神はなぜ終わりの日に裁きの働きをするのか
現在、ウイルスの感染が広がり、災難はひどくなるばかり。地震や飢饉、戦争も起こっていて、すべての信者が、救い主、主イエスの降臨を待ちわび、天に引き上げられ主と対面し、災難を逃れられることを切望しています。しかし何年待っても、救い主、主イエスはいまだ雲に乗って現れておらず、空に引き上げられ、主と対面した人もおらず、多くの人を失望させています。そして驚いたことに、主イエスを迎える代わりに、主は全能神として再来し、真理を表し、裁きの働きを行っていると繰り返し証しをする東方閃電の姿を目の当たりにしています。この証しは、大きな注目を集めました。しかし、共産党による弾圧と、宗教界の反キリストたちによる中傷と冒とくにより、人々は真の道を調べることを止めてしまいました。予想外だったのが、それからわずか数年後に、かくも見下されていた人の子が、非常に多くの真理を表し、より多くの人が神の声を聞くようになり、その全員が全能神に従ったことです。これは宗教界ばかりか、全世界を震かんさせました。「言葉は肉において現れる」は、真の光のように、東から西へと輝き、全世界を照らしました。真理を愛し、神の顕現を望む人は、光のもとにやってきて、神の声を聞き、小羊の婚宴に出席しています。この事実は皆を驚かせました。「一体どんな人物で、どこからきたのか?なぜこれほど力強い働きができるのか?」と。多くの人がこう尋ねました。「東方閃電は本当に神の働きなのか?」「全能神の言葉は、人類に語り掛ける創造主の声なのか?」と。でも彼らは、「主が再来したなら、真っ先に信者を引き上げ主と対面させるはず。信者を災難に陥れ、裁きの働きを行うために言葉を表すなどということは決してしない。ありえない」と考えます。現在多くの人が、全能神教会の動画や讃美歌、証しを記録した動画を視聴し、何よりも、全能神の言葉を読んでいます。その内容は実に豊かで、カナンの地での生活は本当にすばらしい経験です。この事実を知り、人は認めざるをえません。このような働きができるのは聖霊だけだと。神の顕現と働きなしに、誰もこのような偉大なことは成しえないと。そして多くの信者がこんな疑問を抱き始めています。なぜ神は終わりの日の裁きの働きをするのか?すでに人は罪を赦され、神に義とされたのに、なぜ裁きと刑罰を経験しなければならないのか?終わりの日の神の裁きは不信心者を標的にすべきなのに、なぜ裁きは神の家から始まるのか?一体どういうことだ?と。これが今日の交わりのテーマです。
でも交わりを始める前に、この点を明らかにしましょう。終わりの日に神が人の子として受肉し裁きの働きをすることは、遥か昔から神に決められていたことです。人の観念やその他の障壁に関わらず、終わりの日の裁きの働きは、人の意思で変えることはできず、いかなる国や勢力も止めることはできません。こう尋ねる人もいます。裁きの働きの根拠は聖書に示されているのか?と。もちろん、確固たる根拠が聖書にあります。「裁き」という言葉は少なくとも200回以上記され、主イエス自身も預言しています。終わりの日に受肉した人の子として再来し、真理を表し裁きの働きをすると。主イエスの預言をいくつか見てみましょう。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。……そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(ヨハネによる福音書 5:22、27)。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。ペテロ第一の手紙第4章17節にもあります。「さばきが神の家から始められる時がきた」。これらの言葉はとても明確です。「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」、「さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」、「さばきが神の家から始められる」、「あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」。つまり、主が終わりの日に主が受肉し、真理を表し、神の家から裁きの働きを行うということです。議論の余地はありません。現在、全能神はかくも多くの真理を表し、神の家から裁きの働きを始めています。神の玉座の前に来たすべての人を裁き、清め、神の選民をすべての真理に導くために。また、災難の前に神は勝利者の一団を作りました。つまり、先ほどの預言は完全に成就し、現実となったのです。
こう尋ねる人もいます。「信者の罪は赦されたはず。なぜ終わりの日の神の裁きと刑罰を受け入れるべきなのか?」と。この真理の奥義は全能神が明らかにしています。全能神の言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。……人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである」(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の言葉はとても明快です。主イエスが恵みの時代に行ったのは贖いの働きでした。主を信じ、罪を告白して悔い改めれば、人の罪は赦されます。律法を破ったとして断罪され、死に処されることもなく、主の豊かな恵みを享受することができます。しかし罪を赦されれば、聖くなるのでしょうか?罪を赦されることは、神への真の服従と同じでしょうか?違います。はっきりしているのは、信者は昼に罪を犯しては、夜にその罪を告白するという、悪循環を生きていること。意図せず罪を犯しては、主に祈ります。「本当に辛いです。なぜ罪の束縛から逃げられないのでしょうか?」と。世俗的なしがらみを逃れ、主のために自分を費やし、主を愛し、人を愛したいのに、自分の行動をコントロールできず、常に嘘をついてしまう問題すら、解決できません。なぜなのでしょうか?それは、人が堕落した性質と罪深い本性をもっており、これが罪の根源だからです。罪の根源を解決しない限り、自分を律しようとしても、つい罪を犯してしまいます。中には誠実に主のために自分を費やし、苦しみ、代償を払い、恨み言も言わず耐える人もいますが、彼らは心の底から神に服従していますか?神を愛していますか?多くの人がこの点を理解していません。祝福を受け、天国に入り、報いを得るため、人は多くの善行を行えます。でもその善行に混ざっている汚れとは何でしょうか?善行が下心に汚されてはいませんか?災難が来た時、引き上げられるどころか災難に放り込まれたら、神に恨み言を言うでしょうか?神を責め、否定するでしょうか?神の働きが人の観念に一致している時は、神に感謝し、神を称えますが、神の働きが人の観念や求めと一致していなければ、神を非難し、断罪するでしょうか?主は、主の名において教えを宣べ、悪を追いだす者にこう言いました。「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイによる福音書 7:23)。彼らは観念を膨らませ、主に抵抗し断罪するでしょうか?主イエスがユダヤ人の人の子の姿で現れ、教会で真理を表したとしたら宗教界で、主を否定し、主から離れる人はどのくらいいるでしょう?主イエスの真理を受け入れ、主こそが唯一のまことの神だという人はどのくらいいるでしょうか?主イエスを神ではなく人だとして断罪する人はどれくらいいるでしょうか?これについて考えることは、大事なことです。ユダヤ教のパリサイ人は何世代にもわたり神を信じ、罪のいけにえを捧げていた。ヤーウェ神が受肉して主イエスとなった時、なぜパリサイ人はそれがヤーウェ神の顕現だとわからなかったのでしょう?なぜ主イエスが真理を表した時、主を断罪したのでしょう?なぜ主イエスは十字架に貼り付けられたのでしょう?この問題の本質は何でしょうか。なぜパリサイ人は代々神を信じてきたにも関わらず、神を認識できず、神に抵抗し、断罪したのでしょう?私たちは自分たちの目で、神が受肉し、終わりの日に働き、かくも多くの真理を表しているのを見ています。ではなぜ宗教界ではこれほど多くの人が、全能神に抵抗し、断罪し、冒とくすらするのでしょうか?もしも主イエスの再来が、ユダヤの人の子の姿で、宗教界において真理を表したなら、教会から追い出され、断罪され死に処されるでしょうか?その可能性はあります。全能神も主イエスと同じく真理を表していて、2人とも正常な人の子です。宗教界は全能神に激しく抵抗していますが、主イエスが人の子の姿だったら、もっと寛容だったでしょうか?宗教界はなぜいまだに、神ではなく人を信じているといって、全能神の信者を非難するのでしょう?彼らが主イエスの時代に生まれていたなら、主イエスの信者を、神ではなく人を信じているといって非難するのでしょうか?この問題の本質は一体何なのでしょう?この原因は、人間がサタン的本性をもち、堕落した性質を生きていることです。神に抵抗し神を断罪するのも不思議ではありません。多くの人がこれを理解せず、一度罪が赦されれば、神により罪人とみなされず、聖い存在になれる、一度罪が赦されれば、善行を通して神の承認を得られると考えていますが、これは大きな誤りです。パリサイ人が主イエスに抵抗し断罪したことからもはっきりわかるように、人はサタン的本性と堕落した性質をもちます。そのため何年神を信じようとも、どれほど聖書を理解しようとも、どの時代に生まれようとも、人は皆真理を嫌い、神に抵抗し、神を断罪し、神を憎むのです。その理由ひとつとっても、終わりの日の神の裁きの働きは必要です。人は、サタン的本性をもつので、神の裁きと刑罰を受け入れねばならず、裁きと刑罰がなければ、堕落した人類は、常に罪を犯し、神に抵抗し続け、神にふさわしくなることも、服従することもできず、天国に入る資格を得られません。神の性質が義であることは皆が理解していますが、サタンにより深く堕落させられた人の恐ろしい状態や、人がどれほど神に抵抗するか、そして真理を表す人の子をどれほど嫌悪するか、言い換えれば、どれほど真理を嫌悪するかについては、誰もわかっていません。だからこそ、終わりの日の神の裁きの働きについて多くの観念や疑念をもつのです。誰もが、罪を赦されれば聖くなれると考えています。神により罪人とみなされないのだから人は聖く、神の救いの働きは成し遂げられたから、神はもう裁きの働きを行う必要はない。主イエスが再来したら、人は天国に引き上げられ、一度天国に入れば、永遠に神に従い、神を崇め続けるられると思っています。これは馬鹿げた話ではありませんか?地上で神を信じ、神の恵みを享受しているのに、それでも神を非難し、断罪している人が、天国では神に従い、神を崇めるなどありえるでしょうか。ありえません。神はこう言っています。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)。これは真理であり、天国の決まりです。なぜ神が終わりの日に裁きの働きをするか、理解できたでしょうか。神は人を完全に救い、清め、人の堕落した性質を変え、人を罪やサタンの勢力から完全に救うために来ました。全能神は人を清め救うために必要なすべての真理を表し、神の家から始まる裁きの働きをしています。神の選民の多くが神の裁きと清めを経験し、神の義と聖さを心から称えています。彼らは人がサタンによりどれほど深く堕落させられていて、どんな罪を犯し、どれほど神に抵抗するかを理解しました。自分自身を真に理解し、自分の堕落の醜さを目の当たりにしました。神の裁きを経験せずに堕落した性質を生きれば、神に抵抗し、神を裏切り、悪魔として生き、地獄に送られて神の懲罰を受けることになる。神の前で生きる資格などないと感じています自分に対する深い後悔と嫌悪感を抱き、真に悔い改め、変化するのです。神の裁きと刑罰を経験して初めて、神の裁きの働きは人に対する偉大な救いであり、偉大な愛だと理解します。
多くの人が終わりの日の神の裁きの働きの意味を理解せず、主イエスが贖いの働きを終わらせた時に、人は完全に救われ、人を救う神の働きは成し遂げられたと思っています。でもそれは大きな間違いです!全能神の言葉が明確に示しています。全能神は言われます。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。
終わりの日の全能神の裁きの働きは、恵みの時代を終わらせ、同時に王国の時代を始めました。終わりの日の裁きの1つの側面は、人を完全に清め救い、罪とサタンの勢力から逃れさせ、完全に神のものとすることです。もう1つの側面は、人の種別を暴露し、その種別に基づいて分類し、神に抵抗する悪の勢力を破滅させ、この闇に満ちた邪悪な古い時代を終わらせることです。これが終わりの日の神の裁きの働きの意義です。全能神の別の言葉を読んでみましょう。「時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである」(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)。終わりの日、神は真理をもって裁きの働きを行い、真理と神に対する人の態度の種別を暴露します。真理を愛し、神への愛を追い求める人は、神に救われ、完全にされます。神の声を聞き、その玉座に立ち返り、神の言葉を飲み食いし、神の裁き、試練、精錬を経験し、最終的に罪の束縛と抑圧から解放され、堕落した性質を変化させ、神に完全にされることで、勝利者、つまり最初の果実となります。しかし神に抵抗する人は、神に捨てられ、淘汰されます。頑なに聖書の語句にしがみつき、全能神に必死で抵抗しながら、主が雲に乗って現れるのを待つだけ。そのせいで引き上げの機会を逃し、大災難に陥り、涙を流します。他にも、祝福だけを求め、災難を逃れるためだけに全能神を受け入れる人もいます。口では神を信じると言いながら、その本性は真理を嫌い、神を信じながらも真理を実践せず、神の裁きと刑罰を受け入れることを拒み、その堕落した性質が変わることはありません。彼らは神の家にまぎれ込んだ不信心者、悪人です。一人残らず暴露され、淘汰されます。このように、終わりの日の裁きの働きは、人のあらゆる種別を明らかにしています。賢い乙女と愚かな乙女、真理を愛する人とそうでない人、麦と毒麦、ヤギと羊は、すでにすべて分類されています。神は善人を称え、悪人を罰し、その行いに応じた報いを与えます。これは神の義なる性質、そして黙示録とも完全に一致します。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」(ヨハネの黙示録 22:11)。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(ヨハネの黙示録 22:12)。
全能神は災難の前にすでに勝利者の一団をつくり、神の家から始まる裁きの働きはすでに成功を収めています。全能神が表した言葉は、世界のあらゆる国に広まり、世界を震かんさせ、神がサタンを打ち負かし、栄光を得たことを証明しました。この後、神は大災害を起こし、あらゆる国のすべての人を裁き始めます。この大災難は、邪悪な時代に対する神の裁きであり、人類を救うためのものです。神が災難を使うのは、人に真の道を求めさせ、救い主の働きを見つけさせ、全能神のもとに来て、その救いを受けいれさせるため。同時に、神は災難を使って、すべての悪の勢力と神に抵抗する悪人を解決し、サタンが権力をもつ邪悪な時代を完全に終わらせます。最終的に、神の裁きを経験し、清められたすべての人が、災難の中で神に守られ、美しい終着点へと導かれます。終わりの日の神の裁きの働きは、このように完了します。その後、新たな世界、つまりキリストの王国が地上に実現します。
最後に、神の言葉を朗読した動画を観ましょう。全能神は言われます。「裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らはみな悪人とぐるになり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は基準に達しない奉仕をする人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。
「終わりの日における神の裁きと刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中で揺るぎなく立てる者たちが、神と共に最後の安息に入る者たちである。このように、安息に入る者はみな、神による最後の清めの働きを経たあと、サタンの支配から解放され、神によって得られている。最終的に神によって得られたこのような人々が、最後の安息へと入るのである。神による刑罰と裁きの働きの目的は、本質的に、最後の安息のために人類を清めることである。こうした清めがなければ、人類の誰も、種類に応じて異なる種類に選り分けられることができず、安息に入ることもできない。この働きは、人類が安息に入るための唯一の道なのである。神による清めの働きだけが人類の不義を清め、神による刑罰と裁きの働きだけが人類の不従順な要素を明るみに出す。それによって、救われる人と救われない人、留まれる人と留まれない人が選り分けられる。この働きが終わるとき、留まることを許された人はみな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第二の人生を享受する。言い換えると、彼らは人類の安息の日を開始し、神と共存するのである。留まることを許されない者たちは罰せられ、裁かれたあと、正体が完全に暴かれる。その後はみな滅ぼされ、サタンと同じように、地上で生き残ることをそれ以上許されない。未来の人類に、この種類の人々はもはや含まれない。このような人々は最後の安息の地に入る資格がなく、神と人類が共有する安息の日に加わる資格もない。なぜなら、彼らは懲罰の対象であり、邪悪で、不義なる人だからである。彼らはかつて贖われ、また裁かれ、罰せられたことがあり、神への奉仕をしたこともある。しかし、終わりの日が来るとき、彼らはやはり、自身の邪悪のゆえに、そして不従順さと、贖う術もない有様の結果として、淘汰され、滅ぼされる。彼らが未来の世界に再び生まれることはないし、未来の人類のあいだで生きることもない。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きの目的は、ひとえに全人類を徹底的に清めることであり、それによって、完全に聖くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きこそが最も重要であり、神による経営の働き全体の最終段階である」(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。
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