パリサイ人の道を歩んだことを悟る

2017年12月19日

山西省太原市 悟心

私たちがこれまでの交流会でいつも話し合ってきたことに、ペテロとパウロの歩んだ道があります。ペテロは自分自身と神を知ることに注意を注ぎ、そして神も彼を認めていたが、パウロは自分自身の働き、評判、地位にのみ注意を注ぎ、神に嫌われていたと言われています。私はパウロの道を歩んでしまうことをいつも恐れていました。だからこそ、ペテロがどの様にして神を知るに至ったのかを知るためにペテロの経験についての神の言葉を普段から頻繁に読んでいたのです。この様な生活を続けているうちに、私は自分が以前と比べると従順になり、評判や地位に対する欲が減り、そして自分自身を少しは知ることができた様に感じました。この時点で私は、自分はまだ完全にはペテロの道を歩んではいないが、その端に触れたと言うことはでき、それはつまり少なくともパウロの道を歩んではいないということだと信じていたのです。しかし、私は神の言葉の啓示を受け、恥じることになるのです。

証し

ある朝、私はディヴォーションの時、次の神の言葉を目にしたのです。「ペテロの働きは、被造物の本分を尽くしたものである。彼は使徒としての立場で働いたのではなく、神への愛を追い求める過程の中で働いたのである。パウロもまた、働きの過程で個人的な追求が含まれていたが …パウロの働きには個人的な経験は一切なく、働きそのもののためにあり、変化を追い求める中で働いたのではなかった。その働きの全ては取引きであって、被造物としての本分や神への服従は含まれていなかった。その働きの過程において、パウロの古い性質には何ら変化はなかった。彼の働きは単に他者への奉仕であり、自らの性質を変えることはできなかったのである。…その点ペテロは違った。彼は、刈り込みを受け、取り扱われ、精錬された。ペテロの働きの目的と動機は、パウロのそれとは根本的に違っていた。ペテロはそれほどたくさんの働きをなしたわけではないが、彼の性質は多くの変化を経験し、彼が追い求めたものは真理であり、真の変化であった。彼の働きは単に働きそのもののために行われたのではなかった。(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)神の言葉が私の魂に触れ、私は黙り込みました。ペテロは神の被造物として、自身の本分を尽くした人だったのです。彼は使徒としての立場で働いたのではなく、神を愛そうと努めた過程において働いたのです。では私は被造物としての本分を尽くしていたでしょうか。それとも地位に伴う立場から働きをこなしていただけだったのでしょうか。この時点で、私は過去に経験した様々な状況を振り返ってみました。教会に沢山の仕事があった時、他の兄弟姉妹が「神の働きが本当に負担になっていますね」と言ったのですが、私は思わず「私たちリーダーには対応していく以外に選択肢はないんです」と言ってしまいました。ホストファミリー宅や同僚と一緒にいる時など、自分の体を労わり、リラックスしたいと思うことがあります。しかし、そんな時私は「だめだめ。私はリーダーなんだから、普通の人間性をつらぬかなきゃ。放蕩にふけるわけにはいかない」と思ってしまうのです。神の言葉を食べ飲みする気分でない時、「リーダーの私が神の言葉を食べ飲みせずして、どうして他人の問題を解決できるだろう」とも思うのでした。私はある同僚と一緒に彼女が滞在しているホストファミリーの家に行くことがありましたが、そこのホストシスターの同僚への接し方に比べて、私への接し方に同じくらいの熱心さが見られない時は、「知らないかもしれないけど、私は彼女のリーダーなんですよ」と気分を悪くすることもありました。またある時には、どういう訳か、私はホストブラザーやシスター達と交流する気がしないことがありました。でもその時、「この場に来ても彼らと交流しないなら、私はリーダーとしてどの様な目で見られるだろうか。指導者なんだから、ホストファミリーと交流しなきゃ」と考えたのです。この様な私の振る舞いは、私が自分の地位だけを理由に働いていたということに気付かせてくれました。それが人々との交流であろうと、集会への参加や一般的な仕事であろうと、全てリーダーとして、本分を幾分か尽くし、ある程度の仕事をこなすという義務感からであったに過ぎなかったのです。私は神の被造物としての本分を尽くしていなかったどころか、ペテロの様に神を愛する過程の中で働いてはいなかったのです。もし以前のままの状態が続いていたならば、私は解任され、異動になっており、おそらく今の様に本分を尽くし続けることはできなかったでしょう。あの時初めて、私は真理の実践者でもなければ、神の御心を考慮してもいなかったことに気付いたのです。それどころか、私は評判と地位のためだけに働く卑劣な悪者だったのです。以前の私のような、いい加減な働き方では、神に対して忠誠心を抱くことなど不可能です。それは進んで真理を実践していなかっただけでなく、神の御心を考慮してもいなかったからです。まさに「働きには個人的な経験は一切なく、働きそのもののためにあり、変化を追い求める中で働いたのではなかった。」と神様がおっしゃるとおりです。そんな仕え方でどうやって神の御心を満たすことができるでしょうか。パウロは使徒としての立場で働き、彼の働きにはさまざまな取り組みであふれていました。私はリーダーとしての立場で働き、労力を費やしていたのです。神を信じるこの様な動機や目的が、パウロのそれとどう違うというのでしょうか。

この時点で、私は神の前に平伏したのです。ああ、神様!この時にかなった救いに感謝いたします。おかげで正気を取り戻し、私が陥っていた本当の状態を認識し、私が依然としてパリサイ人のパウロと同じ道を歩んでいたことに気づきました。私の働きと本分の尽くし方はパリサイ人のそれと全く同じで、神様はご気分を害されたことでしょう。全能神よ!私はあなたの御言葉の指導の下に、私の間違った意図や観念を改めます。私は被造物としての私の本分を尽くし、ペテロの例に習いながら神を愛する過程を通してすべきことを実行し、今後リーダーとしての立場で働くのではなく、ペテロの歩んだ道を求め、それに向かって前進するために最善を尽くします。

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