全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

2021年3月16日

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にしてしまった。これは事実ではないですか? 主の到来を待つのは、我々が考えているほど単純なことでしょうか? もし主が戻られ、肉の主イエスがなさったように人の間で働くが、我々が彼を認めなかったら、パリサイ人らがしたように、やはり彼を裁き、非難しもう一度磔にするでしょうか? その可能性はありますか? 主イエスは再来することを預言し、それについて多くを語ったが、あなた方は、主は雲に乗って来られるという預言のみに固執し、主が語った他のより大切な預言を求めたり、探究しないでいる。これでは簡単に間違った道を歩んでしまい、主に見捨てられてしまいますね。聖書には、単に「雲に乗って降臨される」という預言のみがあるのではない。他にも、主は盗人のように、ひそかに来られるといった預言が多くあります。例えば、黙示録16:15、「見よ、わたしは盗人のように来る」。マタイ25:6、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」。そして、黙示録3:20、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。これらの預言はすべて、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かに、ひそかに、という意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても神であることが分からない、その昔、主イエスが現れ、その働きをなさったときのように。外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も彼が神であること知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って、人の子としての出現と働きを説明しました。これはあまりにもふさわしい! 真理を愛さない者は、肉となった神がいかに語り、働き、多くの真理を表したとしても、それを受け入れない。その代わり、受肉した神をただの人として扱い、彼を非難し、見捨てる。なので主イエスは、再臨するときについて次の預言をしました。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない(ルカによる福音書 17:24-25)。主の預言にもとづき、その再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神を意味し、復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って霊的な体として降臨することを意味するものではない。それはなぜでしょうか? 考えてみましょう。それが復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、非常に迫力があり、世界にショックを与えるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗しようとするものは誰もいないでしょう。その場合、再臨主イエスはそれでも多くの苦しみに耐え、その世代から退けられるでしょうか? ですから、主イエスは自分の再臨は、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと預言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

では、人の子がひそかに降臨し、神の働きをなすことと、神が雲に乗って公に現れることとの関係とはどういうものでしょうか? この過程には何が関わっているでしょうか? これについて簡単に語ってみましょう。終わりの日には、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨され、語られ、神の家から始めて裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その王座の前に戻る者たち全員を清め、完成させます。そして彼らを、勝利者の群れとされます。それから神は、大災害をもたらし、終末に神の裁きを受け入れない者たちをよりわけ、罰します。その後、神は雲に乗り、すべての人の前に公に姿を現します。これで黙示録1:7の預言は、完全に果たされます。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」。主が雲に乗り来られるときに、彼を突き刺した者たちも彼が見えるのか? 彼を突き刺した者たちとは一体誰なのか? これは主イエスを十字架に釘付けにした人たちだと言う人もいます。本当にそうなのか? 主イエスを十字架につけた人たちは、ずっと前に神に呪われ、なきものにされたのでは? 現実には、彼を突き刺した者たちは、終わりの日に受肉された神がひそかに降臨され、働かれているとき神の声を聴かず、全能神を非難し、抵抗した者たちです。そのとき、彼らは自分たちが抵抗し、非難した全能神がまさに長年彼らが激しく待ち望んでいた救い主イエスであることを知るのです。胸を打ち、泣いて歯ぎしりしても、その結果は懲罰しかありません。黙示録は、そのような人々が最後には生きるか死ぬかを記していないので、我々は知ることができません。神のみぞ知る。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会をもつことができ、神の王座の前で子羊の宴に参加し神により、勝利者として完成されます。これで黙示録の預言は果たされます。「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である(ヨハネの黙示録 14:4)。だが、主は雲に乗ってくるという考えのみに固執し、終わりの日の神の働きを求め、探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。ことに全能神に激しく抵抗し、非難するものは、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆、神を再度十字架につけた人たちです。これらの人々は皆、大災害に遭遇し、懲罰を受けるでしょう。雲に乗ってくる主のみを歓迎するという人々の犯した間違い、彼らがどんな人たちであるか、その結果はどうなるのか、ということにつき、皆さんは明白に理解されたと思います。

映画『呪縛を解く』より引用

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