聖書で一番多い預言は終わりの日の神様の裁きの働きについてであり、神様が裁きに来られるという預言は200件以上あるとのことですが、本当なんですね。ペテロの第一の手紙4:17にはっきり書いてあります「さばきが神の家から始められる時がきた」。終わりの日の神様の裁きの働きは間違いないようですね。終わりの日に神様が受肉して現われ裁きの働きをすると言われましたが、考えていたことと違います。復活した主イエスは霊体となって終わりの日に人類の前に現われ働くのだとほとんどの教会では信じられています。再臨する主は受肉して働くという考えはどうも納得がいかないので、もう少し説明してください。

2021年3月17日

回答:主の再臨は人を裁き清めるためだとご理解いただきましたが、再臨の形については疑問をお持ちなのですね。ほとんどの信者は主は復活して昇天した主イエスの霊体として人類の前に現われ人の子としての受肉はもうしないと信じていますが、裁きの働きをするため主はどうやって現れるのでしょう? 霊体でそれとも神様が受肉して? 信者が一番疑問に思っている事ですね。終わりの日に神様が受肉して現われ、裁きの働きをすることは聖書にはっきりと預言があります。主イエスは「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。……」(ヨハネによる福音書 5:22)「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(ヨハネによる福音書 5:27)とあります。終わりの日に神様は人の子として受肉し、裁きの働きをすると主イエスははっきり預言しています。「子」や「人の子」とは間違いなく受肉されたキリストを指し、受肉した主イエスは人の子と呼ばれ、人間として生まれ普通の人間性をお持ちでした。ごく普通の人間の姿で人間として生活したので、人の子と呼ばれキリストと呼ばれたのです。霊体は「人の子」とは言えないしヤーウェ神は霊体でしたので、「人の子」とは呼ばれませんでした。復活した後の主イエスの霊体は神様の受肉の体ではないので、それも人の子とは呼ばれません。人の姿であっても霊体であれば人の子とは呼べないのです主は預言されました。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書 17:24-25)。これも主は人の子として受肉し再臨される証拠です。復活した霊体として現われるのなら苦しむこともないし、この時代に捨てられることもないでしょう。霊体ならもちろん超自然で奇跡を起こせるし何でも言葉だけですぐに実現できますから、人類は信者も未信者も悪魔サタンでさえ間違いなく主に従うでしょう。主の再臨がこの時代に捨てられることはありませんね? 聖徒を引き上げるため霊体として見えるのなら信者は誰も神様を拒否しないでしょう。違いますか? 主イエスの預言によると人の子として受肉して戻られ言葉を発し、終わりの日の裁きの働きをすることは間違いないのです。復活した主の霊体では有り得ないのです。

ちょうど主イエスが天国の福音を伝えるため地上に現われたように終わりの日に神様は人の子として受肉して裁きの働きをするのです。主イエスは普通の人の子に見えましたが、権威と力のある言葉や働きによって人々を納得させました。その言葉や働きから主イエスが言われた事は全て真理であると誰もが納得し、主イエスは神様が遣った神様そのものであり、神様の働きをされたのだと信じられています。終わりの日に受肉された全能神が働きにお見えになると多くの人が神様の声を聞き、まるで人間界に光が差すように真理が見えるのです。受肉した人の子は真理を示し堕落した人類を裁き清めることができるのは誰にも明らかで、受肉した人の子が表した真理から神様の義なる性質もはっきり見えるので、人々は心から神様を畏敬し従い神様に救われ神様のものにされるのです。全能神は語り、神様の家から始る裁きの働きをされ、神様の玉座の前に来た者を全て清め救い災害の前に勝利者を作ります。今や全能神の言葉と神様の選民が裁きを受け清められ完全にされたという勝利の証しはすでにインターネットで公表されています。全能神は主イエスの再臨であり、人類を裁き救う唯一の真の神であると世界に向けて広く証ししています。全能神はこう仰っています。「わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

映画『勝利の凱歌』より引用

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終わりの日における神の働きはなぜ霊を通して行われないのか。神はなぜ肉において働きを行うようになったのか。

参考聖書箇所 「モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。ヤーウェは言われた、『...あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』」(出エジプト記 33:18-20) 「ヤーウェはシナイ山の頂に下られた。そしてヤー…

全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

質問2.全能神教会では、主イエスの再来についてすでに証しをされている。そうですね。全能神は主だと。全能神は終わりの日に裁きを行われる。しかし多くの信者は信じています。主は雲に乗って来られると。主イエスが言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30) 黙示録にもあります。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7) 私もまた、主が雲に乗って再臨されることと信じています。雲に乗って来られない主イエスは受け入れられません。主の再臨は受肉されひそかになされると言っていますね。でも誰もそれを知りません。主が雲に乗って戻られるのは間違いありません。そのため、私達は主が雲に乗って現れ天国にお連れくださるのを待っています。我々の理解は正しいのでしょうか?

もし主が戻られ、肉の主イエスがなさったようなやり方で、人の間で働いたとしましょう。我々が認めなかったら、パリサイ人がしたようにやはり彼を裁き、彼を非難し、もう一度磔にするでしょうか?その可能性があると思いますか?主イエスは再来することについて多くを語ったが、あなた方は主は雲に乗って来られるというその預言のみに固執し、他の預言を探究していません。これでは主に見捨てられてしまいますね。

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