38. 異なる形の救い
私はかつてペンテコステ教会のごく普通の信者で、主への信仰を始めて以来、一度も礼拝を欠席したことはありませんでした。それは特に、私たちが終わりの日にあって、主の再臨に関する聖書の預言が基本的に成就していたことがわかっていたからです。主はもうすぐお戻りになられる、だから主と対面する機会を逃してしまわないように、私はより熱心に礼拝に参加して、主のお戻りを今や遅しと楽しみにしていました。
ある日、私の妹が訪ねて来て、嬉しそうな口調でこう言いました。「ねえ、今日は今までで最高の報せを伝えに来たのよ。主イエスがお戻りになられたの!その上、主は肉体をまとって戻られたわ。主は真理を表わしながら、人を裁いて清める終わりの日の働きをなさっている。こうして、『さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙 4:17)という聖書の預言を成就なさるのよ。のんびりしていないで、神の新しい働きに従いましょう!」主が戻られたという報せを聞いた時、私は驚くと同時に疑念を抱いてこう言いました。「ヨハネの黙示録には『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目は、彼を仰ぎ見るであろう』(ヨハネの黙示録 1:7)とあるわ。牧師も長老も、主がお戻りになる時は、白い雲に乗っていらっしゃるとおっしゃっていた。あなたは主がお戻りになった、それも肉体をまとってお戻りになったと言ったわね。どうしてそんなことが可能なのかしら?」すると妹は真面目な口調でこう答えました。「姉さんは主イエスが雲に乗ってお戻りになると言うけれど、それは確かなことなの?聖書にはこうも預言されているわ。『見よ、わたしは盗人のように来る』(ヨハネの黙示録 16:15)そして『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書 25:6)とも。これでも主が密かにいらっしゃることはないと言える?主の再臨には奥義があるの。だから開かれた心でそれを探さなければならないのよ!自分の観念や想像にこだわっていたら、どうやって主の再臨をお迎えできるというの?」しかし、妹がいくら説教をしても私は納得できず、主がお戻りになるときは白い雲に乗っていらっしゃるはずで、肉体をまとって再臨されるはずなどないと信じ続けていました。彼女はその後、家族の全員に福音を説きましたが、その説教を数回分かち合った後には、私の夫と次男夫婦(いずれもそれまで不信心者でした)もみな全能神の終わりの日の働きを受け入れていました。それでもなお、私は自分の観念にこだわり続け、それを受け入れることを拒んでいました。
その後、私が今までと同じ教会で礼拝に参加し続ける一方、夫と次男夫婦は全能神教会の集まりに参加するようになりました。礼拝から帰るといつも、私は面倒で機械的な作業をこなしているように感じました。心は空っぽで、何も得られていないように感じたのです。ところが、夫たちは集まりから戻るといつも大変幸せそうで、問題に直面した時にどんな堕落した性質を表わしたか、神の御心をどのように探求すべきか、あるいはどのように自身を知って省みるべきか、といったことについてよく語り合い、ともに探求していました。また、どのように真理を実践して神の御言葉にしたがって生きるべきか、どのように自分の堕落した性質を捨て去って清めていただければよいか、といったことについても話し合っていました。夫たちがそのようなことについて話しあっているのを聞いた私は、困惑してこう考えました。「みんな今まで信心なんて全然なかったのに、問題に直面したら神の御心を求める必要があることをどうして知っているのかしら?どうして実践の道を見つけることができるのかしら?それに、みんなの言うことがどれもすごく理路整然としているのはなぜ?私は今までずっと主イエスを信じてきたわ。お祈りをして礼拝に参加して、いつも聖書を読んできた。なのに、何か事が起きた時、主の御心を理解できないのはなぜかしら?それに、これは私だけではないわ。教会の兄弟姉妹もみんな同じ。私たちはありとあらゆる罪に縛られ、そこから逃れられない。私たちの霊は衰え、暗く絶望していて、どんどん主から離れてしまっているような感じがする。いったいどうなっているの?」夫たちが話しあっている話題は新鮮で、自分たちがどんな堕落した性質を表わしているか、自身をどうやって省みて知るか、そして清められるとはどういうことかなどについて語り合っていました。私は長年にわたり主を信じてきましたが、私の教会の牧師や長老がこういったことについて説教するのを聞いたことはありませんでしたし、私の家族がこんなにも深く理解していることが、私にはどうしても理解できなかったのです。私は途方に暮れました。
瞬く間に収穫の季節がやってきて、私の二人の息子がトウモロコシを収穫して持って帰ってきました。昔はよく、まず上の息子のトウモロコシの皮むきを手伝ってから、下の息子も手伝ってやったのですが、今年次男一家は全て自分たちで済ませてしまったのです。私は内心思いました。「今回は次男一家の手伝いをしなかったから、嫁は怒っているに違いないわ。私が贔屓をしているって言われるかもしれない」。しかし驚いたことに、彼女は怒っているどころか、機嫌よくこう言ったのです。「お義母さん、もうあなたもお義父さんもお若くないんですから。私たちの仕事を手伝う心配なんてなさらないでね。それよりもお身体をお大事にしてください!」彼女からそんな言葉を聞いて、私はとても驚きました。そのような思いやり溢れる言葉を聞いたのは本当に初めてだったのです。今までそんなことを言ったことはなかったのに!その後、同じことがまた起きました。私は両方の息子夫婦に「あなたたちの子供はもう中学校でしょう、私、あの子たちに自転車を買ってあげようと思うの」と言って、長男の子供には自転車を買ってあげたのですが、急に都合が変わって、残っていたお金を他のことに使わなくてはならなくなってしまいました。次男の子供に自転車を買ってやれなくなったのです。結局、嫁のお母さんがその子に自転車を買ってあげることになりました。私は申し訳なくなってこう考えました。「嫁は怒っているに違いないわ。私が約束したことを守らないって」。けれど驚いたことに、彼女は怒っているどころか、私を慰めてこう言ったのです。「お義母さん、うちの子供に自転車を買えなくて申し訳ないなんて考える必要はありません。これからは、お金はとっておいて、ご自分とお義父さんのために使ってくださいな。私たちのことはご心配なく!」
この二つの出来事に私はとても驚きました。全能神を信じ始めてからというもの、嫁は私とあれこれいがみ合うことがなくなり、代わりに私たちへの心くばりと思いやりを示してくれるようになったのです。彼女は本当に変わりました。私の夫もよく、何かというと私にかんしゃくを起こしていました。些細なことですぐカッとなっていたのです。でも今の夫は、私と話すときはいつも笑顔で、私が夫に怒っているときでも、我慢強く堪えて静かにこう言うのです。「私たちは同じ神を信じている。私たちの肉としての関係は夫と妻だが、霊的な意味では兄と妹だ。お互いを愛し合い、理解し合い、許し合って、神の御言葉にしたがって生きるべきだ。そう思わないかい?昔の私はかんしゃく持ちですぐに怒っていたが、これは私の堕落したサタン的性質のせいだったんだ。私は傲慢と思い上がりが過ぎ、正しい人間性をもっていなかった。全能神の御言葉をたくさん読んだ今、神の終わりの日の働きが、御言葉を表わされることによって人類をお救いになることだと理解した。神の救いを得るべく追求する中で、人は実際の生活で神の御言葉を実践し、真理の原則にしたがってすべての事柄に当たらなければならない。私は肉体を捨て、神の御言葉にしたがって実践し、正しい人間性を生きなければならないんだ」。夫と息子夫婦を見ながら、私は心の中で思案し続けました。「全能神の終わりの日の働きを受け入れてからたった二年しかたっていないのに、どうしてこの人たちはこんなに変わったの?これで確信せざるを得ないわ。長い間主を信じてきて、毎日欠かさず聖書を読んでお祈りもしたのに、なぜ私はこの間にまったく変わらなかったの?何かことが起きた時、なぜ私はいつも自分では抜け出すことができない罪の中に沈んでしまうの?人を変える力は神のみがおもちのはず。ひょっとしたらこの人たちが信じている全能神こそが主イエスの再来なのかしら?もしこれが本当で、私が受け入れることを拒み続けたとしたら、主は私をお見捨てになるんじゃないかしら?こんなに偉大な救いが目の前にあるのに、それを得られなかったら、私はとんだ愚か者なんじゃないかしら?」こう考えていると、不安を覚えずにはいられませんでした。それについて探り、究明したいと思いましたが、家族にそれを話すのが恥ずかしかったのです。
ある日、夫が外出している時に、彼がいつも読んでいる本をこっそり取り出しました。そのカバーを見た瞬間、『言葉は肉において現れる』という金色に輝くタイトルが私の目にとびこんできました。「いったいどんな奥義がこの本には書かれているのかしら?人をあんなに変えてしまうなんて……注意して読まないといけないわ」と、私は思いました。慎重に本を開くと、そこには次の御言葉が記されていました。「今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んだ後、私は思いにふけりました。もし神の二度目の受肉が恵みの時代を終わらせたのなら、神はもう恵みの時代の教会で働いてはおられないということだろうか?私たちはもう神の国の時代に入っているということだろうか?ここにはこう書いてあります。「神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう」。全能神の働きを受け入れてからというもの、夫も息子夫婦も本当にすっかり変わりました。三人の信じる全能神が本当に主イエスの再来だということはあり得るのでしょうか?三人とも本当に神の足跡に従っていて、神による直接のお導きを受け入れているということでしょうか?そうでなければ、どうしてあんなにたくさんの真理を理解し、あんなに変わることができたでしょうか?それは精霊の働きの結果に違いありません。精霊の働きなしに、自力で成し遂げられることではないのです。こうした考えが浮かんだちょうどその時、家に戻ってくる夫の姿が突然見えました。私は急いで本を元の場所に戻すと、「この本を読んでいたことが夫にバレないようにしないと。きっと笑われてしまうわ」と考えました。
次の日、夫が集会に出席するために出かけた時、私はまたあの本を取り出して読み始めました。すると次の一節が目に入りました。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。私はこの一節について深く考えました。主イエスは十字架にかけられることで全人類の罪を贖われましたが、人の堕落した性質を消し去られたわけではありません。罪深い本性が人の中に残っているというのは絶対の真理です。主を信じる私たちは、時に主の教えを守ることを怠り、嘘をついたりごまかしたりします。そして毎日罪を犯しては告白し、いつも罪に陥って、罪の束縛から自らを解放する術を持たぬままです。これは否定しようのない事実です。その時、聖書にある神のこんな御言葉が思い浮かびました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)。神は私たちが聖くなることを望まれているのに、私たちはしばしば罪を犯し、主を悲しませてしまいます。それのどこが聖いでしょうか?神は聖くていらっしゃり、神の国は汚されてはならないのです。ではどうして、頻繁に罪を犯す私たちが、天国に入ることができるというのでしょう?この考えにいささかがっかりした私は、次の節を読み返しました。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった」。これは、全能神の終わりの日の働きが、受肉した主イエスのなさった働きよりもさらに偉大だということでしょうか?私たちが自分の罪を取り除き、清められて変化するためには、全能神を受け入れてその裁きを経るしかない、ということでしょうか?夫と嫁に起きた変化は、二人が体験した全能神の刑罰と裁きの働きから生じたものなのでしょうか?夫も息子夫婦も、神を信じるようになったのはごく最近なのに、真理を理解するようになった上に、自身の堕落した性質への理解をはっきり表現できて、何かあった時には神の御心を求めることができ、実践の道を見つけられるようになりました。その一方で私と来たら、長年主を信じてきたのに、誰かに神への信心とは何か、神の御心はいったい何かと尋ねられたら、正直なところ口籠ってしまってしまうでしょうし、ましてや自分の性質の変化について話すことなどできないでしょう。夫たちと比べた自分のことを考えると、本当に恥ずかしくなりました。どうやらもっと腰を据えて全能神の終わりの日の働きについて調べなければならないようです。
それからというもの、私は毎日こっそりと「言葉は肉において現れる」を夫に隠れて読みました。そして読めば読むほどに私の心は明るくなり、読むことが楽しくなってきました。時には自分の教会の礼拝に行くよりも家にいてこの本を読みたいと思うほどでした。ある時、私は全能神のこんなお言葉を読みました。「わたしは必ずや、義に飢え渇き真摯に探求しているすべての者に光と啓示を与える。わたしはあなたがた全員に、霊の世界の奥義と進むべき道を示し、古い堕落した性質をできるだけ早く捨て去れるようにする。そうすることであなたがたはいのちの成熟に達し、わたしが用いるのに適した者となり、福音の働きはすぐに支障なく前進することだろう。そのとき初めて、わたしの旨は満たされ、六千年にわたる神の経営(救いの)計画が可能な限り短時間で達成されることになる。神は神の国を獲得して地上に降臨し、わたしたちは共に栄光へと入ることになるのだ」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八章」〔『言葉』第1巻〕)。その時、私は主イエスのこのお言葉を思わずにはいられませんでした。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう」(マタイによる福音書 5:6)。読むほどに、全能神のお言葉と主イエスのお言葉は同一の起源から来ているという私の印象は強くなりました。どちらのお言葉にも権威と力があり、それゆえに私には全能神こそが主イエスの再来であるに違いないと思えたのです!この考えに私は驚きました。これがもし本当だとしたら、私はすぐにでも全能神の終わりの日の働きを受け入れなければいけないからです。もし受け入れることを拒み続けていたなら、本当に神の働きから取り残されてしまうでしょう!でも、どうして家族に伝えられるというのでしょう?みんなずっと私と福音をずいぶん分かち合ってきてくれたのに、私はそれを受け入れることを拒み続けていたのです。今さら私が全能神の終わりの日の働きを受け入れたいと言ったら、みんな私のことをどう思うでしょう?私がそんな風に心を決めかねていると、神が道を啓いてくださいました。
ある日、義理の娘ともう一人の姉妹が福音を分かち合いに来てくれました。これが神の与えてくださった機会だということがわかったので、私は正直に二人に言ったのです。「実は、こっそり全能神のお言葉をたくさん読んでいて、それが神様のお言葉だと感じるの。こんなにも権威と力がある言葉を人が発することができるわけがないもの」。義理の娘は私の言葉にとても驚き、もう一人の姉妹の方を見て、喜んで笑いました。私は続けました。「でも、まだしっかり理解できないところがあるの。主イエスは『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう』(ルカによる福音書 21:27)と預言された。私たち信者はずっと主イエスが白い雲に乗って私たちのもとにお戻りくださるのを待ち望んでいる。でもあなたがたは、主はすでに戻られている、全能神こそがお戻りになられた主イエスだと言うでしょう。なら、どうして主が白い雲に乗ってやって来られるところを私たちは見なかったの?これについて私に話してもらえないかしら?」
姉妹が真剣に答えてくれました。「神に感謝します!皆が知っているように、主の再臨について預言する節は聖書の中にたくさんあります。でもよく見てみると、主の再臨については、二通りの預言があることがわかります。一つは主が公然と雲に乗って来られ、皆がそのお姿を見るというもの。ルカによる福音書の21章27節に『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう』とあります。もう一つは主がこっそりと、泥棒のようにやって来られて、誰にも気づかれないというもので、マタイによる福音書の24章36節に『その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる』とあります。主の降臨が二段階で行なわれるということがわかります。最初に主はこっそりとやって来られて、働きの一段階を遂行なさったあとに、その降臨が皆に知られるんです。あなたがおっしゃっているのは主が公然と降臨される預言であって、現在私たちは主の秘かな降臨の預言が成就されつつある段階にいるんです。これは、神が受肉されて働きをなさり、人類を救われる段階です。神が肉における働きを終えられたら、皆にも見えるよう公然と降臨なさるんです……」。
この説教は私の心に灯をともし、私は考えました。「結局のところ、主が二通りの方法で降臨されることは聖書に預言されていたのね。最初に主は秘密裏にやって来られ、その後公然と降臨される。これはまさに神秘だわ!今まで何年も聖書を読んで来たというのに、なぜこれに気づかなかったのかしら?でもこうして考えてみると、そういうことに違いないわ!」
義理の娘は私に言いました。「お義母さん、全能神がお言葉をもって人を裁き清めるその働きを行なわれる時こそが、神様が秘密裏に降臨される段階で、神様が人々をあらわになさり、私たちの種類によって区別なさるときなのです。さあ、全能神のお言葉を読んで、真実のこの側面の理解を深めましょう」。そして彼女は読みました。「多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである」(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)。
姉妹は説教を続けました。「お言葉から、全能神がその働きをこっそりとなさっておられる間、神はお言葉によって人々を裁き、罰する働きのみをなさることがわかります。それはつまり、私たちの人生において必要なものを与えるために神はあらゆる真理を表わされるということなんです。そして終わりの日の神の働きを受け入れる人すべて、神のお言葉の罰と裁きを経験し、真理を認識し神を知るようになり、そしていのちの性質を変えられた人がすべて、災いに先立ち神に勝利者とされる人なのです。これらの勝利者が定められれば、神の偉大な働きは成功を収め、神がこっそりと行なわれる働きも終ります。神が雲とともにあらゆる国々と人々の前に公然とお姿を現されるのは、その後です。自分自身の観念に闇雲にしがみつき、主イエスが雲とともにやって来られることのみを待つ人がいますが、そういう人は神がこっそりと働きを行ないながら表される真理を一つも受け入れようとはしません。これは皆、神に抗い、神を拒否する人々であり、もし彼らが神のもとに立ち返り、終わりの日の救いを受け入れることができないとしたら、大いなる災いの中で歯軋りして嘆くことになります。これはヨハネの黙示録1章7節に『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』と預言されている通りです。考えてみてください。主が雲とともにやって来られ、皆がそのお姿を見る時、その降臨を大きな喜びと共にお迎えする以外にすべきことがあるかしら?ではなぜ皆が嘆くとあるのでしょうか?それは、神が公然と降臨なさる時、人々は自分たちが今まで拒んでいた全能神こそが主イエスの再臨であることを知るからで、そうであれば、人々は胸を打って嘆き、歯軋りせずにはいられないでしょう?」
私は姉妹の説教をうなずきながら聞いて、言いました。「ああ、私はこの聖句を今まで理解していなかったわ。教会の牧師に尋ねても、はっきりとは説明してくれなかった。つまり全能神の終わりの日の救済を受け入れることを拒む人々のこと、神様を拒否する人たちのことがここに書いてあったのね」。この瞬間、今まで家族が何度も福音を私と分かち合ってくれたこと、それなのに私が受け入れることを拒み、抗ってきたことを思わずにはいられず、深い苦悩を感じました。後悔の念とともに、私は姉妹に言いました。「もし全能神のお言葉を読んでいなかったら、もしお言葉が私の心への扉を開き、探究心を抱くよう導いてくださっていなかったら、今でもあなたの説教を聞く耳を持たなかったかもしれないし、まだ主イエスが白い雲に乗って公然と人々の前に再臨されるのを待つことにこだわっていたかもしれないわ。私はなんて無知で愚かなんでしょう!今になってやっと、神様の秘密の働きの段階が、お言葉による裁きと罰を受け入れて、堕落した性質を脱ぎ捨てて完全な救いを得られるようになるための絶好の機会だということを理解したわ!神様が雲に乗って人の前に公然と降臨なさる時、救いの働きはすでに終っていて、神様は善きものを報い、悪しきものを罰し始められるのね。そしてそれが起きたら、私がどれほど後悔していたとしても、もう遅いのね。私をお見捨てにならずに、この救いの機会を与えてくださったことを神様に感謝するわ。私は全能神の終わりの日の働きを受け入れたい!」
その後、私は自分から全能神の教会への入会を願い、夫や息子、義理の娘たちのように毎日神のお言葉を読んで真理について語らい、お言葉の裁きや刑罰、清めや救いを体験しています。全能神教会の大家族の中で、私は真の教会生活を送るようになり、私の霊は平穏と歓びに満ちています。神の私への愛がいかに偉大かを心から感じています。私は鈍くなっていて、神をこんなにも長くお待たせしていたのです。神が細心の注意をはらって様々な人々や出来事、ものごとを準備し、私が一歩ずつ神の家族のもとに戻れるようにお導きくださったことに、異なる形の救いをもたらしてくださったことに感謝します!