訊問室での拷問

2022年7月20日

中国 肖敏

私は時代に取り残された貧しい農村に生まれ、子供時代はつらく困窮した生活を送りました。できるだけ早くよりよい生活を送れるようにと、結婚後は狂ったように働き始めました。しかし、働き過ぎで最後は病気になり、健康で調子のよかった身体が病に苦しむことになりました。私は病気が引き起こす苦痛の中で生き、機会があればいつも医学的なアドバイスと治療を求めました。しまいには大金を費やすことになりましたが、病気はまったくよくなりませんでした。1999年春、二人の姉妹が私に全能神による終わりの日の働きの福音を宣べ伝えてくれました。私は全能神の御言葉を読んで神様の御言葉の権威と力を感じ取り、どんな人間もそれを語るなど到底できず、全能神の御言葉はまさに神様のお声であるとわかりました。全能神は再臨された主イエスでいらっしゃり、私たちをすべての苦痛からお救いになれるのだと、心の底から確信したのです。神様の御言葉を読めば読むほど真理をいくらか理解するようになり、この世の多くの物事が完全にわかるようになりました。苦痛に苛まれて息を詰まらせていた私の霊が解放されたかのように感じられ、病も徐々によくなりました。神様に対する私の感謝はとどまることを知らず、積極的に福音を宣べ伝え、神様による終わりの日の働きを証しするようになりました。

しかし程なくして、私は福音を宣べ伝えた罪で中国共産党政府に三度立て続けに逮捕されましたが、そのたびに全能神が私を導かれ、サタンの迫害に勝利させてくださいました。そして2012年、教会のために本分を尽くしていたさなか、私は再び魔物の巣窟に陥り、悪魔サタンの手による拷問を受けることになったのです……2012年9月13日の夕暮れ時、私は家に戻り、いつものように外にスクーターを駐めてドアのチャイムを鳴らしました。すると驚いたことに、私がドアを開けるや否や、四名の屈強な男たちが狼のように私に飛びかかってきました。彼らは私の両腕を背中にねじ上げて手錠をかけ、椅子に押し込み身動きできなくさせました。そしてすぐさま数名の警官が私の鞄をあさり始めました……この狼藉ぶりを突然見せつけられた私は恐怖で何も言えないほど驚き、凶悪な狼に捕らわれ、抵抗する力をまったくもたない哀れな子羊のような気がしました。それから連中は私を外に連れ出し、黒いセダンの後部座席に押し込みました。リーダー格の警官は取るに足らない小男でしたが、自分の成功に酔っているのか、車中でこちらを振り向き、「どうだ。我々がどうやってお前を捕まえたかわかるか」と陰険な薄笑いを浮かべながら言いました。私が逃走を試みないよう、警官たちはまるで私が凶悪犯でもあるかのように、両側から私を押さえつけていました。私は怒りとパニックを同時に感じ、警察がどのように私を懲罰して苦しませるのか見当もつきませんでした。自分が警察の拷問に耐えられず、ユダになって神様を裏切ってしまうのではないかと強く不安になったのです。しかしそのとき、神様の御言葉が頭に浮かびました。「あなたがたがわたしの前で頻繁に祈り、懇願する限り、わたしはあなたがたに全ての信仰を授けるだろう。権力を持っている者たちは、外側から見ると悪質に見えるかもしれないが、恐れることはない。それは、あなたがたの信仰があまりに僅かだからである。あなたがたの信仰が成長する限り、難しいことは何もない。心ゆくまで歓呼し跳び上がりなさい(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十五章」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉は私に信仰と力を与え、おかげで私は徐々に落ち着きました。「そうよ、邪悪な警察がどれだけ野蛮で残酷でも、しょせんは神様の御手に握られた駒に過ぎず、神様の指揮下に置かれている。私が心を込めて祈り、神様に呼びかける限り、神様はきっと一緒にいてくださるし、何も怖がることなんてない。この邪悪な警官たちが私を残酷に拷問して殴っても、それは単に神様が私の信仰を試そうとなさっているだけ。私の肉をどれだけ苦しませようと、神様にすがって呼びかける私の心を止めることはできない。私の肉を殺しても、魂までは殺せない。私のすべては神様の手中に握られているのだから」そのように考えると、もはや悪魔サタンのことなど怖くなくなり、私は神様の証しに立とうと決意しました。そして心の中でこう呼びかけました。「ああ、全能神よ。今日この人たちが私に何をしようと、私は喜んでそのすべてに向き合います。私の肉は弱っていますが、私はあなたにすがって生きることを望み、サタンが私を利用する機会を少したりとも与えたくありません。どうかお守りください。あなたを裏切って恥ずべきユダにならないようにさせてください」車が疾走するあいだ、私は教会の賛美歌の一つを心の中で歌い続けました。「聖なる計画と支配により試練に立ち向かう、どうして私は諦めたり、隠れようとしたりできるだろうか。神の栄光こそが第一だ。逆境の中で私は御言葉に導かれ、信仰は完全にされる。私は死も恐れず完全に献身する。御心は一切に勝り」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は神が満足されることだけを求めます」より)無言で歌っていると、心の中が力でいっぱいになり、証しし、サタンを辱めるために神様に頼ることを決意しました。

警官によって取調室に連行されると、教会で私と同じ本分を尽くしていた姉妹、ホストファミリー宅の姉妹、そして教会の指導者がいるのを見て私は驚きました。みんな捕まってしまったのです。すると警官の一人が、教会の姉妹を見つめている私に視線を向けて「何をぼんやり見ているんだ。さっさと入れ!」と怒鳴りつけました。私たちが会話するのを防ぐため、警察は私たちをそれぞれ異なる取調室に閉じ込めました。警官たちは乱暴に身体検査をし、私のベルトを外して全身をくまなく調べました。それはひどい屈辱で、これら悪魔のような中国共産党政府の手下どもが本当に邪悪で卑劣で薄汚い連中だということがわかりました。私は激しい怒りを覚えましたが、この魔物の巣窟に理性などあるはずがないので、それを抑え込まざるを得ませんでした。警察は教会が所有していた新品のスクーターと私がもっていた現金600元あまりを押収したあと、取り調べを始めました。「お前の名前は。教会での地位は。指導者は誰だ。連中はいまどこにいる」私が答えなかったので、警官は怒鳴りました。「黙っていれば見つからないと思っているのか。我々に何ができるかお前にはわかるまい。いいか、我々はお前たちの上級指導者も逮捕したんだぞ」そして警官たちはいくつかの名前を読み上げ、この中の誰かを知っているかと訊いてから、さらに取り調べを続けました。「教会の金はどこに隠してある。言うんだ!」私は相手が何を言おうと鼻であしらい、「誰も知らないわよ。何も知らないんだから」と言い返しました。最初の尋問が失敗に終わったのを見た警察は、とっておきの手段をとることに決めました。私を疲弊させようと、交代で尋問と拷問を始めたのです。警察は四日間にわたって絶え間なく私に尋問と拷問を行ないました。この苦難のあいだ、私は心から神様に呼びかけ、神様の御言葉に導いていただきました。「あれやこれやと恐れてはならない。あなたはどれだけ多くの困難や危険に直面しようと、どんな障害にも遮られることなく、わたしの前に固く立ち続けることができる。それによってわたしの旨は妨げなく遂行されるのだ。それがあなたの本分である。……恐れることはない。わたしの支えがあれば、誰にその道を塞ぐことができようか。このことを覚えていなさい、忘れてはならない。起こることはすべてわたしの善意によるのであり、すべてはわたしの監視下にある(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十章」〔『言葉』第1巻〕)。「そうだわ。全能神は私の強力な柱。全能神が強固な支えとしていらっしゃれば、何も怖がる必要なんてない。神様に協力する信念が私にある限り、神様はきっと私をお助けになり、サタンの誘惑に打ち勝ってこの困難な時を乗り越えられるようにしてくださるはずよ」と、私は考えました。最初の日、警察は望む情報を私から引き出すことができなかったせいで屈辱のあまり激怒し、リーダー格の警官が激しい口調で私にこう言いました。「この女の強情に屈するつもりはない。拷問しろ」それを聞いた瞬間、霊がたじろぎ、私は不安を覚え始めました。警察の責め苦を受けてすでに弱りかけているのではと恐れたのです。私は心を込めて神様に呼びかけることしかできませんでした。「ああ全能神よ。私はいまとても弱さを感じ、力がまったく残っていません。ところが、警察は私を拷問しようとしています。しっかり立っていられるか本当にわかりません。どうか私といてくださり、力をお与えください」警察は手錠をかけられ後ろ手にされていた私の両手を持ち上げると、それを壊れた机の上に吊るし、スクワットのような姿勢をとらせました。それから敵意に満ちたまなざしを私に向け、矢継ぎ早に質問を浴びせました。「お前たちのリーダーはどこだ。教会の金はどこにある」私が拷問の重圧に負けて屈服するのを、警察はいまや遅しと待っていました。邪悪な警察によるこの責め苦が三十分も続いたころ、両脚が痛んで震えだしました。心臓は激しく鼓動しており、両腕も激痛に襲われています。我慢が限界に近づき、もう一瞬も耐えられないような気がしたので、心の中で必死にこう呼びかけました。「全能神よ、どうかお救いください。もう耐えられません。ユダのようにあなたを裏切りたくないのです。どうかお力ください」まさにそのとき、神様の御言葉が脳裏に浮かびました。「神があなたがたにおいて行う働きの各段階の背後にはサタンと神との賭けがある。その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたはどのように神を満足させるべきか、どのように固く証しに立つべきであろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉は私を目覚めさせ、サタンがこのように私を苛んでいるのは、私が神様を裏切って真理の追求を諦めるようにさせるためだと気づかせてくれました。これは霊の領域で繰り広げられている戦いです。サタンが私を試す一方、神様もまたこの戦いによって私を試されているのです。いままさに、私が証しすることを神様は必要となさっています。神様は私に期待を抱かれ、悪魔サタンだけでなく多くの天使も現在まさに私を見ており、私が自分の立場を明らかにするのを待っています。ここで諦めて倒れ、サタンに降伏するわけにはいきません。神様の御心を満足させるべく、私を通じて神様の働きが実行されるようにしなければならないことを、私は知っていました。普遍の原則により、それは私が被造物として尽くすべき本分、つまり私の天命です。この重大な局面において、私が神様の勝利を証しできるかどうか、さらには神様がサタンに打ち勝ち、栄光を得られることを証しできるかどうかは、私の態度と振る舞いに直接左右されるのです。神様を悲しませたり失望させたりしてはいけないこと、私を苛むサタンの狡猾な策略を成功させてはいけないことはわかっていました。こうしたことを考えていると心の中で突然力が湧き上がり、警官たちに向かって「死ぬまで殴ればいいわ。それでも私は何も知らないわよ」とあくまで言い張りました。そのとき、一人の女性警官が室内に入ってきました。彼女は私を見ると、「すぐに彼女を下ろしなさい。いったい何をしようとしているの。殺そうとしているの」と言いました。全能神が私の祈りをお聞きになり、この危機一髪の瞬間に私を守り続けていらっしゃったことが、心の中でわかりました。私は邪悪な警官たちによって下ろされましたが、すぐに床に崩れ落ちてしまいました。立ち上がることができず、両手両脚の感覚がすっかりなくなっています。呼吸するのがやっとで、四肢の感覚がまったくありません。そのときはひたすら恐怖に怯え、目から涙が止まりませんでした。「このまま全身が不自由になってしまうのかしら」にもかかわらず、邪悪な警官は依然として私を解放しませんでした。両側に一人ずつ立って私の腕をそれぞれ掴み、死体のように引きずって壊れた椅子に連れて行くと、それに無理矢理押し込みました。すると警官の一人が「口を割らなければロープで吊るせ」と悪意に満ちた口調で言いました。すぐさま別の邪悪な警官が細いナイロンのロープをもってきて、手錠をかけられた私の両手を暖房の配管に吊るしました。両腕がただちに引っ張られ、背中と両肩が即座に痛み始めます。邪悪な警官は尋問を続けました。「我々が知りたいことを言う気になったか」それでも私は答えませんでした。すると警官たちは怒りのあまり、目を覚まさせてやると言ってコップの水を私の顔にぶちまけました。この時点ですでにひとかけらの力も残っていないほど拷問され、疲労のあまり両目を開けることさえできませんでした。私が無言を貫いていると、邪悪な警官の一人が卑劣にも、恥知らずにも、両手で私の目を無理矢理開けて私をからかいました。尋問と拷問が数時間にわたって続く中、邪悪な警官たちは本に載っているすべての策略を実行しましたが、私の口を割らせようとする試みはまたしてもすべて失敗に終わったのです。

尋問では私から何も引き出せないことを悟った邪悪な警官たちは、悪魔的な計略を用いることにしました。自称「尋問のエキスパート」を市の公安局から連れてきて、私の相手をさせたのです。警官たちは私を別の部屋に連行し、鉄の椅子に座るよう命じると、両方の足首を椅子の脚に、両手を肘掛けに鎖で固く縛りました。しばらくして、眼鏡をかけて洗練された外見の男がブリーフケースを手に現われました。善人のふりをして私ににっこり笑いかけると、手と足首を拘束していた鎖をほどき、部屋の片隅にある簡易ベッドに私を座らせました。そしてすぐにコップの水を飲ませ、飴を私に与えてから、こちらに近づき親しげにこう言いました。「どうしてこんなつらい思いをするんだ。君はもう十分苦しんだけど、本当はそんなに大したことじゃない。我々が知りたいことを教えてほしい。そうすれば何もかも大丈夫だから……」この新しい状況に直面した私はどう対処すべきかがわからなく、急いで心の中で神様に祈り、自分を啓き導いてくださるよう呼びかけました。まさにそのとき、神の御言葉が心に浮かびました。「あなたがたは常に目を覚まして待ち、もっとわたしの前で祈らねばならない。サタンのさまざまな企てやずる賢い策略を見極め、霊を認識し、人々を知らなければならず、あらゆる人や出来事や物事を見分けることができなくてはならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十七章」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉は、悪魔は常に悪魔であり、神様に抵抗して嫌悪を抱かせるその悪魔的本質が変わることは決してないのだと気づかせてくれました。彼らが硬軟どちらの手段を用いようと、目標は常に私が神様を裏切って真の道を捨て去るように仕向けることなのです。神様の御言葉による警告のおかげで、私はサタンの狡猾な企みをいくらか識別できるようになり、心も明瞭になり、しっかり立つことができました。取調官は次にこう言いました。「中国共産党政府は人民が神を信じるのを禁じている。君がこのまま全能神を信じ続ければ、家族全員が巻き込まれる。それに、君の家族に子供がいれば、就職する見込みや公務員になる見込みが影響を受けるし、将来に差し支えるぞ。よく考えたほうがいい……」男がそう言い終えたあと、私の中で戦いが始まり二重の動揺を感じました。困惑していると、サタンの前で見事証しに立ったペテロの経験が突然頭に浮かびました。ペテロはサタンが自分に投げかける狡猾な企みの一つ一つを通じて、いつも神様を理解しようとしたのです。そこで私も心の奥底で神様のほうを向き、すべてを神様に託してその御心を求めました。すると無意識のうちに全能神の御言葉が心に浮かびました。「神はこの世界を創造し、この人類を創造し、さらに神は古代ギリシア文化ならびに人類の文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の統治と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図に従って起こるということを必ず信じているであろう。神のみが国や民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉は私を光で満たしました。「そうだわ。神様は創造主でいらっしゃり、私たち人類の運命は神様の御手の中にある。悪魔サタンは神様を拒む存在。地獄に落ちる自分の運命すら変えられないのに、どうして人の運命を支配できるというの。人の運命は神様によって予め定められているし、私の子供が将来どんな職業に就くか、見込みがどうかはすべて神様次第。サタンがそれを支配するなんて無理なのよ」そう考えると、サタンと悪魔たちの卑劣さと恥知らずさがさらにはっきりわかりました。私が神様を否定して拒むようにするため、サタンは狡猾で下劣な手段、つまりあのような「心理戦」を駆使して私を騙そうと誘いをかけているのです。時宜を得た全能神の啓きと導きがなければ、私はもうサタンに打ち負かされ、捕らわれの身となっていたことでしょう。サタンがいかに卑劣で邪悪かを知ったいま、その狡猾な企みに屈しない自信が強まりました。結局、その邪悪な警官は途方に暮れて他にどうすべきかわからず、意気消沈してその場を去りました。

三日目、私から何の情報も引き出していないことを知った警察署長は怒り狂い、部下の無能さを罵りました。そして私に近づくと顔に陰気な薄笑いを浮かべ、「どうして白状しない。自分を誰だと思ってる。劉胡蘭のつもりか。どうせこれ以上ひどいことはできないと思って安心しているのか……」と言いながら、私の目の前で小型の電気ショック棒を振って脅しました。その電気ショック棒はパチパチ音を立てて青い火花を散らしていましたが、署長は次に充電中だった大型の電気銃を指さし、こう言って私を脅迫しました。「あれが見えるか。この小型の電気銃はもうすぐ電池が切れる。あの電気銃はあと少しで充電が終わるから、それを使ってお前を感電させてやる。そうすればお前も口を割るだろう。そのとき話し出すことになるんだ」私は大型の電気銃を目にしてパニックにならずにはいられませんでした。「この邪悪な警官はとても獰猛で残忍だ。最後は私を殺すのかしら。この苦痛に耐えられるかしら。感電死させられてしまうのかしら」その瞬間、弱さと臆病、苦痛と無力感が一斉に私の心を襲いました……私は急いで神様に呼びかけました。「神様よ、どうか私を守ってください、そして私に確信と強さを与えてください」その時、御言葉の賛美歌の数行が私の心に浮かんできました。「信仰とは一本の丸太橋のようなもので、卑屈に命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを犠牲にする覚悟のある者は自信を持って不安なく渡ることができる。臆病な恐れに満ちた思いを抱く者は、サタンに騙されているのだ。サタンはわたしたちが信仰の橋を渡って神の中に入ることを恐れているため(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「病気の始まりは神の愛」より)さらに、次の主イエスの御言葉も心に浮かびました。「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい(マタイによる福音書10:28)神様の御言葉に涙が止まりませんでした。信じられないほど深く感動して、心が燃えさかる火のように強くなりました。「たとえ今日死んでも何を恐れることがあるの。神様のために死ねるのは名誉なこと。すべてを捨てて死ぬまでサタンと戦うわ」まさにそのとき、御言葉の賛美歌の別の数行が心に浮かびました。「エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心に捻じ込まれているかのように感じたが、その言葉を取り消す思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスが十字架にかけられる場所までイエスに付き添っていた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了した。イエスは死と黄泉の束縛から自由になった。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスに打ち負かされた(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「主イエスにならいなさい」より)心の中で何度も歌っていると、涙が途切れることなく頬を伝い落ちました。十字架にかけられた主イエス・キリストの光景が、まさに目の前で繰り広げられたのです。主イエスはパリサイ人に嘲られ、罵られ、中傷され、死刑執行人によって全身が切り傷とあざだらけになるまで鉄の鞭で打たれ、最後は残酷にも十字架にかけられましたが、それでも物音一つお立てになりませんでした……主イエスが苦しまれたすべてのことは人に対する主の愛のためであり、その愛はご自分のいのちへの愛に勝ったのです。その瞬間、私の心は神様の愛に刺激されて感動し、驚くほどの力と信仰が私を満たしました。何も恐れを感じず、神様のために死ぬのが名誉なことである一方、ユダになるのは最も大きな恥だと感じました。驚いたことに、自分のいのちを犠牲にしてでも神様の証しに立とうと決めた瞬間、ある邪悪な警官が部屋に駆け込みこう言いました。「街の広場でトラブルが発生しています。警察を動員して鎮圧し、秩序を保たなければなりません」邪悪な警官たちは急いでその場を立ち去りました。戻ってきたのは夜遅くで、もう私を尋問する気力もなく、「お前が話さない以上、拘置所に送ってやる」と悪意に満ちた口調で言いました。四日目の朝、邪悪な警官たちは私の写真を撮り、名前が筆書きされた大きな正方形の板を首にぶら下げました。その姿はまるで凶悪犯のようで、邪悪な警察にからかわれ馬鹿にされていると、自分が最大の屈辱に晒されている気がして大いに心が弱りました。しかし自分の精神状態が正しくないことはわかっていたので、心の中で静かに神様に呼びかけました。「ああ神様。どうか私の心をお守りになり、私があなたの御心を理解し、サタンの狡猾な企みの生贄にならないようにしてください」祈り終えたあと、神様の御言葉の一節が頭に浮かびました。「あなたは被造物であり、もちろん神を崇拝し、意味のある人生を送るべきである。神を崇拝せず、汚れた肉体のうちに生きるならば、人間の衣装を身に着けた獣にすぎないのではないか。あなたは人間であるから、神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブやペテロのように意味のある人生を送るべきである。……あなたがたは正しい道を追求する人、向上を求める人である。あなたがたは赤い大きな竜のいる国で立ち上がり、神が義なる者と呼ぶ人である。これは最も意味のある人生ではないのか(『神の出現と働き』「実践〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉によって、被造物として真理を追求できること、神様を崇拝して満足していただくために生きることが、最も有意義で価値のある人生だと認識できたのです。今日、私が神様への信仰のために捕らわれ拘束され、この恥辱と苦痛を残らず受け、キリストの苦難に加わることができ、恥ずかしいことではなく名誉なことです。サタンは神様を崇拝せず、逆に手段を尽くして神様の働きを妨害しますが、それは最も卑劣で恥ずべきことです。こうしたことを考えていると、私は力と喜びで満たされました。邪悪な警官たちは私の顔に浮かぶ笑みを見て驚いた目つきになり、「何が嬉しいんだ」と言いました。私は正しく力強い口調でこう答えました。「神様を信じて崇拝するのは完全に正しいことよ。そうすることは絶対に間違っていない。どうして幸せでいられないの」これらの言葉を聞いて、彼らは何も言わなかったです。神様の御言葉のお導きのもと、私は再び神様にすがってサタンに打ち勝つことができたのです。

その後、私は拘置所に連行されました。そこでは何もかもが一層陰気で恐ろしく、一種の地獄に落ちたような感じでした。食事は小さく黒いまんじゅうのかけらと、透明なスープに入った数切れのキャベツ、そしてその上に浮かぶ何枚かの葉っぱだけでした。私は毎日ずっと空腹で、胃袋が食べ物を求めて悲鳴を上げていました。それにもかかわらず、私はそれでも牛馬のように働かなければならず、ノルマを達成できなければ罰として殴られるか見張りに立たされました。この残酷な責め苦が来る日も来る日も続いたせいで、私は頭のてっぺんからつま先まであざと傷でいっぱいになり、歩くことさえ難しくなりましたが、それでも看守は重い銅線の束を私に運ばせました。この重労働のせいで負傷した腰が耐えがたいほど痛み、一日が終わると寝台に潜り込むことしかできませんでした。しかし深夜になれば、邪悪な警察が私を囚人の見張りに立たせるので、この過剰で骨の折れる仕事を耐えるのは不可能でした。ある夜、見張りに立っていた私は、邪悪な警察がいない隙にこっそりしゃがみ込んで休憩をとろうとしました。しかし予想もしないことに、邪悪な警官の一人が監視カメラで私の姿を見て、「誰が座っていいと言った」と怒鳴りながら駆け込んできたのです。すると他の囚人の一人が「急いで謝りなさい。さもないと木の寝台で寝かされるわよ」とささやきました。彼女が意味していたのは一種の拷問で、囚人はまず雑居房に運ばれた木製の戸板に、両脚を鎖で、両手首をロープで縛られます。このようにして戸板に拘束された囚人は二週間にわたって動くことを許されないのです。私はこれを聞いて怒りと憎しみでいっぱいになりましたが、これっぽっちの抵抗も見せることができませんでした。怒りを呑みこみ口をつぐむしかできなかったのです。このようないじめや拷問は私にとって耐えがたいことでした。その夜、私は凍えるように冷たい寝台に横たわりながら、どこにも正義がないことに涙を流し、心の中は神様への不満と要求でいっぱいでした。「これはいつ終わるのですか。この地獄のような場所では、たった一日が何日ものようです」すると神様の御言葉が頭に浮かびました。「もし人生の意義を理解し、人生の正しい道を歩み、将来において神があなたをいかに扱おうと、不平を言ったりえり好みしたりせずに神の計画に服従し、神に何も要求しないならば、このようにしてあなたは価値のある人間になる(『神の出現と働き』「あなたは道の最終行程をいかに歩むべきか」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉に私は自分が恥ずかしくなりました。痛みや困難がどれほど大きくても、ペテロのように神様に従うことを追求し、自分のために決断したり要求したりは一切しませんといつも言っていたことを思い出したのです。しかし迫害と苦難が降りかかり、苦しんで代価を払わなければならなくなると、私はこのような苦境から逃れることだけを願ったのです。神への従順の片鱗さえ見られない。このとき初めて、私は神様の善意をようやく理解しました。神様はこの苦境が私に降りかかることで、苦しみを耐える私の決意を鍛え、私が苦しみの中でどう服従するかを学べるようになさいました。それによって私は神様の指揮に従うことができ、神様のお約束を受け取るのにふさわしくなれるのです。神様がなさっている一切のことは愛ゆえになされるのであり、私を救うためです。私の心は自由になり、もはや不当な扱いを受けていると感じることも、苦痛を覚えることもありませんでした。神様の指揮と采配に服従し、証しし、サタンを辱めることだけを望みました。

一ヶ月後、私が釈放されました。私の個人的な自由を制限するため、彼らは私に「法の執行を妨害し、邪教組織に参加した」という罪名をつけました。それから一年間、私は県や市から離れることを許されず、警察の呼び出しにはいつも応じなければなりませんでした。帰宅して初めて、家にあったすべての所持品が警察によって盗まれ、押収されていたことを知りました。そのうえ、邪悪な警察は私の家を山賊のように荒らし、家族を脅したうえ、私の釈放には二万五千元以上が必要だと言ったのです。義母はその恐怖に耐えられず心臓発作を起こし、二千元以上の治療費を払って入院し、治療を受けてようやく回復したばかりでした。結局、家族は知り合い全員に頭を下げてお金を借りることを余儀なくされ、かき集めた三千元を警察に払い、それでやっと私が釈放されたのです。邪悪な警察が行なった残酷な拷問のせいで、私の身体には深刻な後遺症による苦痛が残りました。両腕と両脚はよく腫れ上がり、拘束期間中に受けた深刻なストレスのせいで疼くように痛みます。二キロ半の野菜を持ち上げることも、洗濯をすることもできないほどで、働く能力を完全に失ってしまいました。

今回の逮捕と迫害を経験して、私は、真理と神を恨む共産党の悪魔の顔がはっきり見え、私はサタンをより一層憎むようになり、反動的で天をも恐れぬ悪魔党を憎みます。また、神の働きがあまりにも実際的で、知恵に溢れていることをこの身で感じました。共産党の逮捕と迫害のおかげで、私は見分けることができるようになり、志を磨かれ、信仰が完全され、神を仰ぎ見、頼ることを学べ、また神の御言葉の権威と力と、神の言葉はいつでも人の助けとなることを身で感じました。神だけが人を愛し、神だけが人を救うことができることがわかって、心と神の距離がもっと近くなりました。これらは全て、困難や試練を経験したことによる収穫です。神に感謝します!

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