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第6章 神への信仰において備えるべきいくつかの区別

1.神の働きと人の働きをどのように区別するべきか

関連する神の言葉

恵みの時代、イエスもまた多くを語り、多くの業を為した。イエスはイザヤとはどう違っていたのだろうか。イエスはダニエルとどこが違っていたのか。イエスは預言者だったのだろうか?何故彼はキリストだと言われるのだろう。彼らの間の違いとは何であろう。彼らは皆言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らは皆語り、働きを行った。旧約の預言者は預言し、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するには、肉の性質を考慮することはできない。また、語られた言葉の表面的な深さ浅さを考察すべきではない。いつもまず、イエスの働きと、その働きが人間の内にもたらした成果を第一に考えなければいけない。当時イザヤによって告げられた預言は、人間にいのちを与えなかった。また、ダニエルのような人々の受け取った言葉は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェの直接の啓示がなければ、誰一人その仕事ができなかっただろう。何故ならそれはただの人間には不可能なことだからだ。イエスもまた、多くを語ったが、その言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。何故ならイエスはいのちだからだ。第二に、イエスは人間の逸脱したところを正常に戻すことができた。第三に、イエスの業はヤーウェの業をひき継ぎ、その時代を進めるものだった。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。最後に、イエスは古い時代を終わらせて、新しい時代を招き入れることができた。だから、彼は神、そしてキリストと呼ばれたのだ。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも異なっていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きをみてみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを与えることができなかった。第二に、彼には新たな時代の先駆けとなることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、彼の語ったことは、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いても理解できなかった。これらの点をみただけでも、イザヤの言葉は預言にすぎなかったこと、ヤーウェのために行った働きの要素の一つでしかなかったことがわかる。しかしながら、イザヤは完全にヤーウェの代理となることはできなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具であった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけだ。イザヤは律法の時代以外では働かなかった。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えていた。イエスは受肉した神として働き、すべての人間を贖うために十字架につけられた。つまり、イエスはヤーウェの行った働きの範囲外で新たな働きを行ったのだ。それが新たな時代を招き入れたということだ。もう一つの点は、イエスは人間には達成することが不可能なことについて語ることができた。イエスの働きは神の救いの働きの計画に属するもので、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人のために働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように受肉して人間になったか、聖霊が当時どのように啓示を与え、聖霊が働きを為すためにどのように人間の上に降臨したのか。こうしたことは人間には見ることも触れることもできないことだった。これらの事実が、イエスが受肉した神であるという証拠になることは、まったくありえない。だから、人間にも具体的に理解できる神の言葉と働きにおいてのみ、判断できるのだ。これだけが現実的だ。何故なら、霊のことはあなたの目には見えず、神自身にだけはっきり知られているものだからであり、受肉した神でさえ、すべてを知っているわけではないのだ。イエスが神であるかどうかは、[a]その働きによって確かめられるだけだ。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った業は、主に新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。つまり、これがイエスがイザヤやダニエル、他の偉大な預言者たちとの違いである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

聖霊の働きはさまざまな種類の人々や多くの異なる条件によって遂行され、完成される。肉となった神の働きは一つの時代全体の働きを表わすことができ、一つの時代全体の人々の成長を表すことができるが、人々の参加の詳細に作用する働きはやはり、肉となった神によってではなく、聖霊が用いる人々によってなされる必要がある。そこで、神の働き、つまり、神自身が働く部分は、人間の姿をした肉の神の働きであって、神の代わりに人が行うことはできない。聖霊の働きは多くの異なるタイプの人々を通して完成され、ただ一人の特定の人物が実行したり、一人の特定の人物が十分に明らかにしたりすることはできない。教会を導く人々も完全に聖霊の働きを表すことはできない。彼らは指導的働きをいくらかできるだけである。このように、聖霊の働きは3つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられる人々の働き、聖霊の流れの中ですべての人に作用する働きの3つに分けることができる。その中で、神自身の働きは時代全体を導くことであり、用いられる人々の働きは、神自身の働きの後に送りだされたり、命令を受けたりすることによって、神の信奉者全員を導くことであり、これらの人々は神の働きに協力する人々である。流れの中で人々に作用する聖霊の働きは自身の働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体を維持し、証を維持し、それと同時に完成させることのできる人々を完成することである。これら3つの働きは聖霊の完全な業であるが、神自身の働きがなければ、経営の働き全体は停滞してしまうだろう。神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある。さらに、異なるアイデンティティをもつ対象に作用する聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。人間が協力して行う働きができるこうした人にあっては、神が人間に対して求めるものの更に多くと、人間の間にあって聖霊が行わなければならない働きが、その人を通じて実現されるのである。別の言葉で言うと、次のようになる。神がその人を用いる目的は、神に従う者全員が神の心をより良く理解し、神の要求をより多く達成できるようにするためである。人間は直接神の言葉や神の心を理解できないため、神はそうした働きを行うために用いる人を立てたのである。神が用いるそういう人は、神が人々を導くための手段とも、神と人々との間にあって意思を伝える「通訳者」とも言えるであろう。このように、そうした人は神の家で働く人々や神の使徒である人々とは異なる。神の家で働く人々や神の使徒と同様に、そうした人は神に仕える人とは言えるが、その働きの本質と神に用いられる背景において、そうした人は他の働き手や使徒とは大きく異なるのである。その働きの本質と神に用いられる背景に関して言えば、神が用いる人は神により立てられ、神の働きのために神により整えられ、神自身の働きに協力する。そうした人の仕事には決して誰も代わりとなることができないであろう。神性の働きに不可欠なのは人間の協力である。一方、他の働き手や使徒が行う働きは、その時々における教会に関する取り決めの多くの側面を伝えて実行するに過ぎないか、教会の生活を維持するために単にいのちを施すという働きのみをする。そうした働き手や使徒は神に任命されたのではなく、聖霊が用いる者と呼ばれることはなおさらない。彼らは教会の中から選ばれ、一定期間訓練を受け養成された後、適した者が残され、適していない者は元いた場所に帰される。こうした人々は教会の中から選ばれるため、中にはリーダーになるとその本性を現す人もおり、様々な悪事を働いて排除される人すらもいる。しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の器量を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる-そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。

『言葉は肉において現れる』の「神が人間を用いるということ」より

預言者たちや、聖霊に用いられる者たちの言葉と働きはみな、人間としての本分を尽くすことであり、被造物として自分の役割を果たし、人間がやるべきことを為すことであった。しかしながら、受肉の神の言葉と働きとは、神の職分を実行することだ。受肉の神の外形は被造物と同じだが、その働きは、その役割を果たすことではなく、神の職分を遂行することだ。「本分」とは、被造物において用いられ、一方「職分」とは受肉の神の「肉」に関して用いられる。両者には本質的な違いがあり、この二つを置き換えることはできない。人間の働きはその本分を尽くすことだけであるが、神の働きとは、経営(救いの業)と、その神の職分を行うことである。だから、多くの使徒が聖霊に用いられ、多くの預言者たちが聖霊に満たされたが、その働きと言葉は単に被造物としての本分を尽くすものであった。彼らの預言は受肉した神の語ったいのちの道よりも偉大であったかもしれないが、また、彼らの人間性は受肉した神よりも非凡なものであったが、彼らは本分を尽くしていたのであって、職分を果たしたのではない。人間の本分とは、人間の役割のことをいい、人間が達成できるものである。しかしながら、受肉した神の行われた職分は、神の経営に関連しており、これは人間には達成できないことだ。語ることであれ、業を為すことであれ、奇跡を現すことであれ、それは受肉の神が救いの業の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の救いの働きの段階に応じて被造物としてただその本分を尽くすことである。そうした経営なしに、つまり、受肉の神の職分がなければ、被造物の本分もまたなくなる。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を救うことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、神のように職分を果たしているとはいわれないのだ。神の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとは、経営のことであるが、創られたものと同じ外形を持った受肉の神にとって、その働きとは、職分を果たすことである。どんな業であれ、受肉の神の業は自分の職分を果たすことであり、人間は神の経営の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものは現在のその人そのものである。神自身の働きも現在の神そのものを表すが、現在の神は現在の人とは異なる。現在の人は人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神の存在を表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

神が肉となるのは、時代を導き新しい働きを軌道に乗せるためだけである。あなたがたはこの点を理解しなければならない。これは人の役割とは大きく異なり、このふたつを同じ次元で話すことはできない。人が働きのために用いられるようになるまでには、長期にわたる教育と完全にされることが必要で、特別に偉大な人間性が必要とされている。人間は普通の人間としての理知を維持しなければならないだけでなく、他人の前での行動の原則や規則を多く理解でき、その上、人の知恵や道徳の多くを学ばなければならない。これが人が備えていなければならないものである。しかし、受肉した神に関してはそうではない。というのは、神の働きは人を表すのでもなければ、人の働きでもないからだ。むしろ、それは神自身の直接的表現であり、神が行なわなければならない働きの直接的遂行である。(当然、神の働きは行なわれるべき時に行なわれ、無作為に行なわれるのではない。むしろ、神の働きはその職分をまっとうするべき時に始まる)。神は人の人生や人の働きに関与しない。つまり、神の人間性はこれらのどれも備えていない(しかし、これは神の働きに影響しない)。神はその職分をまっとうするべき時に、するだけである。神の地位が何であっても、神はすべき働きをただ進めるだけである。人が神について何を知っていようと、あるいは神についての意見が何であろうと、神の働きは影響されない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より

もし人がこの働きをしようとするなら、あまりにも多くの制約がある。人はある時点までは行くことができても、永遠の終着点までは行くことができない。人が人の運命を決めることはできないし、人の将来や未来の終着点を確かにすることなど、尚更できない。しかし神による働きは異なる。神は人を創ったので、人を導く。神は人を救うので、完全に人を救い、完璧に人を自らのものにする。神は人を導くので、人を適切な終着点に連れて行く。神は人を創造し、統治するので、人の運命と将来に責任を持たなければならない。これこそ造り主によってなされる働きである。征服の働きは人の将来を絶つことでなされるが、人は最終的に神が用意した適切な終着点に連れて行かれなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

人の働きには範囲と限界がある。一人では一定の段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない―さもなければ、その人は人々を規則に導くだろう。人の働きは特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。彼らが真理を経験するとき、それはいつも聖霊の啓発を受けた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。彼らは人間生活に基づいて聖霊に啓発された真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。彼らが歩む道は真理を追及する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊によって啓発された通常の人間が歩む道であると言えるだけである。彼らが歩む道は聖霊が取る道であると言うことはできない。通常の人間の経験では、追求する人々が異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、彼らが経験する環境や経験の範囲は同じではなく、彼らの精神や考えが混ざり合うため、その経験の混ざり合う程度もさまざまになる。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、ほんの一部にすぎない。人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。人には人の働く原則があり、すべての人は異なる経験を持ち、さまざまな条件を所有している。人の働きには聖霊の啓発を受けたその人の経験のすべてが含まれる。これらの経験は人の存在を表すだけで神の存在、あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道ということはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。人の働きは規則に陥りがちであり、その方法はすぐに限られた範囲に限定されてしまい、人々を自由な道に導くことはできない。ほとんどの信奉者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道もその範囲内に限られている。人の経験はいつも限られている。働く方法もいくつかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない―これは、人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それには規則がない。どのようになされようと、神の働きは一方向に限られはしない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて自由に解放される。どんなに多くの時間をかけて神に従おうとも、人々は神が働く方法のいかなる規範も総括することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲のものではない。一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。人の働きが人々に要求することはその人自身の経験および自分自身が達成できることに基づいている。これらの要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって信奉者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれらは規則と儀式になる。…神が行う働きは人の肉と一致しない。人の考えとも一致せず、人の見解に反論する。曖昧な宗教色とはまじりあわない。神の働きの結果は、神によって完成されていない人には達成不可能であり、人の考えの及ばないものである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

人類の目的地に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこにはどんな事故も無ければ、些細な誤りもない。人が仕事を遂行するときこそ、人の情感あるいは意味が人間の中に入り込むのである。このとき、神が行う働きが時宜を得る。彼は、いかなる生き物にも不当な要求をもってこない。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

脚注:

a.原文では「イエスが神であるかどうかは、」が省略されている。

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