本分はキャリアではない

2023年7月12日

去年、私は2つの教会で新人を担当していました。働きの求めに応じて、時々私の教会から他の教会に人を異動させることがありました。最初は喜んで協力し、すぐに最適な人材を推薦していました。でもしばらくすると、優秀な人材を異動させると自分の働きが大変になると気づきました。そして思ったんです。私が働きをうまくこなさなければ、成果を上げられないとして指導者に解任されるかも。そしたら面目が丸つぶれだわ、と。それからは、人材を積極的に提供したくなくなりました。それから間もなく、新しい信者のラナ姉妹が、素質が高く真理の追求も熱心なことに気づきました。御言葉を読み、真理の実践や現実に入ることについていつも質問をしてきます。私は思いました。うちの教会では水を与える人が必要だから、大切に育てようと。ラナ姉妹がもっと多くの真理を理解し、身につけられるようサポートしました。新人に水を与えるだけでなく、成果を出しているように見られれば、皆が私の能力を高く評価してくれる。いいことだらけだわと思った。そんなある日指導者に言われました。他の教会で水を与える人が必要になった。ラナ姉妹は成果を上げていて適任のようだから、その本分を担当させるべきだと。それを聞いて、気持ちが乱れました。人が必要なのはその教会だけじゃないわ。納得できないと思いました。数日後、また指導者がラナ姉妹の異動の話を持ち出し、素質が高いようだから、もっと大きな責任を負わせたらと言いました。反抗心が募りました。「そんなふうに彼女を奪っていくの? うちの教会がこのまま成果を出せなければ、私は解任されるわ」と思った。だから言ったんです。「ラナ姉妹はここで指導者になれるよう教育しようと思っていました」と。他の教会では新人がたくさん来ていて、水を与える人が必要なのは知っていたので、彼女を手放したくないとは言えなかった。でも怒りが収まらなくて、辛かった。その少し前にも、指導者が2人の班長を他の教会に異動させたので、常に欠員を補充して、新人を教育している状態でしたし、そもそも素質の高い人を見つけるのは簡単ではありません。成果がだせなければ、仕事ができる人間だと思ってもらえない。これ以上本分を続けられないと思い、どんどん惨めになって、不当な扱いを受けている気がして、涙が流れました。そんな私を見て、指導者が神の旨と求めを交わってくれましたが、耳に入ってきませんでした。私の振る舞いは教会の働きを乱していると言われても、受け入れることができず、「でもこれは、私の教会の働きを思ってのこと。もし働きを乱していると思うならそれでいいわ。さっさと私を解任して、問題を解決すればいい」と思った。そのような考えが浮かんだことが辛くて、神に祈りました。「神よ、今の状況に従うことができません。不当な扱いを受けてるように感じます。私の何が問題なのかを理解できるように導いてください」と。

祈った後、振り返りました。指導者が通常通りに人を異動させようとした時、他の人はそれでいいのに、私だけが納得いかず、抵抗したのはなぜなのか。心の中に大きな反抗心が芽生えた。しかもそうなったのは一度や二度ではなかった。どうして従えないの? そして御言葉のこの一節を思い出したんです。「本分は自分で経営するものではありません。それはあなた自身の職業でも働きでもなく、神の働きです。神の働きはあなたの協力を必要としており、そこからあなたの本分が生じるのです。神の働きのうち人間が協力しなければならない部分こそ、その人の本分です。本分は神の働きの一部であり、あなたの職業でも、家庭のことでも、生活に関する個人的なことでもありません。あなたの本分が外部のことか内部のことかにかかわらず、また、知的作業か肉体労働かにかかわらず、本分はあなたが行うべき義務であり、教会の働きであり、神の経営(救いの)計画の一部を成すとともに、神があなたに託した務めでもあります。あなたの個人的な仕事ではないのです。では、自分の本分をどのように扱うべきですか。少なくとも、自分の好きなように本分を尽くしてはならず、無茶な行ないをしてはなりません」(『終わりの日のキリスト講話集』「真理の原則を探し求めることでのみ、本分を立派に尽くすことができる」〔『言葉』第3巻〕)。「そもそも、本分とは何ですか。それは神が人に託した務めであり、神の家の働きの一部であり、神の選民の一人ひとりが背負うべき責任であり義務です。本分はある種の取り組みですか。個人的な家庭の仕事ですか。一度あなたに与えられた本分は、あなたの個人的な事柄になると言えますか。絶対にそんなことはありません。ではどのように自分の本分を尽くすべきですか。神の要求と言葉、基準に従って行動し、人間の主観的な欲求ではなく真理の原則をもとに振る舞うことで、本分を尽くすべきです。『一度私に与えられた本分は、私の事柄ではないのですか。本分は私の任務なので、私が任務にあたることは私の事柄ではないのですか。自分の事柄として本分を扱えば、本分をきちんと尽くすことになりませんか。自分の事柄のように扱うことなく本分をきちんと尽くすことができますか』と言う人もいます。このような言い分は正しいですか、間違いですか。間違いです。真理と一致しません。本分は人の個人的な事柄ではなく、神の事柄です。神の働きの一部であり、あなたは神の求める通りに行わなければなりません。神への服従心をもって本分を尽くすことでのみ、基準に達することができます。自分の観念や想像、自分の意図に従っていつも本分を尽くしているならば、基準を満たすことは決してありません。いつまでも自分の好きなように本分を行うのは、本分を尽くしていることになりません。なぜならば、あなたの行動は神の経営の範囲外にあるからです。それは神の家の働きではなく、自分で経営し、自分の業務を行うことなので、神に記憶されないのです」(『終わりの日のキリスト講話集』「真理の原則を探し求めることでのみ、本分を立派に尽くすことができる」〔『言葉』第3巻〕)。この御言葉でわかりました。本分は私のキャリアではなく、神の委託なのだから、神の求めに従って行わなければならない。個人的な望みや計画を基に、何でも好きなことをしていいわけじゃない。一見、多くの働きをしているように見えても、それは本分を尽くしていたのではなく、自分の事業を経営して、神に抵抗していたんです。振り返ると、人を異動させたいと言われた時はいつも、素質の高い人を手放したくないと考えてしまった。自分の教会で成果を上げられなくなって、自分の地位を失うかもしれないから。自分の評判や地位を守りたくて、人を差し出すことをためらった。本分は私の責任だと頭ではわかっていたけど、実際の状況におかれると、本分を自分の事業、自分の仕事のように扱った。私に与えられたのだから私のもので、私が決定権を持つと考えた。そして自分の働きに影響しない時には、喜んで人を提供したけど、働きに影響を及ぼすと分かった瞬間、消極的になった。ラナ姉妹が異動になると知った時、とてもがっかりして、手放したくないと思った。不当な扱いのように感じて、ケンカ腰になり、本分を投げ出したいと思った。本分を尽くすどころか、教会の働きを乱し、妨害していました。教会の働きを守ることや、神を喜ばせることの代わりに、自分の利益を計算し、自分の評判や地位を高めるために本分を利用しました。すべて自分のためだったんです。そんな状態でどれほど多くの仕事をこなしても、神は喜んでくれません。本分は神が与えたもので、神の家のためのもの。教会が異動を必要とするなら、喜んで協力すべきで、自分のことしか考えない、利己的な態度はやめるべきです。

次の日、指導者が集会で言いました。教会指導者の仕事は、兄弟姉妹に水を与えながら、同時に人を育て、全員がその人にふさわしい本分を尽くせるようにすることだと。それを聞いて、夢から醒めたような気がしました。そうよ、兄弟姉妹を潤して、適切な本分を見つけられるようにすることも、私の仕事の一部だった。でも教会が人を必要とした時、表立って拒絶はしなかったけど、心の中で抵抗し、断る口実を見つけようした。それは本分を尽くしていることになりません。本分での責任すら果たさず、独りよがりな態度をとり、自分を振り返ることもなく、教会の働きを邪魔した。姉妹が言うように、教会の働きを乱していたのでは?この本分に就いたばかりの頃は、教会の福音の働きを精一杯やろうと思っていたのに、今はその邪魔をする障害物になっている。そう思うと後悔の念がわき、神に悔い改めたくなりました。

数日後、指導者からメールが来て、福音を説ける人を2人、他の教会に異動させたいと言われました。そのメールを読んだ時、心はとても落ち着いていて、神が真理を実践する機会を与えてくれているのだと思いました。でも候補者を選別している時に、人を手放すことに少しためらいを感じて、最も優秀な2人の姉妹を送るか、それほどでもない2人を送るか迷いました。その考えが浮かんだ時に、また自分勝手になっていて、同じ過ちを繰り返していると気づいたので、御言葉の一節を読みました。「ずる賢く邪悪な人の心は、個人的な野心、計画、策略で溢れています。これらを手放すことは簡単ですか。(いいえ。)本分を正しく尽くしたいのに、これらを手放せない場合、どうするべきですか。ここに一本の道があります。自分がしていることの本質が、自分には明らかでなければなりません。神の家の利益に関係する、特別に重要なことである場合、先送りにしたり、間違えたり、神の家の利益を損ねたり、神の家の働きを乱したりしてはなりません。これが本分を尽くすうえで従うべき原則です。神の家の利益が損なわれていなければ、まずはあなたの野心や欲望を脇へやりなさい。あなたの利益はある程度損なわれ、二の次にされなければなりませんが、神の性質を侵すことは絶対に越えてはならない一線ですから、それよりはあなたが少々の苦労をする方がよいのです。あなたの情けない野心や虚栄心を満足させるために教会の働きを損ねたならば、あなたの最終的な結果はどうなりますか。あなたは解任され、淘汰されるかもしれません。神の性質の怒りを買い、救われる機会を失ったかもしれません。神が人に与える機会には限りがあります。神に試される機会を人は何度得られますか。それは人の本質次第です。与えられた機会を最大限に活かし、自分の誇りや虚栄心よりも教会の働きを完成させることを優先できるなら、正しい考え方をしています」『終わりの日のキリスト講話集』(『終わりの日のキリスト講話集』「真理の原則を探し求めることでのみ、本分を立派に尽くすことができる」〔『言葉』第3巻〕)。指導者は教会の働きに必要だからこの采配を行ったのに、私は自分の名声と地位を守るために従うことができませんでした。私はいつも、もし優秀な人材が異動してしまったら、教会の働きが滞り、自分が解任されると不安になりました。教会の働きを守り、神の旨を大切にする人が解任されることなどあるでしょうか?ありません。自分勝手で卑しく、優秀な人材を手放したくないと考え、教会の働きと利益に悪影響を与える人が、解任され、追放されるのです。そして2人の姉妹が手放さなかったからといって、必ずしも教会の成果につながるとは限りません。私の動機は間違っていました。自分の名声や地位を守ろうとすれば、聖霊の働きは得られず、神の祝福なしに、本分で成果をあげることなんてできないのです。そう考えると気持ちが楽になり、心の中で神に言いました。「神よ、名声や地位を守るのをやめ、真理を実践してあなたを満足させたいです」と。その後、教会の中で最も優秀な2人の姉妹を推薦しました。真理を実践できて、心がとても穏やかになり、いいことをしたと思えました。

その経験を経て、自分が少し変われたと思ったんです。でも実は、その後すぐ完全に暴かれることになります。ある日指導者から、私たちの教会に2か国語を話す新人がたくさん入ったので、水を与える役目の人を数人出してほしいと言われました。でも新人を選び始めてから、2か国語を話せて、素質の高い人をほとんど全員失うことになると気づいたんです。すると、自分の評判や地位がまた気になり始めました。適任者がみんないなくなったら、教会の福音の働きが滞るし、成果を上げられなくなるかもと思った。その夜、指導者から状況を確認するメールが届いたのですが、強い抵抗心を感じました。指導者が名前を出すたびに、「ええ」「はい」としか答えませんでした。詳細を聞かれても、何も言う気がせず、こう思いました。「本当は手放したくないのに、そんなに質問ばかりして。私たちの教会から本分を尽くせる人がいなくなったら、私はどうやって仕事をすればいいの?」と。

その後、集会の中で、御言葉を朗読する動画をみて、自分の堕落を認識できたんです。全能神は言われます。「反キリストの利己心と卑劣さの本質は明白であり、この本質は特に目立った表出をします。教会からある働きを託されても、それにより自分が目立つ機会がなければ、反キリストは興味をもちません。名声と利益をもたらし、自分が目立つことができる働きであれば、強い関心を示し喜んで受け入れます。感謝されなかったり、人の気分を害することを伴ったりする働きや、自分の地位や評判に何の利益もない働きであれば、自分とは何の関係もなく、自分がすべきではないかのように、まったく興味を示さず、受け入れません。困難に遭遇すると、教会の働きに配慮して大局的な見方をするよう努めるどころか、困難を解決するために真理を求めようとさえしません。例えば、神の家の働きの範囲内で、全体的な働きの必要から人が異動になることがあります。ある教会から何人かが異動になる場合、指導者がこの問題に対処する理知的な方法は何ですか。教会指導者が全体的な利益ではなく自分の教会の働きのことだけを気にするのは、どういう問題ですか。教会指導者はなぜ神の家の全体的な采配に従うことができないのですか。このような人は神の旨に配慮し、働きの全体像に気を配っているといえますか。神の家の全体的な働きを考えず、自分の教会の利益ばかりを気にするならば、利己的で卑劣ではありませんか。教会指導者は、神の統治と采配、そして神の家の一元的に統合された采配と調整に無条件に従うべきです。これは真理の原則に適っています。神の家の働きのために必要ならば、誰であろうと神の家の調整と采配に従わなければならず、まるで特定の指導者や働き手に属しているかのように、そのような人たちに支配されることなど絶対にあってはなりません。神の選民が神の家の一元的な采配に従うことは、天が命じ、地が認めることであり、何人たりとも逆らうことはできません。指導者や働き手が個人的に、原則に反する非理知的な異動を行うのなら、服従しないこともありえますが、それ以外の場合は、神の選民は采配に必ず従うべきであり、いかなる指導者や働き手であれ、他人を支配しようとする権利も理由もありません。神の家の働きではない働きなど存在しますか。神の国の福音を広めることに関連しない働きはありますか。すべてが神の家の働きであり、その一つ一つが平等で、『あなたの働き』『わたしの働き』という区別はありません。……神の選民は、神の家が一元的に配属すべきです。これには指導者も班長も個人も関係ありません。全員が原則に従って行動しなければなりません。これが神の家の規則です。反キリストが神の家の原則に従って行動せず、自分の地位や利益のために常に策略を巡らせ、優れた素質をもつ兄弟姉妹を自分に仕えさせ、自分の力と地位を強化しようとするならば、それは利己的で卑劣ではありませんか。素質の優れた人を自分のそばに置き、神の家の命により異動させられないようにすることは、教会の働きを考えているように表面上は見えますが、実際は、自分の権力と地位のことしか考えておらず、教会の働きのことなどまったく頭にありません。働きを台無しにし、解任され、地位を失うことを恐れているのです。反キリストが、神の家の全体的な働きを考慮せず、自分の地位のことばかり考え、神の家の利益を損ねることなどおかまいなしに自分の地位を守り、教会の働きを犠牲にして自分の地位と利益を保とうとするならば、それは利己的で卑劣なことです。このような状況に直面した場合、少なくとも自分の良心に照らして考えるべきです。『彼らは神の家のものであり、私個人の所有物ではない。そして私も神の家の一員である。神の家が配置替えをするのを止めるどんな権利が私にあるというのか。自分の責任範囲にある働きのことだけではなく、神の家の全体的な利益を考えるべきだ』。これこそが、良心と理知のある人がもつべき考えであり、神を信じる人がもつべき理知です。神の家で特別な必要性が生じた場合、最も重要なことは神の家の采配に従うことです。偽指導者や反キリストは、このような良心や理知をもちあわせていません。彼らは皆、利己的で、自分のことしか考えず、教会の働きなど頭にありません。目先の利益ばかりに気をとられ、神の家の全体的な働きについて考えないので、神の家の采配に従うことなど全然できません。非常に利己的で卑劣です。彼らは神の家で、厚かましくも働きの邪魔をしたり、自分の意向に固執したりします。彼らは人間性が誰よりも欠けている悪人です。反キリストとはこのような人のことです。彼らは教会の働きや、兄弟姉妹、さらには神の家の財産さえ、自分の権利下にあるものはすべて、自分の私有財産のように常に扱います。これらをどのように分配し、動かし、使うかは彼ら次第で、神の家の介入を許しません。一度彼らの手中におさまったものは、まるでサタンの所有物のように、誰にも触れることは許されません。彼らは大ボスであり、首領であり、その領地に足を踏み入れた人はすべて、彼らの命令と采配に従わなければならず、彼らの顔色をうかがうことになります。反キリストの特徴のうち利己心と卑劣さは、このように表出するのです(『反キリストを暴く』「補説4 反キリストの性格とその性質の本質を要約する(1)」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉は私の状態を暴いていました。兄弟姉妹を支配下に置き、教会に渡さないというのは、自分勝手で卑しく、反キリストの性質を表すのと同じです。指導者が私の教会から人を異動させようとするたびに、心の中で抵抗し、ためらい、怒りに任せて行動し、不当だと感じ、指導者が交わりで私の考えを変え、優しい言葉をかけるまで、異動に同意しなかった。自分を王様かのように考え、自分が担当する教会からの人の異動は、私に決定権があると考え、人が必要な時は、私の許可があって初めて異動することができ、許可なしには誰も動けない。教会をしっかりと掌握し、全員を自分の指揮下に置いた。教会で権力を握るのはキリストではなく自分だと思った。教育した新人を自分の所有物のように扱い、彼らが本分で達成したことを利用して自分の地位を固めようとした。本当に恥知らずでした! 神の教会や神の家の働きを、まるで自分の王国のように考え、王様のように振る舞った。神に抵抗する反キリストの道を歩んでいたのです。宗教界の長老たちのことも考えました。主が再来し多くの真理を表していることについて、全能神教会が証を立てていると知りながら、もしそれを信徒が認識すれば、彼らが全能神に従うようになり、自分たちの地位や評判、生きる術を失うことになるので、信徒たちが真の道を調べないようにしています。羊たちを自分のものだと主張して、彼らが神の声を聞いて神に従うことを阻止し、まるで自分の所有物であるかのように扱い、厳しく支配しています。彼らは悪の下僕であり、終わりに日に暴かれる反キリストです。私の行動はそんな牧師や長老と実質的に同じだったのでは? 自分の評判や地位のために他人を支配していたのですから。悔い改めなければ、反キリストたちとともに呪われ懲罰を受けると思いました。神の選民は神のもの。人が所有することなどできず、本分に必要とされる人は、求めに応じて異動することができ、自分の教会につなぎ留めておくことなどできません。指導者が人を動かすことは正常な行動です。私の意見を聞いたのは、私を尊重し、円滑に事を進めるため。意見を聞かずに直接人を動かすことだってできるのです。私には人を支配する権利も資格もありません。これ以上自分勝手な行動はとれない。私が今呼吸しているのは神のおかげなのに、なぜ争う必要があるの? 私は教会に大きく貢献できないかもしれないけど、少なくとも邪魔だけはしないようにしよう。教会の働きのためになるようなことをしようと思いました。

それ以来、人員を求められた時は喜んで協力するようにし、自分の利益のことは考えなくなりました。ある時、他の教会に異動した姉妹からメールが来たんです。異動先の福音の訓練で多くを学んだと書いてあり、それを読んで喜ぶと同時に恥ずかしくなりました喜んだのは、彼女が神の国の福音の伝道で、自分の役目を果たせたから。はずかしかったのは、私が邪魔することなく異動させていれば、もっと早く訓練を終わらせて善行に備えられたから。そして神に祈りました。これ以上堕落した性質を生きたくない。優秀な候補者を提供して、福音の仕事で役目を果たし、本分を尽くしますと。

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