれているものもありますが、それはいのちの表出ではなく、神を知ることなどでは勿論ありません。人の振る舞いがどれほど立派であっても、それが神に従うという証明にならなければ、真理を実践するという証明にはなりません。振る舞いの変化などは錯覚に過ぎず、その人の熱心さの現れに過ぎず、いのちの表出などではありません。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より引用

人は良い振る舞いをすることができますが、それは必ずしもその人に真理があるということではありません。熱意は人に教義を尊重させ、規則に従わせることしか出来ません。真理の無い人は実質的な問題を解決することが一切出来ず、教義が真理の代わりになることは不可能なのです。性質が変わった人は違います。性質の変化を経た人は真理を理解しており、あらゆる事柄を識別することができ、神の旨に沿うにはいかに行動するべきか、真理の原則に沿うにはいかに行動するべきか、神を満足させるにはいかに行動するべきかを知っており、自らが露わにする堕落の本質を理解しています。そのような人は自分の考えや観念が露わになると、識別力をもちいて肉を捨て去ることができます。性質の変化はこのように現れます。性質の変化に関して主要な事は、彼らが明確に真理を理解しており、物事を実行するときにはある程度正確に真理を実践し、堕落した性質はさほど頻繁には露わにされないということです。一般的に、性質が変化した人にはとりわけ理知と識別力があるように見え、真理を理解しているために独善性や傲慢をさほど示しません。彼らは露わにされた堕落の大半を見通し識別することができるので、傲慢さを生じさせません。彼らは人間のあるべき立場をわきまえており、いかに理性的に振る舞うべきか、いかに忠実に本分を尽くすべきか、言うべき事とそうでない事、誰に何を言い行なうべきかをわきまえています。そのため、このような人々は比較的理性的だと言われるのです。性質を変える人々は真に人間の姿を生き、真理を自分のものにしています。彼らはいつも真理に従って物事を語ったり見たりすることができ、どんな人や物事にも影響されず、みな自分の見方をもち真理の原則を保つことができます。彼らの性質は比較的安定しており、熱しやすく冷めやすいということはなく、状況がどうであろうと、本分をどうきちんと尽くすか、神に満足していただくためにどう物事を行なうべきかを理解しています。性質が変えられた人々は、表面的に自分を良く見せるために何をするべきかに重点を置いたりしません。彼らは神に満足してもらうためにどうすべきかを心の中で明確に把握しているのです。それ故、外面的には熱心には見えなかったり、偉大なことを成し遂げたようには見えなかったりするかもしれませんが、彼らのすること全ては意味があり、価値があり、現実的な結果をもたらします。性質が変えられた人々が真理を多く得ていることは確かです。このことは彼らの物事の見方や行動の原則を通して確認できます。真理を得ていない人々は絶対に性質の変化など経験していません。性質の変化は、成熟した経験豊かな人間性をもつという意味ではありません。それはおもに、神に関する認識と真理に関する理解を得た結果、人の本性の中にあるサタン的な害毒の一部が変化することを指します。つまり、そのようなサタン的な毒素は清められ、神によって表される真理がそれらの人に根付き、いのちとなり、生存の基礎となるということです。そうなって初めて、人は新たにされ、そのようにして性質も変わるのです。性質の変化はその人の外的な性質が以前より柔和になったということでもなければ、傲慢だった人が理性的に語るようになるとか、相手の話しを聞かなかった人が他人の話を聞けるようになったとかいうことではありません。このような外的変化を性質の変化とは言えません。もちろん、性質の変化にはこれらの状態や表れも含まれますが、何よりも重要なのはその人の内なるいのちが変えられたということです。神の表す真理が彼らのいのちそのものとなり、サタン的な毒は取り除かれ、ものの見方が全く変わり、それらのどれも、この世のものとは全く違うものとなります。彼らには赤い大きな竜の策略と毒がはっきり分かります。彼らはいのちの真の本質を得ています。そのようにして彼らのいのちの価値が変わったのです。これが最も基本的な変化であり、性質の変化の本質なのです。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より引用

性質の変化を成し遂げるのは容易なことではありません。それは単に行動がいくらか変わり、真理の認識をいくらか得て、真理のあらゆる側面に関する自分の経験を少し話せるようになるとか、あるいは何かのことで聖霊に咎められた後、多少の物事を後回しにしてある程度服従できる、といったことではないのです。そうしたことはいのちの性質の変化にはなりません。わたしはなぜそう言うのでしょうか。いくつかの物事を後回しにすることはできても、あなたが実践していることは、まだ本当に真理を実践するという段階には達していないからです。または、適切な環境や好ましい状況に一時的に置かれているため、あるいは現在の状況に強いられて、そのように振る舞っているだけかもしれません。さらに、精神状態が落ち着いていて聖霊が働きを行なっていれば、あなたは実践することができます。今まさに試練を受けていて、ヨブのように苦難を経ているとしたら、あるいは神に死ぬよう求められたペテロのようであれば、あなたもこのように言うことができるでしょうか。「たとえあなたを知った後に死ぬことになっても、それで構いません」と。性質の変化は一夜のうちに起きるものではなく、いったん真理を理解したところで、どんな環境でもそれを実践できるとは限りません。そこには人間の本性が関係しています。真理を実践しているように見えても実際には、あなたがそうしていることをあなたの行動の本質は示していない、ということもあります。本分を尽くすために家族や仕事を捨てるというように、多くの人にはある種の外面的な振る舞い方があり、それゆえ自分は真理を実践したと信じています。しかし神は、その人が真理を実践しているとは認めません。あなたが行なうすべてのことに個人的な動機があって不純なら、あなたは真理を実践しておらず、表面的な行為を示しているだけです。厳しく言えば、あなたの行ないは神に断罪されるでしょうし、神に讃えられたり記憶されたりすることはありません。さらに分析すれば、あなたは悪事を犯しているのであり、その行為は神に反抗するものです。表面的に見れば、あなたは何かを妨害することも混乱させることもなく、実害を与えたり真理に背いたりしているわけでもありません。あなたの行動は論理的かつ合理的に見えますが、その本質は悪事を犯し神に逆らうものです。したがって、自分の行動に潜む動機を神の言葉に照らして見つめ、それによって自分に性質の変化が生じたかどうか、自分が真理を実践しているかどうかを判断しなければなりません。それは、自分の行動が人間の想像や意図と一致しているかどうか、あるいは自分の好みに合っているかどうかという、人間の見方に左右されるものではありません。そうしたことは重要ではないのです。むしろ、あなたが神の旨に従っているかどうか、あなたの行動に真理の現実があるかどうか、神の要求と基準を満たしているかどうかについて、神がどのように言うかに左右されます。自分自身を正確に測るには、神の要求に照らすしかありません。性質を変えて真理を実践に移すことは、人が想像するほど単純でも容易でもありません。今それを理解していますか。それについて何か経験したことはありますか。問題の本質について言うと、あなたがたはそのことを理解していないのかもしれません。あなたがたの入りはあまりにも表面的なのです。あなたがたは一日中、早起きしてから夜遅く床につくまで、朝から晩まで走り回っていますが、それでもいのちの性質は変化しておらず、そのような変化には何が関係しているのかも把握できていません。それはあなたがたの入りが浅すぎるということではないでしょうか。どれほど長く神を信じてきたとしても、性質の変化の達成に関わる本質や深い物事を感じ取っていないのかもしれません。

『キリストの言葉の記録』の「性質の変化について知るべきこと」より引用

人は以前、何を基礎として生きていましたか。人は皆、自分のために生きています。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」。これが人間の本性の要約です。人は自分のために神を信じます。神のためにものを捨て、自己を費やし、神に忠実ですが、そのようにするのはすべて自分自身のためです。要するに、それはみな自分が祝福を得る目的で行なわれるのです。この世では、あらゆるものは個人的な利益のためにあります。神を信じるのは祝福を得るためであり、すべてを捨て去るのも祝福を得るためであり、祝福を得るためなら人はかなりの苦難を耐えることができます。これはみな人間の堕落した本性に関する実証的な証拠です。しかし性質が変化した人は違います。そのような人は神を満足させ、立派に本分を尽くし、有意義な人生を送るために生きるべきだと感じており、そのため死ぬときでさえ満足を感じ、みじんも後悔しません。無意味に生きることがないのです。神を礼拝し、神にしたがい、神を満足させられることは人間であることの基礎であり、変わることのない天地の原則と一致する必ず果たすべき義務なのです。そうしなければ人間と呼ばれる価値はなく、その人生は空虚で無意味です。これら二種類の状況を比べれば、後者が性質の変化した人であり、いのちの性質が変化してからは、人生観も間違いなく変わったのだとわかります。そのような人は違う価値観を持っており、二度と自分のために生きることがなく、祝福を得る目的で神を信じることもありません。その人は「神を知ったあと、自分にとって死が何だというのか。神を知ることで、私は有意義な人生を送れるようになった。私は無駄に生きておらず、後悔のうちに死ぬこともない。私には何の不満もない」と言うことができます。これは人生観が変わったのではありませんか。ゆえに、人のいのちの性質が変化する主な要因は、内側に真理を持ち、神を知ることなのです。人生観は変わり、価値観も以前と違います。変化は内側から、その人のいのちから始まるのであって、決して単なる外面的変化ではありません。新たな信者には、神を信じるようになった後に、俗世を捨てた者も居ます。そうした者が信者以外の者と会うと、そうした者は何も言うことが無く、その者が親戚や友人と会うことも滅多に無く、信者以外の者は「この人は本当に変わった」と言います。それで、その信者は「自分の性質が本当に変わったのだ。信者以外の者が私は変わったと言っている」と考えます。実際には、その信者の性質は変わったであろうか、というと変わっていません。それは外面的変化にすぎません。その信者のいのちは何ら変わっておらず、その信者の従前の性質は、そのままその信者に根付いています。人間は、聖霊の業が原因で熱意に駆られ、ある程度の外面的変化が発生し、多少の良い行いをすることがあります。しかし、これは性質の変化に相当するものではありません。あなたには真理が無く、あなたの物の見方は変化しておらず、それは信者以外の物の見方とさえ変わらず、あなたの価値観と人生の見通しも変わっていません。あなたには、神を畏れる心すらありませんが、それは最低限度として身に付けるべき事です。それは明らかに自分の性質の変化では無いのです。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より引用

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