教会指導者は役人ではない

2022年12月15日

わたしはマシュー。3年前に終わりの日の全能神の働きを受け入れ、2020年10月に教会指導者になった。責任重大だと思い、少しストレスを感じたが、誇らしかった。自分がその本分に選ばれたのは、みんなより素質が優れているから。わたしは本分を真剣に捉え、全力でみんなと交わり、本分の問題解決を助けた。やがて、自分は問題を解決できると考え始め、必要とされればどこへでも行って交わりをした。自分は問題解決に優れた指導者だと、みんなに証明したかった。

やがて、悪人が教会で噂を広め始めた。神を冒瀆する共産党の嘘を集会グループにまき散らし、事実をねじ曲げ、神の家の働きを非難した。人を惑わし、神から遠ざけたかったのだ。私はできるだけ集会を開き、交わった。軍勢を率いて敵の勢力に向かう司令官のように感じたものだ。みんなを守れることを証明したかった。重荷を引き受けられる、責任感がある人物だと思われるように。でも実際には、とても弱かった。わたし自身、一部の誤謬に反論することができず、わたしも影響を受け始めたが、自分の弱さをみんなに見せたくなかった。大きくて強く、本物の指導者だと思われたかったのだ。わたしは決して自分の状態を打ち明けなかった。指導者として弱さのしるしを見せてしまえば、強者のイメージを失ってしまう。どう思われるだろう? 教義を述べ立てるだけで、真理の現実がないと思われないか? 教会指導者たる者、大統領や司令官のようにタフじゃないと! 弱さを見せるわけにはいかない! そこで集会では、神の言葉の「深い」理解や自分の経験ばかり話した。自分の失敗や堕落は言いつくろい、自分がきちんとできたことにすぐ話を変えた。集会で眠くなってもそれを認めず、また問題があっても、弱さを解決する道を今すぐ見つけると言った。新人をどう潤し、学びの機会を与えたかを話し、善行を見せつけようとした。経験を伝えるときは、神のために払った犠牲を喜んで話し、徹夜してでも本分を尽くしたと言って、みんなに尊敬されようとした。パートナーのマリネット姉妹も、わたしを心から尊敬するようになった。彼女の状態にふさわしい御言葉で、いつも助けていたからだ。彼女が敬意を見せたとき、わたしは喜び、大いに満足した。新人の潤しを始めた兄弟姉妹も、心からわたしを尊敬してくれた。ある姉妹が問題に見舞われると、わたしは彼女を呼んで交わりをしたが、その後神の旨を理解したと言うので、すっかり自分に満足し、真相を言わなかった。わたしの交わりはすべて神の導きで、神の啓きが由来だから、栄光はすべて神に帰するべきだと。交わりのあと、兄弟姉妹は「アーメン」、「マシューの言うとおりだ」「マシューの交わりに感謝」と言ってくれた。時には敬意に満ちた口調でわたしに話しかけ、本分での決定についてわたしの意見を求めることも。みんなの心の中で重要な地位を占めているのは間違いない。わたしへの尊敬を見て、少し不安になったが、仰ぎ見られる感覚が好きで、それをとても喜んだ。そんなある日、『自分を誇示することで生じた害』という証しの動画を見て、心から感動した。指導者を務めるある姉妹は、本分でいつも自分を称揚し、神の性質に背いて、病気という懲らしめを受けた。重要なのは、彼女の振る舞いが神を嫌悪させたこと。動画を見て、涙が顔をこぼれ落ち、自分を誇示してみんなに尊敬されることで、神に逆らっていると気づいた。わたしは反キリストの道を歩み、誇示することがこれほど深刻な問題だとは気づかず、「神の怒りを招いてしまった」と、心の中で言い続けた。本当に怖いし、どうすればいいかわからない。

その後、御言葉の一節を読んで、自分の堕落を理解することができた。神は言われる。「自分を高めて自分の証しをすること、自分を誇示すること、人々に自分を尊敬させようと試みること――堕落した人類にはこれらのことができます。自身のサタン的な本性に支配されているとき、人は本能的にこのように反応しますが、それは堕落した全人類に共通しています。通常、人はどのように自分を高め、自分の証しをしますか。どのようにしてその目的を達成しますか。このような人は、自分がどれほど働きを行なったか、どれほど苦しんだか、どれほど自分を費やしたか、どのような代価を払ったかを証しします。彼らはそうしたことを、自分を高める元手として用い、それによって人々の心の中でより高く、より確固として、より安全な場所を確保した上で、さらに多くの人が彼らを高く評価し、称賛し、尊敬し、さらには崇め、崇拝し、付き従うようにさせているのです。人はこの目的を達成するために、表向きは神を証しするようなことを多数行ないますが、本質的には自分を高め、自分の証しをしています。このように行動するのは、理知的なことですか。それらは理性の範囲外にあります。そうした人たちは恥知らずであり、自分が神のために何をしたかや、神のためにどれほど苦しんできたかを臆面もなく証しします。自分の才能、資質、経験、特別な技能、行動のための賢い技能、人々をもてあそぶのに用いる手段などを自慢しさえするのです。彼らが自分を高め、自分の証しをする方法は、自分を誇示して他者を蔑むというものです。そのような人はまた、自分の輝かしいところだけを見てもらえるよう、自分を偽って偽装し、自分の弱さ、欠点、そして欠陥を他者から隠します。彼らは消極的になっても、他の人たちに伝えようとすらしません。自分の心を打ち明けて共に交わる勇気がなく、何か間違ったことをすると、全力でそれを隠し、ごまかそうとします。本分を尽くす過程で教会の働きにもたらした害に触れることは決してありません。しかし、何か些細な貢献をしたり、小さな成果をあげたりすると、すぐにそれを自慢します。自分がいかに有能か、自分の素質がいかに優れているか、自分がいかに並外れているか、そして普通の人に比べてどれほど優れているかを、全世界に知らせたくてうずうずしているのです。これは、自分を高め、自分の証しをする方法ではありませんか。自分を高め、自分の証しをすることは、良心と理知を持つ人がすることですか。違います。では、人がそのようにするとき、通常どのような性質が明らかになりますか。明らかになる主な性質の一つは傲慢さであり、不実さがそれに続きます。不実さには、自分にできるあらゆることをして、他人に自分を尊敬させることが含まれます。彼らが語る話はまったく水も漏らさぬものであり、彼らの言葉には動機と企みが明らかに含まれていながら、自分が誇示しているという事実を隠したがります。彼らが述べることのせいで、人は、この人は他者よりも優れており、肩を並べる者は一人もおらず、他の誰もがこの人より劣っていると考えてしまいます。そしてこの結果は、陰険な手段によって成し遂げられたのではありませんか。このような手段の裏には、どういった性質がありますか。また、邪悪さの要素はそこにありますか。これは邪悪な性質の一種です(『反キリストを暴く』「第4条 彼らは自分を高め、自分の証しをする」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉を読んで、心がえぐられるようだった。自分の内に潜むものがはっきりわかったからだ。強く完璧な人間というイメージを、わたしは築こうとしていた。自分の経験を交わるときは、「英雄的な」行為を誇示し、自分の成功を話しても、失敗はほとんど話さなかった。弱気になったり、否定的になったり、問題に見舞われたり、最悪の状態にいたりしても、ただこう言うだけ。「大丈夫、多少の試練に見舞われているが、神の助けがなくても乗り切れる」。でも実際にはとてもつらかった。本分でどれだけ苦しんだかをいつも話し、責任感の強さを誇示していたが、実際にはそうじゃなかった。本分で犠牲を払っても、そのほとんどは自分の名声と地位のため。みんなに尊敬されると心が乱れ、これはよくないとわかっていても、それを止めることは一切せず、尊敬するなと言わなかった。尊敬され、讃えられることを望み、心の中で神の地位を超えたかったからだ。大天使に劣らぬ傲慢さじゃないか? みんなを神の前でなく、自分の前に導いている。兄弟姉妹の心の中で神の地位を占めようとしていることに気づいたわたしは恐怖に震え、神はそんな行ないを嫌悪なさると悟った。事実を突きつけられ、こう祈った。「神よ、わたしは自己顕示し、高いレベルの人、どんな問題でも解決できる人と、みんなに思われようとして、あなたの栄光を奪っています。神よ、悔い改めたいと思います」。後悔で一杯になり、その後、謝罪の手紙を書き、本当の自分と自己顕示欲を明らかにして、各集会班に送った。また、わたしを尊敬してはいけないと、みんなにはっきり言い、特にわたしを尊敬している数名には、自分を分析する手紙を個別に送った。数日後、マリネット姉妹が率直にこう言ってきた。以前はあなたを尊敬し、心の中で重要な地位を占めていた、と。それを聞いて心底恥ずかしくなり、邪悪さの証拠だと思った。その瞬間、自分の醜さが見えた。みんなに崇拝されようと、自分を誇示していたのだ。理知などまるでない。どうして本分を尽くしていると言える? 神に指導者の地位へ引き上げていただいたのに、そんな報い方があるか? これまでにない恥を感じたものの、真理を求めて堕落を解決することはなく、やがて元に戻ってしまった。

他の教会指導者も参加しているオンライン集会でのこと、兄弟姉妹の交わりが安直で、わたしは苛立った。彼らの交わりは浅く、他の指導者も普通のことしか言わない。優れた交わりとは何かを教え、自分の理解をみんなに伝えて、わたしの言葉から学んでもらおうと思った。彼らに道を示したかった。そこで何を言うか、心の中で準備し、もっと光があることを言えば、自分が傑出し、重みのある交わりができると考えた。自分の交わりをしっかり強調できる言葉遣いを考え、自分の理解が優れていることを証明し、洞察を褒めてもらいたいと思った。そこで事例や比喩を多数使い、詳細で内容豊富な交わりに思わせた。交わりのあと、みんなが「アーメン」と言うのを聞いて嬉しくなり、チャット欄を開くと、兄弟姉妹はわたしの交わりを称賛していた。終わりに近づいたころ、ゼン兄弟が交わりをしたが、わたしのように御言葉を引用してそれを基に話すのでなく、わたしの交わりを参考にして、それを基に物事をすべきだと言った。再び自分を高め、みんなに崇めさせていると気づいた瞬間、心から不安になって、最近交わった御言葉を思い出した。神は言われる。「一緒にいるときに互いに打ち明け合い、助け合い、糧を与え合うことができるようになるには、兄弟姉妹の一人ひとりが自分の本当の経験を語らなければなりません。自分自身の本当の経験について何も言わず、明らかな教義の字句を繰り返し、神への信仰に関する決まり文句や陳腐な言葉をオウム返しに語るだけで、心の中にある物事をまったく打ち明けないなら、あなたは正直な人ではなく、正直な人になることもできません(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。「神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、どのような試練を用いて人々を精錬し、あなたがたの性質を変えるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、神に抵抗することをどれだけ行なったか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたがたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。本当の物事を、自分の実際の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉からわかった。心を開いて本当の経験を伝え、率直に語り、空虚な言葉や無益なおしゃべりで自分を誇示するのは避けねばならない。真の指導者は、御言葉に関する自分の経験と理解を伝え、みんなが真理を理解できるよう導き、神の御前へ連れ出す。反キリストは空虚な言葉を説いて自分を誇示し、称賛と崇拝を求め、みんなを自分の前に連れ出す。わたしはどうか。空虚な理論ばかりしゃべり、実践の道を与えることはなく、現実の問題を解決することもなかった。わたしの目的は、みんなが真理を理解し、御言葉の現実に入ることではなく、わたしを崇めさせること。自分を誇示した結果は明白だった。みんなわたしを仰ぎ見て、御言葉の証しをせず、わたしの交わりを参考にした。みんなはいつもこんなことを言っていた。「マシューの交わりのおかげだ」「マシュー兄弟が言ったように」。パウロも常に見栄を張り、主イエスの御言葉を証ししなかった。そのため信者は二千年にわたり、パウロの言葉を崇めて証しした。わたしもパウロと同じことをし、神に逆らう反キリストの道にいるのでは? 心から怖くなり、自分を憎んだ。そして神に祈った。「ああ、神よ。わたしは同じ間違いを犯しています。御言葉は道を示しましたが、いまだサタンに従い、虚栄心を満足させています。またサタンの役を演じたのです。神よ、どうかわたしを助け、お救いください!」

ある夜、集会の準備をしながら、この一節を読んだ。「人の神への奉仕における最大の禁忌は何ですか。知っていますか。指導者として仕える人の中には、自分がいつも際立ち、人より勝っていること、また自分が本当にどれほど有能かを神にわからせるため、何らかの新しい巧妙なやり方を見つけ出すことを常に望む人がいます。それなのに、真理を理解することや神の言葉の現実に入ることに集中しません。いつも自分を誇示しようと試みています。これはまさに傲慢な本性の表われではないですか。……神に仕えるとき、人は大躍進を遂げ、偉大な物事をなし、偉大な言葉を語り、偉大な働きを行ない、大集会を催し、偉大な指導者になりたいと望みます。あなたがいつもこのような大それた野心を抱いているなら、きっと神の行政命令に違反することになります。このようなことをする人はすぐに死にます。神への奉仕においてきちんと振る舞わず、敬虔でも、思慮深くもなければ、遅かれ早かれ神の性質に背くことになるのです(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。この御言葉に、わたしは動揺した。この暴きを通じて、大事を成し遂げる野心と欲望がわかったからだ。集会をリードして雄弁さを見せつけたいと思い、自分を誇示することに喜びを感じて、その機会を見逃さなかった。みんなに尊敬され、「マシュー兄弟の集会は素晴らしい! 一番優れた指導者だ!」と言われたがった。こんな欲望に動かされ、どの集会でも説教し、自分を誇示して、みんなに尊敬され、崇められようとした。そんな指導者でいたかった。ところが、「あなたがいつもこのような大それた野心を抱いているなら、きっと神の行政命令に違反することになります。このようなことをする人はすぐに死にます」という御言葉に震え、強い恐怖を感じた。神を満足させていると思っていたのに、実際には嫌悪させていた。そして自分も憎くなった。立派なことをし、高尚なことを説くばかりで、神の証しや真理の実践が動機ではなく、みんなのいのちに責任を負っていなかった。すべては自分を高め、みんなの心に特別な地位を占めるため。次に挙げる神の行政命令に違反している。「人は自分を大きく見せてはならないし、自分を高めてもいけない。人は神を崇め、高めるべきである(『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」〔『言葉』第1巻〕)。「神を信じる人は神に従い、神を崇めるべきである。どんな人物であっても、人を崇めたり、仰ぎ見たりしてはならない。神を第一位とし、仰ぎ見る人々を第二位とし、自分自身を第三位としてはならない。どのような人間も、あなたの心の中に場所を占めるべきではなく、あなたは人々を、とりわけあなたが崇拝する人々を、神に劣らず、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである(『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」〔『言葉』第1巻〕)。行政命令への違反は、自分を高めたことだけではなく、なお悪いことに、みんなに人を崇めさせ、間違った道を進ませ、神に逆らわせたこと。その結末は深刻で、必ずや神を怒らせる。わたしは怖くなった。神の性質に背いたわたしを、神は決して赦すまい。惨めな気分になって祈った。「神よ、本当につらいです。あなたの怒りを招いているとは知りませんでした。悔い改めます。神よ、どうか御旨をわからせてください」。

恐怖に苛まれる中、御言葉のこの一節を読んだ。「今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、心が落ち着いた。自分は許されざる形で神に背いたと思っていたが、そうではなかった。神はわたしを懲らしめたが、憎んではおらず、わたしが変わることを望んでいた。わたしは神の義、憐憫、そして寛容を見ることができた。今度こそ真理を求め、堕落を解決しなければ。

その後、御言葉の別の一節を読んだ。「正直な人となるには、まず自分の心をさらけ出し、誰もがそれを見て、あなたが考えている全てのことを理解し、あなたの本当の顔を見られるようにしなければなりません。自分を偽ろうとしたり、よく見せようと装ったりしてはいけません。そのとき初めて、他の人たちはあなたを信頼し、あなたのことを正直だと思います。これが正直な人になるための最も基本的な実践であり、前提条件でもあるのです。あなたはいつも見せかけていて、聖さや高潔さ、偉大さに加え、高尚な道徳的特質を常に装っています。自分の堕落や欠点を人に見せません。あなたは高潔で、偉大で、自己犠牲をいとわず、公平で、無私だと思われようと、人に偽りの姿を見せます。それは不正直と偽りではないですか。しばらくすれば、人はあなたを見抜けるのではないですか。ゆえに、自分を偽装したり、装ったりしてはなりません。代わりに自分と自分の心を人にさらけ出し、見えるようにしなさい。人に見えるように心をさらけ出し、それが肯定的なものでも否定的なものでも、自分の考えやもくろみをすべてさらけ出すことができれば、あなたは正直ではありませんか。人に見えるように自分をさらけ出すことができれば、神もあなたを見て『あなたは人に見えるように自分をさらけ出したので、わたしの前でもたしかに正直だ』と言います。あなたが他の人に見えないところで神にだけ自分をさらけ出し、人前では立派で高潔、あるいは公平で無私であるかのようなふりをいつもしているなら、神はどう考え何と言いますか。神はこう言います。『あなたは本当に不正直だ。まったく偽善的で狭量で、正直な人ではない』。そうしてあなたを断罪します。正直な人でありたいならば、神の前にいるときであろうと、人の前にいるときであろうと、自分の内なる状態や、自分の心の言葉について、純粋に隠し事なく説明できなければなりません。これは簡単に成し遂げられることですか。これには一定期間の訓練と、たびたび神に祈り、神にすがることが必要です。何事についても、単純かつ率直に心から語る練習をしなければなりません。このように練習すれば、進歩できます(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。この一節のおかげで、わたしに対する神の要求がわかった。つまり誠実な人になること。要は、自分の堕落と正直な考えをみんなに明かし、弱さと困難を見てもらえるようにすることだ。失敗や弱点を明かすことなく、このまま自分を高め、交わりを通じて誤ったイメージを築いても、それは嘘。みんなにも神にも正直ではない。絶対に誠実な人にならねば。また、自分の誤った考えも多少わかった。指導者は弱点のない英雄的人物、俗世の指導的人物で、他者を凌駕し、誰より優れている必要があると思っていた。しかし神はそれを望まれない。神が望むのは単純で誠実な人。そうした人は自分の欠点を打ち明け、真理を愛して実践する。兄弟姉妹のいのちの入りに集中し、真理の原則を探求して、野心を満たすことなど求めない。主イエスの御言葉を思い出した。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。……また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(マタイによる福音書 23:8-12)わたしは指導者として、ずっと自分を偽り、人に崇められることを望んだ。神の要求からは程遠い状態だ。指導者はしもべの役を演じる。そして責任を負わねばならない。一瞬たりとも責任を忘れてはならず、兄弟姉妹を潤して支え、真理を求めて彼らの問題解決を助ける。指導者は役人でなく、誰かの上に立ってはいない。神は創造主で、人はその立場に関係なく、みな被造物。誰もが創造主を崇めるべき。その瞬間、自分の役割と責任を理解し、被造物の立場に留まってきちんと本分を尽くすべきだとわかった。それ以降、わたしの態度は変わり、意識して誠実になり始めた。自分を高めていることに気づくと、それを打ち明け、必ず自分の堕落と欠点を明かした。つらく感じることもあったが、それは自分の不誠実さを示している。何度も企み、みんなを騙した。打ち明ければ打ち明けるほど、自分の正体と真の背丈がわかった。自分は何者でもないとわかったのだ。交わりのたびに、自分を高く掲げ、教義でみんなを励まし、支えていた。しかし今、自分の本当の状態をみんなに伝え、正直になり始めた。みんなと同じ困難、みんなと同じ堕落を抱え、指導者ではあるけれど、全員同じで、本分が違うだけ。そうするうち、自分がみんなより賢いとは思わなくなった。むしろ、彼らの経験から学び、みんなの交わりから啓きを得られるようになった。以前はみんなの交わりをまともに聞かず、自分こそ啓きをもたらせる人間だと、傲慢にも思い込んでいた。御言葉のおかげでみんなとより緊密な関係を育み、みんなのことをよりよく理解し、実情を知ることができた。神の采配のおかげで、みんなを助けつつ、多くのものを得ることができ、交わりを通じてさまざまなことを学んだ。傲慢さや尊大さも少なくなり、兄弟姉妹と同じ立場で付き合えるようになった。理知も正常になったし、交わりの時に指導者の地位を忘れることもあった。わたしを変えた神に、心から感謝している!

今も時おり自分を誇示しそうになるが、それはサタンによる堕落の深さを示している。一時的なものではなく、骨と血に染みついている。真理の糧、神の暴きと導きがなければ、兄弟姉妹を支配下に置き、神と競っていただろう。それが事実。変化しないのは危険なこと。サタン的性質から自由になったのは、ひとえに真理のおかげで、それがなければ反キリストになり、断罪されていただろう。神の導きのおかげで、観点を変えることができ、今は指導者の役割をより純粋に認識している。さらに、神はわたしをサタン的性質の支配から救った。全能神に感謝!

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