では全能神は終わりの日の裁きの働きをどうされますか?言葉でどう人を裁き清め完全にするのですか? 本当に知りたくてしようがないのです。全能神の働きが理解できれば、神様の御声を聴いて王座の前に連れて来ていただけますよね。もっと話してください!

2019年4月1日

回答:全能神の終わりの日の裁きの働きを学ぶことは真理を求めて救われる上でとても重要です。終わりの日に全能神は真理を示し人を裁いて清めます。聖徒を天国に引き上げるため働きをされます。宗教界には神様の御心が理解できない信者が多く、主が戻られてそのまま聖徒を天国に引き上げると思い、裁いたり刑罰の働きをするなど考えてはいません。もし主が人を裁いて罰するなら信者も罰せられるでしょう? だから終わりの日の神様の裁きの働きを拒み、主が雲に乗ってお見えになり、天国に招いてくださるのを待つのです。これは神様の御心を全く誤解しており、主イエスは終わりの日の裁きの働きへ道を開くため贖いの働きをされました。神様の最終目標は人を清めて救い、天国で休ませるためで、神様の贖いと救いの働きは計画され段階を踏んで実行され、一度に起きるのではありません。主イエスは贖いの働きを完了し戻って来られ、聖徒を迎えると約束しましたが、終わりの日に神様がどのように聖徒を迎えるのかは誰も知りません。神様が終わりの日に聖徒を迎えに来る時はまず王座の前に呼び、裁き清め完全にして勝利者にします。これこそ聖徒が天国に入るということではないですか? それでも容易には理解できる事できませんね。神様の王座に来る前に裁かれ罰せられ清められる必要があるので、終わりの日の神様の裁きの働きを勝手に想像してしまいました。神様の刑罰と裁きは祝福ですか、それとも非難され懲罰を受ける事ですか? 多くの人がそれを理解できないのです。全能神が何とおっしゃっているか見てみましょう。

全能神は言われます。「神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく容赦がないものの、人の中にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の中にある本質的な物事を露わにするが、神はそのような裁きを通じて肉の本質に関する深遠な認識を人に授け、そうして人は神の前で服従する。人の肉は罪から成り、サタンに属するものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である。ゆえに、人に自分を認識させるには、神の裁きの言葉がその人に降りかかり、ありとあらゆる精錬が用いられなければならない。そのとき初めて神の働きは成果を生む(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)

今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。……神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)

あなたがたはみな罪と放蕩の場所で生きており、あなたがたはみな淫らで罪深い。今日、あなたがたは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことに、刑罰と裁きを受け、真に深い救い、つまり、神の最大の愛を受けた。することすべてにおいて、神はあなたがたに真に愛情深く接している。神に悪意はまったくない。神があなたがたを裁くのは、あなたがたの罪ゆえであり、それはあなたがたが自省し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな人間を完全にすることを目的として行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしており、神が自らの手で創造した人間を完全に破壊したいという願望はない。今、神は働くためにあなたがたのもとに来ており、このような救いはもっと偉大ではないのか。もし神があなたがたを憎んでいるのなら、あなたがたを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたがたを憎んでいないし、あなたがたに何の悪意ももっていない。あなたがたは神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人を救わなければならないのは、唯一人が不服従だからである。そうでなければ、人を救うのは不可能であろう。あなたがたはいかに生きるべきかを知らず、いかに生きるべきかに気づいてもいないため、また、あなたがたはこの淫らで罪深い地に住み、あなたがた自身が淫らで汚れた悪魔であるため、神はあなたがたがいっそう堕落してゆくままにしておくことに耐えられず、また、あなたがたが現在のようにこのような汚れた地で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびず、あなたがたがハデスに落ちてゆくままにしておくことには耐えられないのである。神はただこの集団の人たちを獲得し、あなたがたを完全に救いたいと願っている。これがあなたがたに征服の働きを行う主要目的である。ただ救いのためである(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉から神様の終わりの日の裁きの働きは人を非難するためのものではないことが明らかにされました。神様は人をこらしめたいのではなく、サタンに堕落させられていることを自覚して欲しいのです。神様に逆らい裏切るという自分の本性と実体を知り、神様の義なる聖なる性質は犯されないことを知って欲しいのです。人間の心と魂を呼び覚まし、堕落から解放し本当の人間として生きて欲しくて救いたいのです。神様の裁きと刑罰を体験しなければ、悪魔の本性を自覚し神様に逆らい罪を犯す根源を確認することもできません。裁きと刑罰を受けなければ神様の義なる性質が理解できず、堕落した性質は変りません。神様に真に従い崇敬もしないので、神様の御国に入る権利などあるわけがないのです。神様は人を清め救いたいから裁くのであり、堕落した人間に対する神様の偉大な愛と救いなのです。神様は裁きの働きをどのようにされるのでしょう? 全能神はそれについて多くを語っていますので、御言葉を少し読んでみましょう。

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある『奥義』を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることができるように、神は暴露、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段を通して人間を完全にする(『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」〔『言葉』第1巻〕)

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する(『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉はとても実際的です。人間を救い完全にするために神様は言葉を発し終わりの日の裁きの働きをされるのです! 全能神の裁きの言葉を読むとこの暗い悪質な世の中で全人類はサタンに支配されている事が理解できます。サタンに堕落させられ人間性のかけらも無く傲慢で悪どくずる賢くて自己中心的で放蕩を楽しみます。真理に飽き飽きして悪を崇拝し自分の地位と名声のためには何でもし、同族で殺しあう獣と同じで人間性も道理のかけらもありません。神様を信じると言いながら、金銭や名声や地位が全てで悪質な流行に流され罪を犯し神様に反抗して逆らいます。全てを犠牲にして辛酸をなめたとしても、それは祝福を得たいという欲望があるからで報われて天国に入るためにするのです。真理を求めて神様を知り従うからではなく、思い込みや想像上の神様を信仰し、神様の性質や神であることやその所有物が何であるか神様がどのような者を好み逆に憎み、どのような者が神様に逆らい傷つけようとして神様に呪われるのか、人の考えや思い込みがいかに真理からほど遠く神様にどう向かい合い真理の現実を理解しているかなど神様を知り従い崇敬すべきであるという重大な真理を堕落した人間は知りません。このような人間は心底堕落しており、神様の裁きと清めを受けなければ神様に逆らい裏切るのは当然でしょう? 終わりの日に神様は受肉され堕落した人間に必要な救済の真理を示されました。神様の義であり威厳ある犯されない性質が人間に示され反論のできない人の本性と堕落も明らかにされ、神様の御言葉による裁きと刑罰を受けました。私達は傲慢でわがままで悪の理論と規則に従って生き、自分の名声と利益のために行動してきました。働いて説教をするのも自分の評判と地位のためで、自己を高め名誉や人の注目を欲し、神様を高めたり証しをする気は全くありません。神様の働きが自分の思い通りでないと、神様を限定して断罪し神様に対して頑なになり従いません。自らの本分を尽くしながらも、肉体の喜びを楽しみ神様をだましごまかそうとして、忠実さなどどこ吹く風です。裁きと啓示の御言葉に私達はサタンに心底堕落させられたとあり良心も道理も自尊心もなく、人と呼ばれるにはふさわしくありません。私達は神様の敵であるサタン族であり神様にお目見えするなどおこがましい恥知らずでしょう。神様の前にひざまずき自分を呪い後悔と自己嫌悪に悩まされ、神様の犯されない義なる性質を思い知った時、神様を畏れ人類を救うというご意向が理解できます。神様は罪と反抗を憎まれるので、私達を裁いて罰し悪魔の性質を消し去って神様の物にしたいからです。神様に頑なに反抗し逆らうと刑罰を下し戒めます。神様に心を捧げるとお慈悲をお見せになり、それまでの事をお赦しになります。神様の御心が理解できるように私達を啓いて導きます。神様の刑罰と裁きの働きを通して神様の性質に関する真理と知識をいつの間にか得て、神様はお慈悲と愛のお方です。我々は神様の神聖さと偉大さを知り、神様を崇敬し愛する心が芽生え自分の悪の本性が見えてきて徐々に真理を知るようになり、よい事と悪い事の区別がつくようになります。物の見方が変り真理が知りたくなり、サタンの理論と律法に従う気は失せ神様に理不尽な要求もしなくなります。良心と道理を取り戻し、何事にも真理を求め実行しようとします。造られた物として本分を尽くし神様の主権と取り計らいに現実的に従い、いのちもより人間らしいものに変ってきます。全能神に感謝します! 神様の裁きの働きのおかげで変ることができるのですきょう。終わりの日の全能神の働きを受け入れる兄弟姉妹は終わりの日の神様の裁きを受け、裁きに従うことだけで救われて完全にされるのを知っている。

映画『夢からの目覚め』より引用

前へ: 質問1.あなたは主イエスが再臨され裁きの働きをし、そして真理を示していると証しをされていますけれど、それは可能なんですか?主は実際に私たちを天の国にへと連れて行かれるのです。私たちを置いたまま、裁きの働きはなさいません。私たちは主を信じ聖霊の働きを受けていれば、既に神の裁きの働きを体験していると思います。主イエスの言葉が何よりの証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書 16:7-8)私たちは主イエスが復活し、天国に昇られた後、聖霊が降りたと考えます。それにより、人はすでに自分の罪や義、裁きについて自分を責めています。私たちは主の前で告白し悔い改めたとき、実際に主の裁きを受けているのです。つまり、主イエスの働きは贖いの働きであっても、天に昇られたあと、ペンテコステでの聖霊の働きが終わりの日の神の裁きの働きであると信じます。これこそ、裁きの働きではないですか?「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とありますよね?私たちは主の信者として聖霊に触れられ、戒められ、訓練されています。泣いて悔い改めてるんです。良い行いでどう変化したか表しています。そうじゃないんですか?これこそが神の裁きを受けた結果ではないですか?あなたがたがおっしゃる全能神による終わりの日の裁きの働きは、主イエスの働きとどう違うのでしょうか?

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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回答:主イエスがされたのは贖いの働きであることはご存知ですが、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。主イエスはこうおっしゃったのに、ペンテコステで聖霊が終わりの日の裁きの働きをしたなどと、なぜそんなことを言うのです?根拠はこの言葉ですよね?「わたしが去…