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神の国の福音に関する代表的な質問と解答

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質問1.主イエスは私達のために、十字架の上で亡くなったと思っていました。罪を贖い、私達を赦してくださったのだと。再び罪を犯しても、まだ清められていなくても、主に全ての罪を赦して頂き、信仰すれば義として頂けるのだと。主のために犠牲を払って奉仕し、辛酸を舐め代価を払えば、天国に招かれると思っていました。しかし、その信念に疑いを持つ者もいます。私たちは主に奉仕しても、まだ罪と告白を繰り返し、汚れているから、聖なる主にお会いできないではないかと。お聞きしたいのは、主のために犠牲を払ってきても、本当に天国に招かれるのでしょうか?本当にわからないのです。良かったら教えていただけますか。

解答: 主が十字架の上で亡くなったとき、私達を贖われたので、罪は全部赦されていると信者は考えています。私達はもう罪人ではないと。信仰を通して義になり、最後まで耐えていれば、救われ。主が戻られた時、直に天国に招かれると信じていますが、それは真実でしょうか?神はその主張の根拠になる発言をされていますか?もしこれが真理にそぐわない見方だとしたら、どうなります?主を信じる者として何事も主の御言葉をもとに判断すべきです。特に主の再来をどう受け止めるかは、何があろうと、自分の思い込みや想像で判断してはいけません。さもないとどうなるか考えただけでも恐ろしいです。パリサイ人がメシアを待っていると言いながら主イエスを磔にしたのと同じで、どのような結果になることか。主イエスは人類の贖いを完了しましたが、救いの働きは完了したのでしょうか?主イエスの信者は誰でも、天国へ招かれる資格があるのでしょうか?答えは誰にもわかりません。神は言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)神の言葉によると、天国に入る者は罪から自由で、清められており、神の御心に沿って従い、神を愛し崇敬する者で、神は聖なる方で、天国に入る者は神と共にいますから、清められないままでは、神の国へ入る資格はないでしょう?罪が赦されたので天国へ招かれるという考えは、神の御心を完全に誤解していて、人間の想像と思い込みからきています。私達の罪を赦してくださったのは本当です。でも主イエスは一言も、罪を赦されたことで完全に清められ、天国に入れるとは、おっしゃっていないのです。なぜ誰もが罪を赦されたら、天国に入れると信じているのでしょう?何を証拠にそう主張できるのでしょう?多くの人が、聖書の中でパウロや他の弟子たちがそう言っているからだと論じますが、パウロや弟子達の言葉は、主イエスの言葉を代弁できますか?聖霊の言葉に取って代われますか?聖書の中の人の言葉は、神の言葉なのでしょうか?聖書から明確にわかることは、神に称えられた者は、御言葉を聞いて御働きに従うことができ、神の道を歩み、神の約束されたものを受けられる。これは誰にも否定できない事実です。信仰することで、罪は赦されているとしても清められていないので、まだ罪を犯し神に逆らってしまいます。神もはっきり言われました「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記 11:45)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)この言葉から、罪を赦されても、天国に入れるわけではないという事がわかります。人には清めが必要で、神の御心を実行する者にならなければ、天国には入れないのです。神の御心を理解する事は簡単ではないですが、罪を赦されても、清められてはいないのです。まず真理を知って、神に褒めていただければ、天国に入る権利を得るでしょう?真理を愛さないどころか、憎みさえして、報酬や冠だけを求め、御心を実行どころか配慮もしなければ、悪質な行為をしていることになります。そのような者を主がお褒めになりますか?まるであの偽善的なパリサイ人のように罪は赦されていても、天国には入れないのです。これは明白な事実です。話を続けます。主イエスは罪を赦してくださいましたが、それはどのような罪で、主の信者となって告白する罪とは、どのようなものでしょう?神の律法や戒律や御言葉を犯すことが主な罪です。神の律法や戒律を犯した人間は、神の律法によって裁かれ罰せられます。だから主イエスが贖いの働きをされ、主イエスに祈り罪を告白して悔い改めれば赦してくださり、律法により責めたてられ罰せられることもなく、罪人として扱われることはありません。神様に祈りお願いすれば、豊かなお恵みを受け真理を知ることができます。これが恵みの時代によく語られた「救い」でしょう。救われることは、清められ天国に入れることとは関係なく、全く別の話なのです。主イエスは、救われ罪を赦された者は天国に入るとは言われていません。

御言葉を少し読んでみましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。……人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)全能神の言葉ははっきりしていますね。全能神の言葉は明確に答えを示し、聴いてすぐに理解できます。主イエスは恵みの時代に、贖いの働きだけをされて人類の罪を赦し、人は信仰によって義となり、救われるのです。主イエスは、罪を赦された者が天国に入れるとは言われてません。主イエスは私達の罪を赦しましたが、サタンの本性は消えていません。傲慢でわがままな、悪質で堕落した性質はそのままで、罪そのものより深く、消し去ることは非常に難しい。神に反抗するサタンの本性と堕落した性質が消えてなくならないと、何度でも罪を犯してしまい、律法に違反するよりもっと大きな罪を犯してしまいます。パリサイ人はなぜ主イエスを非難し逆らったのです?まして十字架に付けるなど?サタンの本性があるから、罪を犯し、神に逆らい、裏切るという証拠なのです。

 私達は罪を赦され、何年も主を信仰していても、日常的に罪を犯してしまうことには抵抗できずにいます。名声と地位のために、うそをつき、騙しこじつけを言っては、責任を回避し、他人に問題を押し付けて、自然災害や人災など試練や苦難に陥ると神を責めて、神の働きが自分の思い通りでないと、神を否定し逆らうのです。神を信じると言いながら、人間を崇拝し従っています。社会的地位があると、祭司長や律法学者やパリサイ人のように自分を持ち上げ褒めたたえ、神になったかのように崇敬や称賛を受けたがります。神への捧げ物を盗み、嫉妬を抱き、自分勝手になり、欲望のままに振る舞います。自分の旗を立て人を集め、国を作ろうとするのは、これは紛れもない事実です。サタンの本質や性質が消えないままであれば、何度罪が赦されたとしても、天国に入る権利はありません。罪を犯して神に逆らうのは、神の敵であるサタンに属しているからであり、間違いなく神に非難され、罰せられるでしょう。聖書にも書かれています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙 10:26-27)全能神の言葉を少し読みましょう。「あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる──あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからである。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)主イエスの贖いを受けても、サタンの性質があるため罪を犯し続け神に逆らうのです。終わりの日に神の裁きと清めを受ければ、罪から解放され、神の御心に叶う者となり天国に入る権利を得るでしょう。主イエスも言われました。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14:2-3)主は私達の場所を用意され、またお見えになります。「迎える」とは終わりの日に私達が生まれ変わる計画を指します。主が現れて私達を御座の前に連れて行き、神の言葉で裁き清め、完全な者にして、災害の前に私達を勝利者にします。私達を清め、完全な者にする過程がお迎えであり、終わりの日に裁きの働きをするため、主が地上に現われ、御座の前に私達を引き上げ、一緒に住まれます。主が見えて私達を迎えるという預言を完全に成就しませんか?大災害の後に、キリストの御国が地に造られ、大災害の精錬から生き延びた者は天国に住む場所があるのです。

 パウロのように、主のために辛酸をなめ、犠牲を払った弟子は、天国に入る資格があると思う人はいるでしょう。パウロが言ったように「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)多くの人は思うでしょう。パウロは主に奉仕し、義の冠を授かったのだから、パウロのように奉仕をすれば、自分たちも同じように、義の冠を授かることができ、天国に入ることができると。果たして本当にそうでしょうか?パウロの言葉は神の言葉に基づくか?主イエスは、パウロは報われ冠を授かったとしたか?聖霊は、パウロは天国に入ったと証しをしたか?そのようなことは聖書に書いてありません。パウロの言葉は根拠がありませんので、どうすれば天国に入れるかに関してもあてになりません。永遠の命を得て天国に入ることについて主イエスは「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:21-23)天国に入るためには、罪から解放され清められ、神の御心に従わなければなりません。たとえ情熱的に奉仕し犠牲を払ったとしても、罪を犯し神に逆らい、神の道に従わないなら不法を働く者で天国には入れません。パウロはりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおしたので、天国に入り報われると言っていますが、主イエスの御言葉と矛盾していませんか?パウロの見方は、主のための働きは報われ天国に入れるということですが、ユダヤのパリサイ人は、海を渡り福音を伝えながらも主イエスを非難して逆らった、それで天国に入れますか?神の道に従わず主の御名で説教し、悪魔を追い払った者達に、天国に入る権利が?そんなばかな話はないでしょう?パリサイ人が何をやっても、主イエスに褒めていただけなかったのはなぜですか?そう、それは私利私欲のためだけに、福音を伝え、苦難に耐えていたからです。神は義ですから人の心の中はお見通しです。主イエスが働きをされた時に、正体が明らかにされ、地位と生計を守るため主イエスを激しく非難し逆らったパリサイ人は、主の敵でしたので、主を十字架に付けたのです。結局、神に呪われ罰せられましたが、これはみなさんご存知ですね。

 終わりの日に宗教界の人々はどうなりますか?多くはユダヤのパリサイ人のように、主のために働いていますが、全ては祝福と、報酬が目的で、主の御言葉を実行したり、主に従わないで冠と報酬を得ようとしています。働くのも犠牲も、私利私欲のためなのです。地位と評判を求めて自分を高め自己主張し、派閥を作り、自分の国を作ります、長年働き苦難に耐えて来たため、自分の経験を自慢し神聖ぶって、神に天国での居場所を要求するのです。このような人、特に牧師や長老が神に褒めていただけますか?終わりの日の神の裁きの働きを受け入れようとしないばかりか、地位と生計を守るために、全能神を激しく非難し逆らい、再び神を十字架につけました。ずっと昔に神を怒らせたのは、事実ではありませんか?主のために働き、犠牲を払う者が、必ずしも天国に入れる訳ではないという証拠です。信仰していても、神を愛さないで、従う気もなく、御言葉と戒めに従うこともなく、祝福され天国に入ることだけを考えているのなら、神を騙し、利用していることになるのです。どれほど働き、犠牲を払っても、神からは褒めていただけません。全能神の言葉をもう一節読みましょう。「表面的には、人々は神のために努力し働いて常に忙しく動き回っているように見えたが、実際には、祝福を手にしたり王として君臨するために次に講じるべき手段を心の隠れた奥の奥で計算していたのである。人の心は神を享受しつつ、神に向かって意図されていたと言うことができる。このような状態の人類は、神の強烈なる嫌悪と憎悪にあう。神の性質は人間が神を騙したり利用することを許さない。」(『言葉は肉において現れる』の第一部「キリストの初めの言葉」の「序論」より)「あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。とにかく神は義であると信じている、とあなたは言う。あなたは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたが、神は確かにあなたのことを覚えている。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人が神の国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。……もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)御言葉からも明らかです。神は聖なる方であり、汚れて堕落した人間は天国には入れません。神の義なる性質はそうさせません!終わりの日の神の裁きと清めを受け入れ、真理を知り、堕落から解放し、神のものになると、救われて天国に入れます。これはまぎれもない事実です。

『夢からの目覚め』の映画台本から

前へ:質問4.いま、主がお見えになり天国へ招かれるという考えは、思い込みだとわかりました。主の御言葉を裏切る行為です。主の再来をどう待てば引き上げられるか、もう少し詳しく教えてください。

次へ:質問2.全能神は、終わりの日の裁きの働きをどうされるのか?言葉で、どう人を裁き、清め、完全にするのか?そこが本当に知りたいところです。全能神の働きが理解できれば、御声を聴き、御座の前に連れていっていただけますよね?もっと詳しく話してください!