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神の国の福音に関する代表的な質問と解答

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質問5.恵みの時代に、神様が受肉された理由は人の罪を贖うため、それはよく分かります。主イエスは、罪なき体で人類を贖うため、聖霊によって受胎されました。それだけでもサタンには屈辱です。神様が、終わりの日に裁きをされるために、再び受肉されたというこのことは真実だと分かりました。お聞きしたいのは、神様の二度の受肉が少し違うことです。一度目はユダヤでした。そして二度目は、この中国です。神様は、人類を救う働きのために、なぜ二度受肉されたんですか?二度の受肉の本当の意味とは、何なんでしょうか?

解答: どうして神様は、人類の救いの働きに、二度も受肉されるのか?まず大事な点ですが、人類の救いについて、二度の受肉には深い意味があるんです。なぜなら人類の救いの働きは、それが贖いであろうと、終わりの日における人類の裁きや清めであろうと、人には行えないことだからです。神様ご自身が受肉して行わなければなりません。恵みの時代に、神様は主イエスとして受肉され、聖霊が聖らかで罪のない肉体を身に纏い、人々の罪を贖うため罪の捧げものとして、十字架に磔にされました。これは誰もが知っています。しかし主イエスは終わりの日に、なぜ人の子として受肉して、再臨なさったんでしょうか?ここが分かりにくいんです。もし全能神が真理を説明されておらず、奥義を解き明かされなかったら、誰もこの真理を理解できないでしょう。では全能神がどう言われたか見てみましょう。

 全能神は言われます。「最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。よって、三段階の働きの中で、神は二度のみ人の間で働きを実行するために肉となった。それは働きの三段階のうち一段階だけが、人を生活において導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神が肉となる場合のみ、神は人と共に生き、世の中の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。このようにしてのみ、神はその被造物である人に必要な実践的言葉を与えることができる。人が神から完全な救いを受けるのは、受肉した神ゆえであり、人が捧げる祈りへの回答として天から直接に受けるのではない。というのは、人は肉的であり、人は神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づくことなどできないからである。人が接触することができるのは神の受肉した肉体でしかなく、人はこの手段を通してのみ、すべての言葉とすべての真理を理解し、完全なる救いを受けることができる。」「イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。……だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

 全能神の御言葉を読めば分かるとおり、恵みの時代に受肉された神様は、贖いをなさっただけでした。十字架を罪への捧げものとすることで、人々を彼らの罪から贖われ、律法の呪いと非難から解放したにすぎません。私たちは罪を告白し、悔い改めれば赦されました。あとは神様のすばらしい恵みと真理を享受すればよかったんです。これが主イエスの行われた贖いであり、信仰によって救われるということの意味です。では、主への信仰によって、人は救われ罪を赦されましたが、罪を取り除けたんでしょうか?主イエスに罪を赦されましたが、まだ罪の束縛から逃れてはいません。人間には、罪深いサタン的な性質が、いまだにあるからです。私たちは犯した罪を主イエスに告白し、主から罪の赦しをいただきました。しかし人は自らの罪深い性質を知りません。罪よりもっと深刻なことに、堕落の自覚すらありません。人間は律法に反する罪と、自身の良心が咎める罪は、認めることができますが、神様への反抗という重大な罪は見逃してしまっているんです。例えば、神様への反抗の根源は何か?サタン的な性質がどのように生まれたのか?それがどのように形を成していくのか?生まれつきの性質にどんなサタンの毒があるのか?サタン的な思想や理論や規則が、どこから出てくるのか?こうした邪悪なものの認識が、なぜ人にはないんでしょう?人類の犯した罪が、主イエスによって赦されたのなら、なぜ罪の束縛から抜け出せないんでしょうか?なぜ罪を繰り返すんでしょう?一度罪を赦されたら、その人は清いままでしょうか?本当に尊いんでしょうか?これは恵みの時代に誰も理解しなかった問題です。信仰によって罪を赦されても、無意識に罪を犯し神様を拒み、裏切っていることがあります。これは誰にでも心当たりがあるはずです。例えば、主を信じるようになっても嘘をついたり、自惚れたり、真理を嫌ったり、悪に味方したり、傲慢で不誠実で、利己的で、貪欲なままです。サタンの堕落した性質に捕らわれているんです。多くの信者が主に尽くすのも、天国に入りたいからにすぎません。主の恵みを受ける時、人々は満足して、熱心に信仰します。しかし苦難に直面したり、家庭に不幸があったとたん、主を誤解したり、非難したり、否定したり、裏切ったりします。神様の働きが自分の観念に合わないと、あの偽善的なパリサイ人のように振る舞い、神様を拒み非難します。これはたとえ私たちが、主イエスの救いを受け入れて、罪を赦されたとしても、罪が取り除かれて聖くなったのではないということです。ましてや神様のものとされたわけではありません。ですから、終わりの日に主が再臨して裁きをされる時、宗教者たちの多くが、神様を裁き、非難して、冒涜し、公然と敵対して再び十字架にかけるでしょう。このように神様に反抗する人々が、罪が赦されたからといって、天国に引き上げられるでしょうか?神様を拒む邪悪な勢力が天国に入れますか? 反キリストや真理を嫌う人々が天国に引き上げられるでしょうか?ありえません、神様は聖くて、義なる方ですから。私たちは、たとえ信仰によって罪を赦されても、罪深さやサタンの影響を取り除けてはいないんです。ましてや神様のものとされてなどいません。ですから、もし人間が罪を取り除いて聖くなり、神様のものとされたいなら、神様の二度目の受肉の働きによってくまなく清められ、救われねばなりません。

 私たちは救いの働きを単純に考えすぎなんです。罪が赦されたとたん問題がなくなるなんて、あとは天国に引き上げられるだけなんて、堕落した人間の何とも子供じみた考えです。人間のバカげた思い込みと想像にすぎません。堕落した人類には、罪だけが問題だったでしょうか?罪の根っこにある部分は何でしょう?そもそも罪とは何でしょう?神様が嫌うわけは?今日まで、正しい理解を示した人はいません。サタンによる人の堕落とは、どの程度のものなんでしょうか、誰も明言しません。主イエスが十字架にかけられた時、人間の堕落の深さが浮き彫りになりました。多くの真理を表された、憐れみ深い主イエスを磔にするとは、まさに人がサタンの末裔に成り下がってしまった証し、サタンと同類です。人間性そのものを失い、もはや良心や理知のかけらも残っていません。正常な人間性はどこでしょう?神様に対する反抗と敵意は、人間が神様と和解できないところまで来た証拠ではないですか?罪を赦されることで解決するでしょうか?罪を赦されれば、神様にもう反抗や敵対をしないと、誰が保証できるでしょう?誰も保証はできません。罪は赦されたとしても、神様に抗う人の本性は赦されるでしょうか?神様はサタン的な性質を赦されるでしょうか?では、サタンに属するものを神様はどう解決されるか?言うまでもなく、裁きと刑罰によって解決されます。神様による、裁きと刑罰がなくしては、人は神様に勝ち取ってもらえません。深い悔恨を感じることもないでしょう。これこそ神様が裁きの働きのため、受肉されねばならない理由です。終わりの日に、裁きの働きのために受肉された神様について、多くの人々が疑問視したり、観念をもったりしています。それは人々が、自らの完全な堕落に気づいていないからです。だから誰も、終わりの日の神様の裁きについて、理解してはいません。自分たちの思い込みに固執し、正しい道を求めもしないんです。それでは、神様の働きにも従えません。

 二度にわたる神様の受肉の意義深さは、とても推し量れません。なぜ神様が二度受肉されたのか、そこにどんな理由と意味があるのか、それに関しては直接、全能神の御言葉を読みましょう。全能神は言われます。「受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。……イエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。イエスが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、イエスが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、イエスの働きは、イエスが神の言葉、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが『言葉は肉となる』、『言葉は肉において現れる』ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。」「なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

 全能神は、受肉の意義を明らかにし、奥義を解かれました。御言葉を読んでみると分かりますが、受肉とは、神様の霊が肉体を身に纏い、神様の働きを行うために普通の人になることです。受肉した神様は、普通の人間性を持ち、その中で働き語らねばなりません。奇跡を行われる時でさえ、普通の人間としてなさいます。神様の受肉は見た目は普通で、普通の人間のように働かれます。もし、普通の人間性を持たず、普通の人間として働かないなら、神様の受肉ではありません。受肉とは、神様の霊が肉体に宿ることです。普通の人間性を持って真理を説き、神様の働きで人を贖い救われます。これが受肉の意義なんです。二度の受肉の意義はもう分かりましたか?それはおもに、神様の二度の受肉が受肉の意義を完成させ、言葉が肉に現れるという働きをなし、人類を救う経営計画が成就したということです。これが神様の二度の受肉の意義です。もうお分かりですね。神様の最初の受肉は、贖いの働きをするためでした。それは終わりの日の裁きの下準備だったんです。ですから、一度目の受肉だけでは、受肉の意義は完成しませんでした。二度目の受肉の目的は、終わりの日に裁きの働きを行い、人類を、サタンの性質とその邪悪な影響から解放すること、サタンの魔の手から完全に救い出し、人類を神様の元に取り戻し、勝ち取ることです。終わりの日のキリスト・全能神は人類を清め救うために真理を表し、肉における神様の働きを完成させ、肉において現れるべきものはすべて、表されました。肉に現れる言葉をこうして完成されたんです。御言葉をもう少し読みましょうか。全能神は言われます。「神は言葉によって全宇宙を征服する。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事をなしていないように見えるかもしれないが、神が言葉を発するだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、神の言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げるだろう。地上への言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)「この段階の業は『言葉が受肉した』の内面的意味を満たし、『言は神と共にあった。言は神であった。』に一層深い意味を加え、『初めに言があった。』という言葉を、あなたが堅く信じることを可能とした。つまり、神は創造の時に言葉を備え、神の言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の言葉すべてを理解できるようになり、言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の業である。あなたは、こうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知る問題ではなく、肉と言葉を知る問題である。これは、あなたが証に立つ必要があり、全ての人が知る必要がある物事である。これは二度目の受肉、そして神の最後の受肉の業であるため、この業は受肉の意味を完全なものとし、肉における神の全ての業が完全に遂行され、実施され、肉にある神の時代の幕を閉じる。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より) 神様の二度の受肉は受肉された神様の仕事を完了させ、人類の完全なる救いを成し遂げます。ですから、神様の受肉はこれが最後です。三度目、四度目の受肉は決してありません。神様の肉による働きが、完了しているからです。それゆえ二度の受肉は、意義を完成させるというんです。

 神様は二度の受肉でその意義を完成されます。終わりの日の神様の働きを経験していない人々には、理解しにくいでしょう。恵みの時代の贖いを経験した人々は、主イエスが神様の受肉だと知っています。ただ一握りの人しか、その働きが贖いだけだと理解していません。肉に現れる言葉の働きはしていないんです。主イエスは、受肉された神様による人類の救いの真理を完全には表されなかったんです。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)主イエスは、人の子として肉となり、戻られました。終わりの日のキリスト・全能神です。いま神の家から裁きを始められ、人類を救うための真理を表しておられます。それが、この本に書かれているんです。受肉された神様は全宇宙にその存在を知らしめ、御言葉を宣言されています。人類を救う経営計画を示し、神様の御心と、神様が人類に求めること、そして人類の終着点を表されるんです。全能神がどう説明されているか読みましょう。全能神は言われます。「創造以来神がすべての人類に話しかけたのはこれが初めてであったと言える。今までに神がそれほど詳しく、系統立てて被造物である人類に話したことはなかった。もちろん、すべての人類にこれほど多くを長く話したのもこれが初めてだった。それはまったく前例のないことであった。その上、人々の中で神により言い表された初めての文章で、その中で神は人々を暴き、導き、裁き、心のままを語り、神が人々に自身の足跡、横たわる場所、その性質、自身が持っているものとその存在、その考え、人類に対する関心を知らしめる最初の発話でもあった。これらは創造以来神が第三の天から人類に語りかけた最初の発話であり、神が本来の身分を使って初めて、言葉の中に現れ、人間に対する心の声を表現したと言える。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「序論」より)「それは、わたしはこの世に人類の最後をもたらし、その後、わたしの性質をすべて人類の前に公布するからだ。そうして、わたしを知っている人たちもわたしを知らない人たちもすべて『喜んで見つめる』。そして、確かに、わたしが人間の世界に現れ、全てのものが増える地上に来たことを知るのである。これはわたしの計画であり、わたしの人類の創造以来、たったひとつの『告白』である。あなたがたにわたしの一挙一動だけを見つめて欲しいと願う。わたしの杖はもう一度、人類に、わたしに敵対する者たちすべての近くに押しつけられているからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より) 

 神様の二度の受肉がその意義を完成させることについて、理解できない人もいます。経験がないので、聞いても分からないんです。受肉の真理はとても奥が深いため、理解するには時間がかかります。では二度の受肉でなされた働きを詳しく学びましょう。最初の受肉で神様が贖いの働きをされ、数々の奇跡を起こされた。5つのパンと2匹の魚で5千人を養いました。一言で嵐を鎮めました。ラザロの復活。荒野で40日間の断食もされました。水の上を歩かれたりもしました。また奇跡を行われたり、山上で変容されたりしたので、人から見れば、主イエスは受肉されていてもなお、超常的な要素があったわけです。普通の人とは違い、奇跡がついて回りました。また、主イエスが行われたのは贖いの段階だけ、贖いの真理を説かれただけです。示されたのは神様の憐れみと愛でした。裁きと救いの真理はすべてを表されていません。神様の義にして聖なる、犯しがたい性質は明かされませんでした。ですから、一度目の受肉によって、その意義が果たされたとは言えません。全能神は言われています。「イエスは、『言は神と共にあった。』の実体のみを満たす業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の霊は肉と共にあり、神と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より) 終わりの日の受肉は、一度目の受肉とはわけが違うんです。二度目の受肉の時は、神様は奇跡を行われず、超常的ではありません。外見では、普通の人と何ら変わりなく、実践的かつ現実的に人々に語られます。真理を表し、人を裁き、清め、完全にするためです。全能神は神様の経営計画を明かされ、神様の義であり聖なる性質や、神様の存在そのもの、その御心、そして人間への要求を示されているんです。同時に、神様を拒む人間の、サタンの堕落した性質を裁いて暴かれます。それによって人々を選別し、勝ち取ったり、完成させたり、排除したりするんです。終わりの日に神様が人に明かす真理はすべて、肉にある普通の人間性にて表されます。超常的ではありません。見た目は普通の人が御言葉を話し、働きを行います。しかしキリストの御言葉は、すべてが真理であり、権威と力を持ち、人間を清め、救えるんです。堕落した人間の性質を裁いて暴くキリストの御言葉から、どのようにして、神様が人の心を見抜き、本質を理解されるかがうかがい知れます。また神様の、義にして聖なる犯しがたい性質も理解できます。人間に対するキリストの戒めと勧告からは、神様の憐れみと、配慮を感じ取ることができます。キリストが語り、働きかける多くの方法から、神様の全能性、そして知恵が分かります。さらに心から人類を救おうするご意志と、人類に対する真の愛と救いが分かるはずです。またキリストが、人や物事を扱う様子を見れば、神様の喜び、そして怒り、悲しみ、楽しみはすべて、肯定的なものの現実であって、神様の性質と命の本質の表れであると理解できるようになります。キリストの御言葉と働きから、神様がいかに偉大な権威をお持ちか、いかに謙虚かを知り、私たちは神様の性質と真の御顔をうかがい知ることができるでしょう。それによって私たちは真理を求め、神様を敬い、心から愛し従うようになります。これが二度目の受肉における神様の御言葉と働きがもたらす効果なんです。二度目の受肉の御言葉と働きは、人間が神様の受肉を見られるだけでなく、御言葉が肉において現れることも示しています。その御言葉はすべてを成し遂げます。何の変哲もない肉こそが、真理の霊の化身なんです。受肉した神様こそ、真理であり、道であり、命です。唯一の真の神の出現です。受肉の意義の完成は、全能神の出現と働きがあってこそです。

 もう少し御言葉を読んでみましょう。それで真理の理解がより明確になります。全能神は言われています。「この段階の業は『言葉が受肉した』の内面的意味を満たし、『言は神と共にあった。言は神であった。』に一層深い意味を加えた。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より)「神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、『言葉が肉において現れる』ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実体である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。』このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが主として、終わりの日を通じて、肉となった神によって成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるだろうか、エジプトに何が起こるだろうかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩みは加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、終わりの日の肉となった神によって何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の働きが何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。」(『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より)

 全能神の御言葉を読んで、神様の二度の受肉がどのように、その意義を完成させるのか、理解していただけたはずです。皆さんももうお分かりですね。人類の救いは、神様の受肉の働きによって成し遂げられるんです。主イエスは贖いの働きをされたのみ、表された真理は限られていました。ですから、それを体験しただけでは、私たちの認識も微々たるものです。全能神は終わりの日の裁きを行いに来られ、人間の堕落に対する、神様の義なる裁きの真理を表されました。これにより人間は、神様の性質を知り、その義にして聖なる本質に触れられます。すなわち、終わりの日の受肉によって、肉の働きはすべて完了したということです。肉において表されるべき真理は、すべて表されました。言葉は肉において現れました。こうして神様の二度の受肉によって、その意義は完成されたんです。神様の受肉は、二度あってこそ完結するものです。ゆえに神様は、一度しか受肉されないことも、三度四度と、受肉を繰り返されることもありません。なぜなら、二度の受肉によって、神様の救いの働きが完成しているからです。人類を救う真理のすべては、神様の受肉によって、すでに表されました。ですから、二度の受肉によって、受肉の意義は完成されたと言えます。

『敬虔の奥義(続編)』の映画台本から

前へ:質問4.受肉された神様は外見からすると普通の人のようだと、証しされましたね。まさに主イエスのように普通の人間性だけではなく、神性もお持ちだと。ここまでは、よく分かりました。普通の人間性とは、受肉された神様のそれと、堕落した人間のそれと、一体何が違うんでしょうか。

次へ:質問6.聖書にあります。主が洗礼を受けたあと、天が開き、聖霊が鳩のように主に降りて言いました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイによる福音書 3:17)そして信者も、主はキリストで神様の御子だと、認識しています。でもあなた方は、受肉したキリストは神様ご自身、その出現だと証しされています。主イエスとは神様ご自身であり、全能神もまた神様ご自身だと。これまでの理解とは、異なっています。受肉されたキリストは、神様か、神様の御子か、どちらなんでしょう?どちらにしても、聖書に合致して、正しく思えます。一体どちらの理解が、正しいんでしょう?