聖書にこう預言されています。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝 1:11)。主イエスが復活された後、天に上がったのは霊体であり、戻って来られる時は、その霊体が雲に乗って降りてこられるはずです。神様が終わりの日に裁きの働きをなさるため、人の子として再び受肉されたと証されている。明らかに聖書と矛盾しています。主が受肉して再来したという証言は偽だと牧師や長老はいつも言っているんです。だから主が受肉して戻るなんて有りえない。あなた方の証しは受け入れられません。主が雲に乗って降りて来られ、私たちを天国へ連れていかれるのを待っていれば、間違いない!

2019年4月2日

回答:主が受肉して再臨されるのはありえないと仰る。本当にそう思いますか。でも聖書には主は受肉して再臨なさると明記されています。もしかして、見つけられなかったのですか。聖書には、主の再臨について数多くの預言がありますが、主が受肉して再臨されることについては特に明白に書かれています。例えば、主イエスはこう言われました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう(マタイによる福音書 24:27)。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない(ルカによる福音書 17:24-25)。主イエスは人の子として再臨すると預言されています。人の子とは受肉した神様のことです。ちょうど主イエスと同じです。見かけは普通の人で普通に飲食し、眠り、歩く人ですが、復活後の霊体は普通じゃありませんでした。壁を突きぬけたり現われたり消えたりして、とても神秘的でした。ですから、人の子とは呼ばれませんでした。主イエスは人の子の再臨をこう預言されました。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」。主は霊体として雲に乗って降り、栄光に輝いて公衆の前に現われ、それを見た人はひれ伏し崇拝すると仰るんですね。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」。これはどう成就しますか? 神様が人の子として受肉され、働かれる時にそれが受肉されたキリストであるとわからないからこそ、自分たちの考えや想像だけでキリストを非難し、拒んでしまうのです。そうではないですか? 主イエスはこうも預言されています。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる(マタイによる福音書 24:36)。「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない(ヨハネの黙示録 3:3)。主が霊体として雲に乗って降りて来たのなら誰でもそれに気が付き見えるでしょう。では主イエスのこの預言「だれも知らない」、「子も知らない」そして「盗人のように来る」これはどう成就しますか。もし主イエスが霊体として現れるのなら、ご自身がご存知ないはずがありません。終わりの日において神様が「人の子」として受肉され、普通の人となられて初めて、「子も知らない」という御言葉が成し遂げられるのです。主イエスはその働きを始められる以前は、ご自身が贖いの働きを成し遂げに来られたキリストであるとはご存知ありませんでした。なので、しばしば天の父である神様に祈りを捧げ、職分を遂行するようになってようやく、ご自身の正体にお気づきになられたのです。このように考える方がより現実的ではありませんか? これでもまだ、聖書には主が受肉して再臨されるという預言がないと仰いますか? これは主イエスご自身の預言です。「人の子」とは神の受肉を意味しませんか? もし主が受肉して戻るのなら、なぜそれをはっきり言わなかったのか不思議ですね? なぜ「人の子」という表現をしたのでしょう? 預言とはそういうもので、謎に満ちているんです。肉体の外見を持つと言うと平易な言葉に聞こえるでしょう。明晰な人が「人の子」の意味を深く掘り下げていくと啓示され、人の子が受肉の意味だとわかります。全能神が来られ、受肉の奥義を解き明かされて初めて理解できたのです。聖書にある預言、「人の子が来る」とは、実に受肉についてだったのだと。主が受肉して戻ることは間違いありませんが、受肉した神をどうやって確認するのでしょう? 神の声を認識する必要があります。もし神様が本当に人の子として受肉されたのであれば、多くの真理を表して、神様の出現と働きの起源と目的について明確に説明され、真理を表すことによって具体的な働きを始められるはずです。終わりの日に受肉した全能神は人類を救うために真理を表わし、まず神の家から裁きの働きを開始されました。全能神の言葉は諸教会に向けられた聖霊の御言葉です。神は肉体を通して神の出現を待ちわびている者全てに語りかけます。全能神の言葉は真理であり、神の声だとわかる者は神様の御前に上げられ、子羊の婚宴に招かれる賢いおとめです。聖霊の真新しい言葉を毎日読み、終わりの日の神の働きを体験するので、終わりの日の神様の現れと働きを立証できるのです。そして、宗教界に対して、主イエスが全能神として受肉され、再臨されたと証し始め、それによって、人々が神様の言葉を聞きやって来るというわけです。そう、全能神の御言葉である『言葉は肉において現れる』を。これは主イエスの預言を成就しています。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)。神の声がわからず、終わりの日の神の働きを非難する人々は愚かなおとめで、正体が暴かれ捨てられるでしょう。このような人らは、大災害の中で歯ぎしりして泣き叫ぶでしょう。

主をお迎えするにあたり、神の声を聞かず、聖霊が教会へ語りかける言葉を求めもせずに、主が雲に乗って空から降りてこられることだけに気を取られ、牧師や長老たちの言葉を鵜吞みにして、受肉された主の再来の証しを全部偽りと決め付けることは聖書に反することではありませんか? 聖書には何と書かれているのでしょう? 使徒ヨハネがはっきり言っています。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネの第二の手紙 1:7)。「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている」(ヨハネの第一の手紙 4:3)。宗教界の牧師や長老たちの、神様の受肉に対する否定や非難は、聖書にある内容と一致しているでしょうか? 主が受肉して戻ったという証しは全部嘘だと主張しています。これが当てになりますか? 使徒ヨハネの言葉によると受肉を否定する宗教界の牧師や長老たちは反キリストではありませんか? 牧師や長老たちが広める噓偽りを聞いたところで、主を迎え入れることができるでしょうか? 神の出現を見ることができますか? 賢いおとめのように、神の御前に連れてきてもらえるでしょうか?

神の現れと働きをどうやって探すのです? 全能神は言われます。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

神の足跡を探し求めているわたしたちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちである』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)

映画『天国への危険な道』より引用

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

主の再臨はなぜ雲に乗って公然と降臨することだけでなく、秘かに降臨する受肉を伴うのか。

参考聖書箇所 「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録 16:15) 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6) 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはい…