神を信じる人々は終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならず、そうしてのみ人々の堕落した性質は清められ、人々も神によって救われるとあなたがたは言います。でも、私たちは主の要求に従って謙遜と忍耐を実践し、敵を愛し、私たち自らの十字架を負い、世俗の諸事を放棄し、主のために働き説教します。これらのことはすべて私たちの変化ではないのですか。私たちはいつもこのように努力してきており、それならば私たちもまた清めを得て、天国に引き上げられることができないのでしょうか。

2021年3月17日

回答:私たちは敵を愛し、十字架を背負い、自分のからだを抑制し、主の福音を宣べ伝えることができます。これらは主への信仰から来る前向きな行動であり、このように行動できるのは主への信仰が真実であることを意味します。このような善い行いは神様の御言葉に沿った正しいことと周りの人々の目には映るかもしれません。けれど、だからと言って私たちが神様の御言葉を実践しているという意味でも、天の父の御心に従っているという意味でもなく、そして私たちが罪深い本性を捨てて清められたという意味でもありません。他の人たちの善い振る舞いを見るとき、その外面的な部分だけを見ることはできません。その意図や最終的な目的をも見なければなりません。もしある人の意図が神様に従い、神様を愛し満足させることであれば、そのような善い行いは真理を実践し、天の父の御心に従っています。一方で、もしある人の善い行いが祝福のため、冠を得るため、報われるためだけであれば、それは神様を愛する心から出ているものではありません。そのような「善い行い」は、天の父の御心を行うのではなく、パリサイ人の偽善のようなものです。善い行いをするだけで天の父の御心に従い清められているということになるのであれば、なぜ私たちはしばしば罪を犯して神様に反抗するのでしょうか。なぜいつまでも昼間は罪を犯しては夜に悔い改めるという生活を送るのでしょうか。このことからよく分かるように、単に善い行いをしても、真理を実践して神様の御言葉の現実を生きているということにはならず、私たちが神様を知っているということにも、神様を敬う心を持っているということにもならず、ましてや神様を愛して従うことができるということにはならないのです。全能神の次の御言葉にある通りです。「表面的な振る舞いのみの変化は継続不可能です。人間のいのちの性質に変化が無い場合、遅かれ早かれ、その者の邪悪な面が自然と表れるでしょう。そうした者の振る舞いの変化の根源は、情熱と聖霊のその時点における多少の業の組み合わせであるため、一時的に情熱を高めることや良好になることは、その者にとって極めて容易です。信者以外の者が『善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである』と言う通り、人間は、善行を一生涯行うことが出来ません。人間の振る舞いはいのちにより主導され、人間のいのちがどのようなものであれ、それがその者の振る舞いとなり、自然と明示されるものが、いのちと、その者の本性を表します。虚偽の物事は続きません。……良い振る舞いをすることは、神に服従することとは異なり、ましてやキリストの味方をすることに等しいということはありません。振る舞いの変化は教義に基づき、情熱に由来します。それは神に関する真の認識や真理に基づくものではなく、ましてや聖霊の導きに基づくものではありません。人間の行動には聖霊に導かれているものもありますが、それはいのちの表出ではなく、神を知ることなどでは勿論ありません。人の振る舞いがどれほど立派であっても、それが神に従うという証明にならなければ、真理を実践するという証明にはなりません(「外面的な変化と性質の変化の相違」『キリストの言葉の記録』)。全能神の御言葉は、善い行いの本質と根源をはっきりと説明しておられます。人間の善い行いは熱意から来るものであり、教義と規則に基づいた実践です。それは多くの真理を理解した後に実践の原則を理解したところから来ておらず、また神様の御心を理解したために生まれる、神様を愛し満足させたいという望みから生まれるものでもありません。善い行いは人の観念や想像から出るものであり、人間自身の考えや堕落した本性から出るものです。ですから、人がどのようなことをしても、どれほどの苦しみに耐えても、どれほどの代価を払っても、それは真理の実践にはなりません。それは神様に服従していることにはならず、聖霊の働きから来るものでもありません。私たちが善い行いをして何らかの規則に従うことができ、非常に敬虔で霊的に見えるときでさえ、私たちの根深い堕落したサタン的な性質、未解決の罪深い本性、そして神様についての真の認識の欠如ゆえに、私たちは罪を犯して神様に反抗しがちなのです。私たちは、立派な振る舞いをする多くの人達が、神様を信じるようになってからもしばしば罪を犯しては罪を告白する姿を見ています。これは否定できない事実です。善い行いをしながらも罪を犯して神様に反抗しているのは、そのような人々が天の父の御心に従っていないことの十分な証拠であり、彼らは神様からの称賛を得ることができません。ユダヤのパリサイ人は律法に従う人々であり、その行動は表面的には非の打ち所がありませんでした。ところが主イエスがお働きになるために来られたとき、彼らはなぜ主イエスを激しく拒否し、罪に定め、陰謀を企て、十字架にかけたのでしょうか。これは、神様を反抗する本性が彼らの中にあったことを示しています。どれだけ彼らの行いが表向きは正しくとも、それは彼らが神様を理解し、従い、神様と相容れていたことにはならず、ましてや神様の御心に従って清められたことにはならないのです。もし私たちが、罪深い本性を解消して清められたいと願うならば、神様による終わりの日の裁きと刑罰の働きを経験し、そこにある豊かな真理を理解して神様についての真の認識を得、そうすることで神様への真の従順と畏れを培わなければなりません。そうでなければ、私たちの中にある根深いサタン的な堕落した性質は決して清められることも変えられることもなく、私たちは決して神様の御心に沿うことも天の御国に入れていただくこともないのです。

主イエスは贖いの働きをなさったに過ぎません。したがって、恵みの時代、私たちはどのように努力したり聖書を読んだりしようとも、自分の罪から自由になれず、さらには救いを得ることもできませんでした。人類をお救いになる神様の経営計画の各段階によれば、神様は人間を清めて変え、罪から脱却して浄化を得るのをお助けになるための神様の家から始まる裁きの働きを予め定められました。それはちょうど全能神がこうおっしゃっている通りです。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉から、主イエスによる贖いの働きが神様の終わりの日における救いの働きの基礎を築き、終わりの日における裁きの働きこそが神様による救いの働きの核心にして焦点であることがわかります。それは人類の救済の鍵であり最重要な部分なのです。恵みの時代における神様の働きを経験することで、私たちは罪を赦されていますが、罪から自由になることも、浄化を得ることもできません。神様による終わりの日の裁きの働きだけが必要な真理を私たちにもたらし、私たちが本当に神様を知り、いのちの性質を変え、神様に従って神様を崇拝し、神様の御心に従えるようにしてくださることができるのです。神様はこのようにして、人類をお救いになる経営計画を完了なさいます。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

恵みの時代における主イエスの贖いの働きを受け入れるだけで、終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きを受け入れないなら、私たちは罪から自由になれず、天にいます御父の御心を行なえず、神様の国に入ることもできません。そこに疑いの余地はありません。それは恵みの時代、主イエスが贖いの働きをなさったからです。当時の人々の霊的背丈のため、主イエスは彼らに悔い改めの道だけを与えられ、わずかの初歩的な真理とそれらを実践する道筋を理解するようお求めになりました。例えば、主イエスは人々に罪を告白して悔い改め、十字架を背負うようお求めになりました。主イエスは彼らに謙虚さ、忍耐強さ、愛、断食、洗礼などをお教えになりました。これらが、当時の人々が理解して得ることのできた数少ない限られた真理です。主イエスは、いのち性質の変化、救い、清め、完成などに関係するその他のより深い真理を表されませんでした。それらの真理を背負うのに必要な霊的背丈が当時の人々にはなかったからです。主イエスが終わりの日に戻られて働きをなさるまで、人間は待たなければなりません。そのとき神様は、人類をお救いになる経営計画と、堕落した人類の必要に応じて、堕落した人類が救われて完全にされるのに必要なすべての真理を授けられます。それは主イエスがこうおっしゃった通りです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。主イエスの御言葉はとてもはっきりしています。恵みの時代、主イエスは堕落した人類に、彼らが救われるために必要なすべての真理を決してお与えになりませんでした。より深くより高い真理がまだ数多くあります。つまり、主イエスが人類にお伝えにならなかった、人類が自分の堕落したサタン的性質から自由になり浄化を得ることを可能にする真理や、人間が神様に従って神様を知るのに必要な真理が数多くあるのです。ゆえに終わりの日、全能神は人類をお救いになるのに必要なすべての真理を表されます。全能神はこれらの真理をお使いになって、終わりの日における全能神の救いを受け入れるすべての人を裁き、罰し、清め、完全になさいます。最終的に、これらの人は完全なものにされて神様の御国へと連れて行かれます。このようにして、人類をお救いになる神様の経営計画は完了します。主イエスの贖いの働きを受け入れるだけで、終わりの日における全能神の裁きの働きを受け入れないなら、決して真理を得られず、性質を変えることもできません。神様の御心を行なう人になることはなく、神様の御国に入る資格も絶対に得られません。

終わりの日の人類はサタンによって深く堕落させられています。私たちにはサタンの毒が満ちています。私たちの視点、生存法則、人生観、価値観などはどれも真理に反し、神様に敵対します。私たちの誰もが悪を崇拝し、神様の敵になりました。堕落したサタン的性質に満ちあふれた人類が全能神の御言葉による裁きと刑罰、火刑と清めを経験しなければ、いかにしてサタンに反旗を翻し、その影響から自由になれますか。いかにして神様を畏れ、悪を避け、神様の御心を行なえますか。多くの人が長年にわたって主イエスを信じてきたことがわかりますが、何年ものあいだイエスは救い主であると熱心に証しをし、懸命に働いている事実にもかかわらず、神様の義なる性質を知らず、神様を畏れていないせいで、全能神が終わりの日に働きをなさるとき、彼らはいまだに神様の働きを裁いて断罪し、神様の再臨を否定して拒んでいます。キリストが終わりの日に再臨なさると、再び十字架にかけさえします。それは、終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きを受け入れないなら、罪の根源とサタン的本性は決して解消されないということを示すのに十分です。神様への抵抗のせいで人は滅びます。これは誰ひとり否定できない事実です。私たち信者のあいだでも、終わりの日における神様の裁きと刑罰を誠実に受け入れる人だけが真理をいのちとして得て、天にいます御父の御心を行なう人、神様を知り神様と相容れる人になります。そのような人が神様のお約束を受け取って御国に導かれる資格を得られる人なのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

宗教界の人々が言う浄化と神様が要求なさる浄化は同じものですか。同じではありません。人が言う浄化は本当の浄化ではありません。主イエスを信じることであなたが本当に浄化を得たならば、神様はそれでも終わりの日の御働きをなさらなければなりませんか。あなたは主イエスを信じるようになってまだほんの数年ですが、それでもあなたは自分は変わり、このまま追求し続けることで浄化を達成すると言います。それならば、主イエスを信じるすべての牧師や生涯をとおして主を信じてきた人々を御覧なさい。彼らは浄化されていますか。彼らのうちの誰が浄化されていますか。彼らの中で、誰が神様を生涯信じており、自分は聖く、完全に救われていると厚かましくも言えるでしょうか。そのような人はひとりも見つけることはありません。彼らは主を生涯信じていますが、自分が聖いとはあえて言わないでしょう。このように信仰を実践すれば浄化に到達すると言うことは理に適っていますか。息子や娘が「何年も社会に出て、私は社会のことはお見通しだ」と言ったなら、これは世間知らずな考えではないでしょうか。お父さんやお母さん、年長者に聞いてみてください。彼らは社会のことを見通していますか。もし彼らも社会を見通していないならば、あなたにできますか。人間は真理を理解しておらず、本当の浄化が何かを知りません。ある程度良い振る舞いを見せ、信仰において争いに関わらず、物を盗まず、人を罵倒せず、酒を飲まなければ、人は自分が浄化されていると信じます。これは浄化ではありません。本当の浄化とは何を指していますか。これには真理も関係します。本当の浄化はサタンの毒素から自由でいることです。人の心にあるサタンの理論、サタンの哲学、あらゆる種類のサタン的な誤り、人生に関するサタン的法則、サタンに属する人生観と価値観、これらはサタンの毒素ではないでしょうか。何が人が罪を犯すことと神様への抵抗を支配していますか。それは人に罪を犯させ、裁かせ、誤解させ、反抗させる、人の中にあるサタンの毒素です。人が罪を犯す根源は、人の中にあるサタン的本性です。神様の目には、サタンに属するすべてのものが汚く邪悪で、人は内部にあらゆるサタンの毒を持っています。このサタンの毒は人の中に根を張り、花を咲かせ、実をつけたので、人類は堕落し、汚れ、邪悪になっています。そのため人類は神様に抵抗し、神様の敵となることができるのです。このことは事実です。ではこの事実にもとづくと、人が本物の浄化を達成するためにはどのような問題を解決しなければなりませんか。サタンの毒を解決し、サタンの人生観と価値観、サタンの論理と法則、あらゆる種類のサタンの誤りを解決しなければなりません。これらを人の心から完全に取り除くことが、真に浄化されることです。これらが除去されないならば、人はいつまでも神様に抵抗し、神様を裁き、神様の敵となり、神様を裏切ることができます。サタンのものが取り除かれ、解決されて初めて、人類は真に浄化された人類とみなされることができます。主イエスへの信仰をとおしてサタンの毒を解決することは可能ですか。主イエスへの信仰が人の人生観と価値観を変えることができますか。それは神様に本当に従い、神様に抵抗しないように人を導くことができますか。それは神様を本当に知り、神様を崇拝するように人を導くことができますか。主イエスを信じることにより、あなたは罪を赦されたに過ぎません。人の堕落を真に解決し、人を浄化を達成さるには、神様は終わりの日の裁きと刑罰の御働きをなさる必要があります。終わりの日の御働きなしに、堕落した人類が浄化されることはできません。つまり、浄化はただ罪の赦しによって得られるのではなく、真の浄化は裁きと刑罰をとおして人間の堕落した性質を取り除くことにより達成されるのです。人の堕落した性質が解決されると、人はもはや神様に抵抗しなくなり、神様に従うことができ、神様を心から愛することができ、真理を愛することができるようになります。これのみが聖い人類です。浄化と呼ばれるものについて理解せず、浄化されるとは盗まず、略奪せず、物を壊さず、人を殴ったり罵倒したりしないことだと信じている人がいます。これは正しいですか。これは全く間違っており、このように考える人は問題の表面を見ているに過ぎません。真理がないと、人は物事をあまりに短絡的に見ます。根源や本質を見ていません。そのため、宗教的な人がこのように考えるのも驚くべきことではありません。

兄弟の交わりより引用

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裁きとは何か。

裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。

あなたがたは全能神が真理を表し、終わりの日の神の裁きの働きを行なっておられると証を立てています。けれど、主イエスへの信仰と聖霊の働きを受け入れることとは、私たちがすでに神の裁きの働きを経験したことを意味すると私は思うのです。次の主イエスの言葉がその証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネによる福音書 16:7-8)。主イエスは贖いの働きをなさいましたが、イエスが昇天なさった後、ペンテコステの日に聖霊が降臨し人に働きを行ったと私たちは信じています。「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」これが終わりの日の神の裁きの働きであるはずです。だから私が知りたいのは、全能神によって行われる終わりの日の裁きの働きと主イエスの働きの違いは正確には何かということです。

回答:主イエスがされたのは贖いの働きであることはご存知ですが、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。主イエスはこうおっしゃったのに、ペンテコステで聖霊が終わりの日の裁きの働きをしたなどと、なぜそんなことを言うのです?根拠はこの言葉ですよね?「わたしが去…

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