十字架にかけられた主イエスは、私たちの罪を背負ってそれを赦した。それゆえ、私たちはすでに聖いものとして選り分けられ、もはや罪がなく、終わりの日における神の裁きと清めの働きを受け入れずとも天国に入ることができる――このように信じるのは正しいか。

2017年11月15日

参考聖書箇所

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブル人への手紙 9:28)

「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)

「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである」(ヨハネの黙示録 21:27)

関連する神の言葉

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」(『言葉』第1巻)

あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。

……終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神がわたしたちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

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