なぜ教会は宗教に退化し得るのか。
関連する神の言葉
神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。…しかし、新たな働きを受け入れない人々には、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外にいるので、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな働きにおける要求ではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、その上、神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の働きの過去における要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選ばれた者たちでも神の働きの対象でもない。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者には聖霊の新たな働きが無い。そうした者の為すことには宗教の匂いがあり、そうした者が行動で示している事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の臨在と働きが無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。これらの人々は、全員いのちの無い屍であり、霊の無い蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の働きや神の現在における心など知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。
『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)
人々が真理を信仰の中で順守すべき教義として扱うならば、彼らは宗教的儀式に陥りやすくなりますか。そして、この種の宗教的儀式を順守することと、キリスト教の信仰との違いは何ですか。古い教えと新しい教えとの間には違いがあり、語られることもより深遠で進歩的かもしれませんが、教えが一種の理論に過ぎず、単に儀式の一形態、人々にとっての教義の一形態にしかならないのであれば、そして同様に、そこから真理を得たり真理の現実に入ったりできないとすれば、そのような人々の信仰はキリスト教とまったく同じではないのですか。本質的に、これがキリスト教ではないのですか。それでは、振る舞いや本分を尽くすことに関して、あなたたちは何においてキリスト教の信者と同じ、あるいは類似した見方をしていますか。表面的なよい行ないを追い求め、霊的な外見を用いて自己を装うことに最大限の力を尽くす。霊的な人の真似をする。口にすること、行なうこと、明らかにすることにおいて霊的な見せかけを作り出す。人々の観念や想像において賞賛に値するいくつかの物事を行なう。これらはすべて偽の霊性を追い求めることであり、偽善です。高いところに立って言葉や道理を述べ、よい行ないをし、よい人になり、真理を追い求めることに集中するよう人々に説いても、自分自身の振る舞いや本分を尽くすことにおいて、あなたたちは真理を探し求めたことがなく、真理の原則によって行動したことがなく、真理において何が語られているか、神の心は何なのか、神が人間に求める基準は何なのかを理解したことがなく、これらのどれも真剣に受け止めたことがないのです。何らかの問題に遭遇すると、自分自身の意志にだけ従って行動し、神を脇に追いやります。これらの外面的な行ないと内面的な状態は、神を畏れ悪を避けることですか。信仰と真理の追求に何のつながりもなければ、何年神を信じようと、心から神を畏れ悪を避けることはできません。それでは、そうした人々はどのような道を歩くことができますか。彼らは何を身につけて日々を過ごしているのですか。言葉や道理ではないのですか。彼らは自分をパリサイ人のようにするため、神に仕えているとされる人々のようにするため、自らを武装し、言葉や道理で自分を飾りながら日々を過ごしているのではないのですか。これらすべての行動は一体何なのですか。彼らは動作を淡々と済ませているに過ぎません。信仰の旗を振り、宗教的な儀式を行ないながら、祝福されるという目的を達成するために神を騙そうと試みているのです。彼らはまったく神を崇めていません。結局、こうした人々は教会堂の中で神に仕え、神を信じ神に従うとされる人々のようになってしまうのではありませんか。
『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より
ヤーウェを信じた人々を神は何と名付けますか。ユダヤ教です。彼らは一種の宗教団体となったのです。神はイエスを信じる人々をどのように定義しますか。彼らはキリスト教という宗教団体の一部として定義されます。そうですね? 神の観点からは、ユダヤ教とキリスト教は宗教団体です。なぜ神はこのように定義するのですか。神によって定義されたこれらの宗教団体の全構成員の中に、神を畏れ悪を避ける人、神の心を行なう人、神の道に従う人はいますか。(いません。)神の観点からは、名目上は神に従う人はみな、神の信者として神が認める人々であり得ますか。彼らはみな神とのつながりを持ち得ますか。神の救いの対象であり得ますか。(あり得ません。)あなたたちは今では終わりの日の神の働きを受け入れていますが、神が宗教団体とみなすものにあなたたちが成り果てる日が来ますか。それはあり得ないことのように思えます。神の目に宗教団体と映るものの一部になれば、あなたたちは神に救われず、それはつまりあなたたちが神の家の人でないことを意味します。それではまとめてみましょう。名目上は真の神を信じながら、神からは宗教団体の一部であるとみなされる人々は、どの道を歩きますか。これらの人々は決して神の道に従うことも神を崇めることもなく、その代わりに神を見捨て、信仰の旗を振る道を歩くと言うことができますか。つまり、神を信じながらサタンを崇め、自分自身の経営を行ない、自分達の王国を打ち立てようと試みる道を歩く。これがその本質ですか。このような人々は、人間を救う神の経営計画と何らかのつながりを持っていますか。(持っていません。)どれほど多くの人々が神を信じようと、その信仰がなんらかの宗教または団体であると神によって定義された瞬間、彼らは決して救われないと神は決めたのです。私はなぜこう言うのでしょうか。神の働きと導きを持たず、神をまったく崇めない人々の群れや集まりにおいて、人は誰を崇めますか。誰に従いますか。彼らは心の中で神を認めていますが、実際には人間による操作と支配の対象です。名目上はおそらく人に従いますが、本質的にはサタン、悪魔に従います。神に敵対的な勢力、神の敵に従うのです。神がこのような人々の群れを救うことがあり得ますか。彼らは悔い改めることができるでしょうか。人間の事業を実行し、自らの経営を行ないつつ、信仰の旗を振り、人類を救うための神の経営計画に背くのです。彼らの最終的な結末は神に憎まれ、拒絶されることです。神は到底これらの人々を救うはずがなく、彼らは悔い改めるはずがなく、すでにサタンに捕らわれています。彼らは完全にサタンの手の中にあるのです。…神の道をたどることができず、完全な救いの道を歩くことができなければ、最終的な結末はどうなりますか。それはキリスト教やユダヤ教を信じる人々と同じになります。そこに違いはありません。これが神の義なる性質です!いくつ説教を聞いたといえども、またいくつ真理を理解したといえども、最終的にやはり人に従いサタンに従うのであれば、最終的にやはり神の道をたどることができず、神を畏れ悪を避けることができないのであれば、このような人は神によって憎まれ、拒絶されます。外から見る限り、神に憎まれ、拒絶されるこれらの人々は字句や教義について多くのことを語れますが、それでも神を崇めることができません。神を畏れ悪を避けることができず、完全に神に服従することができないのです。神の観点では、彼らを宗教、単なる人間の集団、そしてサタンのねぐらと神は定義します。彼らはひとまとめにサタンの群れと呼ばれ、神に大いに嫌悪されます。
『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より
説教と交わりの参考箇所
「神様に従うこと」について話すとき、それは何を意味しますか。神様の働きを経験して真理を受け入れることを意味します。真理を受け入れず神様の働きを経験しないなら、神様の裁きと刑罰を経験していないのであり、それは神様に従わないことを意味します。神様に従わないのに神様を信じる人のことを何と呼びますか。宗教の信者と呼びます。それは宗教界で神様を信じる人たちの信仰ではありませんか。その人たちは天の神様を信じるだけで、神様に従わず、神様の働きを体験せず、聖書に、いわゆる聖典にしがみつくだけです。毎日、彼らは聖句の一節を読み、宗教的なやり方で祈りますが、それで終わりです。自分自身のいのちや生き方とは関係ありません。彼らはすべきことを何でもするだけです。それは宗教的な信仰として知られるものです。彼らは神様の新しい働きを受け入れず、神様の働きを経験しません。ゆえに、彼らの信仰は自分の霊の空虚さを埋め、自分の苦しむ心を満足させ、何らかの支えを探すためだけに存在しているのです。そうした信仰の持ち主は神様について鳴り響くような美しい証しをすることができますか。間違いなくできません。神様のために自分を費やすこと、代価を支払うこと、神様に服従すること、そしていのちに集中しないからです。そのため彼らは証しをしません。だから迫害されるたび、断固として対抗できる人は彼らの中にほとんどいません。自分の命が危険にさらされたとき、彼らは一人残らず神様を裏切ります。あなたがたの中にはこれに反論して、「恵みの時代と律法の時代、多くの殉教者がいたのではないですか」と言う人がいるでしょう。それは間違っていません。それらの殉教者には聖霊の働きがあり、各々の時代において神様に従う者でもありました。彼らの信仰は宗教的な信仰ではありませんでした。律法の時代に神様の働きを経験した人は、律法の時代に神様に従った人たちでした。恵みの時代に神様の働きを経験した人は、恵みの時代に神様に従った人たちでした。神の国の時代において、終わりの日における神様の働きを経験する私たちもまた神様に従う者です。しかし終わりの日の受肉した神様が自ら働きをなさる一方、いまだ恵みの時代や律法の時代にいる信者たちは、終わりの日における神様の働きを受け入れることも、終わりの日のキリストに従うこともないので、彼らの神様への信仰は宗教的な信仰へと変わってしまったのです。
『いのちに入ることに関する交わりと説教(11)』の「真理を追い求めることの意義と重要性について(再)」より
はじめに、宗教界がどのように形成されるかと、教会と宗教の違いを理解しなければなりません。これらの問題をはっきりさせるのはとても必要なことです。聖書を読むと、神様の働きの各段階において、神様の選民は神様が自ら立て、指名なさった人によって率いられ、牧されたことがわかります。例えば律法の時代には、神様はモーセを直接お使いになってイスラエルの民を導かれるとともに、モーセに祭司制度を組織させました。モーセの働きが終わったあと、神様に直接指名されてイスラエルの民を導く人は地上にもはやおらず、祭司は民に選ばれるようになりました。これがユダヤの宗教界が生まれた背景です。そのとき以来、ユダヤ教の祭司制度は宗教界から人を選ぶことで形成されてきました。間違った祭司が選ばれたために宗教界が徐々に堕落することもごく頻繁にありました。受肉した主イエスが恵みの時代に出現して働きをなさったとき、宗教界はキリストに抵抗して断罪し、神の敵になるほど落ちぶれていました。これは当時の誰もが目撃した事実です。贖いの働きをなさるべく地上へおいでになったとき、主イエスは十二人の弟子を自らお選びになりました。聖霊もそのときに働きを始められ、主イエスの弟子とともにおられました。当時、主イエスの働きを受け入れた地上の人々の集まりは教会と呼ばれ、彼らは神様に指名された人、言い換えれば聖霊に用いられている人に完全に牧されていました。そのとき真の教会が生まれ、それが教会の由来です。主イエスの復活と昇天から三十年以上が経ったころ、十二人の弟子の大半は信仰のために死んでおり、地上の教会を牧するのはもはや主イエスに直接指名された弟子ではありませんでした。かくして様々な種類の宗教団体が形成されました。これが恵みの時代に宗教界が生まれた背景です。その後、人に聖霊の働きがあるかどうかにかかわらず、聖書について語れさえすれば教会を組織できるようになりました。ある人が才能に恵まれている限り、人々は賛同して従いました。彼らは誰にも制約されることなく、自分の好きなように働いたり説教したりすることができました。こうして様々な教派が生まれるようになりました。教会とは何ですか。宗教とは何ですか。聖霊に用いられている人に率いられ、牧されている集団が教会である一方、聖霊に用いられていない人が率い、牧する集団が宗教であると言えるでしょう。これが最も単純にして真実な区別です。真の教会には聖霊の働きがあります。聖霊の働きが宗教に現われることは滅多になく、もし現われたとしても、真に神様を信じ真理を追い求める少数の人にしか現われません。これが教会と宗教の違いです。教会にとっては、羊飼いが聖霊の働きを受けているかどうか、聖霊によって用いられているかどうかが鍵を握っています。その羊飼いが真理を追い求める人で正しい道を歩いていれば、聖霊の働きはそこにあります。羊飼いが真理を追い求める人でなくパリサイ人の道を歩いていれば、聖霊の働きはそこにありません。本物の羊飼いと偽の羊飼いを見分けることができる限り、真の教会を見つけることができます。
兄弟の交わりより
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