神は誰を救うのか。誰を淘汰するのか

2017年11月25日

関連する神の言葉

追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する認識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒であっても、悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、はやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れることに耐えられず、肉の喜びを捨てられないような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔であり、彼らが滅ぼされるのはなおさらである。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、精錬の苦しみを受けても堅く立って耐え抜いた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、受肉した神を認めない者はだれでも、この流れの中にあってもなくても、みな反キリストである。神を信じない反抗者でないならば、サタンや悪魔、神の敵となることなどないはずだ。彼らは神に背く者ではないのか。口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないのか。祝福を受けることだけは追い求めるが、神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたは依然としてこのような悪魔と付き合い、良心と愛を悪魔に向けている。そうであれば、あなたはサタンに善意を示しているのではないか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。依然として善悪を区別できず、神の旨を求めようとすることも、どんな形であれ神の意図を自分のものとして抱けるようになろうとすることもないまま、無闇に愛情深く、慈悲深くあり続けるなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。受肉した神を信じないものはみな神の敵である。敵に対して良心と愛を抱けるなら、あなたは義の良識を欠いていないだろうか。わたしが憎み嫌い、反対するものと相容れて、その上敵に対する愛や個人的な感情を抱いているなら、あなたは不従順ではないのか。あなたは故意に神に逆らっているのではないか。このような人が真理をもっているだろうか。敵に対する良心、悪魔への愛、そしてサタンへの憐れみを抱いているなら、そのような人はみな、故意に神の働きを妨げているのではないか。イエスだけを信じて、終わりの日の肉なる神を信じない人たち、口先では肉となった神を信じると言うが悪を行う人たちはみな、反キリストである。神を信じない人たちが反キリストであるのは言うまでもない。このような人はみな滅ぼされる。人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を手に入れたいと考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違った信じ方をし、ゆえに多くの人は偽ってこれらを用いて恵みを獲得しようとする。後に安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人である。彼らはみな自分の本分を果たしてきた人であり、神に従おうとする人である。仕える機会を利用して真理の実践を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。神は人の言行だけに基づいてそれを決定するのでもなく、一定の期間の行いに基づいて決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行に対して寛大に対処することは決してなく、また、人が神のために一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅びの苦しみから逃れることもできない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるのであれば、祝福を受けるにしろ不運に苦しむにしろ、その人が神に永遠に忠実であり、報いを求めないという意味である。祝福が見えれば神に忠実であり、祝福が見えない時は忠実ではなくなり、結局神のために証しをすることができず、尽くすべきように本分を尽くすこともできないこのような人たちは、かつては神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、邪悪な者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人のみが安息の主人である。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。生かされることができる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を神は救う。生かされることができる人もいれば、そうでない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず、神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、それを実践することができず、いかなる真理を生きることもできず、さらに神の働きを故意に妨げる。彼らは神のためにいかなる働きを行なうこともできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会の資金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々は死人であり、救われない。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いを得られない。神の救いを得られるのはほんの少数だけである。なぜなら、ほとんどの人はあまりに深く堕落して死人となり、救うことができないからである。そのような人は完全にサタンに利用され、本性の中にあまりにも悪意があるからである。先の少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実であった人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっていた人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きゆえに神に従うようになったのであり、神の究極の愛ゆえに神を見ているのであり、神の義である性質ゆえに彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で正常である神の働きゆえに彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、彼らがどれほど善良であろうと、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいることだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが神と協力する覚悟があるということに尽きる。

『神の出現と働き』「あなたは生き返った人か」(『言葉』第1巻)

神による人類の救いは、真理を愛する人の救いであり、その人の意志と決意、および心の中での真理と義に対する切望の救いです。人の決意というのは、義と善と真理に対するその人の切望であり、良心を有しているその人の一部分なのです。神は人のその側面を救い、それを通じて彼らの堕落した性質を変え、それによって彼らが真理を理解して自分のものとし、彼らの堕落が清められ、いのちの性質が変わるようにします。そうしたものがあなたの中になければ、あなたが救われることはあり得ません。真理への愛、あるいは義と光への切望があなたの中になければ、また悪に遭遇するたび、悪しき物事を捨てる意志も、苦しみに耐える決意もなければ、そしてさらに、あなたの良心が麻痺していて、真理を受ける能力が感覚を失っており、あなたが真理や実際の出来事を認識していなければ、また万事において識別力を欠き、自力で物事に対処したり解決したりすることができなければ、救われる術はありません。このような人には何のとりえもなく、働きかける価値があるものも何一つありません。彼らの良心は麻痺し、精神はぼんやりしており、心の奥底で真理を愛しておらず、義を切望することもありません。また神がどれほど明確に、あるいは明瞭に真理を語ろうとも、すでに死んだかのように反応しません。このような人は終わっているのではありませんか。息があれば人工呼吸で救えるでしょうが、すでに死んで魂が去っているなら、人工呼吸は何の役にも立ちません。問題が生じるたびにひるんでそれを避けようとするのであれば、それは証しをしていないことを意味します。ゆえにあなたは決して救われず、完全におしまいです。

『キリストの言葉の記録』の「愚かな者は救われることができない」より引用

神が救うのは、サタンの堕落を経て堕落した性質をもつ人です。彼らは欠点がみじんもない完全な人ではなく、真空状態の中で生きる人でもありません。中には自分の堕落が明らかになったとたん、「私はまた神に抵抗してしまった。何年も神を信じてきたのに、いまだ変わっていない。きっと、神は私をこれ以上望まないだろう」と考える人がいます。これはどのような態度ですか。彼らは自分を諦めてしまい、神はもはや自分を望んでいないと思い込んでいます。これは神についての誤解ではないですか。ここまで消極的だと、サタンはいともたやすくあなたの鎧の割れ目を見つけ、いったんそれが成功すれば、その結末は想像もつきません。したがって、どれほど大きな困難の中にいようと、あるいはどれだけ消極的に感じていようと、決して諦めてはいけません。いのちが成長する過程において、あるいは救われつつあるとき、人は時として誤った道を辿ったり、道に迷ったりします。しばらくいのちの未熟さを露呈し、時には弱って消極的になり、間違ったことを言い、滑って転び、失敗に苦しむこともあります。神の視点から見ればこのようなことはどれも正常であり、神はそれについて騒ぎ立てたりしません。

『キリストの言葉の記録』の「いのちに入るのは神への信仰において最も重要である」より引用

多くの人々は誠実な言動を保つよりもむしろ地獄へ落ちるのを好む。不誠実な人のためにわたしが別の扱いを用意しているのも不思議ではない。もちろん、あなたがたにとって誠実であることがどれだけ難しいかは十分に分かっている。あなたがたは皆、とても賢く、自身のつまらない物差しで人々を測ることに非常に長けているので、わたしの働きは、ごく単純なものとなる。あなたがたはそれぞれに秘密を胸に抱えている。だからこそわたしはあなたがたを一人ずつ惨事に遭わせ、火をもって「教え」を受けさせる。そうすると、その後あなたがたはわたしの言葉を完全に信じられるようになる。そして最後には、あなたがたに「神は誠実だ」と言わせ、そのときあなたがたは「人間の心はよこしまだ」と感情を爆発させ、嘆き悲しむことになる。そうなれば、あなたがたはどんな精神状態になっているだろうか。おそらく、今のように勝ち誇っていないだろう。ましてや今のように「深遠かつ難解」でもない。神の面前ではとりすまして真面目にする者もいて、何とか「行儀よく」しようとするが、霊の面前では牙をむき、爪を振りかざしている。そういった人を誠実とみなすだろうか。あなたが偽善者で、「対人関係」を心得ているなら、あなたは間違いなく神をぞんざいに扱おうとしている人であるとわたしは言う。あなたの言葉が言い訳や取るに足らない弁明ばかりなら、あなたは真理を実践したがらない人であるとわたしは言う。共有するのを躊躇するような秘密を数多く持っているなら、自分の秘密、つまり自分自身の困難を光の道を求めるために他者の前に明かすのがどうしても嫌だというなら、あなたは簡単には救いを得られない人であり、暗闇から簡単には脱せない人であるとわたしは言う。真理の道を求めることで喜びを感じるのであれば、あなたは常に光の中で暮らす人である。神の家において効力者であることに心から満足し、誰に知られずとも熱心かつ誠実に働き、常に与え、何も得ようとしないのであれば、あなたは誠実な聖徒であるとわたしは言う。なぜなら、見返りを求めずに、ただ誠実であるからである。あなたが正直であろうとするなら、自らをすべて費やそうとするなら、神のために命を捧げて固い証しを立てられるなら、自身のことばかりを考えたり顧みたりせずに、神を満足させることしか知らないほどに誠実であるなら、このような人は光の中で育まれ、神の国で永遠に暮らすことができるとわたしは言う。真の信仰と真の忠誠心があなたの中にあるかどうか、神のために苦しんだ経験があるかどうか、そして神に完全に従ってきたかどうかを、あなたは知っているはずである。それらに欠けるのであれば、あなたの中には従順ではない心、偽り、欲、不満が残っている。心が誠実とはかけ離れているために、神から肯定的に認められたことがなく、光の中で暮らしたこともない。人の運命の結末は、誠実で血の通った心を持っているかどうか、純粋な魂を持っているかどうかにかかっている。極めて不誠実で、邪悪な心を持ち、汚れた魂を持っている人は、その人の運命に刻まれているとおりに、罰せられるところに最後は必ずたどり着く。

『神の出現と働き』「三つの訓戒」(『言葉』第1巻)

兄弟姉妹のうち消極性をいつも発散している人は、サタンの僕であり、教会を乱す。そのような人は、いつか追放され、淘汰されなければならない。神への信仰において、人間に神を敬い畏れる心と神に従順な心がなければ、神のために働くことができないだけでなく、反対に神の働きを阻害し、神に反抗する者となる。神を信じながら、神に従うことも神を敬い畏れることもせず、代わりに神に反抗することは、信者にとって最大の恥辱である。信者の言動が常に未信者と同じく粗略で節操がなければ、そのような信者は未信者にも増して邪悪であり、典型的な悪魔である。教会内で毒々しい邪悪な言葉を放ち、兄弟姉妹の間で噂を広め、不和を助長し、派閥を組む者たちは、教会から追放されるべきであった。しかし、現在は神の働きの別の時代であるため、そのような人は制限を受ける。なぜなら、彼らは確実に淘汰されるからである。サタンにより堕落させられた者はみな性質が堕落している。性質が堕落しているだけの人がいる一方で、そうではない人もいる。そのような人は堕落した性質をもっているだけでなく、本性もまた悪意を極めているのである。彼らの言動が堕落したサタン的性質を示すのみならず、彼ら自身が真の悪魔サタンである。彼らのふるまいは神の働きを妨害し、混乱させ、兄弟姉妹のいのちへの入りを阻害し、正常な教会生活を破壊する。彼らのような羊の皮を被った狼は、遅かれ早かれ一掃されなければならない。こうしたサタンの僕に対しては、手厳しい態度、拒絶の態度で臨む必要がある。そのようにすることだけが神に味方することであり、そのようにできない人は、サタンとともに泥の中で転げ回っているのである。

『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」(『言葉』第1巻)

どの教会にも、教会に迷惑をかけ、神の働きの邪魔をする人がいる。こうした人はみな変装して神の家に潜入したサタンである。彼らは演技に優れている。目的を果たすために、畏敬の念をもってわたしの前に来て、うやうやしく頭を下げ、みすぼらしい犬のように振る舞い、自分の「すべて」を捧げる。しかし、兄弟姉妹の前では醜悪な素性を露わにする。真理を実践している人を見ると攻撃して排除し、自分たちよりも手ごわい人にはお世辞を言って機嫌を取り、教会では大胆に振る舞う。この種の「土地の顔役」や「愛玩犬」は、殆どの教会にいると言える。彼らは一緒にこそこそと歩き回り、目配せや秘密の合図を送り合う。彼らの中に真理を実践する者はいない。毒を一番多く持つ者が「悪魔の頭」であり、最も威信のある者が他を従え、一味の旗を高く掲げる。彼らは教会内を荒らし回り、消極性を広め、死をもたらし、好き放題行ない、好き勝手にものを言う。誰にも彼らを止める勇気はない。彼らはサタンの性質に満ちあふれている。彼らが妨害し始めるとすぐに、教会に死の空気が入る。教会内で真理を実践する人は見捨てられ、すべてを捧げられなくなるが、教会を妨害し死を広める者は教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人が彼らに従う。こうした教会は明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が王である。教会の会衆が立ち上がって悪魔の頭を追放しなければ、会衆もまた遅かれ早かれ破滅する。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者がそうしようとしていないならば、その教会は追放される。ある教会に真理を実践することをいとわない人や神に証しを立てられる人がいないなら、その教会は完全に切り離されるべきで、他の教会との関係は断絶されなければならない。これは死を葬ると呼ばれ、これがサタンを追い払うということである。ある教会に土地の顔役が数名いて、彼らが識見にまったく欠けた「小ばえ」を従えており、その教会の会衆が真理を理解してなお、それら顔役の呪縛と操作を拒否できないならば、そうした愚か者はみな最終的に淘汰される。小ばえは何ら劣悪な事をしていないかもしれないが、ことさら狡猾でずる賢く捉え難いので、みな淘汰されるのである。ひとり残らず消し去られる。サタンに属す者はサタンへと戻されるが、神に属す人は確実に真理を探し求める。これは人の本性によって決められることである。サタンに従う人はみな滅べ。彼らに憐れみがかけられることはない。真理を探し求める人には施しを得させ、心ゆくまで神の言葉を堪能させよ。神は義であり、誰もひいきすることなどない。あなたが悪魔であれば、真理を実践できない。真理を探し求める人であれば、サタンの虜にならないことは確実である。それについて疑いの余地はない。

『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」(『言葉』第1巻)

神を真に信じる人は、進んで神の言葉を実践し、進んで真理を実践する人である。本当に神への証しを立てられる人はまた、進んで神の言葉を実践し、本当に真理の味方となれる人でもある。はかりごとや不正を行う人はみな真理を欠いており、神に恥辱をもたらす。教会内で紛争を起こす人はサタンの僕であり、サタンの化身である。このような人はあまりにも悪意に満ちている。識見がなく、真理に味方できない人はみな邪悪な意図を抱き、真理を汚す。さらに、彼らは典型的なサタンの代表者である。彼らに贖いは及ばず、当然ながら淘汰される。神の家は、真理を実践しない人や、意図的に教会を崩壊させる人が残ることを許さない。しかし、今は追放の働きを行う時ではない。こうした人たちは最終的には暴かれ、淘汰されるのみである。彼らにこれ以上無意味な働きが行われることはない。サタンに属する者は真理に味方できないが、真理を探し求める人にはそれができる。真理を実践しない人は、真理の道を聞く価値も、真理の証しに立つ価値もない。真理は彼らが聞くものでは決してなく、むしろ真理を実践する者に向けられている。各人の結末が明かされるのに先立ち、教会を混乱させ、神の働きを妨害する者がまず脇によけられ、後に取り扱われる。ひとたび働きが完了すると、彼らはそれぞれ暴かれてから淘汰される。真理が施されている間、彼らはしばらく無視される。人間にすべての真理が明かされる時、彼らは必ずや淘汰される。それはあらゆる人が種類により分別される時である。識見のない者は自身の卑劣なたくらみのせいで、邪悪な者の手により滅ぼされ、惑わされて二度と戻ることがない。彼らにそのような扱いが相応しいのは、彼らが真理を愛さず、真理の味方になることができず、邪悪な者に付き従い、邪悪な者の味方となり、結託して神に反抗するからである。彼らは、邪悪な者が放つのは邪悪さであると完全に熟知しているが、心を頑なにして真理に背を向け、邪悪な者に付き従う。真理を実践せずに破壊的で忌まわしいことをするこのような人はみな邪悪な行為を行っているのではないか。彼らの中には自らを「王」のように装う者と、それに追随する者がいるが、両者の神に反逆する性質は同じではないのか。神は自分たちを救わないという彼らの主張をどのように弁明できるというのか。神は義でないという彼らの主張をどのように弁明できるというのか。彼らを滅ぼすのは彼ら自身の邪悪さではないのか。彼らを地獄へ引きずり落とすのは、彼ら自身の反逆ではないのか。真理を実践する人は、最後に真理のために救われ完全にされる。真理を実践しない人は、最後に真理のために滅びを自分自身にもたらす。これらが、真理を実践する人としない人を待ち受ける最後である。

『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」(『言葉』第1巻)

彼らがどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠誠は変わることがない。しかし、心の中に神が存在しない者たちは、神の働きが自分の肉に有利でないならば、神に対する見解を変え、神から去ることさえある。最後に確固として立つことができない者、神の祝福を求めるだけで、神のために尽くし、神に自らを捧げる意欲が一切無い者はこのようである。このような下劣な人々は、神の働きが終わりを迎える時に全員追放され、同情に値しない者たちである。人間性が欠如している者は、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏な時、あるいは彼らが利益を得られる時は、彼らは神に対して完全に従順であるが、一旦自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らは直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らは、にこやかで「心優しい」人間から、醜く残忍な死刑執行人となり、何の根拠も無く、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬きもせずに殺しを行うこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは隠れた危険になるのではなかろうか。人間を救う働きは、征服の働きが完成した後には実現しない。征服の働きが終わったとしても、人間を清める働きは終わっていない。そうした働きは、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、自分の心に神がいない見せかけだけの者たちが取り除かれたとき初めて完了する。神の働きの最終段階において神を満足させない者たちは完全に排除されるのであり、排除される者たちは悪魔のものである。彼らは神を満足させることができず、神に対して反抗するので、たとえこれらの人々が現在神に従っても、それは彼らが最後に残る者であることを証明することはない。「神に最後まで従う者は救われる」という言葉の中の「従う」の意味とは、苦難の中でもしっかり立つことである。現在、多くの者たちが、神に付き従うのは容易であると思っているが、神の働きが今にも終わろうとしている時こそ、あなたは「従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に従うことができるということだけでは、あなたが完全にされる者たちの一人であることは証明されない。試練に耐えることも、患難のただ中で勝利することもできない者たちは、最終的に、揺るぎなく立つことができず、最後まで神に従うことができないであろう。本当に神に従う者たちは、自分の働きへの試みに耐えることができるが、真に神に従っていない者は、神のいかなる試練にも耐えることができない。遅かれ早かれ、彼らは追放されるが、勝利者は神の国に留まるであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その人の働きに対する試み、すなわち神の試練により判断されるのであり、それはその人自身の判断とは無関係である。神は誰かを気まぐれに拒むことはない。神が行う全てのことは人間を完全に確信させることができる。神は、人間に見えない事や、人間を確信させることができない働きを一つも行わない。人間の信仰が真実であるかどうかは、事実により証明されるのであり、人間が決めることはできない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事もできない」ということは疑いの余地が無い。神を真に愛する者たちはみな最終的に神の国に留まり、神は神を真に愛する者を不公平に扱うことはないであろう。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

あなたがたの追求が効果的だったかどうかは、現在何を持っているかでわかる。そしてそれによりあなたがたの結末が判断される。つまり、結末は払ってきた犠牲と行なってきた物事に明らかにされるのである。結末は、追求、信仰、何をしてきたかによってわかる。あなたがたの間には、すでに救いようのない者が多くいる。現在は人の結末を明らかにする日であり、わたしがぼんやりと働きを行うことはないからである。わたしは完全に救いようのない者を、次の時代に導き入れることはない。やがてわたしの働きが終わる時が来るが、まったく救うことのできない、霊のない腐臭のする屍に働きかけることはない。今は人の救いにおける終わりの日であり、わたしは役に立たない働きは行わない。天と地を罵るのはやめなさい。世界の終わりは近づいている。それは避けることができない。事ここに至り、人間にそれを止める方法はない。あなたが物事を好きなように変えることはできないのである。昨日あなたは真理を追求するための代価を払わず、忠実ではなかった。そして時が至った今日、あなたは救いようがない。そして明日、あなたは排除される。あなたを救う余地などない。わたしの心は柔和で、わたしはあなたを救うためにできるだけのことをしているが、あなたが自分のために努力し、考えないなら、それはわたしに何の関係があるというのか。自分の肉のことしか考えず安楽を喜ぶ者、信じているように見えても本当は信じていない者、邪悪な医術や魔術に手を染めている者、淫らでぼろぼろでみすぼらしい者、ヤーウェへの生贄や神が所有するものを盗む者、賄賂を愛する者、何もせずただ天国へ昇ることを夢見る者、傲慢でうぬぼれて個人的な名声や富のためにしか努力しない者、尊大な言葉を広める者、神自身を冒涜する者、神自身を批判し中傷してばかりいる者、党派を組んで独立しようとする者、自分を神以上に崇める者、放蕩に耽る軽薄な若者や中年や高齢の男女、人のもとで個人的な富や名声を楽しみ個人的な地位を求める男女、罪に囚われて悔い改めない者、これらはすべて救いようのない者ではないのか。放蕩、罪深さ、邪悪な医術、魔術、冒涜、尊大な言葉はすべて、あなたがたの間にはびこっている。真理といのちの言葉はあなたがたの只中で踏みにじられ、聖なる言葉はあなたがたの間で汚されている。汚れと不従順で膨れ上がった異邦人たちよ! あなたがたの最終的な結末はどうなるのか。肉を愛し、肉の魔術にふけり、放蕩の罪に陥っている者が、どうして図々しくも生き続けようというのか。あなたがたのような人は救いようのないうじ虫だということを知らないのか。一体何の資格があって、あれやこれやと要求するのか。今日に至るまで、真理を愛さず肉だけを愛する者にはほんのわずかな変化も起こっていない。そのような者がどうして救われようか。いのちの道を愛さず、神を崇めて証しせず、自分自身の地位のために策略を巡らせ、自分を褒めそやす者は現在も同じままではないのか。彼らを救うことに何の価値があるというのか。救われるかどうかは、どれほど年長であるかや、何年間働いてきたかによって決まるものではなく、ましてやどれほどの経歴を積み重ねてきたかによって決まるものでもない。そうではなく、追求が実を結んだかどうかによるのである。救われる者は実を結ぶ「木」であり、葉が青々と茂り花を豊かに咲かせてはいても、実をつけない木ではない、ということを知りなさい。何年も街中をぶらついてきたからといって、何の意味があろうか。あなたの証しはどこにあるのか。あなたの神への畏敬の念は、自己愛や好色な欲望よりもはるかに小さい。このような人は堕落者ではないのか。そのような人が、どうして救いの見本、模範となれるというのか。あなたの本性は矯正のしようがなく、あなたはあまりに反逆的で救いようがない。そのような人は排除されるのではないのか。わたしの働きが終わるのは、あなたの終わりの日が到来するときではないのか。わたしはあなたがたのもとで多くの働きを行い、多くの言葉を語ってきたが、そのうちのどれほどが本当にあなたがたの耳に入ったのか。そのうちのどれほどに従ってきたのか。わたしの働きが終わるときは、あなたがわたしに対抗しなくなるときであり、わたしに立ち向かわなくなるときである。わたしが働いていても、あなたがたは常にわたしに逆らい、決してわたしの言葉に従わない。わたしはわたしの働きを行うが、あなたはあなたの「働き」をして、自分の小さな国を作り上げている。あなたがたは狐や犬の群れでしかなく、すべてをわたしに反抗して行なっている。そしていつも、自分を一心に愛してくれる者を自分の腕の中に引き入れようとしている。あなたがたの畏敬の念はどこにあるのか。あなたがたのすることはすべてが欺瞞である。従順も畏敬もなく、することはみな欺瞞と冒涜に満ちている。そのような人が救われることができるのか。性的にふしだらで好色な男はいつも、自分の楽しみのためにいやらしい淫らな女を惹きつけたがっている。わたしは絶対にそのような性的にふしだらな霊を救わない。わたしはあなたがたのような汚れた霊を憎み、あなたがたはその好色さといやらしさのため地獄に落ちる。何か言うことがあるか。あなたがたのような汚れた霊や悪霊は本当に不快で、気分が悪くなる。このようなくだらない者が、どうして救われることができようか。いまだに罪に陥っている者が、まだ救われることができるのか。今日、この真理、この道、このいのちはあなたがたを惹きつけない。その反面、あなたがたは罪深さや金や地位や名声や利益に、肉の楽しみに、男の格好良さや女の魅惑に惹きつけられている。あなたがたはどんな資格があって、わたしの国に入れるというのか。あなたがたの姿は神の姿より偉大で、地位は神の地位よりも高く、人々の間での威信は言うに及ばず、あなたがたは人に崇められる偶像となっている。大天使になったのではないのか。人の結末が明らかにされるときは、救いの働きが終わりに近づくときでもあり、あなたがたの多くは救いのない屍となっており、排除されなければならない。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

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