利己心を手放せば心が解放される

2021年1月30日

全能神は言われます。「正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。このような人々はまるで天使である。純粋で、活気があり、けっして神について不平を言わず、地上の神の栄光だけに、ひたすら努力を捧げる(『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第十六章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉によれば正常な人の性質には、歪み、欺瞞、利己心、卑しさは存在しません。誠実に神の委託を受け兄弟姉妹と力を合わせて、本分のために尽くすことは人が行える最も基本的なことです。かつて私は「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」というサタンの哲学に依って生きていました。利己的で、卑しく、心が歪み、ずる賢く、人間らしさを完全に欠いていました。神の御言葉の裁きと刑罰を経験して初めて私のサタンの性質が変わり始めたのです。

2018年6月に、組に加わった張兄弟が、本分における私のパートナーになりました。その時私は「この本分を尽くしてだいぶ経つ。原則を理解し、いくらか結果も出ている。どこかのタイミングでこの組を離れ、もっと重大な役目に挑戦しよう。張兄弟をできるだけ早く慣れさせて、組の仕事を任せられるようにしなくては」と考えました。そこで私が本分で学んだ基本的な技能の指導を始めました。3か月もすると張兄弟は基本的なことはすべて理解し、かなりの速さで成長していました。私はそのことに危機感を覚え始めました。「張兄弟は本当に飲み込みが早い。これが続けば、追い抜かれてしまうかも。指導者が張兄弟の有能ぶりを知れば、重要な役目をとられてしまうのではないか」。この考えが浮かんだ時、こう思いました。「ちょっと指導を控えなければ。知っていることを全部教えるわけにはいかない」。それからというもの、張兄弟の能力が足りない部分を見つけても表面的なことのみに言及し知識のすべては共有しませんでした。良くないことだとわかっていましたが、「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」という古いことわざが頭に浮かびました。彼が目立つと私がかすんでしまう。負けるわけにはいかなかったのです。その後もパートナーを続けましたが、張兄弟に何か聞かれた時には、部分的な答えしか与えませんでした。

それから間もなく、指導者が重要な仕事のことで張兄弟を探しにきました。それを聞き鼓動が早くなりました。私は思いました。「張兄弟よりも長く組にいるのに、なぜ私に言ってくれないのか。私は張兄弟に劣るのか指導したのは私なのに今や彼が注目され、私は押しのけられ忘れ去られてしまったのです。このまま指導を続ければ、ますます彼は成長するのではないか。彼が重要な役目に就いたら、誰が私を尊敬してくれるのか」。ですからそれ以降は張兄弟が困難に直面しても、助けませんでした。問題がすぐに解決できなくなり、組の仕事に支障をきたし、ついには教会の働きを阻むことになりました。責任と気まずさは感じたものの自分の行いを全く反省しませんでした。そんなある日、脇が突然かゆくなり、どうにもおさまりません。薬も効きません。次の日、腕がひどく痛み出し、動かせなくなりました。これは偶然ではないと気づいた私は神の御前で祈りました。「神よ。この突然の症状はあなたの善意によるものでしょう。しかし私は鈍感なので御心がわかりません。どうか啓きを与え、お導き下さい」。

ある日祈りを捧げる私の頭に、次の御言葉が突然うかびました。「自分がもつすべてのものを捧げる気がないなら、あるいはそれを隠してしまい込み、いい加減に行動するなら、……(「正直者になって初めて本当に幸せになれる」『キリストの言葉の記録』)。これにより私は目覚めました。私は名声や利益ばかりを求めて生きていたのです。兄弟に追い抜かれることを恐れ、公正さを欠き、知識を共有しようとしませんでした。この症状は、反省を促す神の警告だったのです。そのあと、次の御言葉の一節を読みました「不信心者にはある種の堕落した性質があります。彼らは他人に専門的な知識や技能を教えるとき、『生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う』という考えを持っています。知っていることをすべて他人に教えてしまうと、誰も自分を尊敬しなくなり、地位を失うことになると考えているのです。そのため知識の一部は伏せておく必要があると感じ、知っていることの80%しか教えず、いくつかの『切り札』も隠し持つようにしています。それが、師としての地位を示す唯一の方法だと思っているのです。いつも情報を伏せて、奥の手を隠し持っておくというのは、どんな性質だと言えるでしょうか。それは欺瞞です。……ただ最も表面的なことや基本的なことを皆に教えるだけで、自分はうまくやっているとか、知識を伏せてはいないなどと思ってはいけません。そうはいかないのです。場合によっては、多少の理論、あるいは人々が文字通りに理解できる物事だけを教えることもあるかもしれませんが、初心者は本質や要点をまったく理解することができません。あなたは踏み込んだり細部に言及したりすることなくただ概要を説明し、内心このように思っています。『とにかくわたしは伝えたし、何かを意図的に隠したりはしていない。わからないならそれはあなたの素質が不足しているせいなので、わたしを責めてはいけない。あとはただ、神がどうあなたを導くか様子を見るしかない』と。このような考え方は、欺瞞を含んでいないでしょうか。自分勝手で卑しくないでしょうか。なぜ、自分の心の中にあること、自分が理解していることを、すべて人に教えられないのでしょうか。なぜ知識を出し惜しむのですか。それはあなたの意図と性質の問題です」(『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は、私の状況を的確に示しました。私は名声や地位にとらわれ自分が習得した技能を教えることを拒みました。張兄弟が成長し、私を追い抜くことを恐れました。「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」という言葉のように。常に一歩引くことで、自分勝手で卑しく、歪んだサタンの本性に支配されていたのではないか。張兄弟が組に入った時のことを思いました。彼を指導した動機はなるべく早く組の仕事を習得してもらうためでした。そうすれば私の本分を他の者に引き継ぎ私はより重要な役目を担うことができるからです。しかし張兄弟の理解力が高いこと、指導者から高く評価されていることを知り、とても不安になりました。このままでは、いずれ私は追い抜かれ、取って代わられると思いました。その結果、知っていることを教えず、本分において困っている時も助けず、それにより教会の働きに遅れが生じました。名声や地位を守ることに夢中になるあまり、神の家の働きを全く考えていなかったのです。自分勝手で欺瞞に満ちた人間でした。あの症状は時を得た神の懲らしめであり、あれがなければ、私は反省することはなかったでしょう。そのあと次の御言葉を読みました。「あなたは神を信仰して以来、神の言葉を飲み食いし、神の裁きと刑罰を受け入れて、神の救いを受けたいと願ってきました。しかしもしあなたの行動原則や、物事を行い人としてふるまう際の方向性が変わっていなければ、そしてあなたが不信心者と同じなのであれば、神はあなたを信仰者として認めるでしょうか? いいえ、認めないでしょう。神はあなたがいまだに不信心者の道を歩いていると言うでしょう。そのためあなたは本分を尽くすにしても、専門的な知識を身につけるにしても、なすことすべてにおいて原則を守らなければなりません。すべての行いを真理に従って扱い、真理に従って実践しなければなりません。真理を用いて問題を解決し、自分の中に露わされた堕落した性質を解決し、誤ったやり方や考えを解決しなければなりません。そうしたものを継続的に克服していかなければならないのです。一つには、自分自身を吟味する必要があります。吟味した結果、堕落した性質が見つかったら、それを解決し、抑え、捨てなければなりません。こうした問題を解決し、自分の堕落した性質に基づいて物事を行うことを止めたとき、そして自分の動機や利益を手放し、真理の原則に従って実践できるようになったとき、初めてあなたは神に真に従う者が行うべきことをするようになるのです」(『キリストの言葉の記録』より引用)。「あなたはその専門的な知識の本質と要点、つまり他の人が見抜いていないことや悟っていないことを理解し、それを人々に伝えて、彼らが皆自分の力を発揮し、それによってより多くの、より深い、より成熟したものを解明できるようにしなければなりません。このようなことすべてに貢献できれば、それはこの本分を尽くす人たちにとっても、また神の家の働きにとっても有益になるでしょう。……ほとんどの人は、専門知識の特定の側面に初めて触れるとき、文字通りの意味しか理解できず、要点や本質に関わる部分については、把握できるまでに一定期間の練習が必要になります。あなたがそうした細部をすでに把握しているのなら、それを直接教えるべきです。そのように回り道をさせ、理解に長い時間をかけさせてはなりません。それがあなたの責任であり、あなたのすべきことです。自分が要点や本質だと思うことを伝えた場合のみ、あなたは何も出し惜しまないことになり、そうして初めて自分勝手ではなくなるのです」(『キリストの言葉の記録』)。御言葉により、本分における自己反省に重きを置き、利己的で卑しいサタンの本性を解決するため真理を求めなければと気づかされました。間違った思想や考えを捨て、兄弟姉妹と心をひとつにし本分を尽くす必要がありました。真理においても本分においても個人としての私たちには欠けているところが多いので兄弟姉妹は互いに助け合いながら本分を尽くすべきなのです。そして理解した物事は余すことなく交わるべきなのです。こうして互いに欠点を補うことで、回り道をせずにすみます。実際、私が張兄弟よりほんの少し優れていたのはすべて神の優しさによるものでした。神の御心を思い、張兄弟が一刻も早く本分を尽くせるよう利己心を捨てて知っていることをすべて教えるべきでした。これこそが神の御心に沿うのです。それに気づいた私は神の御前に急ぎ、祈りました。間違った考えを捨て利己的で卑しいサタンの性質に依らず生きる決意をしました。そのあと張兄弟に、私の状況を正直に話し、私のサタンの性質について分析しました。また私がもつ技能の要点を伝えました。この実践を始めて、心が穏やかになり体の症状もいつしか消えていました。

この経験を通して私は変わったはずだったのですがサタンの性質は本当に深く根づいていました。しかるべき状況になったとたん、再びあの毒が顔を出してきたのです。

2019年3月、張兄弟と私は同時に教会の指導者に選ばれました。最初は非常に仲良くやっていました。教会の中の問題も、直面した困難も、ともに真理を追求し解決しました。しかしある日、教会でこんな言葉を聞いてしまったのです。「張兄弟の真理についての交わりはとても実践的だ。彼は責任をもって本分を尽くしている」。これを聞き、私の心は再び乱れました。「張兄弟に出し抜かれたらあっという間に面目丸つぶれだ」と思いました。それからは、業務について話をするときには失敗や欠点を指摘することに終始し解決につながる実践の道を共有しませんでした。助けを求められた時には歯を食いしばって、少しだけ応えました。張兄弟が知識を得たら、自力で問題を解決するようになり、私の出番がなくなるかもしれません。こんなこともありました。張兄弟が、弱さを見せている兄弟姉妹を助けようしていたのですが、正しい交わりをもたなければ、意味がないと悩んでいました。そこで私に、交わるべき真理について相談に来ました。しかし私は知っていることをすべて教え、張兄弟が問題を解決したら兄弟姉妹は絶対に彼を尊敬するだろう。そうなったら私は次の交わりで何を話すのか、張兄弟に見劣りするのではと思いました。そして「次の交わりのために何か残しておくべきだ。私の方が問題解決に長けていることを見せなければ」と思い張兄弟には簡単な説明しかせず具体的なことも、重要なことも伝えませんでした。利己心にとらわれ、すべての知識を共有したくなかった私は業務においても張兄弟を意図的に避け話し合いをもつ時間も減っていきました。時おり罪の意識を感じ、心の中で「これでは、兄弟と力を合わせて本分を尽くしていない。神は喜ばれない」と思いました。しかしこうも考えました。「張兄弟が私を追い抜けば、皆が彼を上に見る」と。真理の実践が嫌になりました。そして、こんな状態から抜け出せなかった私に神の義なる性質が降りかかったのです。私の心は常に乱れ集会での交わりも光を欠き、本分でも何も達成できません。毎晩、早い時間に眠くなってしまい、不安感が膨らんでいきました。その時、神が私から離れたことに気づきました。そして恐くなりました。神の御前に急ぎ、祈りました。「神よ、私は利己的で卑しいサタンの性質を生きていました。あなたが深く嫌うとわかっていながら止められず、抜け出すこともできません。どうか啓きを与えてください。私の本性と本質をより深く理解できるように」。

祈ったあと、御言葉の次の一節を読みました。「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなた方は今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました(「ペテロの道を歩むには」『キリストの言葉の記録』)。御言葉が教えてくれたのは私が利己的で卑しいサタンの性質に依らずにはいられなかったということでした。サタンの毒である「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」が私のいのちとなっていたからです。それらを良い事であり、生きるための黄金律ととらえました。目指すべき生き方であり、自分たちを守る唯一の方法と考えました。結果として、利己的で卑しく、自分本位な人間になっていきました。協力して行う本分において、張兄弟の方が優れているのではといつもびくびくし、仕事について話すときは常に表面的なこと、最低限のことに留め、一部の知識しか共有しませんでした。問題に直面した張兄弟から助けを求められた時神の家の働きよりもすべてを教えることで自分が教会で輝けなくなることが心配でした。正しい道ではないと知りながらも、助けませんでした。私が本分を尽くしていたのは神の御心への配慮からでも、神の家の働きを守るためでもなく個人的な名声と地位のためでした。私は本当に自分勝手で、ずるい人間でした。本分においてサタンの性質に頼る私が神の導きと祝福を得ることができるでしょうか。知識を誰にも教えずに自分だけのものにすれば教会で一番の存在になり、尊敬されると思っていました。しかし実際は、指導を怠るほどに私の魂は黒くなり、神の導きからも遠ざかりました。ついには、以前できたこともできなくなってしまったのです。その時、主イエスの次の言葉を思い出しました。「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイによる福音書 13:12)。この経験から、私は神の義なる性質を深く理解しました。さらに考えてみると本分における問題を理解できていたのは、すべて神の導きと啓きによるものであり御言葉の導きなしでは、私は盲目なのです。何も理解できず、何の問題も解決できません。しかし、自分ではそれに全く気づかず恥ずかしげもなく聖霊の啓きを自分の力だと誤解していたのです。私は神から栄光を奪い去ろうとしていたのでは。神は人の心と精神を見通せます。本分においてサタンの性質に頼り続ければ必ずや神に厭われ、排除されます。そう考えた私はすぐに神の御前で祈りました。「神よ、本分において私欲を追求したり、卑劣な人間になることは金輪際ありません。張兄弟とよく協力し、しっかり本分を尽くします」。

そのあと、次の御言葉を読みました。「いつも自分のために物事を行なったり、いつも自身の利益を考えたり、自分の地位、体面、評判を気にしたりしてはいけません。人の利益を考慮してはいけないのです。まずは神の家の利益を考え、それを最優先にしなければなりません。つまり、神の旨を察しなければいけません。自分が本分を尽くす中で不純だったかどうか、全力で忠誠を尽くし、自分の責任を果たし、自分のすべてを捧げたかどうか、そして自分の本分と神の家の働きを心から考えてきたかどうかを熟慮することから始めなさい。あなたはこれらのことを考える必要があります。これらのことを頻繁に考慮すれば、立派に本分を尽くすのが簡単になるでしょう(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。「自分の利己的で卑しい正体があわらになり、そのことを自覚したときは、真理を求める必要があります。神の旨に沿うにはどうすればいいのか。どう行動すれば皆のためになるのか。つまり、まず自分の利益を棚上げにすることから始め、その利益を自分の霊的背丈に合わせて少しずつ手放していかなければなりません。何度か経験していると、それを完全に棚上げできるようになり、そうするうちにますます安定を感じるようになります。自分の利益を棚上げすればするほど、あなたは人として良心と理知を備えるべきだと感じるようになります。そして利己的な動機を持たなければ、自分はまっすぐで公正な人間であり、ただ神を満足させるために行動しているのだということを実感するでしょう。そしてそのような行動を通じて、自分が『人間』と呼ばれるにふさわしいものになるのを感じ、地上でそのように生きていると、自分が公平かつ正直であり、純粋な人間であり、潔白な心を持っており、神に授けられたすべてのものに値すると感じるようになるでしょう。そのように生きれば生きるほど、揺るぎない明るい気持ちになれるのです。その結果、あなたは正しい道に足を踏み入れてはいないでしょうか(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。これを読み、わかりました。本分を尽くしたければ、神の家の働きを守り、深い責任感をもって全力で本分に臨む方法をまず考えなければなりません。神は、本分における私たちの態度を重要視します。神の望みは、私たちが誠実な心で神に向き合い本分にすべてを捧げ、良心的で慈愛に満ちた人間になることです。神の御心を理解し、心の中で神に祈りました。利己心を捨て、個人の利益を気にせず、教会と兄弟姉妹のいのちにとって有益なことは何でもすると神に伝えました。その後、張兄弟と話をしました。自分勝手で卑しいサタンの性質と、欺瞞に満ちた本心を打ち明け、私たちの働きにおける問題や欠点を解決するためともに真理を追求し、知っていることを余すことなく彼に交わりました。このように実践してから、安らぎを感じるようになりました。裏のない公平な人間でいることのすばらしさを知りました。私の状況は次第に改善し、本分である程度の結果をだせるようになりました。いまだに自分勝手で卑しいサタンの性質を見せることもありますが、そんな時は、神がどれほど嫌悪されるかを思い、神の御前で祈りを捧げ自分の間違った考えを捨て、神の御言葉に従って実践できるよう願います。

このような経験を通してサタンの性質とサタンの毒に依存して本分を尽くせば利己的で卑しく、自分勝手な人間になるだけということがよくわかりました。人間らしさを完全に失い自分に痛みをもたらすだけでなく、他人との和も乱します。神の家の働きに害を及ぼすだけです。誠実な人間として御言葉に従い真理を実践し自分だけが得するような考えを捨てた時本分において聖霊の啓きと導きを得て、心が安らぎました。神に感謝! 神の御言葉の裁きと刑罰によって利己心と欺瞞というサタンの性質が多少理解でき、多少の真理を実践し、人間らしく生きられるようになりました。

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