神の民とは何か。効力者とは何か。

2021年3月19日

関連する神の言葉

「五人の賢いおとめ」とは、わたしが造った人間の中の、わたしの子らと民を表している。彼らが「おとめ」と呼ばれるのは、地上に生まれはしたものの、わたしによって得られるからである。彼らは聖いと呼ばれることもあるため、「おとめ」と呼ばれる。前述の「五人」とは、わたしが予め定めた子らと民の数を表している。「五人の愚かなおとめ」とは効力者を指している。彼らはいのちを全く重視せずにわたしに奉仕し、外的なものばかりを追い求め(彼らにはわたしの資質がないため、彼らのすることはすべて外的なのだ)、わたしの有能な助け手となることができないので、「愚かなおとめ」と呼ばれるのだ。前述の「五人」とはサタンを表しており、彼らが「おとめ」と呼ばれるという事実は、彼らがわたしに征服されており、わたしに奉仕できることを意味しているが、そのような人間は聖くはないので、効力者と呼ばれるのである。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百十六章」(『言葉』第1巻)

そういうわけで、新しい取り組み方が出てくる。すなわち、わたしの言葉を目にし、まさに自分のいのちとして受け入れる人はすべてわたしの国にいることになり、わたしの国にいるので、わたしの国の民となる。このような人はわたしの言葉による導きを受け入れるので、わたしの民と呼ばれるが、この呼び名はわたしの「子」と呼ばれることに劣るわけではない。わたしの民にされれば、人はみなわたしの国においてこの上ない献身をもって仕え、わたしの国において本分を果たさなければならない。わたしの行政命令を破る人は誰であれ、わたしの罰を受けなければならない。これはすべての人に向けたわたしの忠告である。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第一章」(『言葉』第1巻)

いのちに注意を払い、霊の交わりに気を配り、神の言葉を渇望し、真理を追求するのは、神の前で静まっている人だけである。神の前で静まることに一切注意を払わず、神の前で静まることを実践しない者はみな、完全に世に執着し、いのちをもたない見かけだけの人である。このような人たちが神を信じると言っても、それはただ口先だけのことである。最終的に神が完全にし、完成させる者たちとは、神の前で静まることができる人である。したがって、神の前で静まる人は、大いなる祝福の恵みを受けている人である。日頃神の言葉を飲み食いする時間を少ししか取らない人、外部の出来事にすっかり心を奪われている人、いのちの入りに注意を払わない人はみな、将来成長する見込みのない偽善者である。神の前で静まることができ、真に神と交わることができる者たちこそ神の民である。

『神の出現と働き』「神の前で心を静めることについて」(『言葉』第1巻)

今、ほとんどの人々(長子を除くすべての人々を意味する)がこの状態にある。わたしはこれらのことを非常にはっきりと言うが、これらの人々は、まったく反応がなく、いまだに肉の快楽を求めている──彼らは食べては眠り、眠っては食べ、わたしの言葉を熟考することはない。たとえ彼らが活力を得ても、それはしばらくの間続くだけで、その後はまた前と同じままで、彼らはあたかもわたしの言葉をぜんぜん聞いていないかのように、まったく変わらないのである。彼らは、重荷を負わない典型的な無能な人間である──最も明らかな居候である。後で、わたしは彼らを一人ずつ見捨てる。心配しなくてもよい。わたしは彼らを一人ずつ底なしの穴に戻す。聖霊はこのような人間に働きを行ったことがなく、彼らが行う一切のことは、彼らが受け取った賜物から生じる。わたしがこの賜物について話すとき、これはいのちのない者、つまり、わたしの効力者を意味している。わたしは彼らのうちの誰も要らない。そして、わたしは彼らを排除する(しかし、今はまだ彼らは少しは有用である)。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百二章」(『言葉』第1巻)

では、これら効力者の役割は何ですか。それは神の選民に奉仕することです。大半の場合、効力者の役割は神の働きに奉仕し、それと協調し、神が選民を完全なものにするのを助けることです。……効力者の身分は奉仕する人ですが、神にとっては自ら造った万物のひとつに過ぎず、単にその人の役割が効力者であるというだけです。効力者と神の選民はいずれも神の創造物ですが、両者の間に何らかの違いはありますか。事実上、違いはありません。名目上は違いがあり、その本質、そしてその人が果たす役割において違いがあるのですが、神はこの人々の集団を不公平に扱いません。それでは、これらの人々が効力者に定められているのはなぜですか。それについて、あなたがたは理解しなければいけません。効力者は未信者から生じます。効力者は未信者から生じると話したとたん、効力者はよくない背景をもっていることが明らかになります。彼らはみな無神論者であり、過去においてもそうでした。彼らは神を信じず、神、真理、そして肯定的なすべての物事に敵意を抱いていました。神を信じることも、神の存在を信じることもなかったのです。それならば、効力者は神の言葉を理解できますか。大まかに言えば、理解できないと言って構いません。動物が人間の言葉を理解できないように、効力者は神が何を言っているのか、何を求めているのか、なぜそのような要求をするのかが理解できないのです。これらのことは効力者にとって理解不能であり、依然として啓かれていないままです。そのため、これらの人たちはこれまで語ってきたいのちをもっていません。いのちなくして、人は真理を理解できますか。真理を備えていますか。神の言葉に関する経験や認識がありますか。(ありません。)これが効力者の由来です。しかし、神はこうした人々を効力者とするので、神の効力者に対する要求にはやはり基準があります。神は効力者を無下にすることも、いい加減に扱うこともありません。効力者は神の言葉を理解できず、いのちがないにもかかわらず、神は依然として効力者を親切に扱い、また効力者に対する神の要求には基準があります。その基準は先ほど話したとおりです。つまり、神に忠実であること、神の言葉に従うことです。奉仕を行うにあたっては、必要とされる場所で奉仕しなくてはならず、最後まで奉仕しなければなりません。あなたが忠実な効力者になって最後の最後まで奉仕することができ、また神から託された使命を果たせるなら、あなたは価値のある人生を送ります。価値ある人生を送れるなら、あなたは留まることができます。それに加えてもう少し努力し、懸命に試み、神を知ろうとする取り組みを強化し、神を知ることについて多少は語ることができ、神の証しをすることが可能で、さらには神の旨について何かしら理解し、神の働きに協力でき、神の旨を多少なりとも心に留めることができるなら、効力者であるあなたは運命の変化を経験するでしょう。では、その運命の変化とは何ですか。単に留まれるだけではなくなるのです。あなたの行動、そして個人的な熱意と追求に応じ、神はあなたを選民の一人にします。これがあなたの運命の変化です。効力者にとって、この変化による最大の利益は何ですか。それは、神の選民になれるということです。……これはよいことではありませんか。これはまたよき知らせでもあります。それは、効力者が形作られることを意味するのです。奉仕するよう神によって定められた効力者が、永遠にそうし続けるということはありません。必ずしもそうではないのです。神はその人の行いに適した形で、彼らを扱い、彼らに対処します。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

説教と交わりの参考箇所

神の民とは何ですか。神の民である人は皆、神の国の時代に留まり、生き残ることができる人々です。神様の働きを経験し、真理を得た人々です。新たないのちをもつ人々です。神の民は神様についての真の認識を持っており、真理を実践することができ、多くの試練、精錬、患難、災いを経て最後には完全にされます。神様の働きを経験することで完全にされる人々です。神の民である人には皆三つの特徴があります。第一に、彼らには神様を畏れる心があります。これが肝心なことです。第二に、比較的良き人間性があり、評判が良く、ほとんどの人に良く思われています。第三に、自らの本分を忠実に尽くします。これら三つの特徴がある人は誰もが神の民の一人です。神の民にとっては、自らの素質がどれほど高いかはどうでもいいことです。彼らは少なくとも一般的な素質があり、一般的な真理を理解することができますが、肝心なことは、神様を畏れる心と良い人間性があることです。どこに配置されても、どのような本分を尽くすよう命じられても、とても頼りになります。彼らには裏表がありません。二枚舌ではなく、表向きは賛成しながらひそかに反対したりはしません。どちらかといえば正直で信頼ができます。他人に信頼を抱かせるのです。このような人は皆、なかなか良い人間性を持ち、とても正直です。彼らが神の国の時代の神の民なのです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

効力者は真理を自らのいのちそのものとして得ていません。神様に奉仕を行うだけです。神様への誠実な心があり、信仰もあり、比較的良い人間性もありますが、真理をさほど好んでいません。神様に尽くすことにおいては自らの熱心さに頼り、どんな苦労も厭いません。最後までついて行き、神様から決して離れません。忠実な効力者である人々が最後に残るのはこのためです。……ではなぜ効力者と言われるのでしょうか。それは真理を求めないからです。真理を求める人は、その堕落が露呈される時や、敗北する時もありますが、ひとたび刈り込まれて取り扱われたり、失敗や挫折を経験したり、神様の家から追放されたりすると、こう悟ります。「真理がない者は実に情けない。熱意に頼る者はしっかり立つことができない。真理を実践できなければ、真理を理解しなければ、決して基準に達するように本分を尽くすことはできない。これは効力者ではないか。私は効力者ではいられない。神様の御心をお慰めして神様の愛に報いるためにも、真理を求めなくてはならず、基準に達するように本分を努めなくてはならない」。その人は目を覚まして、真理を求めるようになり、最終的にはある程度の真理を真に体得し、神様を畏れる心を真にもつようになります。ではこのような人は未だに効力者ですか。その人は神の民に属します。なぜなら、ある程度の真理を自分のものにしており、神様を畏れる心、神様を愛する心があるからです。その人は不従順で反抗的になっても、すぐにそれを自覚して神に告白して変ります。このような人が真理を自らのいのちとして得た人です。

神の民と効力者の間に大きな違いはありますか。違いはそれほど大きくも明白でもありませんが、両者は本質的に異なります。効力者は神様をあまり畏れず、せいぜい「神を怒らせてはならない。神を怒らせたら罰せられる」と言うだけです。そんな小さなことが神への真の畏れとみなせるでしょうか。神を真に畏れる心のある人は、自分が神の怒らせるかどうかを考慮するだけでなく、真理に背いているかどうか、神の御言葉に背いているかどうか、何かをすることは神に不従順であるか、それは神の御心を傷つけることがあるかどうか、どうすれば神にご満足頂けるかも考慮します。その人はこれらの側面の全てを考慮します。これが神を畏れる心があるということです。神を畏れる心のある人は、真理を実践するとともに、少なくとも悪を避け、神に反抗する行いを慎むことができます。その人はこの最低基準を超えることができます。これが神を畏れる心があることです。神を畏れる心があることと、神を少し恐れる心があることには違いがあります。神を畏れる心のある人がある程度の真理を真に理解し、神の御言葉をある程度実践することができるならば、この人は間違いなくいのちを自分のものにしています。真理を自らのいのちとする人は神の民に属します。効力者は真理を自らのいのちとしてもっていません。真理を好まず、あるのは神様への信仰だけです。さらに、その人には少なくとも熱意と平均的な人間性があります。神様のために尽くす意志があります。たとえ家庭での困難がどれほどあっても、どんな状況や試練に直面しても、その人は神に奉仕をすることに固執し、最後まで退くことなく献身的です。これらが残る人々、忠実な効力者なのです。最後まで奉仕しないもいます。彼らは自分が祝福を得ることはないと聞くと奉仕をすぐにやめるのです。奉仕がうまくできない効力者には、誰にも自分を取り扱わせない人がいます。誰かに取り扱われるとすぐに「私はもう奉仕はしない。家に帰る」と言います。例えば、逮捕されるなどの深刻な状況に直面して怖気づいて退却する効力者もいます。奉仕の過程で、「我が家はどうして暮らしていくのだ。私は戻って金を稼がねばならない。夫(或いは妻)と子供の面倒を見ねばならない」と未だに家族の生活を心配する人もいます。そうした人は手をすきにかけて後ろを見ており、神様への忠誠心が欠けています。このような効力者は基準に達していないため、皆淘汰されます。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

過去には神の民を全く理解しない人が大勢いました。神の民とは一体何でしょうか。全能神を受け入れた私たちは神の民であるというのは真実ではないのでしょうか。全能神の名を受け入れたときに神の民のひとりとなるわけではありません。そのためには、完全にされるためのプロセスがあり、そこには基準があるのです。その基準とは何でしょうか。それは自分の本分を基準どおりに果たすということであり、そうして初めて神の民のひとりとなるのです。本分においてこの基準を満たしていない人は神の民ではありません。神の民ではないのです。正確に言うと、そういう人は効力者です。この訓練期間にその人はそう呼ばれます。真理を未だに得ていない人は効力者と呼ばれるのです。真理を得て物事を原則に従って対処できるなら、その人はいのちを得たということです。真理をいのちとして得た者は、真に神の民です。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

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