地位の足かせを捨て、前よりとても身軽に
私はという名で、神の終わりの日の救いを六年前に受け入れました。ある時、所属している教会の民主的な選挙で教会指導者に選出されました。その知らせを意外に思いながらも、「兄弟姉妹全員の中から教会指導者に選ばれ、教会の働きのすべてに責任を持つということは、自分は誰よりも優れているということなんだ」そう思うと優越感が心の奥底に根付き始め、大手を振って歩くようになり、兄弟姉妹との集まりでは活気に溢れていました。ところがしばらくして、ともに本分を果たしていた姉妹が良い素質を持ち、はっきり真理について交わっていることに気づきました。彼女は兄弟姉妹が提起したどのような問題の根源も把握することができ、それをいかに解決するかについて彼らと交わり、実践の道を示すことができました。兄弟姉妹が皆彼女の交わりを聞きたがったので、私はこのような状況の展開を見て、彼女に嫉妬し妬むようになりました。自分が超えられたことを認めたくなかったので、集会の前にはいつも兄弟姉妹の状態と問題に関して慎重な準備をして、いかにこの姉妹よりも包括的で啓発的に交わりをしようか知恵を絞りました。交わりを行なって、兄弟姉妹全員が納得してうなずいているのを見ると、我ながら見事だったと非常に満足しました。兄弟姉妹が生ぬるい態度で反応するのを見ると、落ち込んで悔しくなりました。その後、ともに本分を果たしている兄弟が映画製作にかなり詳しく、コンピューターが得意であることを知りました。兄弟姉妹が映画撮影の際に遭遇した専門的な問題について彼を尋ねて行って相談しているのを見たとき、私は教会の責任者でありながら話に入っていけないように感じ、様々な思いが入り乱れました。実に居心地が悪くて面白くなく、自問しました。「兄弟姉妹は何かあるといつも彼の所に行く。では私より彼の方が優れていると思っているのか。自分も映画製作の技術のことがわかればいいだろうな。そうすればみんな問題があれば、いつも自分に相談に来てくれるだろうから」そういうわけで、毎日夜明けから夕暮れまで映画の作り方に関する情報を調べてしっかり勉強しました。私が地位のためにはりきっていたちょうどその時、教会の各グループの働きに次々と問題が生じ、私がどれだけ集会や交わりを行なってもまったく無駄でした。息もできないぐらいのプレッシャーを感じて苦悩し、こう考えました。「兄弟姉妹にどう思われるだろう。指導者でありながら、働きの才能がなく、この本分をする資格がまったくないと思われるだろうか。指導者でいられるのももうあまり長くないだろうな」そのことを考えれば考えるほど否定的な状態になり、自分のすべてがしぼんだゴムボールになったように感じました。以前の活気がすっかりなくなったのです。常に否定的な状態に生き、働きが疎かになったので、ついには聖霊の働きを失い、本分の実行において本物の成果が何も得られなくなったため更迭されました。その時は信頼性をすっかり失ったように感じ、穴があったら入りたい思いでした。また、「兄弟姉妹に陰口を叩かれ、偽指導者だ、名声と利得のためにがんばるだけで、実際の働きは何もしないと言われるのだろうか」と懸念しました。そう思えば思うほど心が更なる痛みに包み込まれ、まるで多くの非難の声が耳の中で響き渡っているかのように感じました…
その夜、私はベッドで横になって寝返りを打ち、一睡もできませんでした。できたのは何度も何度も祈り、神にお導きください、手を引いてくださいと呼びかけることだけでした…。後になって次の御言葉を目にしました。「あなたがたは追求において、個人的な観念や希望や未来を多くもちすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望やとりとめもない欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望[a]、そして観念はどれも典型的なサタン的な性質の表れである。これらが人々の心に存在する理由は、サタンの毒が常に人間の考えを腐敗させており、サタンの誘惑を人間が決して払いのけることができないことにある。このような人々は罪のただ中で生活しているが、それを罪と考えず、『私達は神を信じているので、神は私達に祝福を与え、万事私達のために適切に手配してくださるに違いない。私達は神を信じているので、他人よりも優れているに違いない。私達は他の誰よりも地位と将来性が高いはずである。私達は神を信じているので、神は私達に無限の祝福を与えるであろう。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないであろう』と考える。…あなたがたは今や信者であり、この働きの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇に置いていない。あなたがたは自分の地位が高いと、しっかり追求するが、身分が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことを常に考えている。…あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。いのちを追求しない者は変化させられることはできない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求と入りにことに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近付くことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変化させることができるだろうか。あなたを神の国へと導くことができるだろうか。」(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)「他人が自分に代わって脚光を浴び、自分を超え、自分が無視されている一方で評価を得ることをつねに恐れている人がいます。そのような人はそれで他人を攻撃して排除します。それは自分よりも有能な人への嫉妬ではありませんか。そのような振る舞いは利己的で下劣ではありませんか。それはどのような性質ですか。悪意に満ちた性質です。自分のことしか考えず、自分の欲望しか満足させず、他人の本分に配慮を示さず、自分の益だけを考えて神の家の益を考えないような人は悪しき性質をしており、神はそのような人を愛しません。神の旨を真に考慮できれば、人を公平に扱うことができるようになります。あなたが誰かを推薦し、その人が才能ある人に育ち、その結果神の家に有能な人材をもう一人もたらすことになれば、あなたは自分の働きをよく行なったことになりませんか。本分を尽くすことに忠実であったことになりませんか。これは神の前での善行であり、人間が有するべき良心と理知です。」(『キリストの言葉の記録』の「真心を神に捧げると真理を得ることができる」より)神の御言葉は、地位と名声と利得を追求する私の内面の本質を暴露しており、私はひどく動揺しました。教会指導者の本分を果たし始めて以来、常に熱心に自分自身を費やしていたので、自分のことは真理を求める者であると信じていました。しかし今や事実が私に向けて明らかにされたので、神の御言葉の裁きと刑罰を前に、ついに自分の神への信仰の中の汚れを悟ったのです。兄弟姉妹と集まって神の御言葉について交わったことはあっても、皆が神の御言葉における真理を理解し、神の御心を理解し、いかに実践して神の御言葉の現実に入るかを学べるようにと神を褒め称え証しするために交わったことは一度もなかったことを振り返りました。そうではなく、いかにして兄弟姉妹の上を行くか、いかにして兄弟姉妹から賛同され、称賛されるかを考えることに全力を注いでいました。そうすることで、自分のイメージを彼らの心の中に定着させ、自分の地位をさらに安定させようとしていたのです。例の兄弟が私より業務では能力があり、兄弟姉妹が困ったとき皆彼に相談に行くのを見て、一方自分には何もできないと知ったとき、私は彼に嫉妬し、排除しました。彼に出し抜かれ、無力のままにされることを恐れたため、専門知識を身につけて自分の地位を固めようとしました。教会に私が解決できない問題があったとき、私は神の御前に出て祈ることも、神に頼って神を仰ぐこともなく、兄弟姉妹とともに真理を求めて問題を解決しようともせず、それどころか自分の地位にとっての損得を思いつつ左右に揺れながら毎日を過ごしました。うまく働かないと指導者としての立場を維持できなくなるのではないかと危惧していたのです。自分の本分を果たしていたのは、真理を求めて神の御心に満足していただくためではなかったことがわかりました。また、性質の変化を求めながら本分を果たしていたのでもありません。それどころか自分の本分をあたかも職業であるかのように扱い、群を抜いて名を揚げるために利用できる道具と見なしていたのです。私が考えたことは、いかに自己顕示して自分の価値を証明し、誰からも尊敬と評価を得て、他の誰よりも偉くなるという野望と欲求を満たすかということだけでした。本分を行なっていながら善行を積まず、それどころか完全に名声と利得と地位のために生きていました。
それから私は神の次の御言葉を読みました。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。」(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉を読んで、神の御心を理解しました。神が人の結末を決定されるとき、その人の地位の高低や年功、神のためにどれだけ働いたか、どれだけ苦しんだかにもとづいてはなさいません。そうではなく、その人が真理を求めて真理を得るかどうか、そのいのちの性質が変わったかどうかにもとづいて人の結末を決定されるのです。私は数年間神を信じていましたが、真理を求め、神の御言葉を実践するために本当に努力したことはありませんでした。それどころか絶えず名声と利得と地位を求めており、何を求めるべきかについての考えは神が要求されることに完全に背いていました。その結果、何年も神を信じていながら何らの真理の現実にまったく入っておらず、いのちの性質もまったく変わっていませんでした。集会では、神の御言葉の経験や認識について話すことができず、単に字義や教義を説いて人々を惑わすことが多かったです。そのため聖霊の働きを失ってしまい、本分を行なっていながら何の成果も得ていませんでした。このまま誤った道をたどっていれば、最後には神に暴かれて取り除かれ、神の救いを得る機会を失っていたでしょう。今考えてみると、更迭になったことが神の義なる裁きと刑罰であることに気づきました。神がそうなさったのは、名声と利得のために努力するという私の野心と欲望を取り扱い、清めるためであり、神は真理を求める正しい道へと私を導いてくださっていました。私を救ってくださっていたのです。その時、私は神への感謝に満たされ、神の御前に祈りを捧げずにはいられませんでした。「神様、神様の裁きと刑罰に、私が間違った道を進んでいたことに気づかせてくださったことに、名声と利得と地位を追求することの危険な結果を認識させてくださったことに感謝します。神様、私は神様のもとに立ち戻って、名声も利得も地位を手放すことを望みます。そして御心に慰めをもたらすために、真理を求める道をたどることを選びます」。
しばらくデボーションと自己反省をしてから、私の状態は徐々に改善し、教会指導者の段取りで私が新しい信者に水やりをすることになりました。本分を尽くす機会を与えて頂いたことを神に感謝し、密かに次のように決心しました。「本分を尽くすこの機会を大事にしないといけない。また同じ間違いを犯して、名声と利得と地位の追求の道をたどるわけにはいかない」その後は自分の本分において問題に遭遇したときはいつも、兄弟姉妹ともっと相談し、彼らの話を聞いて提案を受け入れました。名声と利得のために努力するという堕落した性質を露呈し始めると、私は必ず神に祈り、人の堕落した本質への神の裁きに関連する御言葉を進んでもっと読み、御言葉に従って実践しました。しばらくこのように経験した後、私は名声と利得と地位を有る程度捨てることができました。しかし、名声と利得のために努力し、他の人の上を行こうとする私のサタン的な本性は、ほんの少しの認識を持つだけではきっぱりと解消できませんでした。やっと清められ変化を遂げるまでには、さらに多くの裁きと刑罰を受けなければならなかったのです。
数か月後、神は再び私を暴いて救うために環境を整えてくださいました。終わりの日の神の働きを調べて受け入れる人が増え続けていたので、新しい信者に水やりと支えをする働きがどんどん忙しくなっていました。教会指導者は、働きの段取りを担当するグループリーダーを選ぶ必要があると言いました。そう聞いたとき、私は心の中で候補者たちを品定めし始めました。「グループの七人の中では、張兄弟がおそらく一番働きができる。彼は正義感もあり、とても実際的なやり方で真理について交わり、教会の働きを積極的に守ることができる。グループリーダーに選ばれる可能性は一番高いだろう」しかしその時、自分が以前は教会指導者であり、いつも自分が張兄弟のために段取りをしていたことを思い出しました。もし今回彼がグループリーダーに選ばれれば、私はいつも彼の言うとおりにしなければならず、彼より地位が低いことになります。そうなればこの先どうして人に顔を向けられるでしょうか。そう思うととても嫌な気持ちになりました。グループリーダーを選ぶ日が来ると、私は緊張せざるを得ず、心は常に葛藤状態でした。「誰に投票すべきだろう。張兄弟でもいいだろうか」。しかし、兄弟姉妹がいつも彼を探して相談していたことを思い出すと、私は少し嫉妬を抱き、彼に投票したくなくなりました。「自分に投票するべきだろうか」。しかし私は自分が張兄弟ほど有能ではなく、他の兄弟姉妹が私に投票してくれなければグループリーダーになれないことは承知していました。その時はとても落ち込み、それゆえに「自分がグループリーダーになれないなら、お前もなるな」という悪意に満ちた思いが頭をよぎりました。そのため、普段は仲がいいがさほど有能ではない呉兄弟に投票しました。しかし結局は張兄弟がグループリーダーに選ばれました。私はこの結果を喜べず、それから不安な気持ちになり、何かあまり正直ではないことをしたように感じたのです。その日帰宅する道すがら、自分が投票の際に露呈した思いや考えについて反省しました。なぜ張兄弟に投票する気にならなかったんだ。張兄弟に超えられることを恐れていたのです。またしても名声と利得のために努力する状態に陥っていたのではなかったのかと、とても悩みました。「名声や利得を得ようとしたくなかったのに、なぜこうした状況になるといつも以前のやり方に戻ってしまうんだ。」私は心の中で神に祈り、この問題の根源を見つけられるように啓き導いてくださいと願いました。帰宅すると次のような御言葉を目にしました。「サタンが人間を虜にし、支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに、人間は足かせをかけられ、極度の困難の中を歩んでゆきます。この名声と利得のために、人間は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆきます。サタンの行動を検討すると、サタンの邪悪な動機は、極悪非道ではないでしょうか。多分あなたがたはいまだに名声と利得なくして生活はあり得ないと考えているので、サタンの邪悪な動機を理解することが出来ないかも知れません。あなたがたは、人間が名声と利得を捨て去ったら、将来が見えなくなり、目標を見失い、将来が暗く陰鬱になってしまうと考えています。しかしゆっくりと、名声と利得はサタンが人間を束縛するために用いる非常に重い足かせであると、やがて分かるようになるでしょう。そのことを理解する時まで、あなたはサタンの支配と、サタンがあなたを束縛するためにもたらす足かせを徹底的に反抗するでしょう。サタンがあなたに吹き込んだ物事の全てを捨て去ることを望むようになる時が来れば、きっぱりサタンと訣別し、サタンがあなたにもたらしたもの全てを心から嫌悪するようになるでしょう。この時になって初めて、あなたは神への真の愛と思慕をもつでしょう。」(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)
「神を畏れる心のある人はどのような振る舞いを見せますか。(単に自分の好きなようにしたり、勝手気ままに行動したりしません。)では、自分の好きなように振る舞わないようにするには何をすべきですか。(求める心をもつべきです。)自分の考えについて、それが間違っていると思う人もいますが、また他人の正しい提案については、「自分は普段この人よりも優れている。いまこの人の提案に耳を傾けたら、この人の方が自分よりも優れているように見える。だからこの件に関して耳を傾けることはできない」と考え、進んで耳を傾ける気にないこともあります。そうして相手を排除する理由や言い訳を見つけ出すのです。そのような人は自分より優れた人を見ると、他の人々がその人を高く評価しないよう、また誰一人傑出した人がいなくなるよう、その人を押さえつけたり、その人に関する噂を流したり、何らかの卑劣な手段を用いたりします。それは傲慢さと独善性、また邪悪さ、不正直さ、狡猾さからなる堕落した性質であり、そのような人は自分の目標を達成するためには手段を選びません。このように生きながら、自分のことを偉大で善人だと考えています。しかし、このような人に神を畏れる心はありますか。まず何より、これらの事柄の特質という観点から言えば、このように行動する人はただ自分の好きなようにしているのではありませんか。神の家の益を考えていますか。神の家の働きが被る損害に関係なく、自分の感情しか考えず、自分の目標だけを達成したいのです。このような人は傲慢で独善的なだけでなく、利己的で卑劣でもあります。神の意図をまったく配慮しませんし、神を畏れる心がないことに疑いの余地はありません。自責の念も、恐怖、不安や心配も一切なく、結果を考えることもなく自分の望むことを何でもして、勝手気ままに振る舞うのはそのためです。神を畏れず、自分が極めて重要な人物だと信じ、自分のことをあらゆる点で神より高く、真理よりも高いと見なしています。その心の中では、神はその名に言及する価値さえなく、何の意義もなく、このような人の心の中では何の地位もありません。」(『キリストの言葉の記録』の「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」より)
神の御言葉を熟考しながら、私は自分が選挙の投票の際に思ったこと、したことをすべて振り返り、言葉にならないほど恥ずかしく思いました。自分が常に追求してきた名声も利得も地位も実はサタンが私たちを縛るための目に見えない足かせであり、サタンが私たちを惑わして堕落させる手段なのだと悟ったのです。神を信じる前の自分を思うと、その頃は「ガンは飛び過ぎる時声を残し、人は死ぬと名を残す」「生きては傑出した人物となり、死しては優れた鬼とならん」「苦中の苦を味わって、はじめて人の上に立てる」「人は上をめざし、水は下に流れる」といったサタンの思想や観点を自分の人生の指針であり、真実の格言だと考えていました。これらのサタン的な考えを受け入れ、権力と地位に心を奪われ、名声と利得と地位の追求と、他人よりも偉くなることを人生の目標とし、それらのために苦労し、奮闘しました。名声と利得と地位を勝ち取れる限り、どれほどの苦しみや疲労にも耐えていました。神を信じ始めてからも、サタンのこれらの毒によって生き、名声と利得と地位を求め、他人よりも偉くなろうとし続けました。これらのものは遥か以前から私のいのちとなっており、これらのせいで私は神への反抗や抵抗を止められませんでした。張兄弟がグループリーダーになれば教会の働きがよくなることはわかりきっていましたが、彼がとても有能であることをねたみ、超えられることを恐れていたのです。そのため、自分の立場と威信を維持しようと、張兄弟に投票するよりも、不適任者がグループリーダー職に着いて教会の働きに支障が出た方がましだと判断したのです。自分が行動において神に吟味されることを拒んでおり、神を畏れる心のかけらもなく、問題に遭遇するといつも自分の名声と地位のことだけを考え、教会の働きをまったく大切にしていないことを悟りました。では、どうしてこのように利己的で卑しむべくふるまいが神に嫌悪の念を抱かせず、神に私が忌み嫌われないはずがあるでしょうか。「過ちは人間を地獄へ導く」という神の御言葉を思い起こし、私は自分が非常に危険な状態にあると感じました。そのままでは神に嫌われて拒まれ、取り除かれる者となります。その時、私は主イエスに抵抗したパリサイ人たちのことを思いました。神殿での自分たちの地位と権力を守るため、彼らは主イエスの出現も主が表された真理をまったく求めず、それどころか主イエスに抵抗し、断罪することに固執し、そのあまり主を十字架にかけるに及び、そのため神の罰と呪いを受けました。神への信仰において、真理を求めて真理に入ることを心を留めず、それどころか名声と利得と地位を絶えず求めるだけなら、パリサイ人の道をたどって、神に反抗していることになると、私はその時はっきり知りました。このことを考えると、間違った道をたどることを恐れずにはいられなくなりました。そしてその時その場で、名声と利得と地位の束縛と害から自由になり、真理を求めて本分を忠実に尽くす道をたどり、神の賞賛を得ようと決心したのです。
その後、私は神の御言葉に立ち戻って読みました。「真理を実行に移せる人は、その行動が神に吟味されることを受け入れることができます。神の吟味を受け入れるとき、あなたの心は正されます。他人に見てもらうためだけに物事を行ない、神の吟味を受け入れないなら、あなたの心に神はいますか。そのような人には神を畏れる心がありません。いつも自分のために物事を行なったり、いつも自身の利益を考えたり、自分の地位、体面、評判を気にしたりしてはいけません。まず最初に神の家の利益を考え、それを最優先にしなければなりません。神の心を察し、自分が神の家の働きのことを考えているかどうか、立派に本分を尽くしたかどうかをじっくり考えるべきです。心の中で神の家の働きを常に考慮し、兄弟姉妹のいのちの入りを考えているなら、あなたは立派に本分を尽くすことができます。…加えて、あなたが自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、利己的な欲求を脇へやり、自身の意図や動機を脇へやり、神の旨を考慮し、神と神の家の益を最優先にできるなら、そのような経験のしばらくあとで、それが素晴らしい生き方だと感じます。それは卑劣な人や役立たずな人になることなく、率直かつ正直に生きることであり、心が狭く意地悪であるよりも、むしろ公正かつ立派に生きることです。人はそのように生きて行動すべきだと感じます。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に減っていきます。」(『キリストの言葉の記録』の「真心を神に捧げると真理を得ることができる」より)この御言葉は、私が人となるために持つべき目標と進むべき方向を示してくれました。心が光で満たされ、いかにすれば神の御心どおりに実践できるかをその時知りました。その後、率先して張兄弟に対し、自分が名声と利得のために努力する状態で絶えず生きてきたこと、彼をねたんでいたことを打ち明け、投票の際の自分の卑しい意図のことも白状しました。私の話を聞いた後、彼は私を見下すどころか、私の状態に関連する真理について交わり、自分の経験と理解についても話してくれました。この交わりの後、私たちの間に隔絶はなくなり、私は信じられないほどの解放感と安らぎを覚えました。それ以来は、本分で苦労したり、理解できない問題に遭遇したりしたときはいつも張兄弟とともに積極的に求め、彼は答えが見つかるまで常に辛抱強く交わってくれました。このように神の御言葉を実践すればするほど、神との関係も兄弟姉妹との関係もますます親密になると感じ、本分での成果もどんどん良くなりました。人は名声と利得と地位を捨て、神の御言葉によって生き、神に立ち返り、本分を尽くすことで、神に祝福され、心に平安と安らぎをもって正しく名誉ある人生を送ることができ、神との関係がますます親密になっていくことを私は真に理解しました。
2017年10月、教会の年次選挙がまた始まり、私は教会指導者の候補者として指名されました。この知らせを聞いたとき、私は以前ほど興奮せず、むしろ神の働きを体験すべく心の状態を正しました。選挙に参加したのは、教会指導者になるためではなく、この過程の一環として自分の義務を果たし、真理を求めることを学び、教会指導者選出の原則どおりに適任者を選ぶためです。もし自分が指導者に選ばれたなら、ただ神にも満足していただくために誠実に秩序正しく被造物としての本分を尽くしたいと思うだけです。以前のように名声と利得のために努力して神を悲しませた自分に戻りたいとは思いませんでした。選出されなくても、神のせいにせず、神と協調し、本分を果たせる限り果たし、神の指揮と采配に服従し続けます。なぜなら私は神の被造物の一つであり、与えられた本分は何でも尽くすのが私の責任であり、常に心を尽くし、力を尽くして行なうべきだからです。票が数えられ、結果が発表されたとき、私は自分が教会指導者に選ばれたことを知りました。しかし大満足な気分にはならず、もはや自分が素晴らしいとか、兄弟姉妹よりも優れているとは感じませんでした。それどころか、これは託された任務であり義務であると感じ、神が自分に期待をかけてくださっているように感じました。自分は熱心に真理を求め、神と協調し、神に満足していただくために本分を尽くし、神に与えられている愛と救いにしっかり応えるように生きなければならないと知ったのです。
神の御言葉にこうあります。「人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光で有り、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない。」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)
自分の実際の経験を通して、私は神の裁きと刑罰が私たちを救う光であり、神の最も真なる愛であると深く心からわかるようになりました。神の御言葉の裁きと刑罰、懲らしめと鍛えのおかげで、名声と利得と地位が自分にもたらした害をはっきり知ることができ、真理を求める勇気と決意が奮い起こされたのです。名声と利得と地位にこだわらなくなったとき、単に地位だけでなく、むしろサタンが私を縛るのに用いた足かせを捨てたように感じ、霊の奥深くでかつてないほどの平安と喜びと、身が軽くなって自由になったのを感じました。今でさえも名声と利得のために努力する堕落した性質を露呈することはありえますが、もはやそれによって支配、拘束されてはいません。自分の経験を通じて、人は真理を実践することでサタン的な堕落した性質を捨て去ることができ、真理を実践すればするほど、人間らしく生きることができ、神に祝福していただけることを学びました。神が私になさる些細なことの一つひとつが、神が払ってくださる血のにじむような代価だと実感しました。神による私の救いはとても実際的であり、神の愛はとても偉大で本物です。この日から、私は神の裁きと刑罰をさらに経験し、自分のサタン的な堕落した性質を一刻も早く捨てるために真理を求め、神の御心に安らぎをもたらすために真の人間らしさを生きたいと思っています。私を救っていただき、神に感謝します。
梁智(安徽省)
脚注
a.原文には「~に対する欲望」という語句が含まれていない。
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