44. 私は帰ってきました

チュー・キンポウ(マレーシア)

私は十年以上前から主を信じており、二年間教会の仕事をしましたが、その後海外での仕事のためにその教会を辞めました。シンガポールなどさまざまな場所に行き、まずまずの収入を得ましたが、私が生きていた弱肉強食の現代社会では力が正義で、誰もが互いを陥れようと画策し、いたるところに裏切りがありました。ありとあらゆる形をとる複雑な人間関係に直面した私は、いつも他人に対して警戒していました。相手も必ず私に警戒してくるので、私は心の奥底で自分が立つ安定した基盤を見つけられないと感じていました。そしてそうした生活を送るうちに、心身ともに疲れ果てたのです。唯一慰めになったのは持ってきていた日記でした。この日記には聖書の言葉を写していました。折に触れてその言葉を読むと、魂の空虚さが満たされました。教会の集会に行かなくなって何年も経っていましたが、この一年間一つのことだけが頭にありました。主に真剣にお仕えできる教会を探すことです。そこで後日暇な時間を利用して、マレーシアのあちこちの教会に行ってみました。規模の大小は問いませんでした。しかし毎回喜び勇んで駆け込んでは、がっかりして出ていく結果になりました。私はつねに心の中で何かが欠け落ちているように感じていたのですが、それが何か言葉で正確に表現することはできませんでした。こうした葛藤に苦しんだ私は、反対の極端な行動をとりました。ひたすらテレビゲームをしたりインターネットの動画を観たりして、ときには明け方までゲームに興じ映画を次から次へと観つづけたのです。私の睡眠パターンは滅茶苦茶になりました。こうした生活を始めた当初は、主はお喜びにならないだろうと微かに意識していましたが、そうした感覚も徐々に薄れていきました。携帯電話を紛失したのはそうした時期でした。そのとき私はひどく慌てました。携帯電話がなくなったので、大量のデータもそれとともに消失し、さらにはFacebookにログインする手段もなくなったのです。表面的には不運なことでしたが、それがまさか人生の転機になるとは思っていませんでした。古いことわざの「人間万事塞翁が馬」がまさしく現実になったのです。

2017年の初めに、私は新しい携帯電話を買いました。2月下旬のある日、Facebookにログインして何気なく英語で書かれたプロフィールのタイムラインをクリックすると、投稿の中に聖句がありました。聖書からでない引用もありましたが、そうした言葉にとても感銘を受け、気持ちを引き寄せられました。私はその後数日そのFacebookのアカウントに注目して、言葉の意味を調べることまでしました。そしてついに、興味をもった投稿を読み終えたのです。読み終わってはじめて、この投稿が主に、聖書にある次のような主イエスの御言葉を解釈しているのがわかりました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。私はその解釈がとてもユニークで、ひらめきと光に満ちていると思いました。その人物を友達に加えていなかったので、そのタイムラインの投稿をもっと見たいと思っても見られませんでした。ただしそのタイムラインでわかったこともありました。そのFacebookのユーザーは韓国出身でスーザンという名の姉妹だということです。友達リクエストを送りましたが、その時オンラインでなかったのか、すぐには承認されませんでした。その二日後、私は別の中国語を話すクリスチャンをFacebookの友達に加えました。キ・フェイという名のこれも韓国の人です。彼女は自分の信仰体験についてチャットで話してくれました。私はその主張にとても好感をもちました。驚いたことにキ・フェイ姉はスーザン姉とも友人になっていたので、今度はスーザン姉と友達として登録し合いました。二人のFacebookの投稿を読み、時折チャットを交わすうちに、この人たちは神への信仰について多くを理解していると思うようになりました。

しばらく彼女たちと聖書について議論し自分たちの生活について会話をすると、私の悩みに協力して取り組もうとする二人の手法はユニークそのもので、二人の言葉は理知と洞察に満ちていると心から感じるようになりました。私は、二人が他の人々と違うことを直接知ることができたのです。彼女たちとの触れ合いを通じて、自分の心が落ち着き安らかになっていくのが感じられました。そして二人のことをあまり知らなくても、その純真さと誠実さのために、いつの間にか親友だと思いはじめていたのです。私は彼女たちに胸の内をさらけ出したいと思いました。そして徐々に生き方を変えはじめたのです。

出会いから一週間くらいした3月11日の夜、Facebookに入った私はスーザンがオンラインであるのに気づきました。最初彼女と仕事のことを話してから、奉仕する教会を見つけたいという心からの望みについて話して、あなたの意見を聞かせてくださいと言いました。するとスーザン姉は答えました。万物は神によって計画され支配されているので、あなたはもっと神に祈って、この問題について探求しなければなりません。どんなものにも神に定められた時間はあります。だから私たちはみな待って従えるようになる必要があるのです、と。そして多くの教会の現状を話題にあげて、説教師には説教するものがなくなり、一部の教会では集会に人が集まらず、出席者のいる教会でも金儲けや商売のコネ作りなど、信仰とはまったく関係のないことばかりが話されています。こうしたことは実際、教会がもはや聖霊の働きを失い荒廃していることの現れに他ならないのです、と話してくれました。彼女の言ったことにはすべて深く共感できました。以前教会で奉仕していたとき、同僚たちは先を争って名を上げ自分の金儲けをしようとして、互いを陥れようと画策し、互いに中傷し、自分の小さな縄張りでふんぞり返っていました。わいせつ行為におよぶ者までいました。私はこうしたことが次から次へと起こるのを見て、気が滅入り怒りを感じました。それと同時に、牧師と同僚の何人かにこうしたことについてどう考えるべきか尋ねましたが、誰も納得のいく説明はできませんでした。ところが意外や意外、スーザン姉が私を長年いら立たせてきたこのもやもやに決着をつけてくれたのです。私は心の中で言葉で言い尽くせない幸せを感じました。

私たちはまた当時発生していたさまざまな災厄と戦争といった問題も探求し、世界各地で起こっている災厄と戦争が切迫している兆候から、主の再臨に関連する聖書の預言は基本的にすべて成就されており、主は間もなく戻られるだろうと判断しました。そういえば、昼頃にオンラインで話をしていたあるキリスト教信者が、主は1991年に再臨されていると言っていましたが、そのときはあまり本気にしていなかったのです。私はただそのことをスーザン姉に尋ねずにはいられませんでした。逆にそのことをどう思うかと訊かれた私は、こう答えました。「それはありえないですよ。主がお戻りになるときは、間違いなく雲に乗って降臨されるので、すべての者にその御姿が見えるはずです。ところが私たちは主が雲に乗って降臨されるお姿を見ていないのですから、どうして主がすでにお戻りになっていると言えるのでしょう?」

スーザン姉は答えました。「兄弟、あなたは聖書をよく知っていますね。聖書の言葉をじっくり検証すれば、きっと答えが見つかるはずです。実を言うと、主の再臨についてはさまざまな預言があるのです。聖書の預言を調べればわかる通り、預言は主に二通りに分けられます。一つはあなたが今説明したように、主が雲に乗って公然と降臨されて、すべての者がその御姿を見るというものです。別の預言は、主は秘かに降臨し、そのことに気づくのはある集団だけだと述べています。いみじくも主イエスはこうおっしゃっています。『見よ、わたしは盗人のように来る(ヨハネの黙示録 16:15)。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書 25:6)。『盗人のように』と『夜中に……呼ぶ声がした』という表現は、それが静かで動きのないもので、誰にも知られないことを意味します。天から大きな音がとどろいたり、地面が揺れたりはしません。それは万人の目に触れるようなものではないのです。小集団の人々だけが神の声を聞くことができて、主を歓迎できるのです。これが主の秘かな来臨の預言です。もし主が雲に乗って公然と降臨する預言だけに固執して、秘かな来臨の預言を無視するなら、それは正しいと言えるでしょうか?それでは神の御声を聞くことができずに、主を歓迎し天の御国に引き上げられる機会を逸することになるのではないでしょうか?」

私はスーザン姉の質問にどう答えてよいかわかりませんでした。私はこの二つの聖句を繰り返し読んで思いました。「聖書に矛盾なんてありえるだろうか?まさか、絶対にありえない!どうしてそんなことがありえる?それでも現に聖書には、主がどう再臨されるかについて二通りの預言があるのだ。これはどう説明できるのだろう?」頭が混乱した私は、スーザン姉にさらなる説明を求めました。スーザン姉は言いました。「聖書の預言から、主は二通りの方法で再臨されるのがわかりますよね。一つは隠れた来臨で、一つは公然とした現れです。終わりの日に、神はこの世で人の子として受肉されます。受肉された主イエスとまったく同じように、キリストは外面的には普通の一般人のように見えるでしょう。人間らしい感情を持ち、食べ、服を着て、生活し、普通の人とまったく同じように行動されるでしょう。人間の中で暮らされ、誰もそのお方を神と見なさず真のお姿を知らないので、この再臨は私たちの目から隠されると考えられるのです。ひとたびこの人の子が働きを始め御言葉を話しはじめられると、神の御声を聞くことができる者は、人の子の御言葉と働きから神の性質の現れであることを知るでしょう。そして神の権威と力を理解し、主が来臨されたことを悟るのです。そしてそれにより次のような主イエスの預言が実現します。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。神の御声を聞き分けられない者は必ず、受肉された神を外見にもとづいて普通の人として扱います。そして終わりの日のキリストを否定し、拒否し、反抗までして、非難し、冒涜するのです。これは主イエスが働きを行われるために出現なさったときとまったく同じです。外面的には主は普通の一般的な人の子のように見えて、多くの人々に否定や抵抗、非難を受けることになりました。小集団の人々だけが、その御言葉と働きから主イエスが受肉したキリストであり、神の現れであると理解して、主イエスに従い、主の贖いを得たのです」。スーザン姉の説教を聞いて私は深く納得しました。というのも、それはまさしく主イエスが働きを行われたときの出現のされ方で、すべてが事実だったからです。それでも私はもう一度考え直しました。ヨハネの黙示録には、主はお戻りになるとき公然と雲に乗って降臨する、と書かれており、牧師も長老もみなそう言っていたのです。このことを念頭に、私はすぐさまスーザン姉に自信満々で尋ねました。「主イエスご自身が、雲に乗って再臨するだろうとおっしゃっています。それがどうして受肉になるのでしょう?どうして聖書の言葉を否定できるのでしょう?」スーザン姉は答えました。「必要なのはただ、注意深く聖書を調べることです。そうすれば主が受肉して再臨されることをはっきり預言した箇所がたくさん見つかりますよ」。私はその言葉通りに該当する聖句をいくつか見つけて、読みはじめました。「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである(ルカによる福音書 12:40)。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない(ルカによる福音書 17:24–25)

私がこれらの聖句を読み終わると、スーザン姉が言いました。「この預言は『人の子が来る』、『人の子も……同じようであるだろう』と述べています。『人の子』は人間として生まれ、普通の人間らしい感情を持っています。もし主が霊体として現れられたら、人の子と呼ばれるはずはありません。それはヤーウェ神が霊で、人の子と呼ばれないのと同じことです。天使も目撃されていますが、霊的存在なのでこれも人の子とは呼ばれません。人間の姿をしていても霊的存在であるなら、すべて人の子とは呼ばれないのです。受肉された主イエスが人の子ともキリストとも呼ばれるのは、主が神の霊の受肉であり、肉となった霊の現れであるからてす。主は普通の一般人となり、人間の中で暮らしておられました。主イエスは人の子で受肉した神なので、人の子として再臨すると言われたときは、霊的な姿ではなく生身の人の子として再来する、という意味でおっしゃったのです。したがって主イエスが再臨する、と言われたのは、受肉したお姿でお戻りになるということだったのです。また聖書は『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』とも述べています。この言葉もさらに、主が再来するときは受肉の方法を取るだろうということを裏づけています。考えてもみてください。再臨する主が肉体を持たれるのではなく霊体のように見えたら、それほど苦しみを受けられることも、ましてや同時代の人々に捨てられることもないでしょう。神の霊をあえて捨てようとする者がいるでしょうか?誰が神の霊に苦しみを与えることができるでしょう?そう考えると、主が受肉されて再来されるか霊体として出現なさるかは、言うまでもないことなのではないでしょうか?」

私は「人の子」という言葉を読んで驚きました。以前「人の子」に疑問を持って考えたことはありましたが、どうしても答えが見つからなかったのです。スーザン姉の説明は私の疑問を完全に払拭してくれ、私はそれを聞いたとき胸がいっぱいになりました。もう夜も更けていたので、私たちはさよならの挨拶をしてログアウトしました。その夜私は興奮のあまり、かなり遅くまで寝つけませんでした。思うに、こんなに長い間主を信じてきたのに、これほど素晴らしい説教を聞いたことはなかったのです。私は茫然としながらも、言葉にならない心地よいすがすがしさのようなものを感じていました。

翌日の3月12日、私は一種の漠然とした希望と言葉にならない興奮を感じていました。何といってもそれは、前夜にスーザン姉とともに人の子と受肉について話し合ったためです。ただ、人の子と受肉の関連があるという結論が導かれて、理屈では主イエスが受肉したキリストに他ならないと知ったとしても、私はまだ、受肉とは実際どのようなものなのか、キリストとは何か、神が受肉されたと確信をもって言える根拠は何か、といった疑問の答えを知りたいと心から思っていました。ところがスーザン姉も私も昼間は仕事があり、夕方しか時間が取れなかったので、私は時間がもう少し速く流れてくれることを願うしかありませんでした。

ようやく夕方になり、私たちはオンラインでつながりました。ログイン後に、私はまずスーザン姉に受肉について質問しました。彼女は全能神の御言葉を送ってきて、読んでください、と言いました。そこで私は読みはじめました。「受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する(『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である(『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。読み終えて、私はこれらの御言葉が受肉の謎でも、とくにキリストの定義について、かなり明確に説明していると思いました。「受肉した神をキリストと呼ぶ」とは、何と明確で、簡潔で、説得力のある言葉でしょう!私は十年以上主を信じていて、イエスがキリストであると知っていました。それでも主イエスをなぜキリストというのかといった、真理の奥義をまったく理解していなかったのです。その日私はスーザン姉が送ってくれた神の御言葉から、実際には受肉した神がいわゆるキリストで、キリストとは神が受肉されたお方なのだと知りました。私はその御言葉についてじっくり注意深く考えました。そして考えれば考えるほど心が明るくなっていったのです。

それからスーザン姉は、それが全能神の御言葉であると教えてくれました。また、神の御言葉は真理で、神ご自身だけが真理を表現なされるのだとも言いました。スーザン姉が「全能神」という言葉を出したとき、私は少しの間沈黙しました。とはいえ、彼女が全能神教会に属しているのではないかと推測はしていたので、まったくの驚きではありませんでした。また、この教会についてのネット上の噂も知っていました。私はただ自分を、神を畏敬する心をもつべきクリスチャンだと考えていたので、事の真相がわかるまで軽はずみに結論を出したくなかったのです。つまり、言葉によって罪を犯したり神に背いたりしないということです。また私はここ数日間こう考えていました。スーザン姉とはかなり頻繁に話をして、話している顔は見えなくても、彼女が教えてくれた真理で私のもやもやは解消された。議論を交わし彼女のタイムラインの投稿を読むことで、スーザン姉とキ・フェイ姉はいずれも誠実で、心の温かい好人物だという印象をもった。二人と話し合った内容は、私にとっては本当に啓発的でためになった。聖書には、それがどんな木かは果実からわかると書かれている。よい木はよい果実を実らせ、悪い木は悪い果実を実らせるからだ。そうしてスーザン、キ・フェイ両姉妹と関わるうちに、心にあった疑念や危惧が少しずつ薄れてきた私は、スーザン姉にもっと説教をしてくださいと頼みました。

スーザン姉は言いました。「そのお方は受肉した神なので、神による表現を有しておられます。つまり、御言葉を発せられるのです。終わりの日に受肉された神は、もっぱら真理を表して人々を裁き、清め、救うために来臨されました。再来された主の御声を聞いて、それを探求し受け入れられる者はすべて思慮深い処女で、主と祝宴の席につき、このことで主イエスが言われた次のような預言が成就するのです。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。思慮深い処女はこの神の御声を聞くと、花婿を迎えに出ます。彼女たちは知らぬ間に神の御座の前に引き上げられて、主と直に対面し、終わりの日の神の裁きと清めを受け入れました。神の御言葉の裁きにより、彼女たちの堕落した性質は変えられ浄化され、災厄が起こる前に神によって勝利者とされたのです。全能神は秘かに人を救い完全にするために、現在この段階での働きを行っておられます。勝利者の集団ができた時点で、受肉された肉体での神の隠れた働きは完了し、この世を災厄が襲います。そして神は良き者に報い悪しき者を罰しはじめられ、全世界の国々と民族に自らの存在を知らしめられます。その時、ヨハネの黙示録の第1章7節にあるように、主が雲に乗って降臨する預言が実現されるのです。『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう』。主が雲に乗って降臨され、あらゆる人々の前に姿を現されるのを見たとき、人々が喜んで熱狂するのが当然でしょう。ところが聖書は地上の諸族はみな胸を打って嘆くであろうと述べています。なぜでしょう?それは、神が公けに姿を現されるとき、受肉された肉体での救済という隠れた働きはすでに完了していて、神はそれから良き者に報い悪しき者を罰する働きを始められるからです。その時、神の隠れた働きを拒んだ者はすべて救いを得るチャンスを完全に失い、神を刺しとおした者、つまり終わりの日のキリストである全能神に反抗し非難した者は、自分が反抗し非難した全能神が、再臨した主イエスに他ならないことを知るのです。考えてもみてください。そうなったら胸を打って嘆き、歯ぎしりせずにはいられなくなるのではないでしょうか?それが『地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう』という言葉が表す状況なのです」。

スーザン姉の説教を聞くうちに、あの満足感と興奮が蘇ってきました。前の教会にいた頃は、これらの表現の意味をあまり理解せずに、ただ文字通りの意味しか追わずに、主は雲に乗ってお戻りになるので、誰もがそれを知ることになると考えていました。私はその時ようやく、神はまず秘かに降臨されて、人を裁き救う働きの一段階を行われるのだと理解しました。勝利者の集団ができたときはじめて、神は公然と全世界の国々と民族の前に姿を現されるのです。主が再臨されるとき雲に乗って降りてこられるという考えにやみくもに執着して、受肉した肉体で神が行われる隠れた働きを受け入れようとせず、主が公然と雲に乗って降臨されるのを待っていたら、その時は人類を救う神の働きはすでに終わっているので地獄に直行することになるのです。主よ、お導きに感謝します。スーザン姉が交わってくれた短時間で、私はとても多くを理解するようになりました。

その後私はスーザン姉に、全能神を救い主として受け入れたいと思いますか、と訊かれました。最初に尋ねられたとき私は答えませんでした。けれども再度尋ねられたとき、自分の中で言葉にならない感情が爆発して、目頭が熱くなってきました。私は心をこめて答えました。「受け入れたい…です!」そう言ったとき、長い間荒野をさまよってようやく暖かい家に帰ってきた放蕩息子になったような気がしました。心の中に、喜びと安らぎが満ち溢れました。

終わりの日の全能神の働きを受け入れたあと、私はスーザン姉の投稿のいくつかをシェアしました。するとすぐにFacebookの友達の五、六人が「目を覚ませ」というメッセージと、全能神教会への攻撃や非難、中傷ばかりが書かれたサイトのリンクを送ってきました。サタンがぶち壊そうとしているのがわかっていたので、私は一向に気にしませんでした。その翌日、ある牧師がオンラインの私を見つけて少しむだ話をしたあと尋ねてきました。「あなたは本当に全能神を信じているのですか?どうして全能神を信じたいと思うのですか?」私はその言葉に無性に腹が立ったので、逆に質問しました。「神の羊は神の御声を聞き分けます。私は全能神の御言葉から全能神が表されたすべてが真理で、神の御声だとわかりました。それなのにどうして全能神を信じてはいけないのでしょうか?なぜですか?」牧師はおそらく私がそのように訊いてくるとは予想していなかったのでしょう。しばらく沈黙していました。そこで私はまた尋ねました。「牧師さん、終わりの日の全能神の働きについて調べたことはありますか?全能神の御言葉を読んだことはありますか?牧師であるのにどうして探求して調べることを拒んで、ただでたらめな決めつけや非難ができるのでしょう?」驚いたことに、牧師はまともに答えずにお茶を濁すと、いきなりログアウトしました。牧師のうろたえ様を見て、私はえもいわれぬ幸せを感じ、サタンの試練に打ち勝ったかのような満足を覚えました。実をいうと私はただ、スーザン、キ・フェイ両姉妹との議論でよく提起されていた質問のいくつかを流用しただけなのです。全能神の御言葉から理解したことを告げただけなのでした。手ごわそうな牧師が私の質問で立往生するとは予想外でした。このささやかな経験から私はおおいに自信をつけました。神様、ありがとうございます!

それから一瞬のように五カ月以上が経ちました。集会に参加し神の御言葉を読むことによって、私は受肉とは何か、どのような人々が天国に入れそうか、などといった真理の他の側面を理解しました。この時期中ずっと、牧師や長老たちからさまざまな噂を広められて心は穏やかではありませんでした。時にはサタンの計略を見抜けないばかりに、臆したり弱気になったりしましたが、神は決して私を見放しませんでした。姉妹たちが神の御言葉を読み、また真理について辛抱強く説いてくれたおかげで、長老と牧師たちのサタン的な性質や、真理に対する敵意の本質、そして神への抵抗に関する洞察を多少とも得ることができました。また、信じる者が真の道を探求し調べるのを何が何でも阻止しようとする卑劣な動機も見分けられるようになりました。私はもう二度と彼らに惑わされたり操られたりしません。サタンの暗黒の影響力を打ち破って神の御座の前に引き上げられたのは、神の私に対するお恵みとご加護のおかげです。全能神に感謝します!神のもとに戻れることは、ずっと前から神によって予定され計画されていたのです。私は神を頼りにし一点の疑念も抱かずに従います!神の家に入ったとき、私は最初にこの讃美歌を知りました。「神の言葉は真理。読むほどに心は明るくなる。神の言葉は人生の奥義を現わす。突然私は光を見る。私の全ては神から来る。全ては神の恵みによる。キリストに従い真理といのちを追求する。私は人生の正しい道を歩む」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)。そして今、私は教会の兄弟姉妹とともに福音を説き、神の証しをしています。私は自分の務めに打ち込んで、神の愛に報いたいと思っています!

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