43. 迷い、また救われて

協力 アメリカ

私は生活水準の高い幸せな人生を追い求めるべく、できる限り懸命に働こうとアメリカ合衆国にやってきました。最初の数年は少なからず苦しみましたが、やがて自分の会社を始め、車や家などをもつことができました。夢に見た「幸せな」人生をついに歩めるようになったのです。その間、私には何人かの友人ができました。時間があれば一緒に食事や飲みに行ったりして、楽しい時間を過ごしたものです。私たちはとても相性がよく、良い友人と巡り会えたものだと思っていました。ところが、やがて彼らがみなただの飲み仲間で、語るべき本質的な考えなど何一つ持っておらず、心配事や落ち込むことがあっても自分の問題を分かち合える人ではないことに気づいたのです。それだけでなく、彼らは私に詐欺を働きました。友人の一人は中国にいる母親が重い病気なんだと嘘をつき、私が金を貸してやるとすっかり行方をくらましてしまいました。もう一人は私と同郷だったのですが、仕事の資金繰りに必要だと何度も嘘をついて、私から金を騙し取りました。私にとって最も近しく愛しい人だった恋人さえ、私が長年の血と汗と涙で貯めた多額の現金を私から騙し取っていきました。これらの人の無情さや社会の冷たさに、私は落胆して憂鬱になりました。このまま生き続ける自信さえ無くした時期もありました。心は空っぽで、私は傷つき、無力でした。その後、心の空虚さを埋めるために食べたり飲んだり、享楽に身を任せたりしましたが、そのようなつかの間の肉体的な快楽で自分の精神的な苦しみが解決されることはあり得ない、ということもわかっていました。

2015年の秋、私は後に妻となる女性と運命のいたずらで知り合うことになりました。当時、彼女はすでに全能神の終わりの日の働きを受け入れていました。彼女が神の国の福音を私と分かち合ってくれたとき、信仰をもつのは自分にとってよいことだと思えましたが、仕事がとても忙しかったので、彼女にはこう言いました。「僕には神を信じる時間がないんだ。でも、君が信じたいならそうすればいい。僕は心の中で神の存在を信じていれば、それで十分だよ」。半年後のある日、妻が私に「ノアの日々が来た」という、全能神教会が制作した動画を観せてくれました。その内容は私を本当にびっくりさせるものでした。災害に直面すると、人類はちっぽけで脆く、ちょっとしたことにも耐えられない。いくらお金があろうと、どんな贅沢を楽しもうと、どれだけ地位が高くても、すべて意味がないのだと、私は突然感じたのです。災害に直面して死が迫るとき、そういったことはすべて無価値で無用のものとなるのです。全能神の御言葉はこう述べています。「しかし、わたしはあなたに告げなければならない。ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)。「それでは現代に目を向けてみなさい。ノアのように神を礼拝し、悪を避けることのできる義人はいなくなってしまった。それでもなお、神はこの人類に恵み深く、この終末の時代においても人類の罪を赦す。神の現われを切望する人々を神は探し求める。神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を神は探し求める。神の前で赤子のように従順で、神に抵抗しない人々を神は探し求める(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉の中に、私は人類を救おうとなさる神の切迫した御旨を感じることができました。そして今の時代、肯定的なことを愛したり、神の再臨を待ち望んだりする人がいかに少ないかについて考えました。人々の心は利己主義と傲慢と策略に満ちています。富と名声のために相手を騙そうと互いに画策し、殺し合いになる者までいます。人々は肉欲の奴隷となって道徳や美徳を絶えず冒瀆し、良心を忘れ去っています。人々は人間性を残らず失ってしまったのです……。終わりの日における人類の堕落の程度は、ノアの時代をはるかに越えています。しかし、神は人類をその邪悪さと堕落ゆえにすぐ滅亡させることはなさっておらず、代わりに様々な種類の災害を降らせて警告し、私たち人類が神のほうに立ち返る機会を与えてくださっているのです。神の御言葉を深く考えたとき、私の心は神の愛に深く感動しました。また、世界が日々邪悪で堕落したものになりつつあること、災害がますます大規模になりつつあること、そして神がその怒りを邪悪な人類に振り下ろし、人間を滅ぼされるとき、自分がいままで追い求めてきた金や地位が私を救うことはできないということについて考えました。神の御前に出て真理を求めることでのみ、人は庇護を得られるのです。こうしたことを一通り考えると、私は夢から目覚めたように感じました。神の御前に出てその救いを受け入れるべきだ、救われる道はそれしかないと、私の直感が告げていました。つかの間の肉の喜びのために救いを得る機会を逃すとしたら、一生後悔することになってしまう! その結果、私は2016年5月に神を信じ始め、教会の集まりに参加するようになりました。

信仰を得てすぐのころ、ネットサーフィンをしていたところ、全能神教会を誹謗中傷する否定的なプロパガンダに行き当たりました。それを読んで私はしばらく呆然としました。この「人々に献金させ、男女の境界を尊重しない」というのは一体どういうことだろう?その記事は理性的に見えたので、善悪や虚実が容易に判断できません。私は混乱して迷い、自分が読んでいたその否定的な記事のせいで、神への信仰の炎が一瞬にして消えてしまいました。ちょうどその時、妻と義母が電話で教会への献金について話しているのが聞こえてきて、ネット上で読んだ記事がより信用できるように思えました。その後、私は義母に献金を止めさせ、妻にはこれ以上騙されないために信仰を捨てるよう促しました。しかし妻は私の言うことに耳を貸さず、はっきりとこう言いました。「現実の状況はあなたがネットで読んだものとはまったく違うわ。そんなのはどれも噂で、偽りの証しなのよ!……」そして神の御言葉の本を取り出すと、私に教えを説き始めたのですが、すでに噂のせいで盲目となっていた私は、妻が何を言っても信じませんでした。しばらく後、兄弟姉妹が何人か我が家を訪れましたが、私は彼らの相手をすることもありませんでした。その数日間、私はずっと闇の中にいて、妻や義母が騙されていることを心配しつづけていました。常にいらいらして食事も喉を通らず、夜は眠れず、精神的に苦しみました。私が苦しんでいる様を見て、妻はまた私に教えを説いてくれようとしました。全能神の御言葉の本を開くと、次の一節を選んで私に見せてくれたのです。「わたしが欲するのは、人間の観念や人間の思いではなく、ましてあなたのお金や財産ではない。わたしが欲しいのはあなたの心である。分かるだろうか。これがわたしの旨であり、それ以上に、それがわたしの得たいものである(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六十一章」〔『言葉』第1巻〕)。それから妻は、教会生活を経営する上での原則もいくつか読んでくれました。「教会はすべての者に対し、説教の中で、あるいは他のどんな理由であれ、献金を求めることを禁じる」(働きの手引き「教会の設立と教会生活の経営の原則」)。そして教えを説く中で次のことも分かち合ってくれました。「全能神教会では、教会生活のあらゆる面において厳しく守られるべき基準と原則があるの。献金については、全能神の御言葉の中ではっきりと、神は人のお金や物質をお求めにならないと記されているわ。教会の働きの原則にも、献金について説教することや、どんな理由であっても人々に献金を勧めることは禁じると明記されているの。全能神に従い始めてから、私は教会に1セントだって献金を頼まれたことはないわ。教会は人々に献金するよう呼びかけないだけでなく、真の信者であるすべての兄弟姉妹に色々な本やCDやその他のものを無料で与えているの。ねえ、母さんは大変な困難を経験している兄弟姉妹を助けるために何か貢献したいと思っているのよ。自分の意志でそうしようとしているのであって、誰にも強制なんかされていないわ。なんにせよ、困っている人を助けるのは善い行いだし、咎める理由なんてないでしょう?」

全能神の御言葉を読んで妻の説く教えを聞いた後、以前姉妹の一人が説いてくれた教えのことが突然思い出されました。全能神教会は新しい信者からの献金を受け付けず、献金したい者はまず自分の意志が確かなものであり、絶対に後悔しないことを確信できるまで、数回祈りを捧げなければならないのです。望んでいないのであれば、教会は絶対にそれを受けとりません。これを思い出したとき、私が抱えていた不安や懸念のいくつかは多少軽くなりましたが、心のしこりが完全にほぐれたわけではありませんでした。妻は私のしかめ面を見て考えていることを悟り、こう言いました。「あんな噂を信じないで。人をお救いになる神の働きを邪魔して台無しにし、私たちが神の御前に出てその救いを受け入れるのを止めさせるためなら、サタンはどんな酷いことだって言うし、どんな偽りの証しだってするわ。神は聖くていらっしゃり、人類の邪悪はお嫌いなのよ。評判が悪く、異性の信者の前でどう振る舞うべきか心得ていない人たちを、全能神教会が受け入れることは決してないわ。これは全能神がとてもはっきりおっしゃったことなのよ」。そして神の御言葉の本を開き、次の一節を読みました。「七つの雷が鳴り響くので、多くの人々がひざまずいて憐みと赦しを求めるだろう。しかし、これはもはや恵みの時代でない。それは怒りの時となるであろう。悪を行うすべての人々(姦淫する者、あるいは汚れたお金を扱う者、男女の境界が不明瞭な者、わたしの経営を邪魔したり損なったりする者、霊が塞がれている者、あるいは悪霊に憑かれている者など―わたしの選びの民を除くすべての者たち)について言えば、誰ひとり放免されることも、赦されることもなく、全員がハデスに投げ込まれ、永遠に滅びるだろう(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第九十四章」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉には、人々の心に畏れと尊敬をもたせる荘厳さと怒りがあり、私に人類の背きを許さない神の正しき性質を気づかせてくれました。神は性の乱れに興じる者を大変嫌悪なされており、これらの人々はいずれ神の正しき懲罰に苦しむことになります。私の懸念のいくつかは解消されました。そして妻は、さらにこう説いてくれました。「神が律法の時代にその働きをなさっていたとき、性に乱れた者はみな石打ちで処刑されていたわ。これこそ神の正しく、偉大で、怒りに溢れた性質を表しているのよ。神の国の時代、神の統治下では、男女の交わりに関する規則がさらに厳しくなっている。神の御言葉にはこうあるわ。『人の性質は堕落している。その上、人はさまざまな感情を持っている。そこで、神に仕える際、男女が二人きりで一緒に働くことは絶対に禁止される。誰でもそうしていることが見つかった者は除名され、これに例外はなく、誰も免除されない』」(『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」〔『言葉』第1巻〕)

妻がこれを読みあげてくれたとき、私は2016年の春に起きた出来事を思い出しました。当時、私はまだ全能神の終わりの日の働きについてちゃんと調べていませんでした。妻と教会の姉妹の一人をよその州へ車で送っていたときのことです。途中、妻の用事のために車を停め、妻が車から降りたとき、その姉妹も一緒に降りました。外は寒く風も強かったので、その姉妹は車の横で足踏みしながら身体を暖めていました。車に入っているように言うと、彼女は「いいんです。ちょっと外に立っていますから」と答えました。妻が戻るまでしばらくかかりましたが、彼女はそれまで車に入ろうとしませんでした。寒さで明らかに震えている彼女を見て、妻は「こんなに寒いのに。なぜ車の中で待たなかったの?」と尋ねました。すると彼女はこう答えたのです。「私たちの教会には、男女が二人きりになることや肉体的接触を行うことを禁じる行政規則があるのよ。これは神が選民に課している要件の一つで、私たちはそれを厳しく守らなければならないの」。これを聞いたとき、全能神教会の人々は世間の人たちと本当に違うのだと思いました。こんな些細なことでも自らを律しているとは。そう考えると、事実を正しく調べず、それどころかネットの噂を盲信した自己嫌悪で、自分の頭をひっぱたかずにはいられませんでした。全能神教会の兄弟姉妹と今まで何度も関わってきて、その男女間の線引きがいかに明確か、彼らの言動がいかに礼儀正しいものか、そして人々とのつきあいや行事への参加においていかに高潔だったか目にしてきたことを考えてみると、ネットの噂が信用に価しないことは明白でした。この時点で、私は大いに恥じ入りました。結局のところ、あれらネットの噂はどれも作り話や中傷、まったくの曲解だったのに、私はそれらの嘘を盲目的に信じ、全能神と全能神教会に疑念を抱いてしまったのです。私は迷える愚か者だったのです!すると妻が続けて教えを説きました。「終わりの日、神が受肉されて人々を裁き清める真理を表されるのは、人類を完全にサタンの領域から救い、私たちの堕落した性質、つまり傲慢、策略、欺瞞、わがまま、下劣さ、邪悪さ、不浄を取り除くためなの。そして私たちがいのちの性質の変化を遂げて真に人間らしく生きられるように手助けしてくださるのよ。人類がサタンによって深く堕落させられ、罪に打ち勝つ能力がないことを、神はご存知なの。だから、人々が神の救いを受け入れるとき、神の性質に背いて滅ぼされ、罰せられることがないよう、神は信者に目を光らせるべく、神の国の時代の行政規則を定められたの。この規則を守らない者はみな神に懲罰され、重大な違反をした者は教会から追放され、救いの機会を残らず失うことになるの。神が教会のためにこれらの法令を定められたのは、背きを許さない神の正しき性質について、私たちに本当の知識を得させるためで、私たちが自分自身を律する規則をもてるようにするためでもあるの。こうすれば、私たちのすべての行ないに決して越えてはいけない一線ができて、その内側にいる限り、数あるサタンの誘惑を避けることができるのよ。これは神が私たちをお護りくださる手段でもあり、それ以上に私たちに対する神の真の愛でもあるの!」妻の説く教えを聞いて、私は頷かずにはいられず、そうして心の中のわだかまりが完全に消えるとともに、息詰るような心の痛みから解放されたのです。そしてその後、私はまた教会の集まりに参加するようになりました。

この体験を想い起こすたび、私の心にはまだ多少の恐れが残っています。私は噂の威力を目の当たりにしてもう少しでそれを信じ込み、神による終わりの日の救いの機会を失うところでした。恵みの時代、イスラエルの民も嘘の噂に惑わされ、主イエスを救世主の到来と認めませんでした。彼らは主イエスを拒み、それゆえ主の救いを失いました。そのことは、このような噂が真の信仰の道においてどれほど大きな障害物になり得るかを気づかせてくれたのです。しかし、全能神教会がよい教会であることは明確なのに、なぜ嘘の噂や非難がこれほど多くネット上に溢れているのか、ということまではわかりませんでした。そこで、教会での集まりの際、兄弟姉妹たちと率直に語り合うためにこの疑問を持ち出してみました。すると彼らは「『網』を突き破る」という教会の福音映画を見せてくれましたが、それによって私の混乱は完全に解消されました。そして兄弟姉妹とさらに話しあうことで、私はよりはっきりと理解することができました。噂を使って神の働きを邪魔し、妨害することは、サタンの常套手段だったのです。主イエスが働きをなさっていたとき、ユダヤの祭司長や律法学者やパリサイ人は、神の選民を永遠に自分たちの支配下に置けるよう、主イエスについて嘘の噂を数多くでっち上げました。主イエスが悪魔を祓うのにベルゼブブの力を頼っていると言って冒瀆し、人々に皇帝への税を払わせないようにしたと言って濡れ衣を着せ、主イエスの遺体は彼の弟子たちによって盗まれたのであり、主は復活していないと言って嘘の証しを行ないました。もしその時代にインターネットがあったら、それら宗教指導者は噂や偽りの証しを残らずネットに流して、主イエスを冒瀆し、攻撃し、断罪したことでしょう。神の国の時代である現在、全能神は御言葉の働きをなさって人類を裁き清めていらっしゃいますが、中国政府と宗教界の牧師や長老はサタンの手先となっています。人々を支配して罠にかけるという目標を達成すべく、彼らは全能神を冒瀆、断罪し、みだりに噂や偽りの証しをでっち上げ、全能神教会を誹謗して人々を混乱させ、暗闇の中にとどめています。彼らは傲慢にも、神による終わりの日の救いの働きを人々に捨てさせ、神の拒絶へと導くことができると考えています。サタンとは本当に邪悪で忌まわしいものです!

そして兄弟姉妹は神の御言葉をさらに二節読んでくれました。「地上では、ありとあらゆる悪霊が安息の地を求めて永遠にさまよい、人間の死体をむさぼり食うべく果てしなく探している(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十章」〔『言葉』第1巻〕)。「サタンはいつでも人間がわたしについて心にもつ認識をむさぼっている。そして、つねに牙と爪をむき出して、死闘の最期の苦しみの中にある。あなたがたは、今このときに、サタンの欺きに満ちた策略によって捕らえられたいのか。あなたがたは、わたしの働きの最後の段階が完成する瞬間に、いのちを断たれたいのか(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。彼らはまた、全能神の御言葉は私たちに霊の戦いの真実について教えてくださる、という教えを分かち合ってくれました。人々が神の御前に出ることを阻止して自分たちに取り込むために、サタンはありとあらゆる策略を用いる、というのです。これにはインターネットにおける噂や偽りの証しの流布という欺瞞、宗教指導者に信者への嫌がらせや脅迫をさせること、そして家族を使った威圧や全能神に従うことの阻止などが含まれます。要するに、私たちに神を疑わせ、否定させ、神から離れさせようとするものはみな、サタンに由来するのです。真実を探求することができなければ、サタンの策略を見抜くことは決してできませんし、たやすく神の救いの機会を失い、サタンとともに災いの中へと沈んでいくことになるでしょう。神のお導きのおかげで、私はサタンの邪悪で卑劣な真髄をよりはっきりと見ることができ、全能神教会の福音映画を観て兄弟姉妹の説く教えに耳を傾けることで、サタンの企みを見抜くことができました。

全能神に従うようになってから、私は本当の解放と自由を手に入れました。今は、困難に直面したときはいつでも神の御言葉を読み、実践の道を見つけられるようお助けくださいと神に祈ることができます。教会の兄弟姉妹はみな、神のお求めを守って生き、誠実な人間になろうとしています。彼らの相互関係は複雑ではなく開かれたものです。互いに助け合い、支え合うのです。誰かが私を陥れたり、騙したり、私から盗もうとしたりしているなどと心配する必要もありません。私は心から幸せで満ち足りており、これこそが常に望んでいた人生だと思っています。

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