私はいま、真のキリストと偽キリストを見分けられる

2022年7月15日

全能神は言われます。「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの実質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、神は地上に来ることで、人にいのちの道を授ける働きをしているということをまず認め、そして神が地上に来て人にいのちの道を与えるのは終わりの日であることを認めなくてはならない。それは過去のことではなく、今起きていることなのだ(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉はすばらしく、真のキリストと偽キリストを見分ける原則をわずか数語で教えてくれます。つまり、真理を表わし人類を救う働きをできるかどうか。それが大事な原則です。過去の信仰で、牧師や長老は偽キリストに気をつけよといつも私たちに言っていましたが、見分け方の原則は一度も説明してくれませんでした。主の到来の証しはどれも偽物だと断罪し、それと関わらないよう命じたのです。なので主が戻られたと聞いても、私はそれを調べようとしませんでした。終わりの日のキリストを拒み、主をお迎えする機会を失うところだったんです。

1996年に主を信じてからというもの、私は何かあるたび主に祈り、そうして多くの問題を切り抜けました。主が共におられるのは素晴らしいことで、平安と喜びを感じていました。数年後、牧師が何も新しいことを語らず、説教に光がないことに気づきました。集会に来る人も減り、説教中に居眠りする人もいる有様。私はそこから何も得られず、霊の喜びを感じませんでした。もう行きたくないと思ったけれど、罪悪感を覚えたので無理に行き続けました。

ある集会で徐長老がこう言いました。「主イエスは私たちにこう警告されました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)。主の再臨の預言はおおかた成就し、主は私たちのもとへすぐに戻られます。しかし、偽キリストも現われて私たちを惑わします。私たちはよく気をつけ、主が戻られたという知らせを受け入れてはなりません。東方閃電は、主が戻られて新たな働きをなさっていると証ししており、多くの教会に属する真の信者が多数それを受け入れました。長年説教師を務めてきた人も、東方閃電に盗まれてしまったのです。あなたがたのいのちは未熟なので、よそ者に近づいてはいけません。東方閃電に惑わされるのを避けるためです」。

主が戻られたと東方閃電が言っていて、長年説教師を務めた多くの人が東方閃電を受け入れたと聞いた私はびっくりしてこう思いました。「説教師は聖書を理解しているし、みんなしっかりした考えをもっている。その人たちが東方閃電を受け入れるなんて、簡単なことじゃない。東方閃電には求めるべき真理があるのかしら。私は主の到来を何年も待ち望んできた。主が本当に戻られたのに求めも調べもしなければ、主に捨てられたらどうなるだろう?」でも、徐長老の話が心配でした。終わりの日には偽キリストが現われる――惑わされるわけにはいきません! 私は少し葛藤して、どうすべきかわからず、心の中で祈りました。「東方閃電の誰かが私に説教したらそれを聞くべきでしょうか? 主イエスよ、どうか私を啓いてお導きください」。そのとき、聖書のこの一節が頭に浮かびました。「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』」(ヘブル人への手紙 13:5-6)。すぐに心が落ち着きました。主を後ろ盾にすれば、恐れることなどありません。たびたび主に祈る限り、私を導き偽キリストを見分けさせてくださるはず。聞いても害はない。

ある日の集会で、徐長老が再び東方閃電にどう用心すべきか話しました。そして偽キリストは人を惑わすと何度も強調し、よそ者に近づくなと言いました。すると銭姉妹がこう言ったのです。「徐長老、どうしてよそ者に近づくなとおっしゃるんですか? 主は私たちのもとへすぐに来られるとか、もう扉の向こうにおられるとかいつもおっしゃいますが、東方閃電は、主はすでに戻られ、真理を表わしていると証ししています。それに耳を傾けず、求めもしないというのが主の御心ですか? 聖書にはこうあります。『したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである』(ローマ人への手紙 10:17)。東方閃電が主の再臨かどうかを判断するには、まず彼らの説教を聞くべきです。耳を傾けず、近づきもしないなら、東方閃電が本当か嘘かどうしてわかるでしょう? それが本当に主の再臨なら、あなたは私たちが主に立ち返るのを止めているんじゃないですか?」今度は宗姉妹が言いました。「主イエスは言われました。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう(マタイによる福音書 7:7)。理解できないことについて、もっと祈って求めることを、主は私たちに望んでおられます。開かれた心で求める限り、主は私たちの祈りを聞き、導いてくださいます。私たちは主の再臨の福音を聞きましたが、それを調べておらず、祈りを通じて主の御心を求めていません。それは主の教えに反します。どうして主をお迎えできるでしょう?」

徐長老は二人の言葉に困ってしまい、何も言えませんでした。私は二人の言うことが正しく、自分たちで東方閃電を調べるべきだと思いました。また驚いたことに宗姉妹はいつも内気でめったに話さないのに、勇気を出して長老に反論しました。また揺るがぬ証拠を聖書から見つけ、誰も反論できなかった。本当に信じられません! 二人の考えや洞察がとても素晴らしかったのはどうしてか? 東方閃電を受け入れたのか? 主の到来という大ごとを私は理解しなければならず、そこで二人に訊くことにしました。

翌日、宗姉妹に東方閃電を受け入れたのかと訊きました。するとうなずいてこう言ったのです。「主は全能神として戻られました。私たちを清めて救うすべての真理を表わし、裁きの働きをなさって、私たちの罪深い本性を根絶して堕落を清め、完全に罪から救ってくださいます」。私はそれを聞いて、東方閃電の言うことを聞かなくてはと思いました。すると宗姉妹は、全能神教会の交わりに参加できるよう手配してくれました。

その日になり、私は全能神教会の兄弟に自分の困惑をすべて話しました。「主イエスは言われました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)。徐長老が言うには、主が戻られる終わりの日には偽キリストが現われ、主の到来の知らせはすべて偽りで、それを調べるべきではないと。そこまで用心するのが主の御心にかなうとは思えません。それを調べず、主をお迎えせず、主に見捨てられたらどうなるでしょう? でも、惑わされるのも心配です。誰かが主の再臨を宣べ伝えるとき、私たちはどうすべきでしょうか? 心からそれを知りたいんです」。

すると兄弟は笑みを浮かべて言いました。「私たちはみな、道に迷って偽キリストに惑わされるのを恐れています。そう心配するのは当然です。でも、恐れるだけで何になるでしょう? それで問題を解決できるでしょうか? 理解してどうすべきかを知るには、御言葉の裏にある主の御心を理解せねばなりません。私たちが偽キリストを見分け、惑わされることがないよう、主はそれらの御言葉を語られました。何事にも用心し、主の再臨さえも拒むよう、そうおっしゃったのではありません。主は終わりの日に偽キリストが現われるとおっしゃっただけでなく、偽キリストの見分け方も教えられています。主は言われました。『にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)。主の御言葉は明確です。偽キリストはおもにしるしと奇跡に頼って人を惑わします。いま私たちは偽キリストの特徴を知っているので、用心さえすれば惑わされません。この聖句を文脈から切り離して主の御心を誤って解釈し、主の到来の知らせをすべて偽物だと断罪して一切求めなければ、主の再臨を拒んで断罪していることにならないでしょうか」。

それは私にとってショックでした。「本当にそうなの? 主が到来を預言なさったのに、私たちはそれを文脈から切り離し、主の到来の知らせを偽物だと断罪した。主の再臨を断罪してしまったのよ!」

すると兄弟が交わりを続けました。「主イエスはこう言われました。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)。主が戻られるときまずその御声を聞き、その後宣べ伝えて証しする人がいるのだとわかります。つまり、主が私たちの戸を叩かれるのです。牧師の言うことに耳を傾け主が戻られたと証しする人を締め出し目も耳も閉ざすなら、主の御声を聞いてお迎えすることができるでしょうか? 喉詰まりを恐れて食事をやめるようなものじゃないですか?」

聞きながら、彼の言うことは聖書と主の御心にかなっていると思いました。主は私たちに偽キリストはおもにしるしや奇跡を見せることで人を惑わせ、私たちは偽キリストを見分けるべきだけど、受け身になって警戒してはならないと教えられたのです。主の御言葉はとても明確なのに、どうしてそれまでわからなかったのか。牧師や長老は何度もこの聖句を読みましたが、その原則に触れなかっただけでなくこの聖句をねじ曲げて聖書を誤って解釈し、主の再臨の知らせはどれも嘘だと言ったのです。今、彼らは聖書をまったく理解していないと思えました。それなのに、よそ者に近づくなと言って、主の再臨の福音を求めさせない。主が本当に戻られたなら、私は主を締め出しているんじゃないか? そんなの危険すぎます!

すると兄弟は一冊の本を取り上げました。「全能神の御言葉を読んで偽キリストが人をどう惑わすかもっと知りましょう。全能神は言われます。『この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならない。しかし今回神はまったくそのようではない。もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない(『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」〔『言葉』第1巻〕)」。

読み終わるとこう言いました。「神は常に新しくて古くなく、決して働きを繰り返しません。律法の時代、神は律法と戒めを発せられ、地上における人の生活を導き、神の崇め方を教えられました。恵みの時代にいらした主イエスは同じ働きを繰り返さず、律法の時代の働きを基に贖いの働きをなさいました。悔い改めの道を語り、病人を癒やして悪霊を追い出し、しるしと奇跡を示されたのです。最後は罪の捧げ物として十字架にかけられ、かくして人類を罪から贖われました。全能神は終わりの日に来られイエスによる贖いの働きを基に、神の家から始まる裁きの働きをしてこられました。人類を清めて救うすべての真理を表わし、罪の根源、つまり私たちのサタン的な性質と本性を根絶なさるのです。そのため私たちは罪を徹底的に清められ、神のお導きで神の国に入れます。そこから、神の働きが常に前進し、神は人類の必要を基に真理を表わして働きを行ない、人類を救われることがわかります。終わりの日に来られた主が恵みの時代の働きを再びなさり、病人を癒やして悪魔を追い出したなら、神の働きは前進せず、主イエスの働きは無意味になるでしょう。そのため、主は終わりの日に再臨なさるとき、しるしや奇跡を見せることも、病人を癒やして悪霊を追い払うことも決してなさいません。しるしや奇跡を見せて再臨された主の振りをする人がいれば、その人は間違いなく人を惑わそうとする偽キリストです。偽キリストはキリストの振りをした悪霊、悪魔です。真理を表わせず、ましてや人類を救う働きなどできません。できるのは神のあとをつけてその働きをまね、単純な奇跡を見せて人を惑わすことだけ。でも、死者を蘇らせたり、五千人に食事を与えたり、風と海を静めるといった、主イエスによる神の権威に満ちた奇跡は偽キリストには不可能です。神の働きを知り、偽キリストの本質と策略を識別できれば、彼らに惑わされることはありません」。

全能神の御言葉を聞いて偽キリストを見抜く真理が少しわかりました。神は常に新しくて古くなく、決して働きを繰り返しません。主イエスの贖いの働きは終わったので、戻られても同じ働きを繰り返さないのです。偽キリストは真理を表わすことも神の働きをすることもできません。できるのは神による過去の働きをまね、単純なしるしや奇跡で人を惑わすことだけ。主は『にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い』と言われましたが、その意味がやっとわかりました。

兄弟はこう続けました。「真のキリストと偽キリストを見分ける真理について全能神はとても明確で、それらを識別する上で鍵となる原則を示されます。私たちは何より、受肉の意味とキリストの本質を知る必要があるのです。キリストを知れば自然と偽キリストを見抜けるでしょう」。そして兄弟は全能神の御言葉を二節読んでくれました。「受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの実質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

そして兄弟は言いました。「全能神の御言葉からはっきりとキリストは受肉した神で、人の子として肉をまとい、人のあいだで働くために天からいらした神だということがわかります。キリストには正常な人間性と完全な神性があり、普通に見えても本質は神性です。ゆえに真理を表わし神の声で語り、人類を救い、神の性質、神が所有するものと神そのものを表わせます。キリストはいつでも真理を表わし、人に施して導き、実践の道を示せます。それはキリストの本質によって決まっています。キリストかどうかを確かめるにはその人の言葉、働き、性質から判断する必要があります。主イエスは神の受肉でした。恵みの時代を始めて律法の時代を終わらせ、真理を表わし人に悔い改めの道を授け、愛と慈悲に満ちた神の性質を表わし、贖いの働きをすべく十字架にかけられました。その御言葉と働きから、イエスは人の霊が必要とするものを施し、人に新たな時代の道を与えられたのだとわかります。告白して悔い改め、隣人を愛し、寛容で忍耐強くなり、七の七十倍赦し、心と精神を尽くして神を愛するといったことを教えられたのです。主に祈ると、平安と喜びを感じます。主に告白して悔い改めれば、私たちの罪は赦されます。御言葉によって行動すれば、主は私たちを褒めて祝福なさいます。その御言葉、働き、そして表わす性質から、主はキリスト、贖い主でいらっしゃることがわかります。今は全能神がおいでになり、神の家から始まる裁きの働きをなさってきました。人類を清めて救うすべての真理を表わし、神の国の時代を始めて恵みの時代を終わらせました。全能神は真理を表わし、人を救う経営計画の奥義、3段階の働きの目的、御名と受肉の奥義、神の働きと人の働きの違い、聖霊の働きと悪霊の働きの違い、真のキリストと偽キリストの違いなどを明かされます。また世の暗黒と悪の根源、神に抵抗する人のサタン的本性、私たちの様々な堕落、そして傲慢、利己心、欺瞞、悪、貪欲といった人の堕落した性質を暴かれます。さらに、清められる道や、私たちが実践して入るべき真理、つまりどう正直になり、神に従い、神を愛して崇めるか、神の御心にかなう形でどう奉仕するか、自分の堕落した性質をどう捨て去るかなどを示されます。御言葉の裁きを通じて神の選民は真理をいくらか理解し、サタンに堕落させられたことを知り、神の義なる性質と聖い本質を認識します。そして神を畏れ、御言葉を実践して堕落した性質を捨て去り始め、いのちの性質が徐々に変わります。全能神が真理を表わし、裁きの働きをなさり、義と威厳に満ちた性質を表わされることはすべて受肉した神、終わりの日のキリストでいらっしゃることの証明です。全能神は再臨された主イエスなのです! 偽キリストは悪霊に取り憑かれ、実質的に悪霊です。新たな時代を始めることも、古い時代を終わらせることもできません。神の御言葉を表わすことも、神による経営の働きの奥義を明かすこともできません。人を裁き、清め、変える働きはできず、神による過去の働きの一部をまね、単純な奇跡を見せることしかできません。聖書を誤って解釈し、もっともらしい教義を語るか、人の肉の観念に合うことを言って人を惑わします。彼らに耳を傾ける人は行き詰まり、そこから何も得られません。内側がどんどん暗くなり、最後はサタンと悪霊に惑わされます」。

すると宗姉妹が言いました。「キリストは真理、道、いのちでいらっしゃり、真理を表わし、人のいのちに糧を施し、道をお示しになれます。偽キリストは悪霊で、真理を表わすことも人のいのちに糧を施すこともできず、人に道を示すなどもってのほか。できるのは奇跡を見せ、人の観念に合うことを言って惑わすことだけ。神の御言葉には、真のキリストと偽キリストを見分ける道があります。だからもう惑わされることを心配しなくていいのです」。

二人は全能神の御言葉をもとにキリストとは何か、どう偽キリストを見分けるかについてはっきり交わり、私の心を光で満たしました。キリストかどうか、再臨された主かどうかを見分ける鍵は、その人の本質に目を向け、真理と神の言葉を表わし、人を救う働きができるかどうかを確かめること。それが一番大事。真理を表わし、人を救う働きをできる方だけが受肉した神で、裁きの働きをし、人を清めて救える方だけが終わりの日のキリストです。真理を表わすことも神の働きをすることもできず、キリストや神を自称する人は偽キリストで、人を惑わすために来た偽物です。これが真のキリストと偽キリストを見分ける正確かつ簡単な方法なんです! 全能神がこれらの真理と奥義を明かされていなければ、どんなに聖書を読んだり牧師の話を聞いたりしても、決してわからなかったでしょう。

兄弟は続けて言いました。「主イエスは言われました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。真理の御霊は今、受肉した全能神として来られました。人が救いを得る上で必要とするすべての真理と奥義を明らかになさり、その御言葉を通じてのみ、私たちは真理を理解して実践の正しい道をもてるのです」その後、兄弟はさらに多くのことを交わってくれました。そのどれも、以前の信仰で聞いたことがないものでした。主を信じてきた年月よりもその一日で、より多くのことを理解したのです。東方閃電の説教はとても偉大だと人々が言うのも無理はありません。それはすべて全能神の御言葉から来たのです! 私は兄弟に訊きました。「『言葉は肉において現れる』はいくらするんですか? 一冊買って読みたいんです」。すると笑顔で「無料ですよ。神も『かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう(ヨハネの黙示録 21:6)と言われましたと。神は人を愛しサタンの権力から徹底的に救って、私たちに価なしで与えられます。私たちが真理を求める限り、神は価なしで御言葉を授けてくださいますよ」私はとても感動しました。これほど無私に私たちを愛し、施せるのは神だけ。すると兄弟が『言葉は肉において現れる』をくれました。

その後、私は全能神の御言葉を毎日貪るように読み、読めば読むほど多くのものを得て享受しました。神の御言葉が心に入ったかのようです。信仰における以前からの混乱も解決し、喜びと興奮を覚えました。東方閃電を受け入れたあの良き信者たちはみな全能神の御言葉に真理を見、神の御声を聞いて、それが受肉した神、再臨された主イエスだと気づき、躊躇なく神による終わりの日の働きに従ったんです。まさに賢い乙女です! 私は教会の牧師や長老がまくし立てる観念や誤謬に惑わされ、主の到来の知らせはどれも嘘だと信じ、調べようとしませんでした。主をお迎えする機会を失うところだった私は、本当に愚かでした! なのに、神は私を見捨てられず、兄弟姉妹の交わりを通じて偽キリストの見分け方を示され、それで私は御声を聞いて全能神による終わりの日の働きを確信し、子羊に従ったのです。私を救ってくださった神に感謝します!

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

神に捧げ物をすることには実は原則がある

私は家庭の不和がきっかけで1997年に主イエスを信じるようになりました。その後、主の言葉を実践することで、家庭内の争いはなくなりました。主は私の家族を救い、私を痛みから救い、人生の希望を与えてくださいました。 初めて教会の集会に行った時のことを覚えています。牧師はヨハネによる福…

小羊の足跡をたどる

「神を信じている以上、人間は神の歩調に一歩ずつしっかり従わなければならない。人間は『子羊が行く所はどこへでもついて行く』べきなのである。このような者たちだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は、聖霊の働きによって淘汰された…

大きな白い御座の裁きが始まった

信仰を得た私は祈り方と聖書の読み方を学び始め、日々の生活で主の御言葉に精一杯従いました。その後、終わりの日の裁きに関する動画を沢山ネットで見ました。それらはヨハネの黙示録のこの預言に触れています。「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前か…

真のキリストと偽キリストを識別する真理を身につけたあと、私は無闇に用心しないようになった

私は小さいころから、教会の助祭と日曜学校の教師を務める母に従って主を信じてきました。よく母と集会に出て聖書を読み、成長後は児童グループから青少年グループに移りました。  青少年グループへの説教を担当する牧師は神学博士でしたが、牧師になるのは簡単なことではないとか、聖霊の啓きがなけ…