質問1.あなたは主イエスが再臨され裁きの働きをし、そして真理を示していると証しをされていますけれど、それは可能なんですか?主は実際に私たちを天の国にへと連れて行かれるのです。私たちを置いたまま、裁きの働きはなさいません。私たちは主を信じ聖霊の働きを受けていれば、既に神の裁きの働きを体験していると思います。主イエスの言葉が何よりの証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書 16:7-8)私たちは主イエスが復活し、天国に昇られた後、聖霊が降りたと考えます。それにより、人はすでに自分の罪や義、裁きについて自分を責めています。私たちは主の前で告白し悔い改めたとき、実際に主の裁きを受けているのです。つまり、主イエスの働きは贖いの働きであっても、天に昇られたあと、ペンテコステでの聖霊の働きが終わりの日の神の裁きの働きであると信じます。これこそ、裁きの働きではないですか?「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とありますよね?私たちは主の信者として聖霊に触れられ、戒められ、訓練されています。泣いて悔い改めてるんです。良い行いでどう変化したか表しています。そうじゃないんですか?これこそが神の裁きを受けた結果ではないですか?あなたがたがおっしゃる全能神による終わりの日の裁きの働きは、主イエスの働きとどう違うのでしょうか?

2019年4月2日

解答: 主イエスがされたのは贖いの働きですね。「悔い改めよ、天国は近づいた。」主イエスはこうおっしゃったのに、ペンテコステで聖霊が終わりの日の裁きの働きをしたなどとなぜそんなことを言うのです?根拠はこの言葉ですよね?「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書 16:7-8)これは聖霊が終わりの日の裁きの働きをするという意味ですか?神の御言葉からそう断言できますか?主イエスが「聖霊が降りて終わりの日の裁きの働きをする」とおっしゃいましたか?主イエスはそんなことはまったく言っていませんよね。こう言ったのです。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)このように、主イエスがなされたのは裁きの働きではないとはっきりおっしゃっています。主イエスはこうおっしゃいました。終わりの日に再臨して裁きの働きをなさる。そして、そのために真理をお示しになるとはっきり申し上げます。恵みの時代の聖霊の働きを神の裁きの働きと考えるのは、これはまったくの間違いと言えます。もちろん主の御前で告白し悔い改めるとき、聖霊の触れと働きがなければ、決して神の恵みを受け、安らぎと喜びを得られません。しかし、いくら主の御前で涙を流しながら悔い改める人がいたとしても、それはただ聖霊に動かされただけにすぎません。そこから得られるものは、ただ単に神の恵みを受けられたのを喜ぶことくらいで、終わりの日における神の裁きによって清められたり、完全になることではありません。恵みの時代の聖霊の働きは、終わりの日の聖霊の働きと違います。これは、働きの各段階で神が意図される効果と目的に関係があるからです。では、一緒に全能神の言葉を2節ほど見てみましょう。そうすれば、裁きとは何かを理解できるはずです。

 全能神は言われます。「『裁き』という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。……

 裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

 全能神は裁きとは何であるか、裁きの働きがもたらすものが何であるかを明確に説明しているのです。終わりの日の神の裁きの働きは人類を徹底的に清めて救うことなのです。人を叱責したり言葉をあびせたりという単純なものではありませんし、少し言葉をならべただけで人類を罪の束縛から解放し清めと救いを与えることもできません。神は十分な御言葉を述べています。神は堕落した人間たちが清めと救いを受け取るために理解すべきすべての真理を表し、神の経営(救いの)計画の奥義を全て明らかにしているのです。これは恵みの時代に主イエスが発した言葉の数百倍以上数千倍以上にも上るのです。終わりの日の神の裁きの働きは、真理と裁きの言葉を示すことに集中しています。そうすることで、神を拒み裏切る人間のサタンの本性を暴いているのです。サタンによる人間の堕落についての真実に加え、神聖で義であり、そして傷付かない神の性質を完全に明らかにしています。どのような者が救いを受け、また罰を受けるのかなど神の御心や人類に求めるものについての真理のすべての面で明らかになるのです。私たちは終わりの日の神の裁きを受けることによって、神の経営(救いの)計画の目的がわかり、そして善と悪の違いを識別できるようになるのです。すると神を拒むサタンの邪悪な本質を見破られるようになり、私たちは人間がサタンに堕落させられた事実を理解できるようになります。神に抗い裏切る私たちのサタンの本性に気がつくのです。神の義なる性質や全能性と知恵、そしてその存在を含めるすべてに関して理解し、神を畏れる心を抱くのです。そして神の御前で生きる価値がないと自分を恥じて、地面に倒れ込むようにしてひざまずくと己を蔑み、己を捨てます。すると少しずつ罪の束縛から解放され、真の人間としての姿で生き、やがて真に神を畏れ、神に対して従順になっていくのです。それが全能神の裁きの働きを受けて得られるものなのです。このような働きだけが終わりの日の神の裁きの働きなのです。

ここで恵みの時代を振り返ってみましょう。主イエスがなされたのは贖いの働きのみ、悔い改めの道を説かれ、神の憐れみ深く人を愛する性質だけを示されていたのです。主イエスは人を裁くような言葉やパリサイ人を非難したり呪ったりする言葉も使われましたが、それは重大なことではありません。主イエスは罪を赦し、罪を悔い改め、恵みを受け取ることに基づいた贖いの働きをされましたが、人の罪を裁き清めることを目的としたものではありません。従って、主イエスは贖いの働きに関わることだけなされたということなのですね。主イエスによる御言葉はどう罪を悔い改め告白するか、どう謙虚になり忍耐強くなるか、どうやってバプテスマを受け、十字架を背負い、苦難に耐えるかなどを教えてくれます。御言葉に従い、自分の罪を悔い改めることで罪は赦され、律法によって有罪になったり死刑判決を受けたりすることはありません。神に祈る資格を得ることで、私たちは神の恵みと祝福を享受できるようになるのですね。これらは恵みの時代の神の贖いによって達成された効果でした。終わりの日の裁きの働きとはまったく異なっていたと言えるのです。ただ恵みの時代の聖霊の働きを経験でき、さらに聖霊の啓示と戒めと懲らしめを受けることができて涙して祈り自分の罪を告白し、そして良い行いができれば、それは神の裁きと清めを受けているのだと信じている人もいます。ではここで皆さんにお聞きしますが、皆さんは私たちの罪の根源をご存知ですか?自分の中にある神を拒むサタンの本性の本質をご存知ですか?また人間の深刻な堕落についての真実やサタンの邪悪な本質をはっきりと見抜けますか?神の義なる傷つかない性質を理解しているでしょうか?罪の束縛と支配から解放されましたか?サタンの性質は清められましたか?では私たちは神に敬虔で従順でしょうか?こうしたことを達成できないで、私たちは本当に神の裁きを受けて清められたと言えるのでしょうか?恵みの時代の主イエスの働きは裁きの働きではありません。神の国の時代の全能神の働きこそが終わりの日の神の裁きの働きなのです。

『私の天国の夢』の映画台本から

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あなたは主イエスは全能神として再臨され、終わりの日に裁きの働きをし真理を示していると証しをされている。なぜそんなことが可能ですか? 主は実際に私たちを天の国に連れて行かれるのです。私たちを置いて終わりの日の裁きの働きをなされるなんて、有り得ないでしょう? 主を信じ、聖霊の働きを受けていれば、既に神様の裁きの働きを体験していると思います。主イエスの言葉が何よりの証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネによる福音書 16:7-8)。私たちは、主イエスが復活されて天国に昇ぼられた後のペンテコステで、人に働きかけるために聖霊が下りてきたのだと考えます。それによって人々はすでに、自分の罪や義、裁きについて自分を責めています。主の前で告白し悔い改めたとき、私たちは実際に主の裁きを受けているのです。つまり、主イエスの働きは贖いの働きであっても主イエスが天に昇られたあとにペンテコステで降りてきた聖霊の働きが、終わりの日の神の裁きの働きであると信じています。それが裁きの働きでは? 「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とありますが、主の信者として、私たちはよく聖霊に触れられ、戒められて訓練されています。だからいつも、主の御前で泣いて悔い改めるのよ。多くの良い行いこそが、主への信仰で私たちがどう変化したかを表すものです。これは神の裁きを受けた結果ではないのですか? あなたの言う終わりの日の全能神の裁きの働きは主イエスの働きとどう違うのですか?

回答:主イエスがされたのは贖いの働きであることはご存知ですが、主が言われたのはこうです。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。では一体何を根拠に、ペンテコステで聖霊が終わりの日における裁きの働きを行ったなどと言われるのですか? あなたがたは、主イエスの…

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多くの者は私たちが信仰により罪を既に赦されて主の恵みと慈悲を授かったと信じています。主イエスに罪人とみなされていないのだからそのまま天国に招かれはずだと。主が戻られたのならなぜ我々を天国に招かずに、終わりの日の裁きの働きをする必要があるのです? 終わりの日の神様の裁きは人類を清めて救うことですか?それとも断罪して滅ぼすことですか? 私達にはわかりません具体的にお話しいただけますか。

回答:ご質問はとても現実的です。主を信仰することで罪は赦され救われるとしても、神様の目には私達はまだ汚れて堕落しており、罪から逃れ清められてないのです。罪を赦されたとは、単に律法において罪に問われないということで「恵みによって救われた」という事になるのです。神様に罪を赦され祝福…