悪魔のねぐらに入ることで、神の愛をより深く体験する

2019年11月28日

私は子供の頃から両親の愛情を受けて育ちましたが、心の中は寂しく、誰も頼れる人がいないとよく感じていました。打ち勝てない不可解な苦悩に絶えず取りつかれているようでした。「なぜ人は生きているの。どうやって生きればいいの」とよく自問しましたが、答えは見つかりませんでした。1999年、幸運にも全能神の終わりの日の働きをようやく受け入れることができました。神の御言葉の養いと施しに寂しい心を慰められ、やっと故郷(ふるさと)に帰って来たと感じたのです。私はとりわけ安心と落ち着きを感じ、そのとき初めて幸せであるとはどういうことかを知ったのです。後に、私は神の御言葉の次の箇所を読みました。

人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。……神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)

ここで私は、人が生きるために必要なのはよい物を食べることや、きれいな服を着ることや、楽しむことではないとようやく知りました。人に必要なのは、神の救いと神によるいのちの施しです。これらのものによってのみ、人の霊の中の空虚さが解消されうるのです。長い間私を悩ませていた疑問がついに解決されました。神はご自身が創造された生き物をすべて残らず気遣われます。人は神に頼って生きるべきであり、神のために生きるべきです。このように生きることで初めて人生が有意義になるからです。私は神の御言葉をもっと読むにつれて、次第に真理をある程度理解し、後に教会で本分を引き受けるようになりました。頻繁に集会に出て兄弟姉妹と交わり、毎日の生活が充実しているように感じられました。ところが、突然の逮捕によって静かな生活が打ち砕かれ、私は悪魔のねぐらに放り込まれたのです……

雨天に見舞われた2009年7月17日、中庭で犬が急にひたすら吠え出したのを聞いて、私と三人の姉妹は午後の仮眠から目を覚ましました。何が起きているのかと外を見ると、二十数人の私服警官が壁を登って中庭に入り込むところでした。私が反応する間もなく、彼らは家の中に踏み込み、私たちを居間に引きずり込みました。あまりにも急な事態に、私は警察の尋問にどう答えようかとパニックに陥りました。しかしそこで「神はこの事態が起きるのをお許しになったのだから、私は従わないといけない」とふと思ったのです。その後、警察は私たちにしゃがむように指示し、私はそのうち二人に腕を後ろ手にひねられ、首に電気棒を押しつけられ、頭にコートを被せられました。そのまま押さえつけられて両足が痺れ、少しでも動くと罵詈雑言を浴びせられました。この悪しき警官たちが盗賊のように家の中を乱暴に荒らすあいだ、私は心の中で神に祈り続けました。

「神よ、すべてはあなたの御手の中にあり、自分がこの事態に見舞われたのもあなたのご厚意によるものだと、私にはわかっています。今は理解できませんが、喜んで従います。神よ、私は今とても狼狽し、とても恐れており、次はどのような事態に遭遇するかわかりません。自分の背丈があまりに小さく、真理の理解があまりに乏しいことはわかっております。ですので、あなたのご加護とお導きをお願いいたします。ユダになってあなたを裏切るのではなく、しっかり立つことができるよう、どうか信仰と強さをお与えください」

私は何度も祈り、一瞬たりとも神から離れようとしませんました。警察は家宅捜索で4台のノートパソコン、数台の携帯電話、数個のUSBメモリとMP3プレーヤー、千元以上の現金を発見しました。捜索を終えると、見つけた物品をすべて押収し、私たちを一人ずつ撮影してから車に押し込みました。家から遠ざかる中、数え切れないほどのパトカーと警官の姿が目に入りました。

警察は私たちを軍の管轄区域にある簡易宿泊所へ連行し、そこで私たちを引き離して個別に尋問しました。二人の警官が入り口を見張っています。部屋に押し込まれた直後、三人の男性警官と一人の女性警官から最初の尋問を受けました。男性警官の一人はまず「どこから来た。名前は何だ。この地で何をしている。教会の金はどこにある」と尋ねました。私は心の中で神に祈り続け、何を訊かれても音一つ出しませんでした。私のこの対応に彼らは全員腹を立て、背筋をまっすぐ伸ばして立つよう私に指示し、壁に寄りかからせようとさせませんでした。この状態で三日三晩交代で私を尋問し続け、その間食事も睡眠も許しませんでした。私のすでに痩せ細って弱った体はそのような仕打ちに耐えられませんでした。頭が爆発しそうで心がえぐられたかのように感じ、疲れて空腹で、バランスを保つこともできません。しかし目を閉じるたびに身体をつつかれ、「尋問に答える前に寝てるんじゃない。もってのほかだ。じっくり相手をしてやる。どれだけもつか見てやろう」と言われました。彼らは教会について何度も尋問しました。この厳しい試練の間、私は絶えず強い緊張を強いられ、一瞬の不注意で何か口走ってしまうのではないかと不安でした。肉体的にも精神的にも苦痛を感じましたが、耐えるだけ耐えた、もう限界だと思ったとき、神が次の御言葉の一節を思い出させることで、私を啓いてくださいました。

苦難に直面した時、肉のことを考えず、神に対して不平を言わずに居ることが出来なければならない。神があなたから自身を隠している時は、あなたは神に付き従う信仰を持ち、以前の愛が揺るいだり、消え去ったりすることがないように維持出来なければならない。神が何を為そうが、神の意図に従い、神に対して不平を言うよりも、自らの肉を進んで呪わなければならない。あなたは、試練に直面する時、たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。あなたの実際の背丈がどの程度であるかを問わず、まず苦難を受ける意志、及び信仰を備え、また、肉を捨て去る意志を備えていなければならない(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)

御言葉の一字一句が私に励ましを与えてくれました。そのとおりです。サタンは私の肉体的な弱さを利用して私を攻撃しています。肉を守って安楽に暮らしたいという私の欲望を利用して、自分に従わせようとしているのです。サタンに惑わされ、臆病で卑劣なユダとして生きるわけにはいきません。私は喜んで神の御言葉で生き、肉を捨て、神への愛を実践したいと思いました。神に不平を言ったり裏切ったりするぐらいなら自分の肉を呪うほうがましです。神の御言葉は底なしの強さの源であり、苦しみを負う決意を私に与えてくれました。三日目の深夜、警官たちの上司らしき中年の男性が来て、まだ私から一言も聞き出せていないことを知ると、私の目の前に立ってこう言いました。

「君は若くて見た目も悪くない。やりたいことは何でもできる。どうして神を信じることにこだわるんだ。知っていることを教えたらどうだ。早くしないと自分のためにならんぞ。ぐずぐずしたらそれだけ苦しむことになる」

その時、私の肉は極限まで弱り、決意がぐらつき始めました。「取るに足らない情報を教えればいい。このまま先延ばしにしたら、他にどんなやり方で拷問してくるかわからない」と思いましたが、すぐに「いや、何も言ってはいけない。何か口走ったらもっと訊かれるわ。一言しゃべったら歯止めが利かなくなって本当にユダになってしまう」と考え直しました。これに気づいたとき、自分がもう少しでサタンの策略にはまるところだったと悟りました。

「危なかった。なんて悪意のある卑劣な悪魔なの」

彼らは私の弱みを利用して、飴と鞭で私が教会を裏切るように仕向けたのです。サタンに騙されるわけにはいきません。神を裏切るようなことをする前に死ぬほうがましです。

四日目、私がまだ何も話さなかったため、悪しき警察は別の手段を仕掛けました。彼らは私を別室に連れて行き、ドアを閉めました。その時、警察が以前にある姉妹を男性ばかりの雑居房に入れて、男性囚人が彼女を辱めるようにさせたという話を誰かから聞いたのを思い出しました。私は虎に呑み込まれて逃げようのない子羊のように深い恐怖を感じました。

「これからどう拷問するつもりなの。この部屋で死ぬのかしら。神よ、私を守って強さを与えてください」

何度も何度も神に祈って呼びかけ、一時も神を離れようと思いませんでした。悪しき警察はベッドに座り、自分たちの前に立つよう私に命じてから、これまでと同じ質問をしました。私がそれでも黙っていると、警官の一人が激怒し、私の両腕をつかんで後ろ手にひねったかと思うと手錠をかけ、両脚を拡げる「騎馬立ち」の姿勢をとるよう指示しました。この時点で私の両脚はすでにふらついており、弱って立つこともできず、ましてや騎馬立ちの姿勢で自分を支えるなど一分もできませんでした。警官たちが要求するとおりの姿勢になっていないと、その一人にすねを容赦なく蹴られ、床に叩きつけられました。続いて別の大柄な男性警官がこちらに近づき、手錠を掴んで私を釣り上げ、後ろ手にされた両腕を高く持ち上げながら、「そろそろしゃべろうか。これ以上我慢させるな」と責め立てました。高く持ち上げられるほど手錠がきつくなり、私は痛さのあまり悲鳴を上げました。叫べば叫ぶほど高く持ち上げられ、より激しく罵倒され、ただ腕と手首がちぎれそうになる感覚しかありませんでした。この苦痛の中、神の御言葉の一節が私の心の中に現れました。

終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)

その瞬間、私は心から神の慰めと励ましを感じました。神が私のそばにおられ、ともにいてくださり、苦しみがどれほど大きくてもしっかり立って、最後まで神に忠実であるよう励ましてくださったのです。それだけが鳴り響くような力強い証しだからです。私は静かに神に祈りました。

「神よ、今あなたは、私がしっかり立ってあなたの証しをするよう求めておられます。どれほど苦しんでも、私はサタンの前であなたの証しをし、たとえ死んでもあなたを裏切りません。決してサタンに服従しません」

再度の拷問の後、私が依然として黙っていたため、この警官は私を乱暴に床へ投げ飛ばしました。その後、手錠のせいで手首に深い切り傷が二つできたのに気づき、引き裂くような痛みを感じました。私は現在も、右手首で重い物を持ち上げることができません。

警察は教会に関する情報を得ようと、十日間以上も断続的に私を拷問しました。攻撃的な手段が成功していないと見ると、彼らは別の戦略を試みました。ある日、女性警官を差し向けて私に接近させたのです。彼女は私に日用品をいくつか持って来て、次の言葉で私に取り入ろうとしました。

「自分を見てみなさい。若くて美人だし、成績も良いはず。神を信じていなければ友達になれるのにね。どこにも行く所がなかったら私の家に泊まってもいいのよ。いい仕事が見つかるように手伝ってあげるし、いい男も紹介できる。自分の家も、旦那さんや子供ももつことができて、家族と毎日楽しく過ごせる。素敵じゃないかしら。今のままでは家に帰れないわよ。おうちとご両親が恋しくないの」

すると隣にいた男性警官が話に加わりました。

「そうだぞ。なぜ姿を隠したり、あちこち移動したりして日々を過ごしているんだ。なぜそんな手間を。我々に協力してくれさえすれば、もうそんなことをしなくてもすむと約束する」

彼らの誘惑の言葉を聞き、私は心の中で弱気にならざるをえませんでした。

「この人たちの言うとおりよ。私は警察につかまるのを恐れて、ここ数年隠れて過ごしてきた。住所も不定で、いつも恐怖の中にいる。この迫害の日々はいつ終わるの。こんな生き方は本当に惨めよ」

しかしその考えがすぐさま心に暗闇をもたらしたため、私は神に叫びました。

「神よ、私は自分の状態が間違っていることを知っています。私はあなたに要求し、あなたについて不平を言っています。これは私の反抗と抵抗です。神よ、私がこの間違った状態から離れてサタンの策略を失敗に終わらせ、サタンのわなに陥らずにすむよう、どうか私をお啓きください」

祈った後、次の御言葉を思い出しました。

あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。『このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。』あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ(『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」〔『言葉』第1巻〕)

御言葉の啓きにより、私の心は明るくなりました。迫害と苦難を経験することの意義を理解したのです。神はこの悪魔たちの迫害をお使いになることで、私たちに苦しみを負う決意をお与えになり、神に従う上での誠実さと信仰を完全にしてくださいます。そうして私たちの経験と証しは、神がサタンに勝利されることの強力な証拠となり、終わりの日の全能神の働きは人の働きではなく、神ご自身の働きであるということの証しを、すべての人が目の当たりにできるのです。神の働きも、御言葉の導きと施しもなければ、長きに渡って人類を潰してきたこの悪魔たちの虐待と責め苦に、誰一人耐えることはできません。自分の命を犠牲にしてでも神を信じて神に従うことができるのは、全能神による人への働きの成果です。それは神によって得られた栄光の証しであり、神の全能の力です。神の働きにおけるこの最後の段階において神が望まれているのは、サタンの迫害と虐待に耐えて毅然として義に立ち返ることができる人々の一群をご自身のものにすることです。彼らこそが、神が最後に得たいと望まれる勝利者なのです。神の御言葉にはこうあります。

わたしはあなたがたにわたしの栄光をすべて授けてきたし、選ばれた人たちであるイスラエル人が決して受け取らなかったいのちをあなたがたに授けた。だから当然、あなたがたはわたしの証人となり、あなたがたの若さをわたしに捧げ、あなたがたのいのちを差し出さなくてはならない。わたしの栄光を授ける者は誰でもわたしの証人となり、わたしにいのちを捧げるのである。これはずいぶん前にわたしによって運命づけられていた。わたしの栄光をあなたがたに授けるのはあなたがたにとって幸せなことであり、あなたがたの本分はわたしの栄光を証言することである(『神の出現と働き』「神に対するあなたの認識はどのようなものか」〔『言葉』第1巻〕)

ご自身の六千年にわたる救いの計画において、神は三段階の働きをなさり、二度受肉されました。最後の受肉においては、神を最も猛烈に迫害する無神論の地である中国に働きに来られ、終わりの日にご自身が得られる栄光の一部を、悪魔によって深く残忍に傷つけられた私たちの上に成就されます。こうして私たちの苦しみを用いてサタンを打ち負かし、同時に私たちの中で真理といのちを働かせられるのです。私たちは本当に神から多くを得るのですから、神の証しをしなければなりません。これは神からの使命にして神の恵みと賞揚であり、私たちの名誉です。それゆえ、今日私たちが負う苦しみには意義と価値があり、神の私たちへの恩恵を表しています。御言葉の啓きと導きを通して、私は神の御心を理解してサタンの策略を見極めるとともに、どんな苦しみにも耐えてしっかり立ち、神の証しをしようという決意を見出だしました。その後、警察の尋問はさらに二週間続きましたが、私は決して教会に関する情報を伝えませんでした。

その後、私は地元の拘置所に移されました。到着するとすぐに女性警察官の指示で裸になって検査を受けさせられ、所持金も押収されました。雑居房に入ると悪臭がひどく、二十数人が一つの寝台に押し込まれていました。みな同じ一室で飲食と排泄をしていたのです。翌月、私はこの悪しき警察に残業と追加作業を毎日するよう命令されました。眼鏡を取りあげられたせいですべてがぼやけて見え、作業中も物を目にかなり近づけないとはっきり見えません。その上、拘留所の照明は小さく薄暗いものでした。仕事を終えるのにかなり時間がかかったため、他の人が寝ていても夜遅くまで働き続けなければなりません。目が非常に疲れ、過労で失明するのではないかと恐れました。夜はよく眠れず、毎晩雑居房で一時間の宿直がありました。毎日の重いノルマに加えて尋問が週に二回あり、その時はいつも悪しき警察に手錠と足かせをかけられ、黄色い囚人服を着せられました。ある尋問の日のことです。その日は雨が降っており、私は傘をさしていた一人の男性警官の横を歩きました。薄い囚人服に手錠と足かせをかけられた姿で、冷たい雨のせいで身体が震えており、歩行は非常に困難でした。足かせは非常に重く、足首をかすり、一歩歩くごとにがちゃがちゃ鳴りました。そのような物はこれまでテレビでしか見たことがなかったのですが、今まさに身をもって体験していたのです。私は自分の状況を嘆かずにはいられなくなり、「こんなの殺人犯や強姦犯の尋問よ。私が何をしたと言うの」と心の中で叫びました。その時神が啓いてくださり、私は次の御言葉を思い出しました。

遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。……今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)

御言葉の内容を自分が遭遇していた現実と比べたとき、中共は外の世界に対して、信教の自由は万人の権利であるとあらゆる形で公言していながら、神を本当に信じる人がいると即座に様々な迫害、逮捕、暴力、侮辱、断罪、投獄をもって対処しているのだと、私はついに悟りました。中共は人々を人道的に扱うことはありません。「信教の自由」、「民主主義と人権」の標榜は、単純に他者をだまし、目をくらまして翻弄するための策略に過ぎません。この悪しき党はありとあらゆる弁を弄して自らを美化しますが、実際には悪魔のように残虐非道であり、実にこの上なく陰険でよこしまなのです。詐欺やぺてん、殺人や強盗を働くこの世の悪者に対しては見て見ぬふりをし、時には保護すらしますが、神を信じて正しい道を歩む人々を容赦なく迫害して殺します。まさに神に敵対する悪魔です。このことを考えたとき、私はこの卑劣な悪魔を蔑まずにはいられませんでした。たとえ命を落としてもこの悪魔に反抗することを誓い、神に身を委ねました。一か月後、警察は証拠がないにもかかわらず、「風紀紊乱」という罪状で私に一年間の「労働再教育」という処分を下しました。

労働収容所に着いたとき、そこがさらに暗い場所であることに気づきました。自由はまったくありませんでした。収容者は看守の指示がないと飲食も用を足すこともできず、どんな場合も看守に従わなければないと罰せられました。部屋を出入りするときは自分の囚人番号を告げなければならず、番号を間違えた者がいるとその班の囚人全員が罰を受け、二時間ものあいだ炎天下や雨の中で過ごす羽目になりました。食事をしに食堂に行ったときも、間違った番号を伝えた者がいると班の全員が食事抜きで外に立たされるという罰を受けました。他の収容者が食事するのを何もできずにただ見ているしかなかったのです。また、食事の前はいつも軍歌を全力で歌わされました。音程がはずれていたり、声が十分大きくなかったりすると何回でも歌い直すよう命じられ、看守が満足するまで食事は許されませんでした。このいわゆる「管理システム」は、人を支配してこき使い、地位を享受するという、あの悪しき看守たちの欲求を満たすために存在するのです。彼らは毎日人を追い詰めています。ここの収容者は看守に言われるままに掃除をしたり、布団をたたんだりする他に、足浴のための水を汲み、背中を揉むことなどを強いられました。看守は皇帝や女王のように振る舞い、ちゃんと奉仕する者には微笑み、粗相をした者にはひどく叱りつけて暴行を加えていました。私たちは何をしていようと、たとえトイレにいても、看守の怒鳴り声が聞こえた瞬間、「ただいま参ります」と大声で答え、急いで指示を聞きに行かなくてはなりませんでした。中共政権下の労働収容所はこのように運営されているのです。それは暗く抑圧的で、残忍で屈辱的な場所です。こうした中で私が抱いたのは憤りと無力感だけでした。その上、この悪しき警察は収容者を家畜や奴隷のように扱い、単なる金儲けの道具としてしか見ていませんでした。私たちは毎日重労働を強いられ、食事と睡眠を除くすべての時間を、彼らのために富を作ることに費やしました。毎日様々な規制に従う他に、重いノルマをこなさなければならず、いつ懲罰を受けたり怒鳴られたりするかわかりませんでした。私はそのような暮らしに耐えかね、「この収容所で死ぬのかしら。みんな毎日擦り切れるまで働かされる。こんなにつらい思いをして一年ももつかしら。いつになったら終わるの。こんな地獄のような所、もう一分一秒も我慢できない」と何度考えたかわかりません。その上、自分の気持ちを打ち明けられる人もいませんでした。来る日も来る日も沈黙の中ですべてに耐え、ひたすら働かなければならず、私は惨めな気持ちになりました。夜、誰もが寝静まったあと、格子窓から星を見ると、私は悲しみに襲われました。疎外感と孤独で、涙で枕を濡らさずにはいられません。しかし、この上ない弱さを感じたその時、突然神の御言葉を思い出しました。

人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に居られたのだろうか。どうして神は地獄で生活できたのであろうか。しかし、全人類のため、全人類が早く安らぎを得られるように、地上に来て神は屈辱を受け、不義を受け、人間を救うために自らが『地獄』と『陰府』、すなわち虎穴に入った(『神の出現と働き』「働きと入ること〔9〕」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉の一字一句が、私の悩める心を慰めてくれました。そうです。私がこの悪魔のような牢獄で孤独と疎外を感じたのは、気持ちを打ち明けられる人がいなかったからです。一方、神は私たち人類を救うために天から地上に降りて来られ、とてつもない侮辱と苦痛に耐えてこられましたが、人類は神に背いて逆らい、一人として神を理解することも、御心を気遣うこともできませんでした。それどころか神は人々の誤解、不満、無関心、攻撃、欺き、裏切りに遭われたのです。神も同じ疎外と孤独を感じられたのではないでしょうか。神も苦しめられ、傷つけられたのではないでしょうか。にもかかわらず、私は神の御心をまったく気遣わず、多少苦しんだだけで否定的で軟弱になりました。ただ引っ込んで逃げ出したかったのです。実に反抗的でした。この悪魔たちの迫害が私に降りかかることを神がお許しになったのは、故意に私を苦しめたかったからではなく、私が中共の残忍な迫害を経験することでその悪しき素顔をはっきり見、中共を本当に拒絶して、最後は完全に神に立ち戻るようになさりたかったからです。これはすべて神のご厚意と救いによってなされました。そしていずれにせよ、キリストが今私とともに苦しんでおられるのですから、私はもはや一人ではないのです。その時初めて、神が人になさるすべてのことには、救いと愛だけがあるのだと私は感じました。私は肉において苦痛を受けましたが、それは私のいのちの入りにとって驚くほど有益だったのです。このことを理解すると、私は否定的で軟弱な状態からゆっくりと抜けだし、神の証しをすべく苦しみを甘受する決意を見出しました。

2010年6月末、私は一か月早く釈放されました。この迫害と困難を経験することで、私は神による人の救いが真実で実践的であり、神の人への愛が深く真正であることを実感しました。この悪魔たちによる迫害と逮捕を経験していなければ、私の信仰、勇気、苦しむ決意が完全にされることはありえず、悪魔の醜い素顔をはっきり見ることもできませんでした。悪魔を心から嫌うこともできず、神に心を捧げることも、完全に身を委ねることもできなかったでしょう。迫害と困難の苦しみを実際に経験しなければ、私たちを救うためにこの汚れた場所に受肉して来られた際、神がお感じになる悲惨さも、神が払われる代償も、私は理解して感謝することができなかったでしょう。こうして私は神の愛をより深く感じることができ、心が神に近づきました。神の御言葉が何度も導きを与え、刑務所の暗闇の中で暮らした一年間、常にともにいてくれたことに、私は感謝します。現在は教会に戻り、兄弟姉妹と神の御言葉を読んで真理について交わり、再び本分を引き受け、心は無上の喜びと幸福に満ちています。心の底から神に感謝し、「今後はどんな事態や試練が降りかかっても、力の限り真理を追い求め、最後まで神につき従おう」と、私は密かに誓いを立てました。

山西省 奮勇(フェンユウ)

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