1. 霧が晴れ、天国への道を見つける

チェン・アイ(中国)

私は子どもの頃から両親の主への信仰にならってきました。今では、老年期が目の前に迫っています。生涯にわたって主を信仰していながら、いかに自分の罪を取り除いて天国に行くかという疑問は解決することができない謎でした。そのせいで私は喪失感と心痛のなかで常にうろたえていました。どうしたら罪から逃れて天国に行けるかを生きている間に解き明かしたいと強く願っていました。そうすれば、その時が訪れたら、自分の生涯が完結したことを知って死と向き合うことができ、安らかな心でついに主にお会いすることができるからです。

この難題を解決するために、私は聖書を熱心に読み込みました。旧約聖書から新約聖書へ、そして新約聖書から旧約聖書へと、聖書を何度もくりかえし読みました。それでも結局は正しい答えを得られませんでした。万策尽きて、私に残されたのは主の教えに従ってできるだけ良い振る舞いをするように努めることだけでした。なぜなら主は次のようにおっしゃったからです。「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている(マタイによる福音書11:12)。しかし、実際の生活においては、いかに懸命に努力しても、主が私にお求めになっていることには応えられないと気づきました。ちょうど主がこうおっしゃったとおりです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』(ヨハネによる福音書 22:37–39)。主は私たちが心をつくし思いをつくして神を愛すること、兄弟姉妹が互いに愛し合うことを求めています。しかし、私はどうしてもこのような愛に達することができませんでした。なぜなら、私の家族への愛は主への愛よりも大きく、私には自分自身を愛するように教会の兄弟姉妹を真に愛することがどうしてもできなかったからです。それどころか、自分の利害が関わる場合には他人に対して狭量で打算的になることもあり、そのために強い憤りが心のなかに沸き上がるほどでした。一体どうしたら私のような人間が救われ、天国に行けるというのでしょうか。また、主イエスは天国に行くことについて多くのことをおっしゃっています。たとえば、

よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう(ヨハネによる福音書 18:3)。「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない(マタイによる福音書 5:20)。こうした主の求めを私は何一つ実践できませんでした。私はよく嘘をつき、自分の気に入らないことが起きると決まって主を責めたものでした。私の思いには虚偽や不誠実があり、いつも罪のために思い悩み、罪を犯しては後悔し、後悔しては罪を犯すことを何度も繰り返していました。主は聖く、聖書にはこう書かれています。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヨハネによる福音書 12:14)。一体どうしたら私のように完全に汚れた人間が天国に入るのにふさわしくなれるというのでしょうか。このことに私は深く悩まされました。しかし、パウロが『ローマ人への手紙』、『ガラテヤ人への手紙』、『エペソ人への手紙』において唱えた信仰による義認の道について読むたびに、すなわち、信仰をもち、洗礼を受けるということはその人が確かに救われているということであり、心の中で主を信じ、言葉によって主を認めれば、信仰によって義認され、永遠に救われるということであり、主が再臨なされるときには我々が天国に昇るのは確かであるということを読むたびに、私は喜びで圧倒される思いがしたものです。天国に行くことについて心配する必要はないと感じたのです。しかし、人間は自らの努力を通じてのみ天国に行くことができると主がおっしゃったことを思い出しては不安を覚えました。信仰によって義認され、天国に入るというのは、本当にそれほど単純なことなのでしょうか。年老いた敬虔な信者が人生の終焉に近づいて不安や苦悩を感じ、そのあまりひどく泣いている人さえいて、誰一人として逝くことを喜んでいるようには見えません。特にこのような信者を見たとき、私は疑問を覚えずにはいられませんでした。もし信仰義認だけで天国に行けるのであれば、なぜ彼らは死の床であれほど恐れているように見えるのでしょうか。あたかも自分が救われるのかどうか、死後どこにいくのか、まったく分かっていないかのようです。私は主イエスの御言葉を何度も繰り返し考え、パウロの言葉も熟考しました。そして、誰が天国に行けるのかという点について、イエスの御言葉とパウロの言葉が大きく異なっていることに気づいたのです。パウロによれば、ただ主を信じることによって人は義認されます。もしそうであれば、だれもが救われます。それならなぜ、主イエスは次のように仰ったのでしょうか。「また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである(ヨハネによる福音書 13:47–48)。終わりの日に主が再臨されるとき、主はなぜ小麦から雑草を、羊から山羊を、善き従者から邪悪な従者を分ける必要があるのでしょうか。主イエスが語られた御言葉からは、主イエスを信じる全員が必ずしも天国に行けるとは限らないことが明らかです。そのため私は疑問に思ったのです。私は救われるのだろうかと。そして、死んだら天国に行けるのだろうかと。こうした疑問が謎としていつまでも心に残り、私は答えが分からずに途方に暮れていました。

この問題を解決しようと、あらゆる時代の著名な霊的指導者が記した書物にあたりました。しかし、私が読んだものの大半は『ローマ人への手紙』、『ガラテヤ人への手紙』、『エペソ人への手紙』に書いてある信仰義認の解釈であり、私の困惑を拭い去ることができる書物は一つもありませんでした。そこで、主を信仰するあらゆる著名な長老のもとを訪ね、数多くの異なる教派の集会に参加してみました。しかし、どこでも言われていることはほとんど同じで、どうしたら天国に行けるのかという謎を明確に私に説明できる人は一人もいませんでした。その後、外国のある新興教派を見つけ、そうした教会であれば新たな光を投げかけてくれるだろうと考えました。そこで、その教会による集会に意気揚々と出向きました。説教は、始めは何か啓発されるものを感じましたが、終わりには結局はそれも信仰義認の道を説いていただけでした。落胆して胸が押しつぶされそうでした。集会の後、私は主任牧師を探して、尋ねました。「先生。『一度救われたら、いつでも救われている』とおっしゃったことの意味が分かりませんでした。この言葉について、さらに説教していただけませんか」。牧師は言いました。「それはとても簡単に理解できます。『ローマ人への手紙』に書かれています。『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか』(ローマ人への手紙 8:33–34)。主イエスは十字架に架けられたことで、私たちのあらゆる罪をすでに赦してくださっています。つまり、私たちのあらゆる罪は、過去に犯した罪であろうと、今日犯す罪であろうと、まだ犯していない将来の罪であろうと、すべて赦されるのです。私たちはキリストへの信仰によって永遠に義認されています。もし主が私たちの罪ゆえに私たちを咎めないなら、一体誰が私たちを責めることができるというのでしょうか。ですから、私たちは天国に行くという信仰を失ってはならないのです」。牧師の答えに私はますます混乱し、さらに尋ねました。「『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない』(ヘブル人への手紙 10:26)と書いてあることはどう説明なさいますか」。牧師は顔を赤らめ、それ以上何もおっしゃらず、私の質問は答えられないままとなりました。この集会で疑問が解消されなかっただけでなく、苛立ちがさらに強くなりました。私は自分に問いかけました。「私は数十年にわたり主を信仰してきたが、死んだときに私の魂が主のもとに行くのかどうかもはっきりしない。これはつまり、ぼんやりした状態の信仰を生涯続けてきたということではないのだろうか」。そこで、自分の疑問への答えを見つけるため、例外なくあらゆる場所を探求する道を歩み始めたのです。

2000年3月、私は外国人が運営している神学校に勉強に通いました。外国人が伝道する説教の方が優れていて、私の混乱をきっと解消してくれるだろうと確信していました。ところが驚いたことに、そこで学び始めて2カ月が過ぎ、そのあいだは私は信仰で溢れてはいましたが、牧師はみな同じ内容の説教をし、説教には新しい光など何もないということに気づきました。そこにいる間、いのちを与えてくれるような説教を聞いたことは一度もなく、霊的な記事の一本さえも読むことがありませんでした。疑問が解消されなかっただけでなく、そこで過ごした時間は私をさらに動揺させただけでした。困惑を感じずにはいられず、「ここに2カ月以上もいて、何を得られたのだろうか。もしここで何も得られないのであれば、勉強を続ける意味などあるのだろうか」と思いました。

ある夜、食事の後に私は牧師に尋ねました。「先生、神学の徒として、私たちが学ぶのはこれで全部でしょうか?いのちの道について話しあうことはできますか?」牧師は厳かに答えました。「もし神学研究でそういったことについて話しあわなかったとしたら、一体他に何を話すべきでしょう?気を楽にして学び続けてください!私たちは世界最大の宗教組織で国際的にも認知されています。ここで三年間学べば、牧師として国際的な資格を保証されます。その時が来たら、その認定書を持って世界のどこであろうと行って福音を説いたり教会を設立したりできるようになります」。牧師の返答はまったくがっかりするものでした。私は牧師になりたかったのではなく、どうすれば天国に行けるのかを知りたかっただけなのです。そこで私は尋ねました。「先生、牧師の認定証を持つことがそんなにたくさんの扉を開いてくれるのだとしたら、それを使って天国に行くこともできますか?」これを聞いて、牧師は黙り込みました。私は続けました。「先生は子供の頃から主を信じてきたとおっしゃった。もう何十年にもなりますが、先生は救われていますか?」牧師は答えました。「ええ、私は救われています。」私はまた尋ねました。「では、先生は天国に行くことができますか?」牧師は自信をもって答えました。「もちろんです!」「では、お尋ねしたいのですが、先生が天国に行けるとおっしゃる根拠は何ですか?律法学者やパリサイ人よりも義なる人物なのですか?ご自身を愛されるのと同様に隣人を愛されていますか?先生は聖いですか?考えて見て下さい。私たちは未だにいつも罪を犯し主の教えに背かずにはいられません。昼間に罪を犯し夜にそれを懺悔する状態で毎日を過ごしています。神は聖いのです。私たちがこんなに罪にまみれているのに、本当に私たちが天国に入れるとお考えですか?」牧師は閉口して顔を真っ赤にし、しばらくの間一言もしゃべりませんでした。この反応に私はとてもがっかりして、ここで勉強を続けてもいのちを得て天国に行くことの奥義を理解することはできないだろうと感じました。それで、私はその神学校で学ぶのをやめて、故郷に戻ったのです。

家路での私は今までにないほど沈んだ気分でした。最後の希望が砕かれたように感じました。私は思いました。「外国人牧師の教える神学校でさえ、天国に行くために自分の罪を除く道を見つけることは叶わなかった。他にどこか、この道を探せる場所はあるだろうか?」道の行き止まりに来てしまったような気分でした。その時、私の老いた父と老牧師が死に際してむせび泣いていた姿がまた目に浮かびました。その生涯を通して信仰による義認の道を教え、人々は死後天国に辿りつくであろうと説いていた彼らが、最終的には後悔いっぱいで逝ったことを思いました。私は一生を通じて主を信じ、死後は天国に行けると毎日のように人々に説いてきましたが、天国に実際に行く方法については本当に理解していませんでした。私も父やあの牧師のように、後悔に満ちたままでこの世を去るのだろうか?絶望のさなか、主のある御言葉が突然心に浮かびました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう(マタイによる福音書 7:7)。私は思いました。「そうだ。神は真実なるお方。私が真心を持って探求を続ける限り、きっと主は私を導いてくださるはずだ。諦めてはいけない。この身体に息をする力がある限り、私は天国への道を探し続ける!」そして私は主の御前に行って祈りました。「主よ、私は自分の罪を取り除き天国に入るための方法をありとあらゆる場所で探しましたが、だれも私の問題を解くことはできませんでした。おお主よ、私はどうすべきでしょうか?宣教師として、私は兄弟姉妹に日々勤勉な求道者であれ、最後まで我慢強くあれと言い、そうすれば死んだ時に主がお迎えにきてくださる、と説いています。ですがここに来て、私には自分の罪を除き天国に行く方法が全くわからないのです。これでは盲人の盲人手引き、我が兄弟姉妹達を落とし穴へと導くことになりませんでしょうか?どうか主よ、天国への道を探すためにどこに行けば良いのか、どうか私をお導きください!」

故郷に戻ると、私の教会の何人もの善き信徒やリーダー的存在の信徒までもが東方閃電に奪われてしまったと聞きました。東方閃電の道は新たな認識や新しい光をもたらしていると多くの人が言っていて、古株の牧師すら彼らの説教を賞賛していました。そういった事を聞くたびに、私は考えました。「東方閃電の説教はずいぶんと高尚なようだな。東方閃電の人と会ったことがないのは残念なことだ。いつか会えたらどんなに素晴らしいだろう!そうしたら、なぜ彼らの説教がそんなに良いのか、そして彼らが私の長年の混迷を晴らせるかどうか、真剣に話を聞いて探求してみるのに」。

ある日、教会の指導者の一人が私に言いました。「◯◯教会の良き信者が大勢東方閃電に盗まれてしまいました。現在あらゆる教派が東方閃電の教会を締め出していて、私たちも兄弟姉妹たちに東方閃電の人間とは一切関係を持たないようにと、特に彼らの説教は聞かないようにと警告しなければなりません。もし私たちの信者すべてが東方閃電を信じだしたら、私たちが説教できる相手がいなくなってしまいます」。こんな事を教会の指導者が言うのを聞いて、私はうんざりしてこう思いました。「私たちの教会は全ての人に開かれているのに、なぜ閉じなければならないのだろうか?なぜ遠方からの見知らぬ人を歓迎しないのだ?聖書にもこう書いてある。『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした』」(ヘブル人への手紙 13:2)。アブラハムは見知らぬ人を迎え入れ、それによって神の祝福を受け、百歳で息子を授かった。ロトは二人の天使を迎え入れたのでソドムの滅亡から救われた。娼婦ラハブはイスラエルの斥候たちを迎え入れて、一家全員が救われた。貧しい未亡人は預言者エリヤを受け入れて、三年半も飢えをしのぐことができた。こんなに多くの人が遠くから来た見知らぬ人を受け入れて、その誰一人として傷つくことがなかったどころか、全員が神の祝福を受けた。それゆえ、見知らぬ人を受け入れることは主の御意思に沿うということは明らかだ。なのに、なぜみだりに教会を閉じて見知らぬ人を閉め出すなどと、主の意に反することをするのだろう?」そう思いながら、私は首を横にふって教会指導者に言いました。「そうすることは主の御意思に反します。私たちの教会は神に属しており、万人に開かれています。彼らの説教が主への信仰についてである限り、誰であろうと迎え入れるべきですし、ともに心を開いて探究し、考えを模索すべきです。そうすることによってのみ、主の教えに沿うことになります」。

2000年7月のある日、王さんという兄弟のお宅で、東方閃電の説教師であるという二人の姉妹とお会いしました。短い挨拶のあと、私は尋ねました。「ずっと、私は救われて天国に行くことができるのかどうかについて悩んできました。いまや宗教界全体が、信じて洗礼さえ受ければ救われるというパウロの言葉を信奉していて、主を心の中で信じその口で主を認めれば、信仰による義認を受けて永遠に救われ、主がお戻りになられる時に必ず天国へと迎えられると信じています。でも個人的には、天国に行くことがそんなに簡単だとは思わないのです。聖書にも『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヨハネによる福音書 12:14)とあります。私にせよ周りの兄弟姉妹にせよ、日がな一日毎日を罪にまみれて生きている我々のような人間が天国に行けるはずがないと思うのです。一体どうやったら天国に行けるのかが知りたいのです。これについてあなたの教えを説いていただけますか?」

周姉妹は微笑んでこう言いました。「チェンさん、その質問は極めて重要なものです。どうすれば天国に行けるのかは、すべての信者にとっての大きな関心事項です。この問題を明確にするということはまず、主の信者は常に人の言葉にではなく主イエスの御言葉に従った振る舞いをすべきである、と知ることを意味します。主イエスは、『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書7:21)とはっきりとおっしゃいました。救済の恵みに頼っているだけ、あるいは信仰による義認だけで私たちが天国に行けるなどと、主はおっしゃっていません。信仰により義認され、信仰によって永遠に救われ、天国へと引き上げられるというのはパウロの言葉です。パウロは使徒でしかなく、堕落した人類の一人であり、パウロもまた主イエスの救済を必要としていました。他の人々が天国に行けるかどうかを、どうしてパウロが決めることができるでしょうか?主イエスのみが天国の主であり、天国の王なのです。主の御言葉のみが真理であり、その御言葉のみに権威があります。ですから、どうすれば私たちが天国に行けるのかについては、主の御言葉のみを聞くべきです。これに疑いはありません!」

「そして、『信仰による義認と信仰ゆえの救済とはなにか?』と『ひとたび救われたら天国に行けるのか?』という問題があります。これらは全能神の御言葉にとてもはっきりと説明されていますので、神の御言葉から節を幾つか読んでみましょう。全能神はこうおっしゃいます。『あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう』」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

王姉妹が説教を続けて、言いました。「恵みの時代において、主イエスは人類の購いの働きをなさり、十字架に架けられることで贖罪の捧物となられ、私たちをサタンの支配からお救いくださいました。主の救済を受け入れ、自分の罪を主に告白し悔い改める限り、私たちの罪は赦され、主の恵みと祝福を受ける資格があることになります。『私たちの罪は赦され』というのは、律法を犯したことについて律法のもとで咎められたり死刑になったりしないということで、これが信仰による義認と信仰ゆえの救済の本当の意味です。しかし、これは私たちから罪や穢れが無くなったということを意味するものではありませんし、天国に行けるということでもありません。なぜなら、私たちの罪が赦されることはあっても、私たちの罪深い本性は内側に深く根付いているからで、そのため問題に遭遇すると私たちはいまだに自分の地位や利益を守るために嘘を言ったり他者を騙したりすることがよくあります。主のお恵みに浴するとき、私たちは感謝と賛美を捧げ、主のために精力的に身を費やします。しかし大災害起きた瞬間、あるいは何か悪いことが家族の身に起きたとたんに、私たちは主を誤解して非難し、主を否定したり裏切ったりさえしかねません。それでどうして私たちのような人間が、贖われたのにまだよく罪を犯して神を拒む私たちが、天国に入る資格をもてるというのでしょう?神は義なる聖いお方ですから、不浄で堕落した人々を天国にお招きになることは決してないでしょう。私たちをサタンの影響から完全に救うために、神はその経営(救いの)計画と堕落した人類である私たちに必要なことにそって働きをなされて、終わりの日に人を裁き浄化する働きをなさるのです。受肉された神は、私たちの堕落や不浄、不義や抵抗を裁くために、また堕落した性質を脱ぎ捨てるための道を私たちに示すために、何百万語もの御言葉を表されています。神の御言葉による裁きと刑罰を受けることで私たちがサタン的な堕落した性質を脱ぎ捨てるとき、私たちは神の御言葉を実践し、神に心から従い敬うことができるようになり、そうしてやっと天国に入る資格を得るのです。実際、主イエスは遥か昔に、終わりの日に裁きの働きをなさるためにお戻りになられることを預言しておられます。主イエスの御言葉にはこうあります。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47–48)。『それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう(ヨハネによる福音書 16:8)。ですから、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れて堕落した性質を脱ぎ捨て、浄化を得ることによってのみ、私たちは天国に入ることができるということは明白なのです」。

姉妹の教えを聞くと、すべてが突然明らかになって、私の心は光で満たされました。「ああ、これが天国に行く方法だったのか!」私は思いました。「今になってやっと、主イエスは人類を贖う働きをなさったのであって、私たちの罪を除く働きをなさったのではないということが理解できた。事実、主は私たちの罪を赦免してくださったけども、私たちの罪深い本性は内に根深く残っていて、私たちはいまだに心ならずも繰り返し罪を犯しては主を拒んでいる。罪の手枷足枷から私が自由になれなかったのも無理はない。全能神の終わりの日における裁きの働きをまだ受け入れていなかったのだから!」そして私は二人の姉妹にこう言いました。「主に感謝します!全能神の御言葉とあなたたちのお話を聞いて私はついに、主を心の中で信じ口に出して認める者はみな天国に行くことができるという今までの信仰が、私たちの観念と想像でしかなかったことがわかりました!主イエスがなされた働きが贖いの働きであって、お戻りになられた主が裁きの働きをなさるということを理解しました。それはつまり、再臨の主が私たちの堕落した性質を完全に浄化し変容させてくださり、そうして初めて私たちは天国に行くことができるということです。あんなにたくさんの霊的な書物を読んだのに、人の罪深さの問題の解決策を見つけられなかったのも無理はありません!姉妹であるお二人、それでは神はどのように終わりの日における裁きと刑罰の働きをなさるのですか?もっと私に教えていただけますか?」

王姉妹は言いました。「その質問への答えは神の御言葉の中にはっきりと書いてありますから、御言葉の一節を読んでみましょう。全能神はこうおっしゃいます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

「終わりの日において、神に抗う私たちのサタン的本性と堕落した本質をあばき、裁くことで、私たちが完全な救済を得るために必要なすべての真理を神が表してくださることは御言葉がはっきり伝えてくださっています。これらの御言葉はすべてが真理で、神ご自身の権威とお力をまとっていて、神がお持ちであるもの、神の存在そのもの、神の義なる性質が侮辱を許さないものであることを私たちに明らかにしています。神の御言葉の裁きと刑罰と事実の啓示によって、私たちは自らのサタン的本性やサタンによる堕落の真理を幾らか理解できるようになります。サタンによる堕落はとても根深く、私たちの本性が傲慢でうぬぼれていて、歪んで欺瞞に満ち、わがままで自己中心的、欲深く、邪悪で、他の者に勝つことばかり考えるものであり、血や骨にいたるまで私たちが露呈するものはサタン的性質であることがわかります。このような堕落した性質に支配されて、私たちはいつも神を拒み、抗ってしまうのです。例えば、教会で働いたり説教したりするときに、私たちは仰々しい演説をとりとめなくして、自分を見せびらかし自らを褒めそやし、他の人たちから崇められ、敬われようとします。自分の利益を守るために嘘を言ったり他人を騙したりすることもよくあり、陰謀を企んでお互いに張り合うことさえします。自分の観念と一致しない人々や出来事、物事に出会うと、いつも神に不合理な要求をしたり、途方もない欲望を抱いたりして、神の調整や采配に従うことができなくなります。神の御言葉の裁きと刑罰を経験することで、私たちはだんだんと真理をある程度は理解できるようになり、自分のサタン的本性を真に認識し純粋に憎むようになり、また神の義なる性質についての真の理解もある程度得られるようになります。神がどのような人を愛され、どのような人を憎まれるかを知り、またどのようなことを追い求めることが神の御意思に沿うのかも知ることができます。肯定的なものと否定的なものをある程度は識別できるようにもなります。これらのことをひとたび認識したら、心の底から喜んで肉体を捨て、神の御言葉に従って実践するようになるのです。ゆっくりと時間をかけて、神を畏れ、愛したいという欲求が内に生まれて、サタン的な堕落した性質の手枷足枷から解き放たれ、神に対して不合理な要求をすることも減ります。被造物としての地位を占めて、自らの本分を尽くすようになり、神の調整と采配に身を委ね、真の人間らしく生き始めます。神の働きを経験しながら、終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きを受け入れ、真理を追い求め、神を認識し自分自身を認識し、自らの堕落した性質を変化させることのみが天国へ到達する唯一の道であるということを深く意識し感謝するようになるのです」。

全能神のこれらの御言葉と姉妹の説教を聞くことで、私はさらなる内的明瞭さを得ることができました。全能神が表される真理はとても実践的で、実際に我々堕落した人間が必要とするものです。終わりの日における全能神の裁きの働きを受け入れ、経験することによってのみ、私たちはその堕落した性質の手枷足枷を完全に脱ぎ捨てることができるのです!思わず溜息を漏らして、私は言いました。「私は長年にわたって主を信じてきたにもかかわらず、ずっと昼間に罪を犯し夜にその罪を告白するという、罪に苦しむだけの人生を生きていました。神がもし人類を浄化する真理の全てを表してくださっていなかったら、もし私たちに堕落した性質を脱ぎ捨てる道を示してくださっていなかったら、私は罪にきつく縛られ過ぎて自由への道を見つけることもできなかったでしょう。神が、『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12–13)とおっしゃったのも当然です。主イエスは遥か昔、終わりの日に表す言葉がもっとあり、すべての真理へと私たちを導き入れてくださるとおっしゃいました。全能神の御言葉には権威と力があって、私が理解したくてもずっとできなかったすべての真理と奥義を明らかにしてくださり、完全に確信させてくれました。遂に私は天国に行くための道を見つけました!」二人の姉妹は幸せそうに頷きました。

そして私は興奮して言いました。「これこそが主のお声です。全能神は主イエスの再来です!私が永く待ち望んでいたことが遂に起きたのです。私は何と幸運で、何と祝福されているのでしょう!主イエスがお生まれになったとき、シメオンは産まれてたった八日の赤子のイエス様を見て、途方もない喜びを感じたと言います。生涯のうちに主の再来をお迎えできて、神ご自身の発する御言葉を聞くことができるとは、私はシメオンよりさらに幸運で、主への感謝でいっぱいです!」そう話しながら、私は感動のあまり感激の涙を流しました。床に跪いて神に祈りましたが、激しく泣いていたため話すことができませんでした。姉妹たちも感動の涙を流していました。

永年にわたって私を悩ませた困惑は、ついに全能神の御言葉の中にその解決をみました。私はどこを探しても天国へと繋がる浄化の道を見つけられなかったのに、それを遂に見つけられたことを思いました。これが神から私に与えられたお恵みと救済であることは確かです!その後、集会に参加したり兄弟姉妹と全能神の御言葉について語り合ったりすることで、私は更なる真理を認識するようになり、私たちをお救いになろうとしていらっしゃる神の御意思も少しは認識するにいたりました。いまや私は神の御言葉の裁きと刑罰をさらに受け入れ、神の働きを体験し、徐々に自らの堕落した性質を脱ぎ捨てて浄化されたいと願っています。神よ、感謝します!

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