あなたがたは主イエスが再来したと言いますが、ではなぜ私たちはイエスをまだ見ていないのですか。目で見たものこそ真実であり、耳で聞いたものは当てになりません。イエスをまだ見ていないということは、イエスがまだ再来していないことを意味するはずです。イエスを見れば信じます。主イエスが再来したと言うのなら、イエスは今どこにいらっしゃるのですか。イエスはどんな働きを行なっていらっしゃるのですか。主はどのような御言葉をお話しになったのですか。これらのことを証しをとおして明らかにしてくだされば、私は信じます。

2021年3月16日

回答

終わりの日の神の出現と働きは、主イエスが預言されたとおりです。そこには、主の密かな到来と公での到来という二つの部分があります。密かな到来とは、神が人の子として人類のもとで受肉されて、御言葉を発し、終わりの日の働きをなさることを指します。これが主の密かな到来です。公での到来とは、主が雲に乗って公然と来られること、すなわち、主が何万人もの聖者と共に到来し、すべての国々とすべての人々に見えることです。私たちが現在終わりの日の神の裁きの働きを証しするとき、多くの人が疑いをもちます。「あなたたちは神が現れて働きをしていると言います。なぜ私たちは神を見ていないのですか。神はいつ、どのようにその言葉を発しておられるのですか。神が御言葉を話しておられるとき、誰かがそれを記録したのですか。それとも神はその御言葉を直接私たちにもって来られるのですか。なぜ神はあなたたちのあいだで語られるのですか。なぜ私たちは神の御声を聞きも姿を見もしないのでしょうか」。……神は中国に、東洋に出現されました。御声を発し、受肉した人の子の姿で働かれます。そこには何ら超自然的なものはありません。神は普通の肉を身にまとわれ、その外見は普通の人のそれであり、私たちのあいだで語り、働かれます。何ら超自然的なものはありません。「これが少しも超自然的でないのであれば、この人は神なのですか、違うのですか。もし神が現れて働かれているなら、その出現と働きは超自然的であるはずです」と言う人がいます。ではあなたたちに聞きますが、主イエスは働かれたとき超自然的でしたか。主がペテロと話しておられたとき、他の場所の人々にはそれが見えましたか。主がある場所でしるしや不思議を見せられていたとき、他の場所にいる人たちにはそれが見えましたか。見えたはずがありません。主イエスは肉となられた人の子であり、その働きと御言葉は超自然的ではなかったのです。しるしと不思議をお見せになったときを除いて、超自然的な側面はありませんでした。そのため他の場所にいる人々は、主の御言葉を聞いたり、主の働きを見たりすることができなかったのです。主のそばにいた人々だけがそれらを見、聞き、体験することができました。これが神の働きの実際的かつ正常な面です。したがって、他の宗教や他の教派は、神が中国の全能神教会を通してなされた働きを知りません。なぜ知らないのでしょうか。神は超自然的には働きをなさらないからです。神がそのそばで働かれた人々だけが、それを見て聞くことができます。神がそのそばで働かれていない人々には御声は聞こえません。主イエスがユダヤの人々のあいだで働きを行われたとき、私たち中国人にそれが見えたり聞こえたりしましたか。西洋のイギリス人やアメリカ人には見えたり聞こえたりしましたか。それでは、なぜ西洋人と東洋の中国人が最終的に主イエスの働きを受け入れることができたのでしょうか。なぜなら私たちに証しをし、福音を広めた人々がいたからであり、彼らが主イエスの御言葉と働きを記したこの聖書を私たちに伝えてくれたからです。私たちが主イエスに祈ったとき、聖霊はその働きを行い、私たちと共におられました。聖霊が私たちに恵みを授けられたことによって、私たちは主イエスが神であり救い主であると信じるようになりました。私たちはこうして信じるようになったのです。西洋人は、「神が中国に現れて働かれました。なぜ私たちはこのことを知らなかったのですか」と言います。この問いを説明するのは簡単です。

聖書には終わりの日の働きについて神からの預言がありますか。これについて主イエスは何と仰いましたか。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう(マタイによる福音書 24:27)。これはどういう意味ですか。それは神の終わりの日の働きが稲妻のようであり、東から出て来ることを意味します。人の子が東で働かれるのであり、それにより東の人々には最初に大いなる光の出現が見え、真の光の出現が見え、神の出現が見えます。そしてそのすぐ後に、この大いなる光は稲妻のように西にひらめき渡るのです。すなわち、全能神の御言葉が東から出て来た後、インターネット上で公表されることで西に広まりました。全能神の御言葉はいつインターネット上で公表されましたか。中国語版は遅くとも2007年、またはそれより早く2005年にインターネット上で公表されました。英語版はおそらく2010年にネットに掲載されました。神の御言葉はもう何年もインターネット上にありますが、どれだけの宗教界の人がインターネットでそれを学びましたか。多くはなく、ごく少数の人々です。神の道と神が発せられた御言葉はもう長い間ネット上にあります。全能神の御言葉がネット上にあることを人々は今や見ていますが、なぜいわゆる主イエスの敬虔な信者たちはそれを学ばないのですか。ここでの問題は何ですか。神の道の証しはすでにすべての国々とすべての地域の人々に与えられています。もし人がそれを決して学ばず、ついには破滅に遭って消されてしまえば、それは誰の責任になるでしょうか。誰がこの過ちに責任がありますか。この過ちは神のせいですか。それとも人のせいですか。人のせいなのです。なぜそう言うのですか。主イエスがとうの昔にこう仰ったからです。「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである(マタイによる福音書 24:42)。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」(ヨハネによる福音書 10:27) 。主イエスはこのようなことを他にも何度も仰っています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう(マタイによる福音書 7:7)。これが神の約束であり、主イエスはこうした事柄を何度か仰いました。主イエスの御言葉によれば、もし人が決して神を求めず、誰かが神の到来を証ししているのを聞いても決して吟味するどころか、「神の到来を証しする者たちは皆異端者で、異説の信者だ」のようなことを言って証言者を盲目的に非難するならば、そのように最後の最後になっても神の働きを受け入れない人は大災害に陥り、災害の中で懲罰を受けて死ぬのです。誰が責められるべきでしょうか。宗教界の多くの人々はこの事柄に関して、「なぜ神は私たちの前に出現されないのですか。なぜ私たちからお姿を隠されるのでしょうか。なぜ私たちに知らせてくださらないのですか」と疑念を抱いています。「私は働きを行なうために密かに到来したとき、すべての人に現れて啓示を与える」と神が仰ったことがありますか。神は何と仰いましたか。「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない(ヨハネの黙示録 3:3)。これは黙示録に預言されていました。ですから、もし私たちが主を信じる者として、「新郎が到来した。主が再臨された」と誰かが証しをしているのを聞き、それでも終わりの日の神の働きを積極的に学びも受け入れもしなければ、大災害に陥いって罰の中で死ぬとき、神を責めることは私たちにはできません。問題を自分自身の中において探し、自分がどの面において行ないが正しくなかったのかを確かめるべきです。これだけが公正なのです。思い返してみると、あなたはどうして主イエスを受け入れましたか。主イエスがあなたのもとに来られたのですか。あなたの前に出現されましたか。どちらもなさいませんでした。あなたが主イエスを受け入れたのは、他の人があなたに福音を説き、主の証しをしたからです。道のことを聞くことで、道を信じるようになりますが、道のことを聞くのは神の御言葉から来ます。今やこの福音と神が働きに来られたという事実の証しを誰かがあなたに行ない、それは神のあなたへの愛、憐れみ、気遣いなのですから、そのように受け取るべきではないでしょうか。敬虔な人ならこのように受け取るべきなのです。したがって、神の御前で傲慢にならず、自分を高く評価しすぎてはなりません。「神は来られるとき、先ず私に啓示を与えてくださるはずだ。神は先ず私に啓示なさるべきだ。もし到来されても、私に啓示されないのであれば、それは神ではなく、私はその人を認めない」とただ思ってはなりません。そう思うのはどのような人ですか。その人はどのような間違いを犯していますか。「神は到来されたなら、私に啓示しなければならない」などとあつかましくも言い切るのですか。それにはどのような根拠があるのですか。主は「私は到来したなら、先ずあなたに啓示する」と仰いましたか。そうした言葉を主が仰ったことがありますか。あなたは自分が世界の他の誰よりも偉く、誰よりも重要であり、神を誰よりも愛していると思いますか。あなたは他の誰よりも上にいますか。とても特別な被造物ですか。そのような人は簡単に救われることができますか。なぜ神は終わりの日に裁きの働きを行わなければならないのでしょうか。それは堕落した人類が神と対面するのにふさわしくないからです。堕落した人類のすべてがサタンの性質をもっています。誰もが特に傲慢でうぬぼれており、誰もが神に関して非常に途方もない欲求を抱いています。天にひいきされているかのように、自分を何よりも高く、天より少しだけ低く他の誰よりも抜きん出て高いところに位置づけます。こうした堕落した性質では、神の裁きと刑罰を受け入ていない人は誰も神を見るのにふさわしくありません。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

「神様がもう来られているなら、どうして私は神様をまだ見ていないのか。神様を見たことがないのだから、それは神様がまだ来られていないことを証明している」と言う人は、宗教の人を含めてたくさんいます。これはあなたにはどう聞こえますか。馬鹿げていて滑稽に聞こえます。神様の到来を見ることができますか。神様の真の本体を見たのであれば、あなたは死んでいるはずです。では、神様はどのように到来されるのですか。神様は人類を救うためにお話しになる人の子の形をとって受肉なさいます。その人を見れば、受肉なさった神様だと認識できるでしょうか。たとえ見たとしても、認識することはありません。それはまさに主イエスが来られたときと同じです。多くの人が主イエスを見ましたが、そのうちどれだけの人が主イエスをキリスト、神の子だと認識しましたか。ただ一人、ペテロだけでした。しかも、それは聖霊がペテロを啓いたからです。それは何を証明していますか。肉体の中にいるあいだは、堕落した人類には神様の霊体を見る可能性などないことを証明しています。神様の霊体が見えるなら、あなたは死んでいるはずです。神様の霊体を見ることは決してありません。神様の御声を聞けるだけでも、堕落した人類にとってはすでにかなりのお恵みなのです。神様が律法の時代に働きを行なわれたとき、何人が神様の御声を聞けましたか。それほど多くはありません。ヨブが神様の御声を聞いたことは私たちも知っていますが、神様の御顔は見ましたか。見ていません。ヨブはヤーウェ神が嵐の中から自分に語りかけるのを聞いただけです。だから、神様の御声を聞くことはその御顔を見ることに等しいと言えます。モーセは神様が自分をお呼びになるのを聞きましたが、神様の御顔を見ましたか。後に神様の背中を見たものの、御顔は見ていません。では、「神様はもう来られたとあなたたちは証しをしますが、私がまだ神様を見ていないのはどうしてですか。全国的なテレビやラジオで報じられていないのはなぜですか」と誰かが言うのを聞いて、そうした話をどう思いますか。とても幼稚です。誰が主イエスの到来を見ましたか。当時のユダヤ人数名だけです。それら当時のユダヤ人は主イエスの御言葉の中に神様の御声を聞き、権威と力を認め、主イエスに従いました。ですが、結局どれだけの人が主イエスを本当に信じて本当に従いましたか。ごくわずかです。したがって、受肉した神様が普通の人の姿をとって終わりの日に来られるとき、神様の御顔を見るために、その人の顔を見る必要はありません。その代わり、神様の御声を聞き、神様が表現なさる真理を見て、それを受け入れ、それに従い、実行に移すべきです。そうする人は真理といのちを手に入れ、神様の救いを得ます。「キリストを受け入れる前にその御顔を見なければならない」と人々が発言することはありえますか。受肉した神様の御姿は神様の霊体を表わせますか。主イエスの御姿は神様の真の御姿を表わせますか。いいえ、表わせません。なので、受肉した身体がとる御姿は一時的なものであり、その人は正常な普通の人に過ぎないと人々がわかることで十分なのです。もっとも重要なこととして、人は受肉した神様を受け入れ、その御言葉に耳を傾け、神様が表現なさる真理のすべてを受け入れなければなりません。それが神様の愛と救いを得る道です。神様の御言葉に耳を傾けず、神様が表現なさる真理のすべてを受け入れなければ、あなたは神様と何の関係もなく、神様のお褒めにあずかれません。終わりの日に神様が表現なさる真理はどれも人を清めて救う真理であり、だからこそ最も不可欠な真理なのです。それを受け入れて実行に移さない人が神様の救いを獲得しないことは確実です。

兄弟の交わりより引用

前へ: 全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

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回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

主の再臨はなぜ雲に乗って公然と降臨することだけでなく、秘かに降臨する受肉を伴うのか。

参考聖書箇所 「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録 16:15) 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6) 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはい…