もう自分を誇示しない

2022年4月16日

スペイン 莫文

あれは2018年のこと。教会で福音の本分に就いていて、のちにその責任者になった。僕は、本分での兄弟姉妹の問題点や足りない部分を見抜き、交わりをとおして解決することができた。皆に喜んでもらえて、達成感を抱いてたよ。自分は誰よりも優れてる。そう心から誇らしく思うようになると、自分を誇示せずにいられなくなった。こう思ったんだ。「僕は提案もできるし、問題も解決できて、周りから良く思われてる。これまで以上に皆を助けてあげれば、誰よりも有能だと思われるだろう。一段と見上げてもらえる」あるとき集会でルー兄弟が、伝道中に出会った同労者の話をした。その同労者は20年以上も伝道師をしていて、真の信者だったが、宗教的観念が強かった。ルー兄弟は彼と交わったが、福音を受け入れてもらえず、途方に暮れたという。僕は思ったよ。「その人物は真の信者で、交わりを聞きたがってる。真理をはっきり伝えないから、彼を改心できなかったんだ。僕には似た経験がある。それをそっくり話すチャンスだ」そしてこう言った。「難しいことなんて何もない。要点を絞って、明確に交わることだ。その人物は聞く気がある。君が彼の問題を解決したら、受け入れるはずさ。同労者のチャンさんは、観念を多く抱いてた。僕は、彼の強い観念について交わって論破し、別の観念にも反論した。ついには福音を受け入れたよ。神の働きを証しするときは、はっきりと交わるべきだ」そのあとは、僕がそれまでに説教した人が抱えていた問題や、その解決のためにどう交わり、彼らが福音をどう受け入れたか、あらゆる事柄を詳しく話した。僕がどれだけ有能か、皆に分かってもらうためだ。話を終えると、皆が褒めてくれた。ある姉妹は、こう言ったよ。「本当に的を射た話ね。なぜ私には分からなかったんだろう?」僕は「すべて神のお導きだよ」と答えながらも、心の中では喜んでた。仕事について話し合うときは、こんなことを考えることも。何を言えば、細やかに考慮して分析していると思われるだろうか。素質があって賢い、人より優れた人物だと思われるだろうか。そして自分の番が回ってくると、延々と話し、「僕は」と繰り返した。「僕はこう思う」、「僕はこう解決した」「僕は、僕は、僕は……」自分の理論や考えを並べて、それを詳細に分析してたんだ。すると時が経つにつれ、皆は僕を頼るようになり、問題が起きたときの原則の求め方が分からなくなった。仕事の話し合いでは、先に発言するよう頼まれ、あとで皆が補足することも。こんな考えが心に浮かんだよ。「このままでは、皆は僕を崇拝するようになるのでは?」でもこうも思った。「無理やり聞かせてるわけじゃない。僕は自分の意見を言ってるだけ。それに、積極的でいることは、前向きで責任感のある振る舞いだ」それ以上はあまり考えず、何も変えなかった。

その後、僕たちは伝道でさまざまな困難にぶつかった。兄弟姉妹はかなり落胆してたよ。それは僕も同じだった。自分の気持ちを皆に打ち明けたくなったけど、僕は責任者だ。簡単に消極的になってたら、弱く思われるんじゃないか? 僕の背丈が低いことを知ったら、皆はどう思うだろう? 僕に対する印象が壊れてしまうのでは? そしてこう思った。「ポジティブな話をして、前向きに導いていけば、皆のやる気が起こるのでは?」そこで交わるたびに、僕が問題に直面したときに、いかに前向きに向き合うか、いかに逆境のなかで神に頼るか、いかに困難に立ち向かうかを重点的に話した。皆は、僕には背丈がある、物事を対処する力があると思い、称賛してくれた。兄弟姉妹と仕事について話し合うときには、本分で重圧を背負い、食事や休憩をとる暇もないほど忙しいのだと明かすこともあったよ。僕の苦労を知ってもらうためだ。集会では、神の御言葉に思いを巡らすことも、自分を省みることもなく、深く重みのある交わりだと皆に思わせる方法ばかり考えてた。気づかないうちに、高尚な教義を説いては、兄弟姉妹の賛同する顔を見て喜びをかみしめてたんだ。そのうち、本分で何か困ると、まず僕に相談する人が出てきた。少し考えれば自分で解決できるようなことでも、真っ先に僕の意見を求めてくる。僕のところに来て、自分の状態や心の内を話すんだ。信頼されてることが、とてもうれしかった。だけど、日ごとに僕は随分忙しくしてたのに、神の御言葉を読んでも聖霊の啓きを感じなくなった。皆と仕事の話をしていても、僕の提案はどれも役立たずで、仕事で生じた一目瞭然の問題さえ分かってなかった。ようやく、自分がひどい状態にあることに気づいたよ。うぬぼれはすっかり消えてた。それまでは自分が一番偉いと思ってたのに、急に、何も自慢できるもののない、完全な間抜けに思えた。精神が闇と苦しみで満ちてた。

そんなある日、兄弟二人と話してると、スー兄弟に言われたんだ。「知り合ってしばらく経つけど、君はいつも自分を持ち上げて誇示し、自分の堕落や欠点をほとんど交わらない。自分のいいところばかり話してる。そのせいで僕は、君をすごい人だと見上げるようになった。僕の仕事に問題が生じても、君は真理の原則を交わらず、君自身が何をしたか、どう問題を解決したかを話すだけ。それが、誰よりも優れた人だと思わせる」スー兄弟のこの言葉は、どうしても受け入れ難かった。特に、「いつも自分を持ち上げて誇示してる」という部分。この言葉が頭の中で響き渡った。言い返しはしなかったが、強い反発心を感じたよ。「崇拝してくれと頼んだことはない。僕は本当に、そんなに悪い人間か?」納得がいかず、もう一人の兄弟に聞いてみた。驚いたことに、彼はこう言った。「君は自分の堕落や欠点について話したことがない。もう僕には君のことを理解できない」そう言われて、ますます嫌な気分になった。「どうして、もう理解できないなどと言うのだろう? 僕はそんなに不可解だろうか?」何か言って、威厳を取り戻したくて仕方なかったが、二人があんなふうに僕を刈り込み、取り扱うということは、何か理由があるはずだ。二人が言ったことが本当なら、僕には深刻な問題がある。

急いで神の御言葉から、自分自身を持ち上げて証しする人々を暴くものを探した。この御言葉だよ。「自分を高めて自分の証しをすること、自分を誇示すること、人々に自分を尊敬させようと試みること――堕落した人類にはこれらのことができます。自身のサタン的な本性に支配されているとき、人は本能的にこのように反応しますが、それは堕落した全人類に共通しています。通常、人はどのように自分を高め、自分の証しをしますか。どのようにしてその目的を達成しますか。方法の一つに、自分がどれほど苦しんだか、どれほど働きを行なったか、どれほど自分を費やしたかを証しする、ということがあります。つまり、彼らはそうしたことを、自分を高める通貨として用い、それによって人々の心の中でより高く、より確固として、より安全な場所を確保した上で、さらに多くの人が彼らを高く評価し、称賛し、尊敬し、さらには崇め、崇拝し、付き従うようにさせているのです。それが最終的な成果です。この目的を達成するために彼らが行なうこと――ひたすら自分を高め、自分の証しをすること――は、理知的なことですか。理知的ではありません。それらは理性の範囲外にあります。そうした人たちは恥知らずであり、自分が神のために何をしたかや、神のためにどれほど苦しんできたかを臆面もなく証しします。自分の才能、資質、経験、特別な技能、あるいは行動のための賢い技能や、人々をもてあそぶのに用いる手段を自慢しさえするのです。彼らが自分を高め、自分の証しをする方法は、自分を誇示して他者を蔑むというものです。そのような人はまた、自分の輝かしいところだけを見てもらえるよう、自分を偽って偽装し、自分の弱さ、欠点、そして失敗を他者から隠します。彼らは消極的になっても、他の人たちに伝えようととしません。自分の心を打ち明けて共に交わる勇気がなく、何か間違ったことをすると、全力でそれを隠し、ごまかそうとします。本分を尽くす過程で神の家にもたらした害に触れることは決してありません。しかし、何か些細な貢献をしたり、小さな成果を挙げたりすると、すぐにそれを自慢します。自分がいかに有能か、自分の素質がいかに優れているか、自分がいかに並外れているか、そして普通の人に比べてどれほど優れているかを、全世界に知らせたくてうずうずしているのです。これは、自分を高め、自分の証しをする方法ではありませんか。自分を高め、自分の証しをすることは、正常な人間性の理性の範囲内にありますか。ありません。では、人がそのようにするとき、通常どのような性質が明らかになりますか。主たる表われの一つは傲慢さであり、不実さがそれに続きます。不実さには、自分にできるあらゆることをして、他人に自分を尊敬させることが含まれます。彼らが語る話はまったく水も漏らさぬものであり、彼らの言葉には動機と企みが明らかに含まれていて、自分が誇示しているという事実を隠す方法をすでに見つけていますが、彼らが述べることのせいで、人は依然として、この人は他者よりも優れており、肩を並べる者は一人もおらず、他の誰もがこの人より劣っていると考えてしまいます。そしてこの結果は、陰険な手段によって成し遂げられたのではありませんか。このような手段の核心にあるのは、どういった性質ですか。また、邪悪さの要素はそこにありますか。これは邪悪な性質の一種です。彼らが用いるこれらの手段は、不実な性質によって導かれているのだとわかります――では、それは邪悪だとわたしが言うのはなぜですか。このことと邪悪さのあいだには、どのような繋がりがありますか。あなたがたはどのように考えますか。このような人は、自分を高めて自分の証しをする目的を打ち明けることができるでしょうか。いいえ。彼らの心の奥底には常に願望があり、自身の言動がそうした願望を助けるので、心の奥底にある自身の言動の目的と動機は、絶えずしっかり秘密にされています。例えば、彼らはそれらの目的を達成すべく、人を誤解させたり、何らかのいかがわしい戦術を用いたりします。そのような秘密性は、本質的に狡猾なことではないですか。そして、そうした狡猾さが邪悪と呼ばれるのではないですか。それはまさに邪悪と呼ぶことができ、不実さよりも根深いものです(『反キリストを暴く』)。本分での自分の振る舞いについて考えてみた。兄弟姉妹が問題を抱えたときには、交わって助けてるかのように振る舞いながら、僕自身がどう解決したかを話してた。自分の仕事の能力を誇示し、誰よりも有能だと皆に思わせるためだった。仕事の話し合いになると、僕の話の出だしは「僕は」。自分をひけらかすことで、熟知した人物だと皆に思わせ、崇拝させるためだ。僕自身の消極的な部分や堕落を隠し、自分の困難を語るどころか、堕落した性質を分析することもない。むしろ、自分の欠点を隠すためにポジティブな話をして、「背丈がある」と尊敬されるよう仕向けてた。いかに自分が本分で苦労し、大変な思いをしてるかをいつも語り、どれだけ本分に打ち込んでいるかを知ってもらおうとした。集会では、僕には明らかに御言葉や自分への認識がなかったが、自分のことを分かっているかのような嘘を織り交ぜて、話し続けた。皆からより高く評価されるためだった。僕は、皆から尊敬され崇拝され続けるために、正しく見える言動を続けてた。でも実際には、自分を誇示してひけらかし、皆の心を神から遠ざけてたんだ。それは、神の御言葉にある「悪しき性質」によるものでは? 何をしても、どう自分を費やして見えても、僕の目的は本分をしっかり尽くすことじゃなかった。自分の地位を確立するために全力を投じて、皆が僕を崇拝するよう仕向けた。僕は反キリストの道を歩んでたんだ。やっと自分の危険な状態に気づいて、急いで神に祈り、悔い改めようとした。

そのときふと頭に浮かんだのが、この御言葉だよ。「正常な人間性を生きようとするなら、どのように自分の心を打ち明け、自分をさらけ出すべきでしょうか。これは、自分の心を打ち明け、心の底にある本当の思いを他の人たちにはっきり示し、簡単かつ純粋に真理を実践できるようになることで行なわれます。自分の堕落が表に出たら、問題の本質を認識し、心の底から自分を憎んで嫌えるようにならなければなりません。自分自身をさらけ出すとき、その人は自分の振る舞いを正当化しようとしているのでも、自分を弁護しようとしているのでもありません。……まずは、自分の問題を本質的なレベルで認識し、自分を分析してさらけ出す必要があります。正直な心を持って誠実な態度をとり、自分の性質の問題について認識できることを語らなければなりません。二番目に、自分の性質はとりわけ深刻だと感じている場合は、すべての人にこう言う必要があります。『わたしがこのような堕落した性質を再び表わしてしまったら、そのときは全員立ち上がり、わたしを取り扱ってそれを指摘してほしい。手加減してはいけない。そのとき、わたしは耐えられないかもしれないが、そんなことは気にしないでもらいたい。協力してわたしを見守ってほしい。この堕落した性質がひどく燃え上がるなら、全員が立ち上がってわたしを暴き、取り扱うように。全員がわたしを見守り、わたしに手を差し伸べ、わたしが道に迷うのを防いでほしい』。これが真理を実践する際の態度です(『終わりの日のキリスト講話集』の「調和のとれた協働について」)。御言葉が道を示してくれた。いくら僕が自分の問題を理解してても、このままではいられない。正直になって皆に自分をさらけ出し、自分の行動の動機を示す必要がある。自分を持ち上げて誇示し、反キリストの道を歩んでたことを知ってもらわなければ。それが一番大切だ。

そこで次の集会で、兄弟姉妹の前ですべて打ち明け、皆に助けや助言を求めた。完全に心を開くと、すごく心が楽になったよ。そのあと数日間、兄弟姉妹が僕の問題を指摘してくれた。例えば、「君は本分で、いつも自分を誇示する。僕は本分に原則を求めたくなくなり、ただ君に依存した。何でも知ってる君に聞くほうが楽だった」他には、こんなものも。「近頃は神について何も学ばず、ますます君を崇拝するだけだった。君は仕事もできるし本分にも責任を持ってる。そう思い、とても尊敬してた」彼らの言葉を聞いて、本当につらくなった。何カ月もずっと本分を尽くしてきた結果がこれだとは、信じられなかったよ。とても苦しくて耐え難かった。神から憎まれてるに違いないと思い、ひどく消極的になった。だけど神に祈り続け、皆に助けてもらうなかで、やっと気づいた。これは、神が僕を排除するためではなく、清め、変えるためのものだと。この出来事がなければ、僕は自分が間違った道にいると気づかなかっただろう。これは神の偉大な救いだったんだ。御旨を理解するとすぐ、自らを反省し、心から悔い改める決心をした。

そしてこの御言葉を読んだ。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます(『終わりの日のキリスト講話集』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」)。「たとえば、傲慢で自惚れた性質が自分にあれば、神に反抗しないように言われても意味はなく、どうしてもそうせずにはいられず、自制することができません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」)。神の御言葉の啓示をとおして分かった。人々の心のなかで高い地位を築けるよう求め始めたのは、僕の傲慢な本性が原因で、僕は神に抵抗していたんだ。傲慢な本性に支配され、本分で結果が出ると自分を誇らしく思い、あらゆる手段を使って自らを持ち上げ、ひけらかした。僕の言動は、ただ目立ち、自分の才能や能力を示すためのものだった。本分でどれだけ苦しく大変な思いをしたか、どう問題を解決したかを、恥ずかしげもなく誇示してた。どれも、僕が誰よりも優れた、特別な人物だと思わせるためだった。尊敬され、崇拝されたかったんだ。これは反キリストの性質だったのでは? パウロも同じだった。パウロは、説教や仕事をとおして、自分の知識や才能をいつもひけらかし、称賛を得られるよう誇示してた。何度も教会に手紙を出しては、自分がどれだけ主のために働き、苦しんだかをアピールした。それも人々の心をつかむためだった。パウロが懸命に働くのは、自分の本分をきちんと果たすためでも、受肉したキリストを証しするためでもなく、自分の野心や欲望を満たすためだったんだ。どれだけ働いても、どれだけ苦しんでも、どれだけ大勢から崇拝されても、真理を追求せず、うぬぼれが大きくなっていったことで、ついには厚かましくも自分がキリストだと証言してしまった。神の性質にひどく背くその行為によって、神から懲罰される。僕の本性もパウロと同じだった。傲慢でうぬぼれが強く、地位を好み、いつも自分を持ち上げて誇示してた。皆から崇拝され、皆の心から神の居場所をなくすため、問題が起きても皆が神を頼ることも、真理を求めることもないようにするためだ。そういった本分の尽くし方は、神に抵抗し、兄弟姉妹を傷つけるものだった。傲慢な本性を生きることで、そんな悪行と神への抵抗が生じるなんて。悔い改めなければ、遅かれ早かれ神の怒りを買い、懲罰されるだろう。神の懲らしめと、兄弟姉妹の助けと支えがなかったら、僕は自省できなかった。神の義なる性質と偉大な救いがあったからこそ、ああして暴かれることになったんだ。

考えてみると、僕は本分で成果を上げ、問題を発見したけど、それはすべて神の啓きと導きによるもの。聖霊の働きがなければ、僕は何も理解できない愚か者だった。真理の現実が全くないのに、ひどく傲慢で横柄で、恥ずかしげもなく神と地位を競ってた。理知のかけらもない。本分で真理を交わらず、神への証しもせず、ただ自分を誇示し、人を惑わしてた。なんて悪行だ。そう省みて、自分がとても嫌になった。このままではいけないと思い、神に祈った。「神よ、間違ってました。いかに傲慢で愚かだったか分かりました。悔い改める機会をいただき、感謝します。これからは真摯に真理を実践し、正しい道を歩んでいきます。どうかお導きください」。

その後、この神の御言葉を読んだ。「自分を高めたり、自分の証しをしたりするのをやめるには、何をすべきですか。同じ問題に関して、自分を高め、自分の証しをするという目的を達成すべく、自ら恥をさらし、他者の尊敬を勝ち取るというものがありますが、それは心を開いて自分の正体をさらけ出すこととは正反対です――両者のあいだには本質的な違いがあるのです。それらは細かいことではないのですか。例えば、心を開いて自分の動機や考えをさらけ出すにあたり、どのような決まり文句や、自己認識を示す表現がありますか。どのようなことを示せば他者に称賛され、自分を高めて自分の証しをすることになりますか。自分がどのように祈って真理を求め、試練のさなかに証しをしたかを語るのは、神を高めて神の証しをすることです。この種の実践は自分を高めて自分の証しをすることではありません。自分を晒すことには動機が含まれます。自分を高めるのではなく、自分の堕落を全員に示すことが目的であれば、その人の言葉は真摯であり、真実であり、事実に基づいています。他者に自分を尊敬させ、他者を騙し、それらの人から自分の真の顔を隠し、自分の動機や堕落や弱さ、そして消極性が他人の前で明らかになるのを防ぐことが目的であれば、そうした人の話し方は不実で誤解を招くものです。ここには明確な違いがないでしょうか(『反キリストを暴く』)。「神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、どのような試練を用いて人々を精錬し、あなたがたの性質を変えるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたがたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。本当の物事を、自分の実際かつ本物の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」)。神の御言葉が示してくれた。自分を持ち上げて誇示する問題を解決するには、経験をとおして自省し、自らを認識することに集中しなければ。そして、交わるときには自分の動機を正し、自らが表した堕落についてもっと話し、自分の動機や不純を分析し、神の御言葉によって裁かれた経験や、自分について真に認識したこと、神の性質や愛について理解したことを話し、実際の経験を使って神をたたえ、証ししなければならない。それが本当の本分の尽くし方だ。このことが分かり、次の集会で、僕が地位を得るためにどう策略を巡らせ、自分を誇示していたか、神が僕を取り扱い、自らの醜さを分からせるためにどう環境を整えたかを意図的に分析した。すると、ある兄弟がこう言ったんだ。「君の経験から、堕落した性質があっても、神の御言葉による裁きと取り扱いを受け入れ、真理を実践し、肉に背けば、変われることがわかった。神の行いはすべて、人々を救うためであることもわかったよ」それを聞いて、神への感謝の気持ちで満たされた。僕が自分についての認識を得られたのは、神の御言葉によって裁かれ、刑罰されたからだ。

それからは意識して、この方法を本分に取り入れるようにした。誰かの本分に足りない部分があったら、神に祈り、自らの動機を正して、客観的に意見を言うようになった。以前のように自慢したりしない。また、真理の原則をいくつか見つけては、兄弟姉妹と共有した。集会では、本当の僕を知ってもらうため、僕の行動に隠された動機や汚れ、堕落した性質を分析した。そう実践することで、心の中に安らぎを感じたよ。神との関係も正常になった。それからしばらくすると、兄弟姉妹の僕への接し方が適切になったと感じた。前のように僕を見上げるのではなく、僕が真理の原則に反した発言や行動をすると、それを指摘して、僕を正すことができた。そうやって皆と関わることで、本当に解放された思いだった。環境を整えて、僕を清め変えてくださった神に、心から感謝します。

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