反キリストの側に立つところだった私

2023年10月6日

2021年8月、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、三ヵ月後、マジョリーと一緒に教会指導者に選ばれた。マジョリーが終わりの日の神の働きを受け入れたのは、私の三ヵ月前。教会は違うけど、一緒に同労者の集会に出て教会の働きを話し合った。ある日の集会で、マジョリーが自分の経験を話したの。病気になっても本分を尽くし続けたという経験。ご主人に圧迫されてもひるまなかったそう。本当に尊敬して、素晴らしい背丈だと思った。私が同じ立場だったら、きっと本分に影響がでる。好印象を持ったわ。夫に圧迫されても本分で責任を担い、諦めない。彼女こそ真理を実践し、神に称えられる人だと思ったわ。その後、新しい教会が建てられ、マジョリーと別れることになった。

五ヵ月後のある日、責任者のマリアがグループチャットに投稿して、今夜の集会で反キリストの見分け方を話し合うと伝えて、マジョリーのフェイスブックページのリンクを送ったの。彼女は反キリストだから、接触してはいけないって。ショックだった。まさかマジョリーが反キリストだなんて。あれほど本分に熱心で、犠牲を払って自分を費やし、苦しみに耐えることができるのに。病気や家族の迫害に見舞われても、本分を続けられた――そんな風に真理を求められる人が、本当に反キリストなの?マリアは勘違いしてる!信じられないでいると、責任者が別のメッセージを送り、フェイスブックでマジョリーをブロックするよう言った。邪魔されたり惑わされたりしないように。納得できなかった。不公平に扱ってる気がして。マジョリーは本分に熱心だし、私も前に励まされた。彼女に何があったのか、なぜ反キリストと言われるのか、まるでわからない。困惑して悲しくなった。ブロックするなんて嫌。だから言った。「マジョリーは反キリストじゃないし、観念があるだけ。ブロックする必要はない。彼女の立場からものを見て、どう思ってるか想像しなきゃ」。すると責任者は交わってくれたけど、聞く気になれなかった。また反キリストの見分け方に関する経験の証しの動画も送った。役に立つからと言うんだけど、私は無視した。その後、マジョリーにメッセージを送って事情を訊いてみると、こう答えたの。「観念を広めたせいでグループチャットから外され、みんなにブロックされた。本当に傷ついたわ。でも言い訳はしない。神が私の行ないを見てくださるから。あなたたちも詮索してるの?本当に嫌。みんなに詮索され、見捨てられてるのよ」。そして、責任者への不満を並べたんだけど、それを聞いて私も責任者への偏見が膨らんだ。物事を公平に処理してない。マジョリーに観念や問題があるなら、彼女を支えて交わるべきで、反キリストっていう結論に飛びついちゃ駄目。反キリストを見分けるその夜の集会には出席せず、寝ることにした。本当に落ち込んで、この状況をどう扱っていいかわからない。眠る前に祈り、神から離れてそんな状況で生きたくないと思って、そこにある御旨を理解できるよう、啓いてくださいと願った。

朝になると心がずっと落ち着いたから、昨夜の交わりの内容を確かめようとしたら、責任者とマジョリーの会話のスクリーンショットがあったの。マジョリーはこう言ってた。「神が肉になったなんてあり得ない。兄弟姉妹の誰が神を見たの?全能神の御言葉は聖書と一致せず、そこから外れてる」。マジョリーの言葉を見てショックだった。でたらめに観念を広め、全能神の働きすら信じてない。それで気づいた。自分はマジョリーが反キリストとされた理由を理解してないし、彼女の振る舞いに目を向けていなかった。自分の印象をもとに、反キリストじゃないと結論づけてたの。本当に盲目で傲慢!こんな御言葉があるわ。「苦難に耐え、代償を払い、表面上の行動も極めて良好であり、尊敬されて他人に賞讃されている人がいます。こうした表面上の行動は、真理の実践とみなせるとあなたがたは言うでしょうか。このような人は神の心意を満たしていると言えますか。このような人を見ると、神を満足させている、真理を実践する道を歩んでいる、神の道を歩んでいると人がいつも考えるのはなぜですか。このように考える人がいるのはなぜですか。これを説明する方法はひとつしかありません。それはどのような説明ですか。それは、多くの人にとって、真理の実践とは何か、神を満足させるとはどのようなことか、真理の現実を真に自分のものにするとは何を意味するのか、といった疑問があまり明瞭でないということです。そうしたわけで、表面上は霊的で高貴で高尚で偉大に見える人によく惑わされる人がいるのです。惑わされる人は、字句や教義について雄弁に語ることができる人や言動が賞讃に値するように見える人の行動の本質や背後にある原則や、彼らの目的が何なのかを検討したことがありません。また、彼らが真に神に服従しているかを検討したことも、彼らが真に神を畏れ、悪を避けるかも不明なままです。惑わされる人は、彼らの人間性の本質を見極めていないのです。むしろ、最初の出会いから、徐々に彼らを賞讃、崇敬するようになり、最終的には、惑わされる人にとっての偶像になります。さらに、一部の人は、自分が崇拝する偶像は、家族や職業を捨て、表面的に代償を支払うことができる人で、真に神を満足させており、好ましい結末と終着点に到達できる人であると信じているのです。こうした人の考えでは、これらの偶像こそが神が賞讃する人なのです。人がこのように考える原因は何ですか。この問題の本質は何ですか。この問題はどのような結末を引き起こす可能性がありますか。……このことの直接的な成り行きは、真理を実践する代替として良いふるまいを用いることであり、それは神の機嫌を取りたいという人の欲望も満たします。これにより、人は真理に対抗し、神を説得し神と競争するのに用いる資本を得ます。それと同時に、人は無節操に神を脇へやり、自分が崇拝する偶像を代わりに据え付けます(『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」〔『言葉』第2巻〕)。御言葉を読んで反省した。私はいつも人を外面で判断し、犠牲を払って苦しみに耐え、代償を払った人は真理を求め神を愛する人だと思ってた。でもこの基準は真理に沿ってないし、人の外面に騙されてしまう。パリサイ人も、会堂でいつも人々に聖書を説明してた。表向きは敬虔で、苦しみに耐えて犠牲を払い、善行を積んでるように見えるけど、主イエスが働きに来られると、求めも調べもせず、無闇に逆らい、主を断罪し、最後は十字架にかけた。そこから、振る舞いがいいからといって善人とは限らないとわかったわ。神に従い、真理を愛して受け入れる人だけが、本当の善人。真理を愛さず少しも受け入れない人は、たとえ善行を重ねても、偽善に過ぎない。表向き、マジョリーは多少の苦しみに耐えて代償を払えるけど、心の奥では真理に飽き、神を憎んでた。公然と神を批判し、拒むほど。サタンの同類。でも私は、表向きの苦痛と犠牲だけを見て、自分の観念を基に、彼女は真理を求め、本分に熱心で責任感があり、反キリストのはずがないと思い込んだ。見分ける力を働かせてマジョリーをブロックするよう責任者に言われると、ますます偏見を抱いて本分を尽くしたくなくなった。マジョリーのことをまったく見抜けず、結果として惑わされた。本当に愚か。

次の日、マジョリーがフェイスブックで噂や誤謬を広め、私たちの教会は神でなく人に従ってると言うのを見た。教会を貶めてることを知って、ブロックして拒絶せず、弁護すらしようとしたことを心底後悔した。そこでメッセージを送り、何でこんなことをするのと訊いたら、全能神教会を貶める返事が来て、あなたも教会を離れなさいと言うものだから、私は無視した。二ヵ月後、責任者が言うには、マジョリーは教会を貶め断罪するメッセージを彼女に送り、中傷の動画を新人に送るとまで言ったそう。しかも神の働きについての観念をグループチャットでたくさん広め、マジョリーの叔母も観念を抱いて教会を去った。マジョリーが観念を広めて人を惑わすのは、真の道を知りながらあえて抵抗すること。重大な罪だし、彼女は反キリスト。マジョリーの振る舞いを見て、神の働きについて観念を抱き、真理を求めて解決してないことがわかった。噂や誤謬を広め、神を冒瀆し、教会を貶め、兄弟姉妹を惑わして、神を拒んで離れるようにさせるほど。マジョリーは本当に狡猾で信用できない。人を騙し、神から離れて拒むようにさせるずる賢い狐のよう。他の兄弟姉妹にとって危険な存在だわ。その後、この御言葉が目に入った。「兄弟姉妹のうち消極性をいつも発散している人は、サタンの僕であり、教会を乱す。そのような人は、いつか追放され、淘汰されなければならない。神への信仰において、人間に神を敬い畏れる心と神に従順な心がなければ、神のために働くことができないだけでなく、反対に神の働きを阻害し、神に反抗する者となる。神を信じながら、神に従うことも神を敬い畏れることもせず、代わりに神に反抗することは、信者にとって最大の恥辱である。信者の言動が常に未信者と同じく粗略で節操がなければ、そのような信者は未信者にも増して邪悪であり、典型的な悪魔である。教会内で毒々しい邪悪な言葉を放ち、兄弟姉妹の間で噂を広め、不和を助長し、派閥を組む者たちは、教会から追放されるべきであった。しかし、現在は神の働きの別の時代であるため、そのような人は制限を受ける。なぜなら、彼らは明らかに淘汰されるからである。サタンにより堕落させられた者はみな性質が堕落している。性質が堕落しているだけの人がいる一方で、そうではない人もいる。そのような人は堕落した性質をもっているだけでなく、本性もまた悪意を極めているのである。彼らの言動が堕落したサタン的性質を示すのみならず、彼ら自身が真の悪魔サタンである。彼らのふるまいは神の働きを妨害し、混乱させ、兄弟姉妹のいのちへの入りを阻害し、正常な教会生活を破壊する。彼らのような羊の皮を被った狼は、遅かれ早かれ一掃されなければならない。こうしたサタンの僕に対しては、手厳しい態度、拒絶の態度で臨む必要がある。そのようにすることだけが神に味方することであり、そのようにできない人は、サタンとともに泥の中で転げ回っているのである。神を真に信じる人の心には常に神がいて、内には神を敬い畏れる心、神を愛する心が常にある。神を信じる人は注意深く慎重に物事を行い、すべての行動が神の要求に従い、神の心を満たせるものでなくてはならない。強情であってはならず、自分が望むままに行動してはならない。そのようなことは聖徒としての作法に不適である。人間は神の旗印を誇示してあちらこちらを暴れ回ったり、いたるところで虚勢を張ったり、詐欺を働いたりしてはならない。これは最も反逆的な行為である。家族には決まりがあり、国家には法律があるのだから、神の家ではなおさらのことではないか。そこにはさらに厳しい基準があるのではないか。さらなる行政命令があるのではないか。人間には好きなことを行う自由があるものの、神の行政命令を思いのままに変えることはできない。神は人間による背きを許さず、人間を死に至らしめる神である。人はこのことをまだ知らないのか(『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のおかげでわかった。絶えず観念を広め、消極性をまき散らし、教会を邪魔する人はサタンの手下。真理を愛さず、神を畏れる心がまったくない。徒党を組んで分裂を招く人、観念や噂を広め、神を否定・冒瀆する人は、みな悪魔。残らず神に淘汰され、懲罰を受ける。噂に騙され悪人や反キリストに味方する人も拒絶しない限り淘汰される。マジョリーは御言葉を読んだり真理を求めたりすることで観念を解決せず、みんなと探求もしなかった。むしろ神を疑って否定し、観念を広め、公然と神を批判し、冒瀆するほど。しかもみんなのあいだに不和の種を蒔き、丸め込んで味方につけ、責任者への偏見を広めて教会の働きを妨げた。マジョリーは本当に邪悪。真理を憎んで神を憎む反キリストの本質だわ。御言葉の啓きと導きがなければ、彼女に騙され味方になり、神を敵視してた。それにわかったの。反キリストの見分け方についての御言葉を読み、交わるのは、兄弟姉妹が真理を理解し、見分ける力を持って、反キリストに邪魔され惑わされるのを防ぐため。反キリストを教会から追放するのは、神の選民を守るためなの。私は指導者なのに、この反キリストを見分けられず、彼女の嘘を信じた。味方になって守ろうとしたほど。自分もサタンの共犯だってわかったわ。反キリストに同情し、守り、愛を見せたの。これは神の選民に対する残虐行為。自分の愚かさに気づいて、自分を憎んだ。そこで御前に出て祈り、悔い改めてお許しを求めた。

その後、この御言葉を読んだの。「人が他の人を判断する基準は、その人の振る舞いである。行いが善い者は義であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その人の本質が神に従うものかどうかである。つまり、その人の振る舞いがよいか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかにかかわらず、神に服従する者は義なる人であり、そうしない者は敵にして悪人である(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。「神が肉になり、人の間で働くようになると、すべての人が神を見、神の言葉を聞き、神がその肉体の内側から為す業を見る。そのとき、人の観念はすべて泡となる。神が肉に現われるのを見た人は、喜んで神に従うならば断罪されることはないが、意図的に神に敵対する人は神の反対者とみなされる。そのような人は反キリストであり、故意に神に対抗する敵である。神についての観念を抱いていながらも神に従うことをいとわない人は断罪されない。神は人の意図や行動に基づいて人を断罪するのであり、決して人の思いや考えのためではない。もし神が人の思いや考えに基づいて断罪するなら、一人として神の怒りの手から逃れることはできない。受肉した神に故意に対抗する人は、その不従順ゆえに罰せられる。神に故意に対抗するそのような人が神に反対するのは、神についての観念を抱いていることに由来し、それが神の働きを妨害する行動をその人にとらせるのである。この人は意図的に神の働きに抵抗し、破壊する。単に神についての観念があるだけでなく、神の働きを妨害する活動にも携わり、この理由ゆえにこのような人は断罪されるのである(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は明快ね。神が人を測る基準は、その人の本質と、真理への態度。神の働きについて観念を抱いていても、真理を求めて観念を捨てられるなら、神は断罪しない。受肉した神について絶えず観念を持ち、真理を受け入れず、神を疑い否定さえする人は、表向きの行為がどれほどよくても、みな神の敵、反キリスト。神はそうした人を断罪し、淘汰する。私は人の表向けの行為だけした考えてこなかった。マジョリーは熱心で犠牲を払い、自分を費やせる教会指導者だから、神に忠実な真理の探求者だと思ってたけど、彼女の本質や、神と真理への態度を見ていなかった。神の働きに観念を抱き、みんなの交わりを受け入れない。しかも観念を広め、受肉した神を公然と否定した。神の憎んで真理を憎む本質だし、彼女は反キリスト。私はマジョリーの外面に惑わされ、騙され、反キリストの側についた。見分ける力がまったくない。やっと気づいたの。人や物事を判断するときは、表向きの行為じゃなく、御言葉と真理の原則を基にすべきだと。

その後、別の御言葉を読んだ。「神は教会を清めており、騒動や妨害をもたらす者、反キリスト、悪霊、悪人、不信者、神を真に信じていない者、奉仕すらできない者を教会から一掃しています。これは雑草除去であり、ふるい分けです。……神が行なうことはどれも時宜を得ていることが、あなたにはわかります。神が場当たり的に働くことはありません。神による管理の働きは神が立てた計画に従っており、神は何事も行き当たりばったりではなく、手順を踏んで行ないます。では、その手順とは何ですか。神が人に対して行なう働きの各手順は効果を上げなければならず、効果を上げたのを見ると、神は働きの次の手順を行ないます。神は自らの働きがどのように効果を上げるのか、何を言い何を行なうべきか、心の中でわかっています。神は行き当たりばったりではなく、人の必要に応じて働きます。人に対して効果がある働きであれば、神はそれを行ない、効果という点で取るに足らないものであれば、神がそれを行なわないのは確実です。たとえば、神の選民の識別力を育むために反面教師が必要なとき、偽キリストや反キリスト、悪霊、悪人、騒動や妨害をもたらす者が教会に現われ、それによって他の人たちは自分の識別力を伸ばすことができます。神の選民が真理を理解し、そうした者を識別できるなら、それらの者は役割を果たしたのであり、もはや存在価値はありません。そのとき神の選民が立ち上がり、彼らを暴き、通報し、教会は彼らをただちに一掃します。神の働きにはすべて手順があり、それらの手順はどれも、人がいのちと霊的背丈のために必要とするものを基に、神が整えるのです(『終わりの日のキリスト講話集』「観念を解消することでのみ、神への信仰の正しい道に踏み出せる(3)」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んでわかった。教会で本分を尽くす人は大勢いるけど、全員が神の選民、神の羊というわけじゃない。群れの中に狼が隠れてる。反キリストや悪人や不信者が教会に紛れ込むのを神が許すのは、見分ける力をつけて教訓を学び、善悪を区別できるようにするため。マジョリーは教会で本分を尽くしていたけど、心から神を信じてなかった。教会に来たのは真理を求めて理解するためじゃなく、神の働きを研究するため。羊の皮をまとった狼、神に淘汰される悪人なの。今、神は教会を清め、各種の人を暴いてる。反キリスト、悪人、不信者は、誰も教会に隠れていられず、神の働きで暴かれ淘汰される。真に神を信じ、真理を愛して求める人だけが留まり、神に清められ、救われる。

この経験を通じ、見分ける力を得て物事を多少学んだ。まず、表向きの行為や、苦しんで自分を費やした量だけを考えては駄目。特に宗教界の詐欺師には、そうしたことをできる人がたくさんいるから。第二に、人を崇めないこと。神は人を崇めるのを憎まれる。神だけを仰ぎ見て崇拝すべき。第三に、私は教会指導者として、兄弟姉妹のいのちの入りを考え、彼らに有益なことを優先すべき。第四に、問題があるときは神を畏れる心を持ち、探求して待つ。自分の観念を基に、やたらと批判し断罪してはいけない。神の性質を犯してしまう。第五に、全能神の御言葉をもっと読んで真理を理解する。御言葉の導きがなければ、サタンの邪悪な企みを見抜き、真理の側に立つことはできない。真理の貴重さにも気づいた。真理を理解して初めて、物事をしっかり把握し、あらゆる悪人、反キリスト、不信者を見抜けるの。今後は御言葉をもっと読み、御言葉に沿って、真理を原則として行動し、人や物事を判断するわ。神に感謝!

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