傲慢な性質の結果

2022年12月15日

2006年、僕は高校生だった。聖書学習のとき、先生からよく開会の辞と、説教してくれる牧師の紹介を頼まれた。よく通るいい声をしてると言われ、クラスメートにも一目置かれた。自分は優秀だと思ったよ。大学では、コミュニケーションのコツをいくつか掴み、おかげで人との交流が得意だった。自分の能力にいつも優越感と誇りを持ったものだ。全能神を信じてからは、友人に福音を説き始めた。最初の相手はホンジュラスから来た兄弟。受け入れてくれた。本当に嬉しかった。次にインド人の同僚に福音を説くと、彼もすぐ受け入れた。ますます嬉しくなって、福音伝道の素質と才能があると思ったから、仕事を辞めて伝道に専念した。伝道対象者とコミュニケーションするのが上手く、みんなを助けられたから、すぐグループリーダーに選ばれた。また監督者から、伝道を始めたばかりのアイリーン姉妹とアガサ姉妹を助けるよう采配され、他の兄弟姉妹より優秀だと思ったよ。あるとき、アイリーン姉妹と一緒に福音対象者との集会に出かけた。でもアイリーンははっきり交われず、たびたび脱線したから、僕は集会後、怒り混じりに問題を指摘した。すると彼女は消極的になって、こう言った。「兄弟、あなたは傲慢すぎます。あなたと働きたがらない人がたくさんいますよ」。でも今の発言のせいで批判してるだけだと思って、自分に問題があるとは考えなかった。その後、彼女とアガサの本分の状況を監督する中で、二人とも問題があることに気づいたけど、真理の交わりで二人を支えず、本分で進歩してないと決めつけ、福音の働きに不適だと監督者に言った。すると監督者は傲慢な性質を指摘し、人の欠点を正しく扱えないと言った。そして人の傲慢な性質を暴く御言葉をいくつか送ってくれた。無視したよ。この御言葉は自分に当てはまらないって。その後、みんなに相談せず、人々を説教に招待し、終わりの日の神の働きを証しした。僕との会話や交わりに感銘を受けた人もいて、才能があるとますます思った。監督者の言うことを聞いて、みんなと協力する必要なんかない。一人で福音を説けるし、立派に本分を尽くせる。その後、福音伝道の基準を満たさない人がいるとわかって、その結果、一部の働きが無駄になった。監督者から、あなたはとても傲慢で、無謀に振る舞い、協力しないから、働きの成果が低いと言われた。この振る舞いのせいでグループリーダーを外され、後任はアイリーン。納得できず、僕の長所があれば、解任すべきじゃないと思ったよ。当時はこの采配を受け入れられず、本分をやめると申し出た。でも当時はただ頑固で、自省なんて思いもよらなかった。

その後、新人の潤しに移ったけど、やがて再びグループリーダーに選ばれ、テレス姉妹と組むことになった。ところが集会のとき、テレスの交わりは時々不完全で、新人の問題をきちんと解決できないことがあって、僕は彼女を見下した。「本当に、この本分に適してるのか? グループリーダーなんだから、新人の問題を解決できなきゃだめだ。現状に照らせば、まずはしばらくチームメンバーとして訓練するのがいい」。それ以上に、彼女は問題があると僕じゃなく、いつも他の人に助けを求めるんだ。「僕はこうした問題の解決方法を知っている。他人に訊きに行くのは、僕を尊敬してないからなのか?」その後の会議で、働きの問題をいくつか監督者に指摘された。テレス姉妹の振る舞いを思い出して、不満を抑えられず、みんなの前でぶっきらぼうにこう言った。「テレス姉妹にグループリーダーが務まるのか?」って。テレスは傷ついた口調で答えた。「わたしは役立たずです。みんなの問題解決を助けられません」。それを聞いて罪悪感を覚えた。その後は話をしても、彼女は僕に萎縮してたが、それでも僕は、自分を反省しなかった。別のとき、新人の1人が本分で成果を上げていないことに気づいて、その本分に不適だと思った。でも監督者に相談したり、みんなと話し合ったりする代わりに、僕は彼を解任した。当時、僕は本当に傲慢だった。その後初めて、彼が本分で困難を抱えてたことを知った。彼の状況を知らないまま、勝手に解任したんだ。その後はとても消極的になった。それを知った指導者は、こう訊いた。「誰にも相談せず解任したのはなぜ? 本当に傲慢で自惚れてる。いつも他人を見下し、萎縮させてる。そんなひどい振る舞いでは、グループリーダーにふさわしくない」また解任されてすっかり落ち込み、こう自問した。「どうして誰にも訊かなかったんだろう? いつも自分のしたいようにするのはなぜなんだ? ちょっと探求してみんなと相談していれば、こんなことにはならなかった」。それから数日は吐いてばかりで、すっかり弱ってしまった。神に背いたとわかり、本当につらかった。

その後、ある姉妹に自分の状態を打ち明けると、御言葉を二節送ってくれた。「独善的になってはならない。他の人々の長所を利用して自分の弱さを正し、他の人々がどう神の言葉によって生きているかをよく見て、彼らの生き方や言動が見習うに値するかどうかを見極めなさい。他の人々が自分より劣っていると考えるなら、あなたは独善的で慢心しており、誰のためにもならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十二章」〔『言葉』第1巻〕)。「自分は生まれながらの天才で、天より少し低いものの、地よりは無限に高いなどと考えないことだ。あなたは他の人ほど賢くないどころか、理知ある地上の誰にも増して、ほれぼれするほど愚かだとさえ言えるだろう。なぜなら、あなたは自分を過大評価しており、わたしの行動の些細な点まで見抜けるとでもいうように、いまだかつて劣等感をもったことなどないからだ。しかし実際には、あなたは根本的に理知を欠いた人である。なぜなら、わたしが何を行なうつもりなのかをまったく知らず、ましてやわたしが現在していることに気づいていないからだ。だからこそわたしは言う。あなたは懸命に働く年老いた農夫にも匹敵しない。人生というものを一切自覚していないにもかかわらず、天の祝福に頼り切って土地を耕している、そのような農夫にも匹敵しないのだ。自分自身の人生について再考することがなく、誉れとは何であるか一切知らず、ましてや自己認識など持ち合わせていない。あなたはあまりに『立派』である(『神の出現と働き』「学習しない無知な者たち。彼らは獣ではなかろうか」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んで本当につらかった。御言葉に暴かれた気がしたんだ。自分は賜物に恵まれ、みんなより賢く才能があるといつも思ってた。絶えず優越感を持ち、高く自己評価して、みんなのことは眼中になかった。集会でアイリーンとアガサがした交わりに欠点があると、二人を見下し、切り捨て、福音の働きにふさわしくないと決めつけ、組むなんて嫌だと思った。特に一人で福音を説けると、自分には才能がある、協力せずとも働きを完成できるとますます思った。テレスと組んだときは、自分のほうが才能があると思い、彼女を見下し、グループリーダーなんか無理だと考えた。あの兄弟のときも、自分のやり方にこだわり、誰にも相談せず勝手に解任し、消極的にさせてしまった。僕は自惚れ、いつも好き勝手して、みんなの意見を聞こうとしなかった。自分に比べて取るに足らないと思っていたからだ。「僕のほうが優れ、才能がある」と言いたかった。その結果、原則を求めず本分を尽くし、独断専行して、兄弟姉妹を傷つけてしまった。特にこの御言葉を読んで、自分が恥ずかしくなったよ。「自分自身の人生について再考することがなく、誉れとは何であるか一切知らず、ましてや自己認識など持ち合わせていない。あなたはあまりに『立派』である」。御言葉に心が乱れた。僕はいつも自分を高く評価し、自分の行為が正しいかどうか考えすらしなかった。まったく自惚れてた。農夫は神にすがることを知っている。でも僕は何かあっても、神の御旨を求めようとしなかった。心に神の居場所がなく、自分を理解も認識もしてなかった。

その後、姉妹がさらに御言葉を送ってきて、おかげで少し自己認識できたんだ。全能神は言われます。「サタンの性質には多種多様な堕落した性質が含まれますが、最も明らかで突出しているのは、傲慢な性質です。傲慢さは人間の堕落した性質の根源です。傲慢になればなるほど、人はそれだけ理智に欠け、理智に欠ければ欠けるほど、神に抵抗しがちになります。この問題はどれほど深刻でしょうか。傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえして、心の中には神への畏れがありません。神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいます。そのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価しています。これが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来します。ゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません。誰も眼中にないと思うのは些細な問題で、傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのです。このような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合います。この種の人は神を少しも畏れず、神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。「神は人間を創造するとき、さまざまな長所を各種の人に与えます。文学に秀でた人もいれば、医学の才がある人、技能の研鑽に優れた人、科学研究が得意な人などもいます。このような人間の長所は、神から授けられたものです。自慢するようなものではありません。人の長所が何であれ、それでその人が真理を理解していることにはなりませんし、ましてや真理の現実を備えていることにもなりません。何らかの長所のある人が神を信じているなら、それを本分を尽くすのに活用すべきです。これは神に喜ばれます。自分の長所を自慢したり、それを用いて神と取引したいと思っていたりするなら、その人はきわめて理不尽で、神はそのような人を不快に思います。何らかの分野に秀でた人が神の家に来て、自分は他の人より優れていると思うことがあります。このような人は特別扱いされることを望み、自分の技能があれば一生安泰だと考えます。彼らは自分の分野を、資本の一種であるかのように見なします。何と傲慢なことでしょう。では、このような賜物や長所はどのように捉えるべきですか。神の家での使い道があるなら、それは本分を立派に尽くすための道具であり、それ以上のものではありません。真理とは関係ありません。賜物や才能がいかに優れていても、それは人間の長所に過ぎず、真理とは一切関係ありません。あなたに賜物と長所があったとしても、真理を理解していることにはなりませんし、ましてや真理の現実があることにはなりません。自分の賜物と長所を本分で活用し、本分を立派に尽くすなら、あなたはしかるべき使い方をしていることになります。神はそれをよしとします。自分を誇示し、自分への証しを立て、独立王国を築くために自分の賜物と長所を利用するなら、その罪は実に大きく、あなたは神に逆らう主犯になっています。賜物は神から与えられるものです。本分や神の証しをするために自分の賜物を活用することができなければ、あなたには良心も理知もなく、神に大きな借りがあります。重大な不服従を犯しているのです。けれど、どれだけ見事に賜物と長所を活用しても、あなたに真理の現実があることにはなりません。真理を実践し、原則をもって行動することでのみ、真理の現実を備えることができるのです。賜物と才能はいつまでも賜物と才能であり、真理とは無関係です。あなたにどれだけ多くの賜物と才能があろうと、どれだけ立派な名声と地位があろうと、決して真理の現実を備えていることにはなりません。賜物と才能が真理になることは決してありません。真理とは無関係なのです(『反キリストを暴く』「第8条 彼らは人を自分にだけ従わせ、真理や神には従わせない(3)」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉は明快だ。一人ひとりに長所、技能、才能がある。でもどんな技能があっても、真理を理解してるというわけじゃないし、ましてみんなより優れてるわけじゃない。神が授けた長所と才能は、本分を尽くす道具に過ぎず、真理とは関係ない。僕はそんなことを誇らず、正しく向き合うべきだった。でも話術を多少マスターして、スムーズにコミュニケーションできるようになると、自分は優れてると思い、そうしたことを元手にした。みんなより優れてると考え、ますます傲慢になって増長した。本分で多少成果があると、ますます自分を誇り、自分のことしか眼中になくなった。本分で真理の原則を求めず、みんなと協力できないほどに。指導者に傲慢な性質を指摘されても無視し、自分が正しく優れてると思い込んだ。解任されても自省なんかせず、恥知らずにも、自分は賜物と才能に恵まれ、本分をきちんと尽くせると考えた。解任に抵抗と不満を感じ、本分をやめたいとさえ思った。この傲慢な性質のせいで自己認識できず、みんなのアドバイスを聞けず、自分がわからなかった。他人は眼中になく、心に神がいなかった! 神が状況を整えるたび、神に逆らい反抗したのは、傲慢さが根源なんだ。心に神の居場所がなく、従いも畏れもしなかった。表面上は本分を尽くしていても、何かあるたび神に祈って神を求めず、本分でも真理や原則を求めなかった。傲慢な性質に頼り、勝手気ままに物事をするだけ。そのせいで教会の働きが妨げられた。まさに悪事を犯してたんだ! 傲慢な性質が変わらなければ、遅かれ早かれ神に逆らう反キリストになり、最後は神に淘汰され、懲罰を受ける。御言葉の啓きと照らしで、この事実がはっきりわかった。僕には多少長所があるけれど、いつも傲慢な性質で行動し、真理や原則を求めず、働きの成果が上がらない。明らかに、他のみんなと同じだ。テレス姉妹のことを考えた。彼女はみんなの意見を謙虚に受け入れ、自分の欠点を補える。本分もますます成果を上げた。恥ずかしかったよ。僕には姉妹の長所がない。実は何者でもないのに、やはり傲慢だったんだ。このまま自分の長所と才能を元手にし、御言葉を聞かず、本分で真理と原則を求めなければ、長所があっても神に祝福されない。正しく本分を尽くせないだけでなく、最後は救いの機会を失う。

その後、別の御言葉を読んだ。「完全な人がいると思いますか。人はどれほど強かろうと、どれほど能力や才能があろうと、それでも完全ではありません。そのことを認識しなければならず、それは事実です。それはまた、人が自分の長所や強み、あるいは欠点に対してとるべき態度でもあり、人が備えなければならない理性です。そのような理性があれば、自分の強さや弱さだけでなく、他者の強さや弱さにも適切に対処できます。それにより、他者と調和して共に働けます。真理のこの側面を理解していて、真理の現実のこの側面に入ることができるなら、兄弟姉妹と調和してうまくやりながら、互いの長所を活用して自らの弱さを埋め合わせることができます。そうすることで、どんな本分を尽くしていようと、何をしていようと、常に向上して神の祝福を得られるのです(『終わりの日のキリスト講話集』「善行は性質の変化を意味しない」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉から実践の道が見つかった。御言葉の中で自己認識し、自分の長所と短所に正しく向き合うべきなんだ。それに、完璧な人はいない。わからないことがあったら、みんなの助けを求め、そのやり方や道に頼るべきなんだ。以前は、自分はみんなより優れてるといつも考え、みんなを見下した。でも実は、みんなに長所があるし、自分を高く評価しちゃだめなんだ。謙虚になり、言動でみんなと同じ位置に立ち、みんなの長所と強みをもっと学んで協力しないと。誰かが意見を出したら、真理と原則を求め、自分が正しいと考えてはいけない。欠点や短所、間違った考えや観点がたくさんあるから、不正確な見方をするし、それに聖霊はいつも1人に働きかけるわけじゃなく、他のみんなに働きかけるからだ。

その後、本分で兄弟姉妹が違う意見を出してきたら、受け入れようと試みた。以前の伝道では、人を招いても自分の説教を聞かせるだけで、後からみんなの困難を訊くことはなかった。監督者が僕の問題を見つけ、本分に力を込めてないと指摘しても、最初は批判を受け入れられず、自分はいつも最善を尽くし、集会でもみんなの問題や困難を理解していて、訊く必要なんかないと思ってた。以前はそれで成果を上げてたから、監督者の言うとおりにしなくてもいい。でもそう考え、傲慢な性質がまた表われたと気づき、自分を鎮めて神に祈り、落ち着こうとした。監督者は働きでの問題を指摘してる。本分で成果を上げられるよう、そのアドバイスを受け入れないと。反省後、福音対象者と意思疎通し、困難があるかどうか訊いた。そして全力で御言葉を探し、彼らと交わったんだ。そう実践すると、福音の成果がずいぶん向上したし、自分を脇にのけて真理を実践する喜びを経験した。その後は兄弟姉妹が意見を出しても、受け入れるようにしてる。こう実践するたび、内なる安らぎをいつも感じ、本分でずいぶん役立った。神に感謝してる!

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