悪魔の暗い監獄の中でも、神の愛が私とともにあった

2019年12月2日

私は全能神教会のクリスチャンで、全能神の信者になって10年以上になります。当時のことで私が決して忘れられないのは、10年前に中国共産党の警察に逮捕された際に強いられた恐るべき患難です。当時、私は邪悪な悪魔たちに拷問され、手荒く扱われ、何度か死を目前にしましたが、全能神が力強い御手で私を導き、守り、蘇らせ、安全な場所へと引き戻してくださったのです……それを通じて、私は神のいのちの力の超越性と偉大さを真の形で体験し、神から授かったいのちという貴重な財産を手にしたのです。

それは2004年1月23日(旧正月の2日目)のことでした。私は教会の姉妹のもとを訪ねなければならなくなりました。困った状況におかれて至急助けを必要としていたのです。彼女が遠く離れた場所に住んでいたので、私はその日のうちに帰って来られるよう、タクシーに乗ろうと朝早くに起床しました。私が家を出たとき、外はちょうど明るくなり始めていました。街頭には人がほとんどおらず、ゴミを掃除している作業員がいるだけです。私は心配しながらタクシーを探しましたが、1台も見当たりませんでした。タクシー乗り場に移動したところ1台来るのが見えたので、道路に出て手を挙げ、その車を止めたのですが、実は環境保護局の車でした。なぜ車を止めたのかと訊かれた私は、「すいません、間違えました。タクシーかと思ったんですよ」と答えました。すると相手は、「違法のポスターを貼っていたんだろう」と言ってきたのです。「私がやっているのを見たんですか? どこにポスターを貼ったと言うんです?」と私は言い返しました。しかし、その3人は私に説明する機会すら与えず、こちらに駆け寄り強制的に私のバッグを調べ、説教のコピー、メモ帳、小銭入れ、携帯電話、もう使っていないポケットベルなど、バッグの中身を1つ残らず入念に調べました。説教のコピーとメモ帳はさらに詳しく確認されました。私のバッグにポスターが入っていないことを確かめた彼らは、説教のコピーを手にしてこう言いました。

「違法なポスターは貼っていなかったかも知れんが、お前は全能神を信仰しているな」

彼らはそう言うと、続いて国家保安大隊の宗教課に電話をかけました。その後すぐ、国家保安大隊の隊員4人が到着しました。バッグの中身を見たとたん、私が全能神の信者だと分かったのです。彼らは有無を言わせず私を車の中に放り込み、私が逃げられないようにドアをロックしました。

公安局に到着すると、警察は私をある部屋へと連れて行きました。警察官の1人が手掛かりを求めて私のポケットベルと携帯電話をいじり、携帯電話の電源を入れようとしましたが、充電不足の表示が出て、やがてバッテリーが完全に切れました。どうしても電源を入れることができなかったのです。その警察官は携帯電話を手に困った表情を浮かべていました。私も首をひねりました。携帯電話はその日の朝に充電したばかりだったのです。どうしてバッテリーが切れたのだろうか。すると突然、神が奇跡的にこの采配をなさり、他の兄弟姉妹たちの情報を警察が入手できないようにしていらっしゃるのだと気づきました。また神がおっしゃるこの御言葉を理解することもできました。

あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である(『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」〔『言葉』第1巻〕)

まことに、一切の物事と出来事は神の御手の中にあるのです。生きていようと死んでいようと、万事は神のお考えにしたがって変化します。その瞬間、神が万物を支配なさり、指揮していらっしゃることについて、私は真の認識を得ました。さらに、神に頼って来たるべき尋問に向き合う必要があることを確信したのです。すると警察官はバッグの中身を指さしながら、私を非難する口調でこう言いました。

「これを見れば分かるように、お前は明らかに単なる教会の一員ではない。上級指導者の1人、もしくは何らかの重要人物に違いない。下級の指導者ならポケットベルや携帯電話など持っていないからな。違うか?」

私が「何のことだか分かりません」と答えたところ、相手は「知らないふりをしてるんだろ!」と声を荒げ、しゃがんで話せと命令しました。しかし私が従おうとしないので、連中は私を取り囲むと、殺そうとするかのように殴る蹴るの暴行を加えてきたのです。顔が血まみれになって腫れ上がり、体中が耐えがたい苦痛に苛まれる中、私は床に崩れ落ちました。腹立たしさが募り、「私が一体何をしたと言うの。どうしてこんなふうに殴ったりするんですか」と言って彼らを説得し、自分の言い分を主張したくて仕方なかったのですが、彼らと理性的に話す術などありませんでした。なぜなら中国共産党政府は理性的な話などしないからです。私は困惑こそしていましたが、彼らの暴力に屈しようとは思いませんでした。途方に暮れていたまさにそのとき、私は突然、これら中国共産党政府の邪悪な警察官たちはとてつもなく不合理で、私に理性的な言葉を何1つ喋らせようとしないのだから、何も話す必要はないと考えました。黙っていたほうがいい、そうすれば連中の役には立たないんだから、というわけです。このように考えた私は、彼らの言うことに注意を払うのを止めました。

この方法が私に何の効果もないと知った邪悪な警察官たちは、猛烈に怒りだしてさらに野蛮になりました。拷問によって私に白状させることにしたのです。床にねじ止めされた金属製の椅子に手錠をかけられ、しゃがむことも立ち上がることもできない姿勢にさせられます。すると警官の1人が、手錠がかかっていない方の手を椅子の上に置いて、手の甲に青黒いあざが出来るまで靴で殴りました。その間、もう1人の警官が革靴で私の足を踏みつけ、私のつま先を潰すように靴を転がしました。そのとき私は、心臓にまっすぐ突き刺さるかのようなとてつもない痛みを感じました。その後、6、7人の警官が交代で私を拷問しました。その1人は腕の関節を集中的に狙って力一杯ねじ上げたので、それから1か月経っても私は腕を曲げることができませんでした。他の警官は私の髪を掴んで頭を左右に振り、私が上を向いた状態になるよう頭を後ろにねじってから、「空を見て神がいるかどうか確かめろ」と悪意も露わに言いました。これらは日が暮れるまで続きました。私が何も白状しないうえ、旧正月の時期だったこともあり、警察は私を拘置所に送りました。

拘置所に到着すると、刑務官が女性の囚人に私の服を全部脱がせ、ゴミ箱に捨てるよう指示しました。そして私に悪臭のする汚い囚人服を着させました。それから刑務官は私を監房に入れると、他の囚人たちにこんな嘘をついたのです。

「こいつは他人の家族をわざと壊した女だ。こいつのせいで沢山の家族が滅茶苦茶にされた。この女は嘘つきで、正直な人を騙し、公の秩序を乱している……」

囚人の1人が「どうしてこんなまぬけな顔をしているの」と訊くと、刑務官はこう答えました。

「刑の宣告を免れようと、わざとまぬけのふりをしているんだ。こんなことを考えつくほど賢いやつはお前たちの中にいないはずだ。こいつをまぬけだと思うやつが一番まぬけなのさ」

こうして刑務官に騙された他の囚人たちは、私への対処は甘過ぎで、私ほどの悪人には銃殺刑がふさわしいと口を揃えて言いました。私はそれを聞いて猛烈に腹が立ちましたが、できることは何もありません。私の抵抗の試みはまったく無駄で、さらなる責め苦と残虐行為を引き起こしただけでした。拘置所では、刑務官が囚人たちに毎日規則を暗唱させていました。

「罪を自白し法に従うこと。罪を犯すよう他人をそそのかしてはならない。徒党を組んではならない。喧嘩をしてはならない。他人を虐めたり侮辱したりしてはならない。他人に言いがかりをつけてはならない。他人の食べ物や所持品を盗んではならない。他人をからかってはならない。刑務所内で乱暴行為を働く者は厳重に処分される。いかなる規則違反であっても、即座に刑務官または看守に報告すること。事実を隠蔽すること、規制違反を犯した囚人を守ることは禁じられており、刑務所規則は人道にかなう形で施行されなければならない……」

ところが現実はというと、刑務官は他の囚人たちに私を痛めつけるよう働きかけ、私へのいたずらを許していたのです。気温が零下8ないし9度のときに私の靴を水に浸したり、私の食べ物にこっそり水を入れたりしていました。夜になって私が寝ているあいだ、私の綿入りの上着をずぶぬれにするということもありました。私を便所の隣で寝かせ、掛け布団をはぎ取ったり髪の毛を引っ張ったりして、私が眠れないようにしました。私のまんじゅうを盗み、便所掃除を強制し、残った薬を無理やり口に突っ込んだりもしました。私は用を足すことすら許されなかったのです……私が言われたことをしないと、連中は私を取り囲んで殴るのですが、そういった状況になると刑務官も看守もあわててその場を後にするか、何も見なかったふりをよくしていました。時には少し離れた所で隠れながら見ていることすらあったのです。囚人たちが私を数日間痛めつけないことがあると、刑務官と看守はこう言うのです。

「あの馬鹿女だが、ここ何日間か元気そうじゃないか。その間、お前たちはずいぶん頭がぼけてしまったな。あの馬鹿女の目を覚まさせたやつは刑期を短縮してやる」

刑務官による残忍な責め苦を受けた私は、連中に対する嫌悪でいっぱいになりました。これを自ら目の当たりにして実際に体験していなければ、慈悲と道義で満ち溢れているはずの中国共産党政府がこれほど邪悪で、恐ろしく、残酷になり得るとは決して信じなかったでしょう。その不実で表裏のある正体を目にすることも決してなかったはずです。「人民に奉仕し、文明的かつ調和のとれた社会を建設する」という主張は人々を惑わし騙すための虚偽であり、自らを美化して、受けるにふさわしくない賛美を得る手段にして策略なのです。このとき、私は次の神の御言葉について考えました。

肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、親切さのかけらもなく、純真な者を無分別な物事へと誘惑する。遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉と現実を照らし合わせたところ、中国共産党政府の暗く邪悪な悪魔的本質を完全にはっきり見ることができました。その邪悪な支配を維持するため、人民をしっかりと掌握し、あの手この手で惑わし、そして騙すのです。表向きは信教の自由を与えるとうたってはいますが、全国規模で神の信者を秘かに逮捕、圧迫、迫害、殺害しています。果ては信者を残らず死に至らしめようとさえしているのです。この悪魔はなんと邪悪で、残忍で、反動的なのでしょう。私たちの自由はどこにあるのでしょうか。人権はどこにあるのでしょうか。そのすべては人々を騙す策略なのではないでしょうか。人々はその邪悪な支配下で暮らしていて、希望や光を垣間見ることができるのでしょうか。どうして自由に神を信仰して、真理を追い求めることができるのでしょうか。そのとき初めて、この迫害と苦難が私に降りかかるのは神がお許しになったことであり、神はそれをお使いになって中国共産党政府の悪質さと残忍さ、そして真理を憎んで神に敵対するその悪魔的本質を示してくださっているのだと認識しました。また、政府が精力的に促進し、悪を罰して善を守り、正義を推し進めると褒めそやす人民警察が、実は慎重に育て上げられた共犯者にして手先であり、人の顔をしながら獣の心をもち、瞬時に人を殺す死刑執行人の集団だということも示してくださったのです。中国共産党政府は私に無理やり神を拒絶させ、神を裏切らせ、中国共産党の専制的な力に従わせるために、あの手この手で私を拷問し、ひどく痛めつけました。しかし拷問すればするほど、私がその悪魔のような本性をより明瞭に目の当たりにし、心の底からますますそれを嫌って拒絶し、神を心から渇望して信頼するようにさせているなど、知る由もなかったのです。さらに、私はまさに刑務官から責め苦を受けたおかげで、神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎むということの真の意味、サタンに背を向けて神に心を立ち返らせるということの意味、野蛮であるとはどういうことか、邪悪な勢力とは何のことか、さらには、悪意があって陰険、偽りで不実とはどういうことかを、知らぬ間に理解することができたのです。私はこの状況を体験させていただいたこと、善悪を区別できるようにしてくださったこと、そして歩むべき人生の正しい道を見出せるようにしてくださったことに対し、神に感謝しました。長らくサタンに騙されてきた私の心が、神の愛によってついに目覚めたのです。私はこの苦難と試練を体験する幸運に恵まれたこと、特別な御好意を真に示されたことに、とても大きな意味があるように感じました。

邪悪な警察は他のあらゆることを試みた後、もう一つ別の計画を考え出しました。教会を売ったユダを見つけてきたのです。彼女は、私が全能神を信仰していると言い、また私が神に背を向けるように仕向けようとしました。福音を宣べ伝える多くの兄弟姉妹のことを通報したこの悪しきしもべを見、彼女の口からこぼれた邪悪な言葉、すなわち神をけなし、中傷し、冒涜する言葉を耳にして、心の中が怒りでいっぱいになりました。私は声を上げて、なぜ恥知らずにも神に敵対するのかと訊きたくなりました。神の御恵みを大いに享受していたにもかかわらず、どうして神の選民を迫害する邪悪な悪魔の勢力に加わってしまったのでしょうか。私は心の中で言葉にならない悲しさと苦悩を覚えました。また深い後悔の念と負い目も感じました。神が私たちを救われるために耐えてくださった苦しみと屈辱をまったく考慮せず、真理を追い求めていなかったこと、そして無知な子供のように神の恵みと祝福を受けるだけしか知らなかったことについて、昔の自分を心から嫌ったのです。この悪魔の巣窟の奥深くにいるいま、この汚れて堕落した国で働きをなさるのが神にとってどれだけ大変なことなのか、神がどれだけ大きな苦難を耐えられたのかということを、私は初めて理解できたのです。紛れもなく、神の人類への愛は大きな苦しみを背負っておられるのです。神は人類による裏切りに耐えられながら人類を救う働きをなさっていますが、人類による裏切りは神に苦しみと心の痛みしかもたらしていません。神がかつてこうおっしゃったのも不思議ではありません。

ほんのひと晩のうちに、彼らは、にこやかで『心優しい』人間から、醜く残忍な死刑執行人となり、何の根拠も無く、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)

現在、私は悪の手中に陥ってしまいましたが、何があろうと神を裏切るつもりはありません。どれだけつらい苦難を強いられようとも、ユダのように保身に走ったりはせず、神に痛みと悲しみをもたらすこともいたしません。このユダが私を裏切った結果、邪悪な警察は拷問をさらに激しくしました。その間、彼女は部屋の片隅に立ちながらこう言いました。

「あなたは善悪の区別ができない。これは当然の報いよ! あなたは私の優しさに感謝していないわ。死ぬまで拷問されて当然なのよ!」

私はこの悪意に満ちた邪悪な言葉を耳にして激怒しましたが、同時に説明できない悲しみも感じました。泣きたくなりましたが、涙を見せられないことはわかっていました。サタンに自分の弱さを見せたくはありません。そこで、心の中で秘かにこう祈りました。

「ああ、神様! どうか私の心をお受けください。いま、私はあなたに何もして差し上げることができませんが、サタンとこの悪人の前であなたの勝利の証しをし、彼らを完全に辱め、それを通じてあなたの御心をお慰めすることを望んでおります。ああ、神様! どうか私の心をお守りください。そして私をより強くしてください。もし私が涙を流すようなことがあれば、その涙は私の内側に流れこむようにしてください。彼らに涙を見せるわけにはいきません。真理を理解している私は幸せに違いありません。あなたが私の目から埃を払ってくださり、そうしてあなたに抵抗し、あなたを裏切るサタンの本性と本質を識別し、はっきり見抜く能力を与えてくださったからです。私は精錬を受ける中で、あなたの賢い御手がいかにして万事を采配するかも目の当たりにしました。私はあなたに頼ってこれからの尋問に向き合い、サタンを打ち負かし、私においてあなたが栄光をお受けになることを望みます」

祈り終えると、神への証しを成し遂げるまで休まずにいられるだけの力を、心の中で感じました。これが神から授かったものであり、神が私に偉大な御加護を与えてくださったのだと知って、私は非常に感激しました。邪悪な警察はこの悪しき女を使って私に神を裏切らせようとしましたが、神は知恵ある神でいらっしゃるので、堕落した人類の反抗的な本性を私に示し、そうして神に満足していただこうとする私の決意と信仰をかき立てるべく、この悪しき女を引き立て役として用いられたのです。さらに、私は神の賢い働きをいくらか知ったうえ、神がご自身の民を完全になさるにあたって役立つものを残らず支配し、操られることもわかりました。これは、神が知恵を用いてサタンを打ち負かされるという、議論の余地がない事実なのです。

自分たちの望むことを私が喋ろうとしないので、警察は人手も物資も資金も惜しまず、あらゆる所を駆け回って私が神の信者である証拠を探しました。しかし3か月後、彼らの奔走は失敗に終わりました。そこで結局、彼らは奥の手を使い、熟練した尋問官を見つけてきたのです。その男のもとに連れて行かれた人はみな3種類の拷問を受け、自白しなかった者は1人もいないということでした。ある日、4人の警察官がやって来て、「今日はお前を新しい家に連れていってやる」と言いました。そして私を護送車に押し込み、後ろ手に手錠をかけ、頭に頭巾をかぶせました。私はこの状況の中、警察は私を連れ出して密かに処刑するつもりなのだと思いました。心がパニックに陥るのを止められませんでしたが、その後、私はイエス様を信じるときによく歌っていた讃美歌を思いだしました。

「教会ができた初期の時代から、主に従う者は大きな代価を払ってきた。何万もの霊の親族が福音のために自らを犠牲にし、そうすることで永遠のいのちを手にしてきた。主の殉教者になろう、主の殉教者になろう。私は主の殉教者になる覚悟ができている」

その日、私はようやくこの讃美歌の一節を理解することができました。主に従う者は大きな代価を払わなくてはならないのです。私も神のために死ぬ覚悟はできていました。護送車に乗ったあと、私はたまたま邪悪な警官たちの会話を耳にして驚きました。どうやら私を別の場所に連れて行って、そこで尋問するつもりなのです。そうか! 私は神の殉教者として死ぬ覚悟をしていましたが、警察は私を処刑するために連れ出したわけではなかったのです。そのように考えていると、警官の1人が頭巾の紐をきつく締めました。私はたちまち苦しくなり、窒息するかのように思われました。本当に死ぬまで拷問されるのではないかという不安が襲ってきます。その瞬間、イエス様の使徒が福音を伝道すべく自ら犠牲になったことについて考えました。私だって臆病者になるつもりはありません。たとえ命を落とすことになっても、紐を緩めてほしいと乞うつもりはなく、負けを認める気などさらさらありませんでした。しかし自分を制御することはできず、気を失って警官の上に崩れ落ちてしまいました。それを見た警官たちはすぐに頭巾の紐を緩めました。私は口から泡を吹き始め、嘔吐が止まらなくなりました。内蔵を吐き出してしまいそうな感じがします。目眩を覚え、頭の中は真っ白になり、目を開くこともできません。全身が麻痺したかのように力を失い、口の中に吐き出すことができないべたべたした物があるような感じがします。虚弱体質だった私は、このような虐待を受けて自分が危険な状態にあるのを感じ、いまにも呼吸が止まりそうに思えました。そして苦痛の中、神にこう祈りを捧げました。

「ああ、神様! 私は生きようと死のうと、喜んであなたに従います。あなたがなさる一切のことは義であると、私は信じております。あなたが指揮して采配なさるすべてのことに従えるよう、どうか私の心をお守り下さい」

しばらくして、護送車はホテルに到着しました。そのとき、私は全身が弱っていて、目を開くこともできません。警官たちは私を密室に運び入れました。私の耳に入るのは、周りに立つ中国共産党政府の大勢の手先たちが話し合う声だけです。彼らは、まるで劉胡蘭を見ているかのようだと言っていました。

「これは意外だ。大したもんだな! この女は劉胡蘭よりもタフだぞ!」

これを聞いて、私の心は興奮でいっぱいになりました。信仰にすがって神に頼れば必ずやサタンに勝利できること、サタンは神の足元にすら及ばないことを知ったのです。私は神に感謝と賛美を捧げました。この瞬間、私は痛みを忘れ、自分が神を賛美していることに大きな喜びを感じたのです。

程なくして、警官の言っていた「尋問のエキスパート」が到着しました。彼は部屋に入ったとたんこう叫びました。

「その馬鹿女はどこだ? ちょっと見せてみろ!」

そして私の前に歩いてきて身体を掴み、顔を何度も平手打ちしたあと、胸と背中を強く殴り、片方の革靴を脱いで私の顔を殴りました。このような暴行を受けたあと、口やお腹の中に何か吐き出せない物があるという感覚はなくなりました。もはや目まいも感じず、目を開くことができるようになりました。次第に手足の感覚が戻り、体にも力が戻り始めます。すると尋問官は私の肩を乱暴に掴んで背中を壁に押しつけると、こちらを見て質問に応えろと命令しました。しかし、私がそれを完全に無視したので尋問官は激怒し、私の反応を引き出そうと神をけなし、中傷し、冒涜したのです。私をけしかけようと最も卑劣で下劣な手段を使い、不気味な口調でこう言いました。

「肉体的にも精神的にも耐え難い方法でゆっくりと痛めつけてやるからな。普通の人間なら耐えられないような苦痛を味わわせてやる。死んだほうがましだと思うようになるぞ。しまいには逃がしてくれと乞うだろう。そのとき、お前は初めてまともなことを言うんだ。お前の運命は神の手中ではなく、俺の手中にあるんだとな。俺がお前の死を望めば、それは一瞬にして現実となる。生かしてやろうと思ったら、お前は生きる。どんな苦しみであろうと、お前は俺の思い通りに苦しむことになるんだ。お前らの全能神がお前を救うことなどできない。お前は俺たちに命乞いをして初めて、生き延びることができるんだ」

この卑劣で恥知らずで下劣な悪党たち、野獣たち、邪悪な悪魔たちを目の前にして、私は心から戦いたいと思いこう考えました。

「天地の万物は神によって造られ、動かされている。私の運命も神の支配と采配を受けているわ。神は生死を司る方でいらっしゃる。自分が望むからといって私が死ぬとでも思ってるの」

その瞬間、心が怒りで一杯になり、その怒りを抑えられないように感じられました。私は大声をあげて反撃し、「人間は犬に情けを求めたりはしないのよ!」と言ってやりたくなりました。私はそれを正義感の発露だと信じていたのですが、驚いたことに、このように考えれば考えるほど、心の中が暗くなっていったのです。祈りの言葉を失ってしまい、何の讃美歌も思い出せなくなりました。思考がだんだんぼやけてどうしたらよいのか分からなくなり、そのときいささか不安を感じ始めたのです。私は神の御前で素早く自分を落ち着かせました。そして内省し、自己認識を試みたのですが、その瞬間、神の裁きの御言葉が頭に浮かんだのです。

あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく……あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さない……(『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」〔『言葉』第1巻〕)

そうです。私はキリストのことをあまりに取るに足らないお方だと見ていました。権力と影響には敬服しても、キリストの謙虚さには敬服せず、まして神の密かな働きというお知恵には敬服していませんでした。神はご自身の知恵を用いてサタンを負かされ、謙虚にお隠れになることでサタンの本当の顔を明らかになさるとともに、邪悪な者を罰する証拠を集められます。同様に、警官たちが私にふるった卑劣な行為、そして今日口にした神への冒涜や抵抗はすべて、真理を憎んで神に抵抗する彼らの悪魔的な実質をはっきり暴きましたが、それは神が断罪し、懲罰し、そして滅ぼされるのに必要な証拠となるに違いありません。それでも私はキリストの知恵と謙虚さが見えず、「お人好しだと人にだまされる、馬がおとなしいと人に乗られる」と考え、恥辱と圧迫を受けることに満足しませんでした。反撃こそが自分にできる最も義で、立派で、勇気あることだとさえ信じていたのです。自分たちに反撃するようサタンが私をけしかけ、有罪にすべく神を信仰している事実を認めさせようとしていたなど、私はまったく知りませんでした。もし衝動的に勇気を出して彼らと戦っていたら、その欺瞞的な計略の餌食となっていたのではないでしょうか。私は時宜にかなった神の刑罰と裁きに感謝しました。それらは反抗的な態度をとっていた私に加護を与え、それによって私はサタンの欺瞞的な計略を見抜き、自分の内なるサタンの害毒を認識し、神がどういうお方でいらっしゃるかに加え、謙虚にお隠れになっている神のいのちの実質に関する認識を少しばかり得ることができたのです。私はキリストが中国共産党の悪魔による迫害、追跡、殺害に直面されたこと、そして全人類が神を批判し、非難し、中傷し、そして見捨てたことについて考えました。その間ずっと、神は静かにそのすべてを背負い、その苦痛を残らず耐えられて救いの働きをなさり、一言たりとも不平をこぼされなかったのです。私は神の性質がいかに優しく、美しく、称賛に値するものかを知ったのです。一方、汚れて堕落した人間である私は、悪しき悪魔たちによって迫害されたとき、衝動的な勇気をふるうことで、自分の意思をもとにいわゆる尊厳を守りたい、正義のために戦いたいと思いました。これのどこに正義感があるでしょう。気骨と尊厳がどこにあるでしょう。これを通じて自分の醜いサタンのような表情を見せていたのではないでしょうか。自分の傲慢な本性を明らかにしていたのではないでしょうか。こう考えていると、私の心は悔恨の念でいっぱいになりました。そしてキリストの例にならう決意をしました。進んでこの環境に服従し、神と協力することに最善を尽くし、サタンに一切の機会を与えないことを望むようになったのです。

私の心は次第に落ち着き、この悪魔との次なる闘いを静かに待ちました。私が自白を拒否したせいで、このいわゆるエキスパートは大恥をかいていました。そして怒りも露わに私の片腕を背中の後ろにねじり上げ、もう一方の腕を肩の後ろに引っ張り上げると、両手にきつく手錠をかけました。30分もしないうちに、大粒の汗が私の顔を滴り落ちて目に入り、開けることができなくなりました。私が依然として質問に答えようとしないので、尋問官は私を地面に投げつけてから、背中の手錠を掴んで私を持ち上げました。骨折したかのような激痛が即座に両腕を襲います。呼吸ができなくなるほどの痛さです。次いで尋問官は私を壁に投げつけ、壁を背にして立たせました。汗のせいで視界がぼやけ、あまりの苦痛で体中が汗まみれになり、靴までがずぶぬれになっていました。虚弱体質だった私はこの時点で倒れ込んでしまい、口であえぐこと以外は何もできませんでした。この悪魔は部屋の片隅に立ちながら私を監視しています。その目で何を見ているかはわかりませんでしたが、私が死んだら責任を負わされると不安だったのかもしれません。すばやくティッシュペーパーを掴んで私の汗を拭いた後、コップ一杯の水を与えたのです。これが30分毎に行なわれました。そのとき、自分がどのような見た目になっていたかはわかりませんが、口であえぐことしかできなかったことを考えると、かなり悲惨な様子だったのは間違いないでしょう。私は鼻で呼吸する能力を失ったように感じました。唇は渇いてひび割れ、呼吸するのも全力を振り絞る必要がありました。またしても死に近づき、今回は本当に死ぬだろうと思いました。しかしその瞬間、聖霊が私を啓いてくださったのです。そして私は、イエス様の使徒の一人、ルカが絞首刑に処されたことを考えました。すると心の中で無意識のうちに力を取り戻し、次のように何度も何度も自分に言い聞かせました。

「ルカは絞首刑に処されて命を落とした。私もルカのようにならなきゃいけないわ。ルカのように、ルカのように……喜んで神の指揮と采配に従おう。ルカのように死ぬまで神に忠実でいたいのよ」

痛みが我慢できないほどひどくなり、私が瀕死の状態に陥ったまさにそのとき、私は突然、全能神を信じる数名の兄弟姉妹が逮捕されたと、邪悪な警官の1人が言うのを耳にしました。私は心の中でショックを受けました。

「さらに数人の兄弟姉妹が拷問を受けることになってしまう。邪悪な警官たちは、兄弟には特に厳しく当たるわ」

私の心は不安でいっぱいになりました。他の兄弟姉妹に自分と同じ目に遭ってほしくなかった私は、彼らのために無言で祈りを捧げ、彼らをお守りになり、彼らがサタンの前で勝利の証しを行ない、決して神を裏切ることがないようにしてくださいと、神に請い続けました。私は聖霊に触れていただいたのかもしれません。ひたすら祈り続け、祈りを捧げれば捧げるほど、ますます鼓舞されたのです。痛みも無意識のうちに忘れていました。これが神による賢い采配であることを、私はしっかりわかっていました。神は私の弱さを気遣われ、最もつらい状況の中、私を導いていらっしゃったのです。その夜、私は邪悪な警官からどのような扱いを受けるかなどはもはや気にならなくなり、彼らの尋問にもまったく注意を払わなくなりました。この状況を見た邪悪な警官たちは拳で私の顔面をどう猛に殴り、私の頭髪を指に巻きつけ、ねじりました。耳もねじられて腫れ上がり、顔の見分けがつかなくなってしまい、厚板で殴られた臀部と太ももはあざができて皮がむけ、木片で押し潰されたつま先にも青黒いあざができていました。6時間にわたって手錠で吊るされたあと、邪悪な警官たちによって手錠を外されたときには、左手の親指の皮膚と肉がすっかりむけてしまい、薄皮が骨を覆う状態になっていました。それに加え、手錠のせいで手首も黄色い水ぶくれに覆われ、手錠をかけ直すこともできない状態になっていました。そのとき、偉そうな風采の女性警官が入ってきました。彼女は私を頭からつま先までじろじろ見たあと、「これ以上殴ったら駄目よ。もう死にそうだわ」と言いました。

警察は私をホテルの一室に閉じ込めました。部屋のカーテンは四六時中きっちり閉じられています。入り口には見張りが立ち、ホテルのサービススタッフは部屋に入ることを許されず、室内で私が拷問を受け、ひどく痛めつけられている様子を見ることは誰にも許されませんでした。警察は交代で休みなしに私の尋問を続けました。5昼夜にわたって私を寝かせないようにし、座ることもしゃがむことも許してくれず、十分な食事すらとらせてくれませんでした。私は壁に寄り掛かって立つことだけを許されていました。ある日、1人の役人が私の尋問にやって来ました。その男は自分が無視されたことに激怒し、私をテーブルの下に蹴り飛ばしました。それから引きずり出して殴打し、私の口の端から血が流れました。この男は自分の蛮行を隠すため、素早くドアを閉めて誰も入ってこられないようにしました。そしてティッシュペーパーを引き抜いて私の出血を拭きとり、水で私の顔から血を洗い流し、床にこぼれた血も拭きとったのです。私は自分の着ていた白いセーターにわざと血を残しました。しかし拘置所に戻ると、邪悪な警察は他の囚人に対し、私の服についている血は精神病院で検査を受けていた際についたもので、私はここ数日間そこにいたのだと言ったのです。私の体にある傷と出血はそこの患者のせいであり、自分たち警察官は指一本触っていないのだと。この残酷な事実が人民警察の冷酷さ、陰険な狡猾さ、そして人情のなさを露わにしており、私は彼らの手中に落ちた人が感じる無力さと絶望を実感したのです。それと同時に、神の義、聖さ、光、そして優しさに対する私の理解は深まり、神から生じる一切の物事は愛であり、加護であり、啓きであり、施しであり、慰めであり、支えであると感じました。私の苦しみが最もつらいとき、神は絶えず私を啓いて導き、私の信仰と力を強め、時代を問わず主のために殉教してきた聖徒たちを見習えるようにしてくださるとともに、真理のために戦う勇気を与えてくださるのです。私が邪悪な警察の蛮行を受けて瀕死の状態にあったとき、神は私に他の兄弟姉妹が逮捕された知らせをお聞かせになり、それによって私が彼らのためにもっと祈りを捧げるようになさいましたが、そのおかげで私は自分の痛みを忘れ、知らぬ間に死の束縛を乗り越えていたのです。サタンが悪しき残虐な引き立て役となったおかげで、私は神のみが真理であり、道であり、いのちでいらっしゃり、神の性質だけが義と善の象徴であることを知りました。神のみがすべてを支配し采配なさるのであり、ご自身の偉大なる力と知恵をお使いになって、私が悪魔の軍団による包囲を打ち負かし、肉の弱さと死の束縛を乗り越えられるよう1歩1歩導いてくださり、それによってこの暗黒の巣窟で粘り強く生き延びられるようにしてくださったのです。神の愛と救いを考えながら大いに刺激を受けた私は、最後までサタンと戦う決意をしました。たとえ刑務所の中で朽ち果てるとしても、しっかり立って神の証しをし、神に満足していただこう、と。

ある日、それまで見たことがない邪悪な警官が大勢やって来ると、私を見て事件について話し合いました。その中のエキスパートと思しき人物がこう言ったのを、私はたまたま耳にしました。

「俺が今までやってきた尋問の中でも、この馬鹿女に対するほどきつく当たったことはなかった。俺はこいつを手錠で8時間(実際には6時間でしたが、上司から役立たずと言われるのを懸念して話を膨らませたのです)も吊るしたのに、それでも何も白状しないんだ」

すると女の声が聞こえました。

「どうしてあの女をそんなにひどく殴れるの。あなたは残酷よ」

逮捕された人間の中でも、私が一番苦しい思いをしていたのです。どうして私が一番苦しむことになったのでしょうか。他の人たちよりも堕落していたからでしょうか。私の受けた苦しみは神の懲罰だったのでしょうか。懲罰を受けるほど内なる堕落が多すぎたのでしょうか。こう考えていると涙を抑えることができませんでした。泣くべきでないことはわかっていました。サタンに涙を見せるわけにはいかないのです。そうなったら、サタンは私を打ち負かしたと信じるでしょう。しかし、私はどうしてもつらくなって、こらえきれないほどの涙が流れました。絶望の中、私には神に助けを求めることしかできませんでした。

「ああ、神様! 私はいまひどくつらい思いをしています。泣きたい気持ちが止まりません。どうか私をお守り下さい、サタンの前で頭を下げることを止めさせて下さい。私はサタンに涙を見せるわけにはいきません。自分の状態が間違っていることはわかっています。あなたに要求をして、文句を言ってしまっています。それに、あなたが何をなされようとも、それが最善であることもわかっています。しかし、私の霊的背丈は低すぎ、反抗的な性質は強すぎます。しかも、私はこの事実を喜んで受け入れることができないだけでなく、この間違った状態から抜け出すにはどうしたらよいのかもわからないのです。どうか私をお導きください。あなたの指揮と采配に従えるようにしてください。そして、もう二度とあなたのことを誤解したり、あなたに文句を言ったりしないようにしてください」

こう祈りを捧げたあと、神の御言葉のこの1節が頭に浮かびました。

あなたもわたしが飲んだ苦い杯(これはイエスが復活の後言ったことである)を飲まなければならない。あなたもわたしが歩いた道を歩み、わたしのために命を捧げなければならない(『神の出現と働き』「ペテロはいかにしてイエスを知るに至ったか」〔『言葉』第1巻〕)

私の涙は即座に止まりました。キリストが受けられた苦しみは、いかなる被造物が受けた苦しみとも比べものにならず、被造物が耐えられるものでもありません。一方、私は少しばかり苦しんだだけで酷く扱われたと感じ、不公平だなどと神に文句をぶつけていたのです。このような行為のどこに良心と理知があるでしょう。私が人間と呼ばれるにふさわしいと、どう言えるでしょう。その後、私は神がおっしゃったこの御言葉について考えました。

人間の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。あなたが清められていない側面はどれも、あなたが精錬されなければならない側面です。これが神の采配です。神はあなたのためにある環境を作り、そこで強制的に精錬されるようにすることで、自らの堕落を知ることができるようにさせます(『キリストの言葉の記録』の「試練のさなかに神を満足させるには」より)

神の御言葉を深く考え、自分自身を省みていると、神が采配なされた物事は私の堕落と欠陥に向けられていたことがわかりました。それこそが、自分のいのちが必要としていたことなのです。この非人間的な苦痛と責め苦を受けて初めて、私が自分の肉に媚びすぎていたこと、利己的で卑しく、神に要求ばかりして、神のために苦しんで輝く証しをすることに満足していなかったことを認識しました。この苦しみを受けることがなければ、自分はすでに神に満足していただいたという誤った思いを抱き続けていたでしょう。なおも自分に多くの堕落と反抗があることに気づかず、まして神が堕落した人類を救われるべく、その中で働きをなさることがどれほど困難かを直に経験することもなかったはずです。また、真にサタンを捨てて神の御前に戻ることもなかったでしょう。この苦難は私に対する神の愛であり、私への特別な祝福なのです。神の御心を理解した私の心は突然澄み渡り、明るくなったように感じました。神への誤解も消えてなくなりました。自分が苦難を受けられることには、大きな価値と意味があるのだと感じたのです。

邪悪な警察はできる限りのことを試したあとも、私から何も得ることができませんでした。そして最後に、確信に満ちた口調でこう言いました。

「共産党には鋼のような強さがあるが、全能神を信じる連中にはダイヤモンドのような強さがある。あらゆる点で共産党よりも立派だ」

この言葉を聞いた私は心の中で思わず神に喝采を送り、神を讃えました。

「ああ、神様。あなたに感謝し、あなたを讃えます! あなたはご自身の全能と知恵により、サタンに打ち勝ち、あなたの敵を打ち負かしました。最高の権威でいらっしゃるあなたに栄光あれ!」

この瞬間、中国共産党政府がいかに残酷だろうと、神の御手によって操られ、指揮されていることが初めてわかりました。神の御言葉にこうある通りです。

天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)

ある日、邪悪な警察はまたしても私を尋問しにやって来ました。しかし今回は、全員様子が変でした。私を見ながら話していても、私に話しかけているようではないのです。何かについて話し合っているかのようでした。これまでと同様、この尋問も失敗に終わりました。邪悪な警察はそれから私を監房に連れ戻しました。その途中、この女はどうやら翌月の1日に釈放されるようだと、彼らが口にしたのを突如耳にしたのです。これを聞いて私の心は興奮ではじけそうになり、「あと3日で釈放されるのね! ようやくこの悪魔のような地獄から出られるのよ!」と思いました。そして喜びを心の中で抑えながら、刻一刻と時間が経つ中、期待を胸に待ちました。この3日間はまるで3年のように感じられました。そしてついに、月の初日になったのです。その日、私は扉を見つめながら、自分の名前が呼ばれるのを待ちました。午前が過ぎても何も起きません。私は午後にここから解放されることにすべての期待を込めましたが、夜になってもそれは起こりませんでした。夕食の時間になっても食欲が起きません。私は心の中で喪失感に駆られ、その瞬間、自分の心が天国から地獄に落ちたような気分になりました。「なんであの女は食べてないんだ」と、刑務官が他の囚人に訊きました。その1人が「あの日尋問を受けて帰って来てから、あまり食べてませんよ」と答えると、「額を触ってみろ。病気か?」と刑務官は言いました。すると囚人が近づいて来て私の額に触れました。そして私の額が凄く熱くて、熱を出していると言いました。実際そのとおりでした。突然病に襲われ、それはとても深刻だったのです。その瞬間、私は倒れました。その後2時間にわたり、熱はどんどん高くなっていきました。私はついに泣いてしまいました。刑務官も含めてそこにいた全員が、私が泣くのを見て困惑していました。私はこの人たちから、飴に誘惑されることも鞭に怯えることもない人間、耐え難い拷問を受けても涙一粒こぼさない人間、手錠で6時間吊るされても唸り声すら上げない人間として見られていました。しかし今日、私は拷問を受けることなく涙を流しました。一同はただ、私が重病に違いないと思っていたのですが、実のところ、涙の理由を知っていたのは神と私だけでした。それはひとえに神に対する私の反抗と不従順のせいだったのです。自分の期待が叶わず、希望も粉々に打ち砕かれてしまったときに絶望感に駆られ、そのせいで流れ出た涙なのです。反抗と憤慨の涙なのです。その瞬間、私はもはや神の証しをしようと決意するのが嫌になりました。このような試練を再び受ける勇気すらありませんでした。その夜、私は悲嘆の涙を流しました。もう刑務所生活にはうんざりで、この悪魔たちを軽蔑していたし、何よりこの恐ろしい場所にいるのが嫌だったからです。私はもうあと1秒すらここで過ごしたくありませんでした。そう考えれば考えるほど落胆し、強い不満、惨めさ、そして孤独をますます感じました。海を独り漂い、波にいつ飲み込まれてもおかしくないボートになった気がします。しかも、周りの人たちはとても陰険で酷く、いつ怒りをぶつけられるかわからないと感じていました。私はこう助けを求めずにはいられませんでした。

「ああ、神様! どうか私をお救いください。私はもう崩れ落ちそうです。いつどこであなたを裏切ってしまうかわかりません。今一度、私の心をお掴みになり、私があなたの御前に戻れるようにしてください。私に今一度憐れみを向けられ、私があなたの指揮と采配を受け入れられるようにしてください。あなたがいまなさっていることを私は理解できませんが、あなたがなされる一切のことは善であるとわかっております。どうか再び私をお救いになり、私の心があなたに立ち返るようにしてください」

こう祈りを捧げたあと、私はもう怖くなくなりました。そして次第に落ち着きを取り戻し、自分を見つめ直してみました。その瞬間、神の裁きと暴きの御言葉が私の心に浮かんだのです。

あなたが欲するのは、肉であろうか、それとも真理であろうか。あなたが望むのは、裁きであろうか、快楽であろうか。神の働きを非常にたくさん経験し、神の聖さと義を目の当たりにしてきたあなたは、どのように追求すべきであろうか。あなたは、どのようにしてこの道を歩むべきであろうか。神への愛を、どのように実践すべきであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの中で何らかの効果を達成したであろうか。あなたに神の刑罰や裁きに関する認識があるかどうかは、あなたが何を実際に生き、どの程度神を愛しているかに拠る。あなたの唇は、神を愛していると言うが、実際に生きていることは、古い堕落した性質である。あなたには神への畏れがなく、いわんや良心などない。そのような人々は、神を愛しているであろうか。そのような人々は、神に対して忠実であろうか。……このような者がペテロのようになれるであろうか。ペテロのような者たちが、認識を持っているだけで、それを実際に生きないということがあろうか(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)

神の裁きの御言葉の一言一句が諸刃の剣のごとく私の急所に突き刺さり、私に激しい非難を浴びせました。そうです。私は何度も神の御前で厳粛な誓いを立て、真理のためにすべてを捨ててあらゆる苦難を耐え抜くと言いました。それにもかかわらず、今日、神が現実を通じて私に何かをお求めになったとき、また私が実際に苦しみを味わい、代価を払うことで神に満足していただくことを神が必要となさっていたとき、私は真理もいのちも選ばず、肉への関心とその見込みにとらわれ、いたずらに不安と苦悩と心配に支配されていたのです。私には神への信仰がまったくなかったのです。こうすることでどうして神の御心にかなうでしょうか。私が実り多きものになるべく生きることを神は望んでおられるのであって、飾り立てた空虚な誓いなどは望んでおられません。しかし、私は神の御前で認識はあっても現実はなく、神への忠誠心も真の愛も抱いておらず、まして神に従順ではなかったのです。私はひとえに不実、反抗、そして敵対の中で生きていました。そのような私は神を裏切る者ではないでしょうか。神の御心を傷つける者ではないでしょうか。その瞬間、主イエスが捕縛されて十字架にかけられたときのことを思いました。一人また一人と、主のお恵みを頻繁に享受した者が主を見捨てたのです。私は心の中で悔悟の念に圧倒されずにはいられませんでした。そして自分の反抗的な態度を憎み、自分に人間性が欠けていることを憎み、もう一度立ち上がって真の行動を起こし、それによって神への約束を実現させたくなったのです。刑務所で朽ち果てるとしても、もう二度と神の御心を傷つけるようなことはしません。神が私のために流してくださった血の代価を二度と裏切るわけにはいきません。私は泣くのをやめて、心の中で静かに神に祈りました。

「ああ、神様、私への御啓示と御導き、そしてあなたの御心を理解させて下さったことを感謝いたします。私は自分の霊的背丈がとても低いこと、そして私はあなたを愛することや、あなたに従うことをほんの僅かも出来ていなかったことが分かりました。ああ、神様、今私は完全に自分をあなたに委ねることを望んでいます。私は残りの人生を刑務所で過ごすことになっても、サタンには決して一歩も譲りません。私は真の行動によってあなたに御満足いただくことだけを望んでいます。

しばらくして、私が釈放されるという噂がさらに立ちました。釈放まであと数日だろうというのです。前回学んだ教訓を踏まえ、今回はより理性的かつ冷静でいました。私はとても興奮してはいましたが、神の前で祈りを捧げ、もう二度と自ら選択しないことを求めました。神の指揮と采配のすべてに従えるよう、どうか私をお守りくださいとしか願わなかったのです。数日後、この噂はまたしても噂で終わりました。さらに、もし私が刑務所で死んでも、それでも私を釈放しないと言う刑務官の言葉を耳にしました。私が自分の住所も名前も話そうとしないというのがその理由で、私は永遠に投獄されることになっていたのです。これを聞くのはとてもつらいことでしたが、これは自分が受けるべき苦しみなのだとわかっていました。私が神のためにこの証しをすることを神は望んでおられるのですから、私は進んで神に従い、神の御心に応じようと思うとともに、森羅万象は神の御手の中にあることを信じました。これは、神が私に特別なお恵みを示し、引き上げてくださっているのです。以前、私は刑務所で朽ち果てようと言っていましたが、それは自分の願望に過ぎず、自分にその現実はありませんでした。しかし今日、私は現実に生きているこのいのちを通じて証しをし、神が私の内に安楽を見つけていただきたいと思いました。私がサタンへの憎悪で満ち溢れ、最後までサタンと戦い、刑務所で朽ち果てることを真に証ししようと決意したとき、私は神の全能と奇跡的な御業を目の当たりにしたのです。2005年12月6日、刑務所の護送車が私を拘置所から運び出し、道端で降ろしたのです。その瞬間、2年間におよぶ私の刑務所生活が幕を閉じたのです。

この恐るべき患難を経て、私の肉は大変な苦しみを被りましたが、私はその百倍、もしくは千倍以上のものを得ました。洞察力と識別力を培い、中国共産党政府が悪魔サタンの化身であり、瞬時に人々を殺す殺人者集団であることをまさに目の当たりにしただけでなく、神の全能と知恵に加え、神の義と聖さを認識するようになり、神が私をお救いになった善意、および私に対する神のお気遣いとご加護を理解しました。私はそのおかげで、サタンによる蛮行の中、一歩一歩サタンに打ち勝ち、しっかり証しに立つことができたのです。今日からは、自分のすべてを完全に神に捧げてまいります。そして一刻も早く神のものとしていただけるよう、あくまで神に従ってまいります。

江蘇省 楊毅(ヤン・イー)

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