私たちは主を信じており、主が要求されるように福音を広めています。私たちは頻繁に貧しい地域や障害者に経済的な援助を提供し、教会に献金し、必需品を捧げ、仕事と子供の教育において良く尽くし、良い振る舞いを心がけています。このようにして、私たちは主に栄光を帰し、主に認められ、主が再臨されるときには、天の御国に引き上げられるでしょう。それでは何故、私たちは終わりの日における神の裁きの働きをも体験しなければならないのでしょうか?
参照聖書箇所
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:21-23)
関連する神の言葉
イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)
罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。
『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)
けがれた人間は神の国に入ることを許されないし、またけがれた人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
人の交流
主を信じる多くの者たちがあなたがたと同じことを信じています。「一生懸命働いて、主のために十字架を背負い、良い振る舞いをして、ちゃんと証しすることさえすれば、主が再臨されるのを待って天の御国に引き上げられる資格を得られるだろう。」人間にはこれが全く合理的であるように思われますが、神の御旨は果たしてどうでしょうか。神の御言葉はこれを裏付けているでしょうか。そうでなければ、人間のこのような考えは、間違いなく人間の観念や想像から生まれたものです。……実際、主を信じる私たちは皆よく知っている事実ですが、人は主を信じた後、他のものを潔く捨て去り、主のために尽くし、一生懸命働き、良い行いを示すけれども、働いている間にも頻繁に罪を犯し、神に抵抗し、神を敵に回すということがあります。ある者は災害が襲いかかるとき、また迫害や逆境に遭遇するとき、神に文句を言い、また神を否定し、神を裏切ることさえあります。宗教界の牧師や長老たちは働き、説教をすることができますが、彼らは特にパリサイ人のようで、他の者に崇められるように自分たちを確立し、神の選びの民を欺いて支配し、自分たちの小さな王国を建て上げます。終わりの日における神の御働きに直面すると、彼らは狂ったようにそれを非難し、それに抵抗し、全能神の御言葉が真理であることをはっきりと知っていながら、神に対して強情に抵抗します。このことは、人間は、罪の本性を持っている限り、また解決されていないサタンの性質を持っている限り、いかなるとき、またいかなるところでも神に抵抗し、神を裏切るかもしれないことを示しています。誰かがどれほど良く振る舞っても、その人が本当に神に従い、神の道を歩めるとは限りません。聖書をどれほど理解していても、それは真理を理解し、神を知ることと同じではありません。どれほど苦しんでも、また神のために尽くすときにどれほどの代価を払っても、それは、その人が神の御旨を行う者であるという意味ではありません。誰かが解決されていない罪の本性を持ち、清められていないサタンの性質を持っているなら、どれほど一生懸命に、また何年主のために働いても、その人の本性と本質が変わらないことは明らかです。これは誰にも否定できない事実です。
映画「滅びゆく都」の台本より
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