神の御言葉は私のいのちの力

2019年11月28日

私は以前、中国の伝統的価値観の影響を強く受けており、子孫のために不動産を買うことを人生の目標にしていました。その達成のために、私は一生懸命自動車修理の技術を覚えました。自動車修理工場も開き、商売は大いに繁盛しました。その時期、私は自分の運命は思いのままになると信じていたので、義姉に主イエスの福音を説かれたときも、受け入れようとしなかったばかりか、義姉をあざ笑いすらしました。主を信じなくても、それまでと変わらず豊かな生活を送れると思っていたからです。ところがよい時期は続きませんでした。修理工場の業績が悪化の一途をたどり、どんなに懸命に働いても、事態を好転させることができなかったのです。私は状況を変えようとしてくたくたに疲れ、精も根も尽き果てて惨めな気分になったために、不安を和らげようとして酒に頼り、一日中飲んだくれるようになりました。そしてある日、運転中に不注意から事故に巻き込まれるはめになったのです。車が原形をとどめないほど大破しましたが、私は幸運にも奇跡的に助かりました。それから間もない1999年の春、家内が全能神の終わりの日の福音を教えてくれました。私は全能神の御言葉を読んで真理を少し理解するようになり、このように悲惨でどうにもならない状態で生きているのは、サタンが人々に吹きこんでいる人生の原理を受け入れているせいだと知りました。みずからの努力に頼り、独力で幸せな家庭を築くことを望んでいたのに、結局はサタンに愚弄されており、極度の苦しみの中で命を失いかけるところまで追い込まれたのです。死の淵から私を救い、神の家に連れて来てくださったのは、全能神でした。私は神が慈しみを示してくださったことに心から感謝しました。それ以降、神の御言葉を読むことを日課とし、集会に参加して兄弟姉妹と交わるようになると、私の心は光で満たされました。私はそうした状況を楽しみ、人生の真の道を見つけたと喜んでいました。ところが程なくして、神への信仰を理由に中国共産党政府の逮捕の対象となったために、家族のもとを離れて潜伏することを余儀なくされたのです。そのときは、自分には弱かった時期もあったが、どこに行こうと、またサタン悪魔にどんなに追い詰められても、神の御言葉が導いてくださると信じていました。それから十年以上を経て、神の御言葉の導きと糧によって、私は少しずつ真理を理解するようになり、人生に大きな充実感を覚えていました。その後逮捕され迫害を受けていたあいだは、神の御言葉がいのちの力であることをよりいっそう具体的に経験しました。というのも、サタンの残忍な拷問や責め苦に遭う中、恐れずにまっすぐしっかり立って、最終的にサタンの面目を完璧につぶせたのは、神の御言葉のおかげだったからです。こうした経験をしてから、私は神の御言葉をいよいよ大事に思うようになり、神の御言葉からほんの片時も離れられなくなりました。

2013年2月のその日、私は兄弟姉妹の何人かとともに福音を伝道していましたが、帰り道にセダンに足止めされました。警官が3人車から降りてきて、私たちの身元を確認しました。そして私の言葉になまりがないのに気づくと、理由も言わず強引に身体検査を行いました。警官はポケットから、700元以上の預金がある中国農業銀行のキャッシュカード、300元余りの現金、携帯電話、MP5音楽プレーヤー、そして福音に関する資料を押収しました。警官のひとりは、私が全能神の信者だと知ったとたんすさまじい形相になりました。私はその警官に荒っぽく手錠をかけられ、車に押しこまれました。警察署では壁に向かって立つよう命じられ、警官に詰問されました。

「お前の名前は? 家はどこだ? 神を信じろと誰から吹きこまれた?」

警官は私が答えようとしないのを知るとにわかに激昂して、私のダウンコートをはぎ取りました。そして私を自分のほうに向かせ、着ていたセーターの後ろの裾をたくし上げて頭に被せると、警棒で背中を強打したのです。警官は数発殴っては「これでしゃべる気になったか?」と訊いてきます。続けて15回も殴られると、激痛のあまり背中の肉がズタズタに裂けたように感じられ、背骨も折れたのではないかと思われました。しかしどんなに殴られても、私はしゃべろうとしませんでした。警官はとうとう、激しい怒りで支離滅裂になりながら叫びました。

「もういい、やめだ! こんな風に殴ると俺が手首を痛めてしまう。それでもお前はしゃべろうとしないんだからな!」

神が守ってくださっているのは内心わかっていました。自分ひとりだったら、このようなめった打ちに耐えられなかったでしょう。私は心の中で神に感謝を捧げました。

警官たちは殴っても効果がないと見て、戦術を変えてきました。邪悪な警官のひとりが、長さ1メートル、直径6センチほどの棒を運んできて、意地悪くにやにやしながらこう言ったのです。

「こいつにこの上で正座させてやって、口を割るかどうか試してやろう!」

このような棒の上で30分間正座をすれば、まっすぐ立つことも歩くこともできなくなると聞いたことがあります。そうした拷問に直面して、私は自分の霊的背丈がとても低いことを実感し、私の肉体は耐えられないだろうと思いました。不安に陥った私は、あらんかぎりの力をこめて神に呼びかけました。

「神様! 私の霊的背丈はとても低く、このような責め苦に耐えられそうもありません。どうか私の心をお守りください。そしてこの拷問にもちこたえてあなたを裏切らないよう力をお与えください」

私が何度も呼びかけると、神は私の肉体が弱いことをわかってくださいました。祈りを聞き届けてくださったのです。というのも、邪悪な警官どもが結局この拷問をしないことにしたからです。目の前の事実に私に対する神の慈しみと守りが表れており、そのおかげで神への信仰はいよいよ強まり、恐怖はぐんと弱まりました。警察はこの方法で拷問はしないと決めたものの、私を釈放しようとはしませんでした。それどころか、別の拷問の方法を思いついたのです。私に背を伸ばして地面にひざまずかせると、1メートル80センチを超える巨漢の警官が、私の左右のふくらはぎの上に立って思い切り踏みつけたのです。そうして踏まれた瞬間、私は焼けるような痛みを感じ、必死の思いで神に祈りました。

「神様! このような残酷な拷問には耐えられません。それでも私はあなたに満足していただきたいのです。どうか信仰と力、苦しみに耐える意志をお与えください。私はしっかり立ってあなたの証しをしたいのです」

ありがたいことに、神はまたもや私の祈りを聞き届けてくださいました。太った警官がふくらはぎの上で安定した姿勢を保てず、すぐに降りてしまったのです。その隣にいた邪悪な警官がかっとなって怒鳴りつけました。

「この役立たずの馬鹿者めが! どうしてそうすぐに降りてしまうんだ?」

この悪魔どもは、比較のしようがないほど本当に邪悪で悪辣でした。ありとあらゆる方法を考え出して私を拷問し、まるで私が死ななければ満足できないかのように、私を殺したくてうずうずしていたのです。私は背を伸ばしてひざまずくよう命じられ、その姿勢を崩すのを許されませんでした。しばらくして、警官のひとりが仲間に意味ありげな目くばせをすると、他の全員が部屋から出て行きました。私は残された見張りの警官と二人きりになりました。するとこの警官は私に近寄ると取り入ろうとして、作り笑いをしながら話しかけてきました。

「自分の母も神を信じているんですよ。どんなふうに信仰の道に入ったか教えてください。一緒に神を信じられたらいいと思うので、私を教会の上の人に引き合わせてくれませんか」

偽りの言葉を聞き愛想笑いを見たとたん、私は心の底から嫌悪を覚えました。その策略を暴いてやろうとしたちょうどそのとき、頭にふと神の御言葉が浮かびました。

あなたは自分の内にわたしの勇気を持たなければならない。……しかしわたしのために、あなたはどんな暗闇の勢力にも屈してはならない。完全な道を歩むためにわたしの知恵に頼りなさい。サタンの陰謀に支配させてはならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十章」〔『言葉』第1巻〕)

時宜を得た神の御言葉の導きにより、サタンの前では勇気もさることながら、知恵も必要であることがわかりました。サタンと戦うときはつねに、神に頼って知恵を授けていただかねばなりません。神の御言葉の啓きと導きを通して、なすべきことを知った私はこう答えました。

「もし本当に信仰の道に入りたければ、家で神の御言葉を読むだけでよいのです。外出して人に会う必要はありません」

話し終わるとすぐ、私を警棒で殴っていた邪悪な警官が部屋に入ってきて、憎々しげに言いました。

「お前みたいなやつを相手すると頭が痛くてかなわんわ!」

サタンがしくじって面目を失ったのがわかったので、私は心の中で神に感謝しました。神がいつもともにいらっしゃり、私を導き勇気づけ、悪魔の黒い手が暴威を振るうのを奇跡のように防いでくださったことがわかりました。神の私への愛はかくも偉大なのです! その時点で私は獄舎につながれていましたが、神との結びつきがそれまで以上に近づいたように感じました。そして自分がしっかり支えられていることを感じて安堵したのです。警官たちは2時間以上も私をひざまずかせました。そして午前1時を過ぎてようやく、尋問が結果を出していないのを悟り、意気消沈してその場をあとにするほかありませんでした。

2日目の朝、私は公安局の支局に移送されました。尋問室に入ると、刑事部長が猛烈な勢いで質問をしてきました。

「お前の名前は? 家はどこだ? 神を信じるよう勧めたのは誰だ? 神を信じるようになってどれくらい経つ? 誰と連絡をとり合っている? 洗いざらい話せよ。さもないと後悔するはめになるぞ!」

けれど何を聞かれても、私は口を閉ざしたままです。刑事部長は一日中、硬軟の戦術を取り交ぜて尋問を続けましたが、何も聞き出せないのでついに激怒して叫びました。

「どうしてもしゃべらないつもりだな? それなら、拘置所暮らしがどんなものか味わってみるといい! ひどい目に遭いたいのなら、確実にそうしてやるまでだ! われわれが望む返事をしなければ、そこに永遠に閉じ込められることになるぞ!」

その言葉通り、私は拘置所に移送され、重罪犯をもっとも多く収容する監房に入れられました。監房に足を踏み入れたとたん、陰鬱でぞっとする雰囲気を感じて血の気が引きました。監房の壁の高さは4メートルあり、室内は暗くジメジメしていて、たったひとつの小窓からわずかな日の光が差しているだけです。胸の悪くなるような悪臭がして、息をするのも苦しくなりました。この小部屋では犯罪者がぎゅう詰めにされていました。殺人犯、薬物犯、強盗犯と、重罪犯ばかりです。どの囚人も凶悪で残忍そうです。なかには上背があって筋骨隆々、頬の削げた醜い面相をして、体中に竜や不死鳥、蛇などの入れ墨をしている者もいます。その一方、熊手を連想させるほどやせ衰えている囚人もいましたが、その生ける骸骨のような姿を見ただけで、私は身震いしました。収容者のあいだには上下関係があり、全能神の信者はその底辺に位置していたので、権利といえるものはまったく認められていませんでした。壁に設置されている緊急呼び出しボタンは、本来は緊急事態に陥った囚人が看守を呼び出すために使うものです。ところが全能神の信者にはその使用を「享受」する権利もありません。どんなに残酷な虐待を受けたとしても、誰もそれに対応してくれないのです。

監房に入ったその日、私が何者かを知った囚人頭がこうからかってきました。

「全能神を信じているんなら、ここから出してもらえよ。てめえの神さんがそんなに偉いなら、こんな場所に入るはめになったてめえをどうして放っておくんだ?」

その隣にいた下劣な囚人がからかいに加わりました。

「お前はこの囚人頭と神様の、どっちのほうが偉いと思う?」

神を侮辱し愚弄する言葉を聞いて、私は頭に血がのぼりました。しかし反論しようにもそうすることができません。私は『いのちに入ることに関する交わりと説教』のことを思いだしました。その中で、悪人の本質は悪魔の本質であると述べられていましたが、それはまさしく正しかったのです! この悪魔どもは理不尽そのもので、呪われて当然の輩です! 答えないでいると、怒り狂った囚人頭に力いっぱい往復びんたを食らわされました。さらに顎に強烈なパンチを受けて、私は床に倒れました。私はこのような悪魔どもを目の前にしてひどく怖くなり、神に呼びかけずにはいられなくなりました。

「ああ、神様! 私が臆病で弱く、これまでずっと凶悪犯やごろつきを恐れていたのを、あなたは知っておられます。どうか信仰と力をお授けになり、このような状況でも証しを失わないようお守りください」

この悪魔どもは私が口を開こうとしないのを見ると、痛めつける別の方法を考え出しました。骸骨のような囚人が近づいてきて、私を無理やり壁を背にして立たせました。そして壁を背にした私の肩を囚人二人に押さえさせてから、思い切り私の内腿をつねったのです。はじめは左側、次に右側と。そのたびに貫くような激痛が私を襲いました。それは口で言い表せないほどの痛さでした(その後、私の脚には大きな腫瘤がいくつもできて、今でも消えていません)。それから男は、私の外腿にこぶしを激しく打ちつけました。じきに私は床にしゃがみ込みました。もう立ち上がれそうにありません。そんな状態でも、囚人たちは私を痛めつけるのをやめませんでした。真冬の極寒のさなかだというのに、この悪魔どもは私に服を脱ぐよう命じると、壁を背にして蛇口の下にしゃがませました。そして私に水を浴びせつづけたうえにわざと窓を開けたので、私は寒くてたまらず震えが止まりませんでした。囚人の一人は、私が苦しみに耐えるために歯をくいしばっているのを見ると、発泡スチロール板を掴んできて、それを私に向かってあおぎはじめました。冷たい風が吹きつけてきたとたん、血が凍ったように感じて、歯がガチガチ鳴るのを止められなくなりました。私は心の中で神に祈らずにはいられませんでした。

「ああ、神様! 今私の身に起こっていることの裏に、あなたの善意があるのはわかっています。だからその御心を理解できるよう、どうかお導きください。なぜなら一人では、この悪魔どもの責め苦に耐えるのはとうてい無理だからです。ああ、神様! この困難を乗り越える意志と決意を固められるように、どうかこれまで以上の信仰と力をお与えください」

そう祈ったあと、神の御言葉を思い出しました。

『このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。』あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ(『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉をよく考えると、その御心がわかってきました。神を信じているために今苦しんでいるという事実が、光栄で名誉なことなのです。サタンは私に神を裏切り拒絶させるために私を責め苛んでいます。それは私が肉体の苦しみに耐えられないからで、だからこそ私は絶対にサタンに屈してはならないのです。そのとき突然、あの邪悪な警官が拘置所暮らしを味わってみろと脅したことを思い出しました。そして突如として気づいたのです。囚人たちがこうも容赦なく私を痛めつけ虐げるのは、邪悪な警察に命じられているからなのだと! ここに至ってやっと、あの聖人ぶった「人民警察」の恐ろしく陰険で卑劣な正体がはっきりわかりました。連中はこの囚人たちに汚い仕事をさせていたのです。骨の髄まで完全に悪に染まった警察は、みずから手を下すことなく殺人を犯せる悪魔以外の何者でもありません。サタンはあらゆる手段で私を屈服させようとしていますが、サタンの策略に応じて神の知恵が実行されます。神はこの状況を利用して私に神への真の信仰を与えられ、サタンの醜い顔と邪悪な本質をはっきり見えるようになさり、それによって私の心の中に本物の憎悪を生じさせてくださったのです。ひとたび神の御心を理解すると心が明るくなり、私は自分の力を見出しました。サタンに愚弄されるのを許すわけにはいきません。どんなに肉体の苦痛や弱さを感じても、しっかり立って神の証しをしなければならないのです。私は神に、自分がこの悪魔どもの拷問と責め苦を乗り越え、ふたたびサタンを打ち負かす力を与えてくださったことに感謝しました。

拘置所での毎日の食事は凍った白菜の水煮、漬物、そしてちっぽけな蒸しトウモロコシパン1個でした。これでは少しも腹にたまりません。夜になると、囚人頭と取り巻きは寝台で寝ますが、私を含めた残りの者は床で寝なければなりません。冷たい床に身を横たえ、周囲の囚人を眺めながら自分の哀れな状況を思うと、たちまちぞっとするような孤独感に襲われ胸が締めつけられました。思えば、兄弟姉妹と一緒にいた頃は、毎日が幸せで喜びに満ちていました。ところが今は、この犯罪者たちとともに日々を過ごし、おまけにそのいじめや侮辱に耐えなければなりません。私は言葉にできないほど、ひどく惨めな気持ちになりました……私は神の御前に出て祈りました。

「ああ、神様! このような暮らしがあとどのくらい続くのでしょう。今後の日々をどうやって生き抜いたらよいのでしょう。今、私の肉体は弱っているので、このような状況にはもう向き合いたくありません。ああ、神様! この状況でもあなたに満足していただけるよう、どうか苦しみに耐える決意を授けて、あなたの御心を理解できるようにお導きください」

そう祈ると、神の御言葉が心に鮮明に浮かびました。

人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。……しかし、全人類のため、全人類が早く安らぎを得られるように、地上に来て神は屈辱を受け、不義を受け、人間を救うために自らが『地獄』と『陰府』、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。どうして神について再度不平を述べる理由が人間にあろうか。どうして人間は厚かましくも神を再び見上げられるであろうか。天の神は、最も不浄な悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言わず、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受けた。彼は、人間の不合理な要求に報復することも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をすることも無かった。彼は単に、教えること、啓くこと、叱責、言葉による精錬、注意を喚起すること、勧告すること、慰めること、裁くこと、暴くことなど、人間が必要とする全ての働きを不平を言わずに行う(『神の出現と働き』「働きと入ること〔9〕」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉を噛みしめ、神が2度受肉なさってこの世界へおいでになった際、人間のために耐えられた苦しみを思ううちに、私はいつの間にか瞼を濡らしていました。主イエスは十字架に釘付けにされました。サタンによって堕落させられた人間を贖うために、みずからの命を役立てられたのです。今日、全能神はふたたび受肉されて中国へとおいでになりました。もっとも神に敵対するこの国で、神は御言葉を伝えて私たちを救うために命を賭けられているのです。そうするために神が耐えられてきた困難や苦しみを誰が知るでしょう? 誰がそれを十分理解できるでしょう? かたや、堕落した人間の一員である私は、この犯罪者たちとほんの数日過ごしただけで耐えがたいほど惨めな気分になり、この状況から逃げることだけを望みました。神は聖で義であり、この邪悪で堕落した世界で何十年ものあいだ私たちとともに生きておられます。神のほうがはるかに苦しまれているのではないでしょうか? それにくわえて私は、堕落から抜け出して真の救いを得るために苦しんでいます。ところが汚れのない神は、この世の存在でもこの地上の地獄の存在でもないのに、純粋に人類への愛から赤い大きな竜が巣くう深みまで降りられて、命を犠牲にしても人間を救おうとされているのです。神の愛は本当に素晴らしいのです! 仮りにも私が神に愛を抱いているなら、自分のいる環境が耐えがたいと感じたり、ひどく虐げられていると思ったりすべきではないのです。神の愛を目の当たりにして、私は後悔と恥を覚えずにはいられませんでした。そして神の愛について考えをめぐらすうちに、心の中で暖かいものが次々と押し寄せるのを感じたのです。神は本当に偉大で、神の人間への愛はこれほどまでに深く真実なのです! もし私が自らこのような状況を経験せずにいたら、神の親愛と素晴らしさを知ることはなかったでしょう。このような状況を経験して体がボロボロになっても、それは私のいのちにとってとてつもなく有益なことなのです。そう考えると、私の心は神への感謝で満たされ、どんなに苦しくてもしっかり立って神の証しをしようという気持ちになりました。

拘置所では囚人頭からよく、看守が神を信じる「罪人」を拷問するために使う様々な手段について聞かされました。信者の指に画びょうを刺して、言語に絶する痛みを味わわせる、容器の口まで熱湯を入れて信者に無理やり指1本を入れさせ、皮膚に火傷ができると、その指を熱湯から出させて水泡に唐辛子粉を擦り込む……こうした血も凍る拷問の話を聞いて、私は怒りに燃えました。サタンの政権である中国共産党政府への憎悪は深まるばかりです。政府は何につけても自らを好ましいように宣伝しながら、あらゆる悪事を働いているのです。「信教の自由」を謳い、「全人民は市民としての正当な権利と利益を享受する」、「囚人は家族のように扱う」と宣言していながら、陰では人々を虐げ拷問して、人命など尊重せず人間として扱っていないのです。神を信じる者にとって、彼らの世界にくわわることは地獄に足を踏み入れるのも同然の行為です。ここで信者は拷問を受け卑しめられ、生きながら抜け出せるかどうかも決してわかりません。そう考えると悪寒が走りました。同様の拷問が自分に対しても行われるのではないかと思われたからです。看守が鉄の扉についている覗き窓を開ける音がするたびに、私の心臓は喉元まで跳びあがりました。引きずり出されて拷問されるのが怖かったからです。来る日も来る日も恐怖に押しつぶされながら暮らし、出口のない八方ふさがりの状況に追い込まれたと感じていました。苦悩の中にいた私は、心の中で神に祈ることしかできませんでした。

「ああ、神様! 今の私の心は弱く、とてもびくびくしています。それでも私は、あなたに満足していただきたいのです。どうか信仰と力をお与えください。あなたに頼ってサタンの誘惑に打ち勝ちたいのです!」

そう祈ったあと、私は神の御言葉に導きを見出しました。

恐れてはならない。万軍の全能神が必ずあなたと共にいるのだ。神はあなたのしんがりとなり、神はあなたの盾である(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

人々が自らの命を犠牲にする覚悟がある時、全てがささいなものとなり、彼らをしのぐ者はいなくなる。いのちよりも大切なものがあろうか。だから、サタンは人の心に働くことはできず、人に対して何もできなくなる(『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第三十六章」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉は私に驚くほどの安らぎと勇気を与え、私はこう思いました。

「そうだった。私の信じる神は、天地と万物を創造された造物主なのだから、万物の支配者であり、全ての物と全ての人間を動かしておられるのだ。もっと言えば、人間一人ひとりの生死は神の御手に握られているのではないか? 神の許しがなければ、悪魔サタンも私に手を出すことはできないはずだ。私が一日中びくびくして恐怖に駆られていたのは、単に死を恐れ肉体の苦しみを恐れていたからではないか? サタンはこうした弱みにつけこんで私を攻撃し、屈服させて神を裏切らせようとしているのだ。これは人々を貪り食うサタンの策略だ。しかし自分の命をなげうつつもりでいるなら、本当に耐えられないものなどあるだろうか?」

私はふとヨブの経験したことを思い出しました。サタンが神と賭けをしたとき、ヨブは肉体の苦しみを経験しました。しかし神の許しがなかったので、いくらサタンが苦しめても命を奪うことはできなかったのです。そのとき、私はヨブの例にならって神への真の信仰をもちたいと思いました。なぜならサタンの拷問を受けて私の肉体が死んでも、私の魂は神の御手にあるからです。この悪魔どもがどんなに私を拷問して苦しめても、決してその残酷な迫害に屈しはしません。私は決してユダになるまいと心に誓いました。また神の御言葉の中に、時宜を得た導きを見出したことに感謝しました。その御言葉に導かれて死の束縛と抑制から脱して、むざむざとサタンの策略の犠牲にならなくてすんだのですから。神が守ってくださったおかげで、私はそのような類いの拷問を受けませんでした。そのことの中に、私に対する神の愛と慈しみを再び見たのです。

数日後、あの邪悪な警官が尋問をするために再びやって来ました。教会の指導者にかんする情報を聞き出せるだろうと期待したのに私が答えないので、警官は烈火のごとく怒りました。私を睨みつけながら、顎をつかんで頭を左右に揺らすと、歯を剥きだしにしてこう言ったのです。

「お前に人の情というのはひとかけらもないのか? ならいい、神を信じていろよ! インターネットにお前の写真を掲載して、作り話を二つ三つ考えてやる。そうすれば全能神の信者はみんなお前が神を裏切って、兄弟姉妹を売ったと思うだろうよ。お前と口を利く者など一人もいなくなるだろう。それから誰も知らないところに連れて行って、穴を掘り生き埋めにしてやる。誰にも見つかりやしないさ」

この悪魔は激しい怒りに駆られて、恥知らずな秘密の策略や計画をべらべらと口にしました。これもまた人を操るやつらの典型的な手管でした。人を陥れ、名誉を傷つける文書を発表し、冤罪をでっち上げたうえで命を奪うのです。人命など絶対に尊重しません。だから非人道的で無慈悲な行為がどれほど秘密裡に行なわれてきたか、誰も知るよしがないのです。このとき、警官が脅し文句をがなり立てても、私は冷静でまったく恐怖を感じませんでした。なぜなら神が私を強力に支えてくださっていたからです。神が私と一緒にいてくださったので、怖がる必要などなかったのです。サタンが残忍になればなるほど、その醜さと無力さが露呈されます。神の信者を迫害すればするほど、神に敵対する邪悪で反動的な本性があらわになり、不道徳な行為を働き天と自然に反するようになります。神の信者に危害をくわえればくわえるほど、最後まで神を信じて従おうとする私の意志は強まります。私はいのちを神に捧げて、サタンをきっぱり見捨てたいのです! 神の御言葉にもこうあります。

人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)

私はこのとき怒りで血が煮えたぎらせながら、心の中で誓いを立てました。たとえどれほど長くここにいなくてはならないとしても、そしてこの悪魔どもにどんなに痛めつけられたとしても、決して神を裏切らないと。警官は私にしゃべる意志がないのを知って、最後は監房に戻しました。このようにして、私は神の御言葉の導きのおかげで、繰り返し自白を強要する悪魔どもの試みと、やつらの拷問に打ち勝ったのです。私は教会にかんする情報をまったく漏らしませんでした。そうして拘留期間が50日を過ぎると、警察は私を不起訴のまま釈放せざるをえませんでした。

逮捕された経験を通して、私は中国共産党政府の悪魔の本質をまざまざと目の当たりにしました。中共政府は天を相手に戦い、神の敵となっています。神を崇めることを拒絶し、人々が神を信じたり崇めたりするのをやめさせるために、可能なあらゆる手段を行使して人々を欺き操ろうとしています。また人々に神を避けさせ、神に抵抗させようとしていますが、そうなると人々は中共政府もろとも、最後は地獄で滅ぼされることになるのです。なんと卑劣で、残酷で、邪悪なのでしょう! しかしそれ以上に重要なのは、この経験のおかげで神の素晴らしさと知恵、神の御言葉の権威と力を深く理解できたことでしょう。この国では神が仇敵とみなされており、神を信じる者は無神論者の政府にとって目障りな頭痛の種です。それでも、神を真に信じる者に信仰をやめさせるのはとうてい不可能です。どんなに迫害し、投獄し、肉体を痛めつけたところで、光に向かって真理を追求する願望を消し去ることも、神を信じて従おうとする決意を揺るがすこともできません。私は逮捕されて、この悪魔どもの狂暴な残忍さをわが身で体験しました。サタンは私を逮捕し迫害することによって、空しくもその専制的な支配に従わせたいと望みました。ところが神の御言葉に絶えず導かれて知恵と信仰、力を与えられたので、私はサタンの残酷な迫害のさなかでもしっかり立つことができたのです。実体験を通じて神の素晴らしい御業を目の当たりにした私は、神への信仰をはるかに強めて、神の御言葉についてのより実践的な理解を得ました。神の御言葉は真理であり、人々のいのちの力にしてその源であることを私は学んだのです。神の御言葉の導きがあれば、何も恐れる必要はありません。これから先どれほど多くの困難や障害に出会うとしても、最後の最後まで神に従うことを切に望みます!

天津市 徐志剛

脚注

1.「略奪」は人間の不従順さを露わにするために用いられている。

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