全能神への信仰は主イエスへの裏切りなのか
終わりの日のキリスト、全能神が出現し、働きと真理の発表を始めて丸30年。『言葉は肉において現れる』を発表し、数百万語の言葉はすべてネットで公開され、稲妻のように東方から西方へひらめき、全世界を揺るがしています。真理を愛する各教派の人々が、全能神の言葉はすべて真理で、聖霊が諸教会に語っているのだと理解し、神の声を聞いて熱心に全能神を受け入れ、神の玉座の前に上げられて子羊の婚宴に出ています。神の現在の言葉を日々飲み食いし、生ける水の糧を享受しているのです。心がますます明るくなり、多くの真理を学んだ彼らは、神自身の導きと牧養を受け、神の裁きを経て堕落した性質が清められて変化し、美しい終着点を得ています。災害に先立ち神によって勝利者にされ、最初の果実となり、神の承認と祝福を得ました。今、雨上がりの新芽のごとく、全能神教会が世界各国で設立されており、神の選民が神の国の福音を広めるためにすべてを捧げ、全能神の名を証ししています。各国、各宗教、各教派のますます多くの人が、神による終わりの日の働きを受け入れており、この御国(みくに)の福音は怒濤の勢いで広まっていますが、それは聖書の預言を実現しています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき」(イザヤ書 2:2)。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)。しかし、多くの信者が全能神の言葉を読んで納得し、すべて真理だと認めているにもかかわらず、全能神が普通の人の外見で、雲に乗った主イエスでないといって、受け入れようとしません。聖書の字句にこだわり、という聖句を取り上げ、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル人への手紙 13:8)主イエスの名は決して変わらないと言っています。全能神はイエスと呼ばれておらず、聖書にも「全能神」の名がないというので、受け入れないのです。つまり、全能神を受け入れ、その言葉ばかり読んで聖書を読まず、主イエスの名で祈らなければ、主イエスへの明らかな裏切りだと。長年主を信じ、多くの恵みを享受したのだから、裏切るわけにはいかない。これが彼らの論法で、全能神の信者を、主イエスを裏切った者として断罪しています。つまり背教者だと。そのため多くの人が真の道を調べず、全能神の言葉は真理で神の声だと認めながら、依然受け入れようとしません。結果として、災害に陥った状態で生きています。悲しく愚かで、無知ではありませんか。聖書の別の一節の通りです。「愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(箴言 10:21)。「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」(ホセア書 4:6)。では、全能神を受け入れるのは主イエスへの裏切りなのか? これについて交わりましょう。
全能神を受け入れるのは主イエスへの裏切りだと、多くの人が考えています。どうこの問題に取り組むべきでしょう? 名前が違うという事実には頼れません。一つの霊かどうか、同じ神が働いているのかどうかを確かめる必要があります。律法の時代に働いたのはヤーウェ神で、恵みの時代は主イエスでした。神の名が変わったこと、ヤーウェでなくイエスと呼ばれるようになったことがわかります。しかし、主イエスはヤーウェと違う神だと言えるでしょうか? 主イエスを信じるのはヤーウェ神への裏切りだと言えるでしょうか? 絶対に言えません。ですがユダヤ教徒の大半は主イエスを受け入れず、それはヤーウェへの裏切りだと言って主の磔刑に手を貸しさえしました。なぜでしょう? それは、主イエスが肉において現われ、働きを行なう、ヤーウェ神の霊だと認識していなかったからです。名前は違っても、主イエスとヤーウェは1つの霊、1つの神です。聖書に素晴らしい話があります。主イエスに対するピリポの言葉です。「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(ヨハネによる福音書 14:8)。イエスはこう答えます。「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」(ヨハネによる福音書 14:9-10)。主イエスの言葉は極めて明快です。主とヤーウェは1つの神、主の霊はヤーウェの霊でした。主イエスはヤーウェ神、唯一の真の神の現われです。ゆえに、主イエスを信じるのはヤーウェ神への裏切りでなく、ヤーウェに従っているのです。これは神の旨とも一致します。信仰で1つの名前、聖書の字句に固執し、霊とその働きを理解しなければ、道に迷って神に逆らうことになります。するとたやすく神を裏切ることになり、その結末は想像もつきません。主イエスが現われ働いたとき、ユダヤ教徒は彼を拒みました。ヤーウェ神への裏切りではないでしょうか? 彼らの行動の本質は裏切りで、ゆえにイスラエル人は神に呪われました。また、主イエスの出現と働きのずっと以前、聖書でこう預言されました。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイによる福音書 1:23)。しかし到来した主はインマヌエルでなくイエスと呼ばれました。ユダヤ教のパリサイ人は聖書の字句にあくまで固執し、神の新しい名と一致していないからと、全力で主を拒み、断罪しました。主イエスの教えに権威と力がどれほどあろうと、受け入れようとせず、最後は主を十字架にかけ、大罪を犯して神に呪われ、懲罰されました。これはよく考えるべき教訓です。主のお迎えについて、あくまで聖書の字句と、イエスの名に固執すべきでしょうか? いともたやすく神に逆らい、断罪することにならないでしょうか? 多くの信者はこれを洞察できていません。なので聖書の字句とイエスの名にこだわり、真の道を求めるときもこう言います。「全能神の名は、聖書に根拠があるのか? 聖書に記されていなければ、全能神など受け入れない」全能神の名が聖書にない限り受け入れないと言うなら、旧約聖書に名が記されていない主イエスをなぜ信じるのですか? 矛盾していませんか? 明らかに、多くの人が聖書を真に理解しておらず、字句や規則にやたらとしがみついています。祈ることも、神の言葉に真理を求めることも、聖霊から確かめることもなく、最後は破滅を招きます。事実、終わりの日の神の出現と働きに関する聖書の預言があり、そこに全能神の名が出てきます。「もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたはヤーウェの口が定められる新しい名をもってとなえられる」(イザヤ書 62:2)。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」(ヨハネの黙示録 3:12)。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」(ヨハネの黙示録 1:8)。「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します」(ヨハネの黙示録 11:17)。「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる』」(ヨハネの黙示録 19:6)。黙示録4章8節や16章7節などもご覧ください。神が終わりの日に新しい名、「全能者」つまり全能神と名乗ることを、これらの聖句は預言しました。終わりの日、全能神の名で現われて働くのを、神ははるか昔に予定したのです。全能神を受け入れる人はみな主の声を聞いて、全能神こそ主イエスの再臨だと認識し、主をお迎えして玉座の前に上げられ、子羊の婚宴に出ています。真の信者、正しい信仰を持つ者であり、ようやく主を迎え、そして得ました。主をお迎えできない者は信仰を失い、主を失います。主イエスの名に固執する者は、主が来られてもその声に気づけません。全能神こそ出現して働く主イエスの霊だと気づけず、主の再臨を受け入れることなく、気づけぬまま主を信じています。これは主への抵抗で、彼らはまさしく主イエスを裏切っているのです。主イエスへの裏切りとは何でしょう? それは主に気づくことなく信じることです。はっきりしましたか?
では、神の名が変わり続け、時代ごとに新たな名を名乗るのはなぜでしょう? そこには真理の奥義があります。これに光を当てる全能神の言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。……だから『神は常に新しく、決して古くない』という言葉は神の働きを指しているのであり、また『神は不変である』という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。
神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか」(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)。
「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を有し、英知に満ちた神である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲に満ち、人を贖う罪の捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営計画の働きの一部分しか表せない。……イエスの名前は、恵みの時代の人々が生き返り、救われるために生じたのであり、全人類の贖いのための特別な名前である。ゆえに、イエスという名前は贖いの働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下で生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、および働きの各段階において、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的な意義がある。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に贖われたすべての人々の神の名前である。人がいまだ、終わりの日に救い主イエスが到来することを待ち望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することを依然として期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代で止まり、それ以上進展することはできなかったはずだ。そのうえ、終わりの日は決して到来せず、時代に終止符が打たれることもないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしがイエスと名乗ったのは、ただ恵みの時代におけるすべての罪人のためだが、わたしが人類全体を終らせるのはこの名によってではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしそのもののすべてを明確に示すことはできない。それらは単に、それぞれの時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれない。力ある全能神自身と呼ばれ、この名前の下で時代全体を終らせる。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである」(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)。
神が各時代の働きに用いる名と、御名にまつわる真理の奥義を、全能神の言葉は明快に説明しています。神は時代と、行なう働きに沿って名を変え、それぞれの名はその時代に行なう働きを表わします。しかし神の名や働きがどう変わろうと、その本質は決して変わらず、神は永遠に神です。律法の時代、神はヤーウェの名で働き、律法を発して人類の地上での生活を導き、罪とは何か、ヤーウェ神をどう崇めるべきかを教えました。恵みの時代、神の霊は人の子として肉をまとい、イエスの名のもと、真理を表わし贖いの働きを行ないました。最後は十字架にかけられ人類の罪の捧げ物となり、人の罪を贖いました。終わりの日の今、神は再び受肉し、全能神の名で終わりの日の裁きの働きを行ない、人類を裁いて清める真理を表わし、人を完全に罪から、そしてサタンの勢力から救い、暗く邪悪な古い世界を終わらせ、人を美しい終着点に導こうとしています。人類を救う神の6,000年にわたる経営計画は、このようにして完全に成就します。神の働きからわかるのは、ヤーウェ、イエス、全能神という3つの名があり、それぞれが人類を救う神の3段階の働きを表わすことです。神の名と働きが変わっているように見えても、神の本質は変わりません。神の性質、神が所有するものと神そのものは決して変わらないのです。神はずっと唯一の神であり、人類を贖い、完全に清めて救います。旧約の律法の時代におけるヤーウェ神の言葉、恵みの時代における主イエスの言葉、そして神の国の時代における全能神の言葉を見れば、それらの真理はどれも1つの霊に由来し、同じ霊の発言だとわかります。神がどの時代に言葉を発しようと、そのすべてに神の愛と義なる性質があるからです。そこには神が所有するものと神そのものがあります。神の愛、性質、神が所有するものと神そのものは唯一の真なる神の本質、唯一の真なる神が所有するものとそれそのものを成しています。恵みの時代、主イエスの話を聞くことは、ヤーウェ神の声を聞くのと同じことでした。全能神の言葉を聞くと、あたかも主イエスが、ヤーウェ神が直接語りかけているかのようです。これはまさに、神の3段階の働きが唯一の神によってなされる証拠です。神の名は変わりますが、神の本質、神が所有するものと神そのもの、神が表わす義なる性質は一切変わりません。今日の全能神の働きはどれも主イエスの働きに続くものです。贖いの働きを土台に、より深く高尚な働き、人類を完全に清めて救う働きを行なう段階です。全能神は真理を豊富に表わし、聖書の奥義だけでなく、人類を救う神の6,000年にわたる経営計画の奥義を残らず明かしました。神の経営計画の目的、3段階の働きで人類を救う方法、受肉の奥義、人を裁いて清め、完全に救う方法、各種の人の結末と終着点の決め方、キリストの国が地上でどう実現するかなどです。神はサタンによる人の堕落の真相も明かし、神に逆らうサタン的本性を裁いて暴きます。また、人類が実践すべき真理の各側面を説明し、堕落を捨てて性質を変える実践的な道を示します。全能神が表わす真理はどれも、人が清められ、完全な救いを得るのに必要な真理であり、主イエスの預言を完全に成就させます。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。全能神による終わりの日の裁きの働きは、人類を完全に清めて救い、救いを予定されたすべての人を神の前に導き、裁きと刑罰で清めます。災害に先立ち、神はすでに勝利者の一団を作りました。大災害が始まった今、神は善に報いて悪を罰し、神に逆らうサタンの同類を残らず滅ぼしますが、神の裁きで清められた人は災害の中で神に守られ、生き延びます。災害のあとはキリストの国が地上に現われ、黙示録の預言を成就します。「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録 11:15)。「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる」(ヨハネの黙示録 19:6)。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録 21:3-4)。全能神は多数の真理を表わし、かくも偉大な働きを成し遂げました。肉をまとった神の霊で、人の子として出現し、働きを行なう証拠です。それはイエスと呼ばれず、ユダヤ人である主イエスの姿ではありません。しかし全能神の霊は主イエスの霊。全能神こそ主イエスの再臨です。全能神、主イエス、ヤーウェはすべて1つの神なのです。これを正しく理解すれば、全能神を信じるのは主イエスへの裏切りだと言い張ることはできません。全能神をお迎えするのは主をお迎えし、子羊の足跡に従って神の前に上げられることだからです。宗教界の多くの人は、いまだ聖書の字句や主イエスの名に固執し、雲に乗った主の降臨を待ち、全能神による終わりの日の働きを求めて調べようとしません。全能神がどれほど真理を表わそうと、それらが神の霊に由来し、主イエスの霊が現われ働いていると認めようとせず、真理をもたらす全能神を断罪し、拒みさえします。パリサイ人と同じ間違いを犯しているのではないでしょうか? これぞ主イエスへの献身だと彼らは考えますが、主はこう言われたとおり、不法を働く者と断罪します。主イエスは言われました。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書 7:22-23)。ゆえに、主は彼らを淘汰します。
最後に全能神の言葉をさらに見ましょう。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。
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