神様の御心を理解すれば誤解は解消できる
神様の御言葉にこうあります。「神の至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛……これら全ての様々な神の性質と本質の側面は、神が業を行うたびに現れるものであり、神の人間に対する意志が具現化されたものであり、そして全ての人間に対し履行され、反映されるものである。あなたがこれまでにそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神は全ての人をあらゆる方法の限りを尽くして思いをはせ、一人一人の心を温めるため、そして一人一人の霊を呼び覚ますため、誠実な心、知恵、そして様々な方法を用いている。これは議論の余地のない事実だ。」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)神様の御言葉を読んだあと、神様がなさるすべてのことには神様の愛と憐れみ、そして私たちへの心遣いが満ちあふれていることがわかりました。神様の御業はどれも私たちにとって極めて有益であり、私たちがもっとも必要とするものでもあります。それを真剣に探し求めて経験する限り、私たちは神様のこの愛を感じるのです。しかし、私は神様の性質と本質について無知だったせいで、神様に対する誤解、疑い、自己防衛の状態にあることが多く、神様に心を捧げることができませんでした。尽くすべき本分があると、いつもそれを避けるか断わるかしようとし、それによって真理を得る多くの機会を失ってしまいました。しばらく前、私は現実の状況に直面し、神様の御言葉による裁きと刑罰に向き合ったことで、自分のサタン的な本性をいくらか理解するとともに、神様の美しく善なる本質についても真の認識をある程度得ることができました。そのとき初めて、神様に関する誤解のいくつかが取り除かれたのです。
神様を信じ始めてからというもの、誰かが指導者の本分から追われて交代させられ、時には邪悪な過ちを犯しすぎたせいで追放にさえ至るのを見たり聞いたりするたび、私はいつも表現しがたい感情を覚え、このように考えずにはいられませんでした。「指導者の立場で本分を尽くすことは大変な責任だ。何かを申し分なく処理しなかったという理由で、立場を追われて交代させられることもあるし、追放されて淘汰される危険さえある。立場が上になればなるほど危険も大きくなるようだ。『高き所は寒さに耐えず』とか『高く登るほど落ち方はひどい』などという諺にも一理ある。立場が上にならないままで本分を尽くすなら、それより少しは安全だろう。昇進も降格もしない限り、大丈夫だ。そうすれば、あまりに多くの悪事を働いたせいで暴かれて淘汰されてしまい、最後まで信仰をもちながら結局無駄に終わるという事態を避けられる」それ以来、教会が私を昇進させようとしたり、選挙に立候補する手はずを整えたりしようとするたび、私はありとあらゆる言い訳をしてそこから逃れ、断わりました。徐々に、大きく深い溝が私と神様のあいだに生まれました。今年四月の集会で、指導者が私にこう尋ねました。「陳兄弟、小管区の年度選挙がもうすぐ行なわれるけど、君の考えはどうなんだ」選挙が迫っていると聞いたとたん、私はどぎまぎしてどう答えればいいかわかりませんでした。過去に数名の兄弟姉妹が、実際の仕事をできないせいで立場を追われて交代させられ、今日に至るまで本分を尽くせないでいることが頭に浮かんだのです。もし当選したら、そのときになって自分も実際の仕事を一つ遂行できなかった場合、同じ運命を辿ってしまうのではないかと不安になりました。私は現状に満足していました。尽くすべき本分があるだけでなく、立場を失って交代させられることを心配する必要もなかったのです。このような思いが頭に浮かび、私は慌てて指導者に答えました。「私にはあらゆる点であまりに多くの欠点があります。それに、兄弟姉妹との集会でもものすごく緊張しがちです。このままいまの本分でもっと実践を積み重ねたほうがいいでしょう。だから今回の選挙には立候補しません」選ばれるという見通しに私があまり乗り気でないことを見て取った指導者は、来たるべき選挙に私を立候補させようと、その後も何度かこの話題を持ち出しましたが、私はそのたびに丁寧に断わりました。
数日後の夜、話し合うことがあって指導者たちを探したところ、彼らは上位の指導部から送られてきた選挙に関する手紙を読んでいる最中でした。私は口から心臓が飛び出そうになるほど不安になってこう思いました。「逃げて隠れなくては。さもないと、選挙に立候補する話をまた持ち出してくるぞ」そこでトイレに隠れて時間を潰しました。けれどそのために、かゆいところを掻いていてはからずも腫れ物を引っ掻いてつぶしてしまい、手が血まみれになったのです。急いで紙タオルで血を拭い、傷口を押さえましたが、しばらくすると紙タオルが血で染まりました。突然、頭の中が真っ白になりました。血が止まらなかったらどうなるだろう。片手で傷口を押さえたまま急いで階段を駆け上がり、先ほどの部屋に駆け込みました。指導者たちに傷を見てもらい、出血を止めるにはどうすればいいかを教えてもらおうと思ったのです。ひとりの兄弟がそれを見て、「ひどい出血だ。止まりそうにないぞ。拭けば拭くほどひどくなる」と言いました。私はそれを聞いていっそう不安になりました。ほんとうにそこまで深刻なのか。小さな腫れ物からこんなにひどく出血するなんてどういうことなんだ。このまま出血が止まらなければ、明日になって体から一滴の血もなくなるまで出血し続けるんじゃないか。恐怖と不安と無力感の波が、突如私を襲いました。私はどうすればいいか見当もつかず、空気そのものが固まったかのように感じられました。ちょうどそのとき、この日の突然の出来事はまったく偶然ではないかもしれず、急いで自分の行動を振り返って、自己をしっかり認識できるようにしなければならないという意識が膨らみました。そこで心を落ち着けて、最近何らかの形で神様に背いたのだろうかと考えました。けれど、どれほど必死に考えても何一つ思い当たりません。そのとき、神様のご発言の一節を思い出しました。「人間が神を害した場合、それは1回の行動あるいはひと言の発言が原因であるとは限らず、むしろその人間の態度や状態が原因である。これは極めて恐るべきことである。」(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」〔『言葉』第2巻〕)神様の御言葉に導かれて、私は神様の御前に出て真理を求めました。「神様。私はこんなにも盲目で愚かでした。何をしてあなたに背いてしまったのかわかりません。どうか道をお示しください。自分の反逆と抵抗を認識できるように、御心を明かしてください。御前で悔い改めたいのです」祈り終えると、わずかながら心の平安を感じ、過去の行ないや思いを振り返って、自分はどこで神様の御心から外れてしまったのだろうかと考えました。すると突然、選挙に対する自分の振る舞いと態度が思い出されました。私が立候補すべきだと伝えようと指導者たちは何度も私に話しかけてきましたが、私はいつも自分の観念にこだわっていました。きちんと本分を尽くさなければ暴かれてしまうことを恐れ、あらゆる理由や言い訳を作り出して何度も何度も立候補を断わってきたのです。私の態度はこれっぽっちも受容と服従の態度ではありませんでした。教会が行なう民主的な選挙は働きの手引きを実行するために必要であることを私はよく知っていました。それは神様の家の働きにおける重要な一部分であり、神様の御心が含まれています。しかし私は真理をまったく探し求めず、自分自身を守るために繰り返し選挙を避け、立候補を断わってきました。私の奥底にあるそのような態度、つまり神様の敵となる態度のせいで、私は神様からご覧になって憎むべき忌々しい存在となり、さらには神様を傷つけ失望させてしまったのです。私が突然このような問題に直面したのは、神様が私を鍛えられるための方法でした。それに気づいた私は、神様の義なる性質が人間の背きを許さないことを認識したので、自分のこの間違った状態を変えて神様の御前で悔い改めたいと思いました。そこで指導者たちに、反省したすべてのことを始めから終わりまで残らず伝えました。私の話を聞いたあと、兄弟が自分が選挙に立候補したときの態度と、そのときに得た啓きについて私と交わってくれました。神様、感謝いたします。この出来事は私に教訓を与え、一時間後には出血も止まりました。それにより、私が堕落と反逆の状態にいる一方で、神様はご自身の義なる性質、背くことを許さない性質を示してくださったのだと私は気づきました。そして私が真理を求めて神様のもとへ戻ったとき、神様は私に笑顔を見せてくださり、神様の性質が鮮明で生き生きしていることを私は味わったのです。
その後私は、教会で選挙が行なわれるたび、自分がいつもそれを避け、逃れるための言い訳をしようとしてきたことを振り返らずにはいられませんでした。自分は立候補することを望まず、指導者の立場に選ばれながら神様に敵対することを行なえば、立場を追われて淘汰されるだろうと恐れていました。このような考えがいつも頭を駆け巡っていたのはなぜでしょうか。私はデボーションのさなかに、この件に関する神様の御言葉があればそれを飲み食いしようと意識して探し求めました。ある日、私は神様が発せられた次の御言葉を読みました。「神の前で神を信じるのは薄氷を踏むようなものだ。刀刃の上で暮らすようなものだ」と言う人もいれば、「神を信じるのは『王様のお供は虎のそばにいるようなものだ』と非信者が言うように、とても恐ろしい。一つでも間違ったことを言ったりしたりすれば淘汰されてしまう。地獄に投げ込まれて滅ぼされてしまう」と言う人もいます。このように言うのは正しいですか。「王様のお供は虎のそばにいるようなものだ」とは、どのような場面でよく言われますか。『薄氷を踏む』とは何を指していますか。「刀刃の上で暮らす」とはどのような意味ですか。文字どおりの意味は誰もが知っているはずです。いずれも大きな危険を指し示しています。それは人が獅子や虎を手なずけるようなものであり、それで毎日が薄氷を踏むようであったり、刀刃の上で暮らしているようであったりするのです。これらの言い回しが指し示しているのはそのような状況です。虎や獅子の残忍な本性はいつ何時燃え上がるかわかりません。何年付き合おうとも人間への親近感をもつことがない冷血な獣です。あなたを食べようと思えば食べますし、傷つけようと思えば傷つけます。では、このような表現を使って神を信じることがどのようなものかを描写するのは正しいですか。あなたがたはこのように考えることがありませんか。「神を信じることは本当に薄氷を踏むようなものだ。神の怒りは一瞬で燃え上がる。神はいつ何時でも激怒しかねないし、誰かをその地位からいつ追放するかもしれない。神が嫌う者は暴かれ淘汰される」。本当にそうですか。(違います。)どうやらあなたがたは経験して理解しているようなので、騙されてはいけません。これは邪説であり、あまりにも馬鹿げた言葉です。」(『キリストの言葉の記録』の「真心を神に捧げると真理を得ることができる」より)「指導者になってはいけない。地位を得てはならない。地位を得た瞬間、人は危険に見舞われ、神に暴かれる。いったん暴かれれば普通の信者でいる資格さえなくなり、救われる機会はもはやない。神は不公平だ」と言う人がいます。これはどういう言葉ですか。よくても神についての誤解をあらわしており、最悪の場合は神への冒涜です。」(『キリストの言葉の記録』の「堕落した性質を解決するには具体的な実践への道をもたなければならない」より)神様の御言葉の一行一行に私は深く感動しました。私の状況を正確に表していたからです。実際には、神様を信じることは「王様のお供は虎のそばにいるようなものだ」とか「刀刃の上で暮らすようなものだ」などと恐れ多くも口にしたことはありませんが、教会の選挙に対する自分の態度に目を向けると、自分を守ろうとむきになり誤解に満ちていました。そのことは、それがまさに自分が生きてきた状況であることを示していました。指導者の立場から追われた兄弟姉妹、またその中には悪事を幾度も犯したせいで追放された人さえいたのですが、そのような兄弟姉妹が苦しくつらい状態にいるのを見て、私は指導者として本分を尽くすという考えにいつも尻込みし、その代わりにこのまま遠慮していたいと思っていました。私の目から見れば、指導者には地位が伴い、地位があれば暴かれ淘汰される危険が伴うからです。私は本分を尽くすにあたって極めて用心深く、臆病でためらいがちにまでなり、選挙について熱心になることもなく、万が一指導者として仕えるように選ばれて過ちを犯せば、結果的に立場を追われて淘汰されるだろうと深く恐れていました。私は想像の中で、神様のことを権力を握る中国共産党幹部と同じように見ており、神様に近づきすぎたり挑発したりしないようにしていました。神様に背いた者は必ずや大いなる災難に見舞われると信じ、立場を追われて淘汰された兄弟姉妹は、指導者として仕えることで自分に災難をもたらしたのだとさえ考えていました。私は「指導者」、つまり神様の家を管理する体制の中で確立された地位を、人を暴いて淘汰する方法だと見ていたのに等しいのです。いま初めて、私は神様の御言葉による啓きを通じ、自分の抱いていたそのような考えが、神様の聖なる本質についてまったく認識していないことを暴いたのだと気づきました。私が神様について抱いていたそれらの憶測は、この上ない冒涜だったのです。それに気づいた私は消えることのない恐怖を感じ、神様の御前にひざまずいて祈らずにはいられませんでした。「神様。私は何年もあなたに従ってきましたが、神様のことを知りません。私を選挙に立候補させようとする兄弟姉妹の話は、私を鍛え、清め、変えるために神様が私に授けてくださった機会でした。それなのに私は御心を理解していなかっただけでなく、実際に選挙を拒んで避けようとし、神様を完全に警戒して誤解していました。私はこれっぽっちも神様のことを神様として扱っていなかったのです。私のこの見方は非信者とまったく違いません。本当にサタン的な見方です。このように私を暴いてくださっていなかったなら、私は自分の問題を反省することなく、いまだに敵意と誤解の状態で生きていたでしょう。それが続いていれば、あなたに憎まれ、嫌われ、拒まれるしかなかったでしょう。神様。私はいま進んで悔い改めたいと思っています。どうか真理の理解へと、御心の理解へとお導きください……」
その後、私は神様の御言葉をさらに読みました。「誰であろうと人は地位を得た瞬間に反キリストになりますか。(真理を追い求めないなら反キリストになりますが、真理を追い求めるならそうなりません。)つまり、絶対ではないのです。ならば、反キリストの道を歩く人は最終的に地位の罠に捕らわれますか。正しい道を歩まないとそうなります。辿るべきよい道がありながらそれを辿らず、その代わりに悪しき道を辿るのです。これは食事の仕方と似ています。身体を健康に保って普通の生活を維持できる食品を取らず、代わりに麻薬を飲む人がいます。最後には中毒になり、命を落とします。それは人が自分で下す選択ではないですか。」(『キリストの言葉の記録』の「堕落した性質を解決するには具体的な実践への道をもたなければならない」より)また兄弟の交わりの文章も読みました。「地位と権力を合わせ持つ数多くの人が、ありとあらゆる悪事を行なって暴かれるのはなぜですか。それは、地位が人に害を及ぼすからではありません。その根底には人の本性の実質という問題があります。地位は確かに人を暴くことができますが、善良な心の持ち主は高い地位にいても、様々な悪事に手を染めることはありません」(『いのちの供給のための説教集』の「神によって完全にされるには、神の言葉の真理の現実を経験し、それに入らなければならない」より)神様の御言葉とこの交わりのおかげで、私はあることに気づきました。実際のところ、立場を追われて淘汰された同労者や指導者は、指導的な立場にいたせいで追放されたのではなく、本分を尽くしているあいだ、真理を追い求めたり正しい道を歩いたりすることを常に怠っていたのです。それゆえ彼らは暴かれ、淘汰されました。私は暴露された周囲の指導者や同労者のことを考えずにはいられませんでした。ある兄弟はとりわけ独善的で、原則に従って本分を尽くしていませんでした。才能と素質はあっても真理の現実を自分のものにしていない人たちを、彼はこだわりなく昇進させ、指導者の本分を尽くさせていました。兄弟姉妹が繰り返し注意したり支援を申し出たりしても受け入れず、結果として教会生活に混乱をもたらし、兄弟姉妹がいのちに入るのを妨げました。この兄弟はとりわけ自分の意見に強くこだわり、同労者の忠告を無視するほどでした。教会の金銭や貴重品を安全上のリスクがある家屋に保管するよう主張し、結果として中国共産党にすべて押収されたこともありました。また、ある姉妹は地位に強く固執し、同労者として本分を尽くしているあいだ、みんなの建設的な批判を受け入れることができないでいました。助言した兄弟姉妹に罪を着せて復讐し、上役による交わりや支えを何度も断わるほどでした。最終的に警告を与えられながら、それでも自分の行ないを反省して自分を知ろうとせず、まして真理を受け入れることなどありませんでした。悔い改めも変わりもせず、頑なに反キリストの道を歩いたのです……これらの失敗例のおかげで、教会は何の根拠もなく人を解任したり淘汰したりしたのではないことがわかりました。解任され淘汰された人たちがずっとどのように振る舞っていたかを綿密に分析して初めて、彼らの大半が性質の中にやや深刻な反逆性を抱え、真理の原則に従って教会の働きを行なっていなかったことがわかりました。彼らはみな自分の好きなようにするばかりで、最後は教会生活を妨害して乱し、他の兄弟姉妹がいのちに入るのを大いに妨げました。最終的には解任され交代させる必要があったのです。当然ながら、誰かが解任される前には、神様はその人に何度も悔い改めの機会を与えられており、兄弟姉妹も繰り返しその人を助け支えていました。それは単に、それらの指導者が改心する意志を決して見せず、教会の働きを深刻に邪魔し、乱し、妨害したあと、最後に立場から追われて交代させられたに過ぎないのです。彼らが失敗したのはひとえに自分のせいです。違うでしょうか。これは彼らが徐々に育てた苦い果実ではなかったでしょうか。しかし私は、その人たちの失敗と転落から、彼らが歩いていた誤った道を見分けることも、彼らの神様に対する抵抗の根源をはっきり見ることもなく、その後自分の行動を省みて、彼らの実例を自分への戒めとすることもありませんでした。また神様の性質が犯せないものであることを知らず、それゆえ、私が彼らの足跡に従うのを防いでくれたはずの、神様を畏れる心を育んでいませんでした。その代わりに神様への誤解と自己防衛を膨らませてしまったのです。私はあらゆる不義を神様に押しつけていました。まったく無知で盲目で、卑劣で哀れで、神様を芯まで傷つけてしまいました。また、高い地位に就いたことがないにもかかわらず、真理の追求を常に怠り、教会に妨害と混乱を引き起こし、十分役に立っていない人の一団がその頃教会にあったことを思い出しました。彼らも同じように、神様に暴かれ淘汰されていました。それに気づいたおかげで、私たちが神様に従いながら暴かれて淘汰されるかどうかは、どんな本分を尽くしているかや、どんな地位に就いているかに関係ないことがよりはっきり理解できました。真理を追い求めることも、性質の変化の道を歩くこともなければ、どんな地位に就いていようといまいと、みなサタンの性質に支配されがちであり、どんなときでも神様に背いたり抵抗したりすることを行ない、かくして暴かれ淘汰されかねません。それはまさに、「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」という神様の御言葉の証拠です。私は神様の啓きとお導きに感謝しています。そのおかげで、自分が抱いていた誤った観点をいくらか認識して識別できるようになっただけでなく、神様を信じながら真理を追い求め、性質の変化に向けて努力することの重要性を正しく認識するようになりました。同時に、誤解と想像の中で生きていた自分がいかに荒唐無稽で馬鹿げていたかにも気づくようになりました。
その後、私は兄弟の交わりの一節を読みました。「私がある兄弟に『ここ数年で進歩を遂げましたか』と聞くと、相手は『私が遂げた最大の進歩は、追放を経験した結果によるものです』と答えました。その兄弟が追放されることから最大の進歩を遂げたのはなぜですか。その兄弟が神様の御前で切実に祈ったのは確実で、自分の行動を省みて自分自身を知ることに多くの時間を費やしたのは間違いありません。彼はまた進んで悔い改めようとし、神様に見捨てられることを望みませんでした。誠実に神様に祈ることで、多くの啓きと照らしだけでなく、自己認識ももたらされたのです。こうして、数年間にわたる自分の行ないや振る舞いがどうであったか、自分が歩いていた道が何であったかを認識するようになりました。彼はこれらの否定的な教訓を通じて、自分がいかに神様を信じるべきか、いかに真理を追求すべきかを正確に認識しました。その後は神様の御前で心から悔い改め、真理を追い求めるために努力をいとわなくなり、神様の裁きと刑罰に服従し、神様の指揮に従うようになりました。そのようにして、神様を信じる彼の旅路は新しいものになり、信仰の道を正式に歩み始めたのです。したがって、このような追放が何かの役に立つのかどうか、それが実は人に救いをもたらす方法の一つなのかどうかと尋ねてみてはどうでしょう」(兄弟の交わりより)この交わりから、神様が人にもたらされる極限の憐れみと救いを見ることができました。犯した悪事のせいで教会から追放された人もいますが、誠実に悔い改め、神様の鍛錬と懲らしめを進んで受け入れ、自分を省みてさらに自己を知り、真理を追い求めようとする限り、その人が救われる望みはまだ残っています。それと同時に、神様の厳格な裁き、人を取り扱い、懲らしめ、鍛錬なさる方法が、真に悔い改めた人の救いの形態でもあることを理解するようになりました。その目的は、人がもっとよく反省し、神様に抵抗して神様を敵と見なすように誘導した自分のサタン的な本性を理解できるようにすることです。それは、人が神様を畏れる心を育み、真理を追い求める道に踏み出せるよう、真に自分自身を憎んで自らの肉を捨てられるようにすることなのです。誠実に神様を信じて真理を追い求める人にとっては、自分が何を経験しようと、つまり解任され交代させられようと、あるいは追放されようと、それは暴露や淘汰などではなく、むしろ神様を信じる道の転換点となりました。私は神様の御言葉の一節を思い出さずにはいられませんでした。「何度か失敗して倒れた経験があるのは悪いことではありません。暴かれることも同じです。取り扱われたり、刈り込まれたり、暴かれたりしたことがあるかどうかにかかわらず、次のことをどんな時も忘れてはなりません。暴かれることは断罪されることを意味しません。暴かれるのはよいことであり、自分を知る最高の機会です。それは人生経験を一段加速させます。それなしには、自分の堕落の真相を認識できるようになる機会も条件も背景も得られません。自分の内面にある物事を知るようになり、さらにまた掘り起こして認識するのが難しい、自身の奥深くに潜む物事のあらゆる側面も認識できるようになれば、それはよいことです。自分を真に認識できるようになることは、自分の道を正して新しい人になる最高の機会なのです。いったん自分を真に認識すれば、真理がいのちとなるのは本当に貴重なことだと分かるようになり、真理を渇望して現実に入るようになります。それはかくも素晴らしいことなのです。失敗し倒れるたびに、その機会を捉えて真剣に自分を反省し、自分を真に認識できれば、消極性と弱さのさなかにあっても再び立ち上がることができます。いったんその敷居を跨げば、大きな一歩を踏み出して真理の現実に入れるのです。」(『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」より)これについて考えたとき、私は神様の御心をさらに深く理解しました。私たちを打たれようと、鍛錬なさろうと、解任して追放なさろうと、神様が私たちになさるすべてのことは、私たち自身の振る舞いと堕落した本質に基づいて決められます。神様がなさるすべてのことは、人を清めて変えることが目的です。私たちにとってこれらのことはどれも救いであり、極めて有益です。指導者が暴かれ、立場を追われ、淘汰されたからという理由で、私はずっと指導者の本分を恐怖の目で見ており、地位を伴う本分を尽くすことに絶対同意しないように自分に警告していました。そうすれば転落も失敗もせず、苦痛に満ちた精錬の中で生きることもないからです。神様の義なる性質は私たちの裁き、刑罰、懲らしめ、鍛錬を含んでいますが、それはまた寛容と忍耐、そして私たちへの最大の愛も含んでいます。私は以前にそのようなものを見たことがなく、自分の観念と想像に基づく神様への誤解と憶測の状態の中で生きていました。進んで選挙に立候補しようとせず、まして指導者の本分を尽くす大志もなく、結果として真理を得て神様を知る多くの機会を見逃してしまいました。いま初めて、「高き所は寒さに耐えず」とか「高く登るほど落ち方はひどい」などという自分の以前の観念はサタンの馬鹿げた見方であり、私が真理を追求し、神様を知ろうとするにあたって、とてつもない障害だったことがはっきりわかりました。私は神様の啓きとお導きに感謝しました。そのおかげで、神様に抱いていたある種の誤解が取り除けたのです。それと同時に、自分が本当はいかに醜く、忌まわしく、反逆的で、無知だったかを感じ取りました。
その後、自分を省みて、いつも神様に対して自己防衛的になっていたのはなぜか、自分をそうするように操っていた本性は何かについて不思議に思わずにはいられませんでした。私は神様の御言葉を読みました。「そして気の向くままに神を疑い、神への憶測を巡らすなら、あなたは間違いなくあらゆる人々の中で最も不正直である。あなたは神が人間のようでありうるかどうか憶測する。許し難いほど罪深く、狭量な性質で公正さと分別に欠け、正義感がなく、邪悪な策略に溺れ、不誠実でずるく、悪事や闇を喜ぶ、といった具合である。人は神のことを少しも知らないがゆえに、このような考えをもつのではないか。」(『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」〔『言葉』第1巻〕)また兄弟の交わりの言葉も読みました。「試練に直面すると神様に対して自己防衛的になる人はみな不誠実で、利己的で、卑劣であり、自分のことしか考えず、心に神様を抱いていません。このような人は神様と争う人です。彼らは問題に直面するやいなや、神様に対して自己防衛的になり、神様を研究し、『神様はこれによって何を意味されたのか。これが私に起きるのをなぜお許しになったのか』と疑問に思います。そして神様を説得しようと試みます。そのような人は不正な意図をもっていませんか。そのような人にとって真理を追い求めるのは簡単なことですか。簡単ではありません。これらは正常な人ではなく、悪魔的な本性を有し、誰かとうまく付き合うことがまったくできません」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(13)』の「問答集」)神様の御言葉とこの交わりは、神様に対して自己防衛的になり憶測するという私の問題の根源を露わにしました。私の本性はあまりに陰険だったので、教会が私を育てて昇進させようとするたびに、神様が私にお抱きになっていた愛を認識することも、神様の綿密な意図を理解することもなかっただけでなく、それとは逆に、指導者の本分を尽くすのはあまりに危険なことだとか、いったんその立場について悪事を犯せば、解任されて淘汰される危険がいつもあるなどと思い込んでいました。そして、日光や雨そのものに至るまで、神様がお造りになった天地と万物だけでなく、神様が発せられた数多くの御言葉による潤しと糧を享受していながら、神様が人にお抱きになる愛と救いを正しく認識しようとこれっぽっちも試みませんでした。神様は人間のように狭量で人間への憐れみや愛などお持ちでないと疑っていたので、私はいつも神様に対して自己防衛的になっては神様を傷つけていました。私は本当に、ここまで不正直で卑劣であり、人生において人間らしさをほんのわずかも示していませんでした。そのとき強い罪悪感を覚え、再び神様の御言葉を思い出しました。「神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)「神が人間を創造した。彼らが堕落していようと神に付き従っていようと、神は人間を自分の愛する者として、あるいは人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接し、オモチャのようには扱わなかった。」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)「創造のはじめから今日まで、人間だけが神と対話できる存在である。つまり、全ての生き物および被造物の中で、人間だけが神と対話できるということである。人間には聞くための耳があり、見るための目があり、言葉を持ち、自分の考え、そして自由意志を持っている。人間は神が語るのを聞き、神の心を理解し、神に与えられた任務を受け容れるために必要なもの全てを持ち合わせており、そのような人間に対して、神は自身のあらゆる望みを置き、自身と同じ心を持ち、語り合うことのできる友となりたいと考える。神が経営を始めて以来、神は人間にその心を捧げてほしい、そうすることで清められ、整えられ、神が満足できるものとなり愛されるものとなり、神を敬い悪を避けるものとなって欲しいと願っている。神は人間がそのようになる日を心待ちにしている。」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)神様が発せられた御言葉の一行一行と一語一語に、人類への愛とお心遣い、希望と期待が明かされていました。神様は、慈母が子どもを扱うかのごとく人類を扱われ、私たちの一人ひとりを心から愛して大切にしてくださいます。御心に沿う人の集団を得るために、神様は二度にわたり受肉され、人類に贖いと救いをもたらすためにとてつもない恥辱に耐え、究極の代価をお払いになりました。私たちが神様に示してきた反逆心、抵抗、誤解、不満にもかかわらず、神様は極めて大きな寛容と忍耐をもって、人類をお救いになる働きを静かに続けてこられました。神様は私たちのあいだにおいでになって真理を表され、私たちを潤して糧をお与えになり、私たちを導いてこられましたが、それはいつの日か、私たちが人をお救いになる神様の善意を理解して神様に心を捧げられるようになり、それによって神様の裁きと刑罰に服従し、堕落した性質を捨て去り、神様に救っていただいた人、神様を畏れて悪を避ける人に変わることを望んでおられるのからです。神様の本質がかくも美しく善であり、神様の人類への愛がかくも真実であることがわかりました。一方、私は盲目で愚かで、神様についての認識がこれっぽっちもなく、まして神様の善意など理解していませんでした。私は神様に対して自己防衛的になり神様を誤解し、無情にも神様の救いを何度も拒み、まるで敵であるかのように神様を避けて距離をとり、神様に痛みと苦しみしか与えなかったのです。しかし、神様は私の反逆心や愚かさや無知を気にされることなく、私を懲らしめ鍛える環境を整えてくださいました。また御言葉を通じて私を啓いて導くことで神様への自己防衛態勢と誤解を取り除き、神様に心を捧げられるようにしてくださいました。私は神様の愛ゆえに恥じ入り、神様の御前で地面にひれ伏しこう言わずにはいられませんでした。「神様。わたしはあなたを信じていると言い張ってきましたが、神様のことをこれっぽっちも知りませんでした。あらゆる点で神様に対して自分を守ろうとむきになり、神様を誤解してきました。私は本当に、あまりにも不誠実なのです。私は何度も何度も神様を傷つけ、御前に出る資格もありません。神様。今日、裁きと刑罰のおかげで、私は人をお救いになる神様の御旨を認識し、誤解を少しずつ取り除いてくださいました。神様。私はこれ以上、真理を得て完全にしていただく機会を失いたくありません。ただ神様の愛に報いるべく、真理を追い求めて本分を尽くすことだけを望みます」祈り終えたあと、心が神様にとても近づいたように感じられ、いまや神様に満足していただく道を求めようとする気力が湧いてきました。
数日後、私が立候補することを望んで、指導者たちが来たるべき選挙について再び私と話し合いに来ました。私にはこれが神様の授けられた悔い改めの機会だとわかり、全力を尽くして大事にしようと思ったので、喜んで「はい」と答えました。神様についての誤解を振りほどき、自己防衛心を捨て去り、選挙に立候補した数日後、私は兄弟姉妹から指導者の本分を尽くす地位に選ばれました。その瞬間、私は深く感動し、目には感謝の涙が溢れました。これは神様が私に授けてくださった愛だと心から実感するとともに、真理を追求して本分を尽くすことに必死に努め、実際の行動を通じて神様の愛に報いることだけを望みました。
この経験を振り返ってみると、それは神様についての誤解を一つ一つ取り除き、神様の性質の偉大さと高貴さを私に正しく認識させる、神様の御言葉による啓きとお導きだったことがわかります。私たちがどれほどの反逆心や堕落、さらには抵抗をあらわそうと、改心する願望を少しでももっている限り、神様は救いの働きをなさるあいだ、私たちをお見捨てにはなりません。むしろ私たちの一人ひとりに最大限の救いをもたらしてくださるのです。神様の御言葉には裁きと断罪が含まれていますが、神様はいつも最も真実の愛と救いを私たちに授けてくださいます。それだけが、私たちが自分の堕落と邪悪さをさらに深く憎み、真理を追求して性質の変化を成し遂げるために努力できる唯一の方法なのです。神様の御言葉にこうあります。「神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことがでない。人々はあえて神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。」(『神の出現と働き』「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」〔『言葉』第1巻〕)神様の本質は美しく善であり、神様について愛すべき点は数多くあります。私たちは経験を通じてそれを実感し、認識する必要があります。今後、私は神様が用意してくださった環境の中で真理を求め、神様の御心を理解しようとすることにさらに多くの時間を費やし、神様の愛すべき特質をさらに見つけ、神様を知ることに努め、できるだけ早く堕落した性質を捨て去り、神様と相容れることができるようになりたいと思います。
河北省 陳剛
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