5. 二度の受肉が受肉の意義を完成させる

関連する神の言葉

最初の受肉は人を罪から贖うもの、つまりイエスの肉体によって人を罪から贖うものだった。言い換えると、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的性質が依然として人の中に残っていたのである。二度目の受肉はもはや罪の捧げ物として仕えるためのものでなく、罪から贖われた人たちを完全に救うものである。そうすることで、赦された人は罪から解放され、完全に清められる。そして変化した性質を獲得することでサタンの闇の影響から自由になり、神の玉座の前に戻るのである。この方法でしか、人は完全に清められない。律法の時代が終わりを迎えて恵みの時代に入った際、神は救いの働きを始めた。それは、神が人間の不従順を裁いて罰し、人類を完全に清める終わりの日まで続く。その時初めて、神は救いの働きを完結させ、安息に入る。よって、三段階の働きのうち、神が受肉して自ら人のあいだで働きを行なったのは二回だけである。それは、働きの三段階のうち一段階だけが人の生活を導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神は肉となることでのみ、人と共に生き、世の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。神はそうすることでのみ、人が被造物として必要とする実践の道を施すことができる。人が神から完全な救いを受けるのは、神の受肉を通じてであり、祈りへの回答として天から直接受けるのではない。なぜなら、人は肉と血の存在であり、神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づく術などないからである。人が接触できるのは神の受肉した肉体だけであり、この手段を通じてでなければ、人はすべての道と真理を理解し、完全なる救いを受けることができない。第二の受肉は人の罪を一掃し、人を完全に清めるのに十分である。よって、第二の受肉とともに、肉における神の働き全体が終わりを迎え、神の受肉の意義が完成される。その後、肉における神の働きは完全に終了する。第二の受肉の後、神は自身の働きのために三度肉となることはない。神の経営全体がすでに終わっているからである。終わりの日の受肉は、神の選ばれた人を完全に自身のものとし、終わりの日の人類は残らず種類に応じて分類されている。神はもはや救いの働きを行なわず、またいかなる働きであっても、それを実行すべく肉に戻ることもない。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

最初に受肉した神は受肉の働きを完了させず、神が肉においてなすべき働きの最初の段階を完了させただけである。ゆえに、受肉の働きを完了させるべく、神は再び肉体に戻り、肉体が持つすべての正常性と現実を生きている。つまり、神の言葉が完全に普通の平凡な肉体において現れ、それにより、肉体においてやり残した働きを完了させようというのである。本質的に、二度目に受肉した肉体は最初のものと似ているが、さらに現実的で、最初のものよりいっそう普通である。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における職分の結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を果たすため、その肉体は多くの困難に耐えなければならない。その肉体が普通で現実のものであればあるほど、神は自身の職分を果たす中で苦しむ。神の働きはごく普通の肉体、まったく超自然的でない肉体において表される。神の肉体は普通であり、同時に人間を救う働きを担わなければならないので、その苦しみは超自然的な肉体よりもはるかに大きい――この苦しみはみな、神の肉体の現実と普通さに由来する。受肉した二つの肉体が職分を果たしていた際に受けた苦しみから、受肉した肉体の本質が分かる。肉体が普通であればあるほど、神は働きを行う間、大きな苦難に耐えなければならない。働きを行う肉体が現実であればあるほど、人々の観念は厳しくなり、神が多くの危険に遭う可能性は高くなる。それでも、肉体が現実的であればあるほど、また肉体が普通の人間の必要と完全な理知を持っていればいるほど、神は肉における働きにより取り組むことができるようになる。十字架にかけられたのはイエスの肉体、罪の捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性を持つ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、二度目に受肉した神が征服の働きを行い、サタンを打ち負かすのは、完全な肉体としてである。完全に普通で現実的な肉体だけが征服の働き全体を行い、力強い証しをすることができる。つまり、人間の征服は、受肉した神の現実性と普通さによって効果的になるのであって、超自然的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は語ることであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉において実現した霊の働き、および肉の本分は語ることであり、それによって人間を徹底的に征服し、明らかにし、完全にし、淘汰することである。したがって、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服の働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きを行う肉体は、受肉の働き全体を完了させるだろう。性別について言えば、一度目は男性、二度目は女性であり、これによって神の受肉の意義が完成し、神に関する人間の観念を一掃する。つまり、神は男性にも女性にもなれるのであり、本質的に、受肉した神には性別がないのである。神は男性と女性を造ったが、神に性の区別はない。この段階の働きで、神はしるしや不思議を行わず、それにより、言葉という手段を通して働きの成果が上がる。さらに、その理由は、受肉した神の今回の働きは病人を癒し、悪霊を追い払うためではなく、語ることによって人間を征服するためであり、それはつまり、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を語って人間を征服するものであって、病人を癒やし、悪霊を追い払うものではないということである。普通の人間性における神の働きは、奇跡を行い、病人を癒し、悪霊を追い払うことではなく、語ることである。ゆえに、二度目に受肉した肉体は、一度目よりもずっと普通に見える。人々は、神の受肉が嘘ではないと分かっているが、この受肉した神はイエスの受肉と異なっている。どちらも神の受肉だが、完全に同じではないのである。イエスは普通の人間性、平凡な人間性を有していたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目にしるしや不思議は何も見えず、病人を癒すことも、悪霊を追い払うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。イエスが行ったのと同じ働きを、神は行わないのだ。それは、神の肉体が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病人を癒したり悪霊を追い払ったりすることは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げることもない。神は自身の実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はなく、ゆえにこの段階は受肉の働きを完了させるためにある。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

受肉の意義がイエスの働きで完成しなかったとわたしが言うのはなぜか。それは、言葉が完全に肉とならなかったからである。イエスが行ったのは、肉における神の働きの一部分だけであり、彼は贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の肉体においてなされる。つまり、人間性が少しも超越的でない、まったく普通の人間によって行われる。言い換えると、神は完全な人間になったのである。要するに、身分が神、完全な人間、そして完全な肉体であり、働きを行っている人になったのだ。人間の目に見えるのは、まったく超越的ではないただの肉体、天の言語を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、ましてや大きな集会場で宗教の内情を暴いたりしない、ごく普通の人間である。人々にとって、第二の受肉の働きは、最初のものとまるで違って見える。あまりに違うので、その二つには何の共通点もないように思えるほどであり、最初の働きで見られたことは、今回何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものと異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、それらの肉体によってなされる働きの性質に左右されるのであって、外形に左右されるのではない。三段階の働きのあいだに、神は二度受肉し、いずれの時も受肉した神の働きは新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うものである。二つの肉体が実際には同じ源から来ていることを、人間の目で見極めるのは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や精神の能力を超えている。しかし、両者は本質において同じである。いずれの働きも同じ霊に由来しているからである。受肉した二つの肉体が同じ源から生じたものかどうかは、両者の生まれた時代と場所、あるいはその他のそうした要素ではなく、両者が表す神性の働きで判断できる。第二の受肉した肉体は、イエスが行った働きを一切行わない。神の働きは慣習に従うものではなく、なされるたびに新たな道を開くからである。第二の受肉は、人々の心における最初の肉体の印象を深めも固めもしないが、それを補って完成させ、神に関する人間の認識を深め、人々の心に存在する規則を残らず打破し、人々の心にある神の誤った姿を消し去る。神自身による働きのどの段階も、それ自体では神についての完全な認識を人に与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのだ。神は自身の性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はいまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。ましてや神の働きの一段階だけで、どうして完全に神を表せようか。神は普通の人間性の陰に隠れ、肉において働く。そして、その神性が現れて初めて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見て知るようになるのではない。神が受肉することで、人間は神の様々な働きによって神を知ることができるのだが、働きのどの二段階も同じものではない。このようにして初めて、人間は肉における神の働きについて完全に認識し、一つの面に縛られることがなくなる。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

イエスが行なった働きの段階は、「言は神と共にあった」という言葉の実質を満たしたに過ぎない。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが神による最初の受肉だったことのより大きな証拠である。この段階の働きはまさに「言葉が受肉した」という表現の内なる意味を実現し、「言は神と共にあった。言は神であった」という表現に一層深い意味を添えたのであり、「初めに言があった」という言葉を堅く信じさせるものである。つまり、神は創造の時に言葉をもっており、神の言葉は神と共にあり、神と不可分だった。そして最後の時代、神は自身の言葉の力と権威を一層明らかにし、人が神のすべての道を目にできるようにする。すなわち、神のすべての言葉を聞けるようにするのだ。それが最後の時代の働きである。あなたはこうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知るという問題ではなく、肉と言葉をいかに理解するかという問題なのだ。これがあなたの行なわねばならない証しであり、すべての人が知らなければいけないことである。それは二度目の受肉の働きであり、そして神の最後の受肉であるため、この働きは受肉の意義を完全なものとし、神の肉におけるすべての働きを完全に遂行して明らかにし、神が肉にある時代の幕を閉じることになるのだ。

『神の出現と働き』「実践(4)」(『言葉』第1巻)

この段階において、困難を経験していようが、あるいは職分を果たしていようが、受肉した神は受肉の意義を完成させるためにそうしている。なぜなら、今回が神の最後の受肉だからである。神は二回しか受肉できず、三度目はあり得ない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、肉における神の働きはすでに終わっている。一度目に受肉した神は、受肉の意義を完成させるために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。それはもっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び肉になったのは、受肉の意義を完成させるためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意義全体、つまり肉における神の働きは完結し、肉において行う働きはそれ以上ない。つまりこれ以降、神が働きを行うために受肉することは二度とないのである。

『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)

二度の受肉が、受肉の意義を完成させる

(神の言葉の一篇より)

神による各段階の働きには実際的な意義がある。当時、イエスは男性の形で来たが、今回来る際、神は女性の形である。このことから、神が男女両方を創造したことは自身の働きに役立ち、また神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それはいかなる肉体でも意のままにまとうことができ、その肉体は神を表すことができる。男性であろうと女性であろうと、それが神の受肉した肉体である限り、どちらも神を表せるのである。イエスが来たときに女性として現れたとしても、つまり、男の子ではなく女性の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その段階の働きはまったく同じように完成されたことであろう。そうだったならば、現段階の働きは女性ではなく男性によって完成されなければならないはずだが、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。各段階でなされる働きにはそれぞれの意義があり、どちらの段階の働きも繰り返されることはなく、互いに矛盾することもない。当時、イエスは働きを行う中で神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それでは、なぜ今の段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に性の区別はない。神は思い通りに自身の働きを行い、また働きを行う中でいかなる制限も受けず、非常に自由であるが、働きの各段階にはそれぞれの実際的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日における受肉が最後であることは言うまでもない。神は自身のすべての業を知らしめるために来た。人が目撃できるように自ら働きを行うべく、今の段階で神が受肉していなければ、人は永遠に、神は男性でしかなく、女性ではないという観念に固執するだろう。これまで、神は男性にしかなり得ず、女性が神と呼ばれることはあり得ないと、すべての人が信じていた。男は女に対して権威をもつと、誰もがみなしていたからである。そのような人は、権威をもてるのは男だけで、女は誰ももつことができないと信じており、そのうえ、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に言われた時、それは蛇にだまされたアダムとエバを指していたのであって、初めにヤーウェによって造られた男と女を指していたのではない。もちろん、女は夫に従い、夫を愛さなければならず、また男は家族を養って支えられるようにならなければならない。これらはヤーウェが定めた律法と命令であり、人類は地上の生活においてこれらを順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。ヤーウェがこう言ったのはひとえに、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らし、人類の生活が構造をもち、秩序を失わないようにするためである。従って、男と女がどう行動するべきかについて、ヤーウェは適切な規則を作ったが、この規則は地上で暮らすすべての被造物にのみ関係するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の被造物と同じであり得ようか。神の言葉は自身の被造物である人類にのみ向けられた。ヤーウェが男女の規則を定めたのは、人類が正常に暮らすようにするためだった。最初に人類を創造したとき、ヤーウェは二種類の人間、すなわち男性と女性の両方を造った。従って、受肉した神の肉体にも男女の区別があった。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決めたのではなかった。神が二度にわたり受肉したのはひとえに、神が最初に人類を造った時の考えに沿って決定された。つまり、神は堕落する以前の男性と女性に基づき、二度にわたる受肉の働きを完成させたのである。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が取り上げ、神の受肉の働きに適用したら、イエスもなすべきこととして妻を愛する必要があるのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は依然として働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造ったのも最大級の間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉するのは間違いだと人がいまだに信じているなら、結婚をせず、それゆえ妻を愛することができなかったイエスもまた、現在の受肉と同じくらい間違っているのではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日における神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するには、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これらは同じ一つのものではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのなら、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。このようにして神を評価するのは、あなたに理知がないことを証明している。ヤーウェが二度受肉した時、その肉体の性は蛇にだまされなかった男性と女性に関連していた。つまり神が二度受肉したことは、蛇にだまされなかったその男性と女性に従っていたのである。イエスが男性であるのは、蛇にだまされたアダムが男性であるのと同じだと考えてはいけない。両者はまったく関係がなく、性質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが男性であるからといって、イエスはすべての女のかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女のかしらだけでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスが男であることをもって、それが女のかしらであることの象徴だと決めつけられるのか。これは冒涜ではないだろうか。イエスは堕落したことのない男性である。イエスは神であり、キリストであり、主である。どうして堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの男性らしさを有する神であるなどと言えようか。そうであれば、神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェは蛇にだまされたアダムの男性らしさをイエスの中に組みこんでいたのだろうか。現在の受肉は、性別こそイエスと異なっていても、本質的にはイエスと同じ受肉した神によるもう一つの働きではないか。それでもあなたは、受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不浄で、人類の堕落の根源なのだから、神が女性として受肉するなど到底ありえないなどとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、神を明らかにしたり、直接象徴したりすることは決してできない」などと、まだあえてしつこく言うのか。あなたは過去に理解しなかったが、今も神の働きを、とりわけ受肉した神を冒涜し続けられるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。言っておくが、あなたがこれまで目にし、経験してきたことはすべて、わたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではない。ならば、あなたはなぜそんなに傲慢なのか。あなたがもつほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を有しているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべてのもの、そして想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはアリ以下の被造物なのだ。あなたが腹の中に抱えているすべてのものは、アリの腹の中にあるものよりも少ない。自分がいくらか経験を積み、歳を重ねたからといって、乱暴に振る舞ったり、自慢げに話したりする資格を得たと考えてはならない。あなたの経験と年功は、わたしが発した言葉の産物ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見ており、ただそのために、あなたの中には有り余るほどの考えがあり、そこから果てしない観念が生じる。わたしの受肉がなかったら、たとえ並外れた才能があっても、あなたがこれほどの考えをもつことはないだろう。あなたの観念が生まれるのはそこからではないのか。その最初の時にイエスが受肉していなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。二度目の受肉を批判しようとする厚かましさがあなたにあるのは、一度目の受肉があなたに認識を与えたからではないのか。従順な追随者にならず、それを研究対象にしているのはなぜなのか。この流れに入って受肉した神の前に来たあなたに対し、どうして神が自身の研究を許すだろうか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究しようと試みるなら、今日の神はあなたに対し、そのような研究を許すだろうか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

イエスの働きだけが行われ、終わりの日のこの段階における働きがそれを補完していなければ、人は永久に、イエスだけが神の独り子である、すなわち、神は一人の息子しかもたず、その後別の名前で出て来る者は誰も神の独り子ではなく、ましてや神自身でもないという観念に固執するだろう。罪の捧げものとして仕える者、あるいは神に代わって権力を担い、全人類を贖う者は神の独り子であるという観念を人はもっている。現れる者が男性である限り、その人は神の独り子、神の代理と見なせると信じている人もいる。イエスはヤーウェの息子、独り子であるという人さえいる。このような観念は誇張ではないか。今の段階の働きが最後の時代になされていなければ、全人類は神について暗い陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女は誰一人として救われないだろう。人々はいつも、神は男であり、そのうえ女を常に嫌悪し、救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、また堕落したすべての女には救われる機会がないというのは、本当のことなのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、つまりエバを造ったことは無意味だったのではないだろうか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。ゆえに、終わりの日におけるこの段階の働きは、女だけでなく全人類を救うためになされるのである。神が女性として受肉したなら、それはひとえに女性を救うためだろうと考える者は、まさに愚か者である。

今日の働きは恵みの時代の働きを推し進めてきた。すなわち、六千年にわたる経営(救いの)計画全体における働きが前進したのである。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると、わたしが繰り返し言うのはなぜか。これは、今日の働きが恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものだからである。これら三つの段階は密接に結びついており、それぞれがその次の段階に繋がっている。また、今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築かれていると、わたしが言うのはなぜか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築かれたのでなければ、この段階でもう一つの磔刑が起きていなければならず、過去の段階における贖いの働きも一からやり直す必要があるはずだ。これは無意味なことだろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きの水準が以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代を基礎とし、イエスの働きという岩盤の上に築かれると言うことができるだろう。神の働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三段階の働きが結合して初めて六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎として行われる。これら二段階の働きに関連がなければ、なぜ今の段階で磔刑が繰り返されないのか。なぜわたしは人の罪を背負わず、人を直接裁いて罰しに来るのか。人を裁いて罰するわたしの働きが磔刑に続くものでなく、わたしの現在の到来が聖霊の受胎によるものでなかったら、わたしには人を裁いて罰する資格がないだろう。わたしが直接来て人を罰し、裁くのはまさに、わたしがイエスと一つだからである。今の段階の働きはすべて過去の段階の働きの上に築かれている。だからこそ、そのような働きだけが人を一歩一歩救いに導くことができるのである。イエスとわたしは一つの霊から来ている。わたしたちの肉体には何のつながりもないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちが行う内容、わたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化のため、およびわたしたちの働きが異なることを求めているためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが生み出す働きや、わたしたちが人に明かす性質も異なっている。そのようなわけで、人が今日見るものや理解するものは、過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっており、彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ時期に生まれたのでもないが、彼らの霊はやはり一つである。彼らの肉体に血縁関係はなく、いかなる物理的関係もないが、彼らが二つの異なる時期に受肉した神であることは否定できない。彼らが受肉した神の肉体であることは否定できない真実である。しかし、彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語をもっていない(一方はユダヤ人の言語を話す男性であったし、他方は中国語しか話さない女性である)。これらの理由から、彼らは異なる国に暮らし、また異なる期間に、それぞれがなすべき働きを行う。彼らが同じ霊で、同じ本質を有しているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には絶対的な類似性がまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、肉体的な外見と誕生の状況に関する限り、両者は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関してもつ認識に何の影響も与えない。なぜなら、最終的に分析すれば、彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることができないからである。彼らに血縁関係はないが、その霊が彼らの存在全体を担い、異なる時期に異なる働きを割り当て、また彼らの肉体は異なる血統のものである。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは一つの同じ霊である。同様に、今日の受肉した神とイエスとの間に血縁関係はないが、彼らは一つである。なぜなら、彼らの霊が一つだからである。神は慈悲と慈愛の働きを行うことができ、同様に義なる裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。そして最終的に、神は世界を滅ぼし、悪しき人々を懲罰する働きを行うことができる。神はこのすべてを自ら行うのではないか。これが神の全能性ではないのか。神は人に律法を布告することも、戒めを発することもでき、また初期のイスラエル人の地上における生活を導くとともに、彼らが神殿や祭壇を建造して、すべてのイスラエル人を統治するよう指導することができた。その権威のため、神は二千年にわたり地上でイスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて神に反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒めを守ったのである。これが神の権威と全能性によって行われた働きである。恵みの時代、イエスは堕落した全人類(イスラエル人だけではない)を贖うために来た。イエスは人に慈悲と慈愛を示した。恵みの時代に人が見たイエスは慈愛に満ちており、いつも人への愛情にあふれていた。と言うのも、イエスは人を罪から救うために来たからである。イエスは磔刑によって人類を完全に罪から救うまで、人の罪を赦すことができた。その間、神は慈悲と慈愛をもって人の前に現れた。つまり、人が永遠に赦されるよう、イエスは人のために罪の捧げものとなり、人の罪を背負って磔刑に処されたのである。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らは長らく苦しみ、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階において、そうなることはもはやあり得ない。イエスとヤーウェの霊は一つだったにもかかわらず、両者の働きはまったく同じというわけではなかった。ヤーウェの働きは時代を終わらせたのではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導したのであり、また今日の働きは、深く堕落させられてきた異邦の民を征服し、中国に暮らす神の選民だけでなく全宇宙と全人類を導くことである。今あなたには、この働きが中国だけで行われているように見えるかもしれないが、実はすでに海外へと広まり始めている。中国の外で暮らす人々が幾度も真の道を探し求めるのはなぜか。それは、霊がすでに働きを開始しており、今日語られる言葉が全宇宙の人々に向けられているからである。これにより、働きの半分がすでに行われている。創世から現在に至るまで、神の霊はこの偉大な働きを推進してきたのであり、またそれ以上に、異なる時代、異なる国々において、異なる働きを行なってきたのである。各時代の人々は、それぞれ異なる神の性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然と明らかにされる。それは神であり、慈悲と慈愛に満ちている。神は人の罪の捧げものであり、人の羊飼いであるが、同時に人の裁き、刑罰、そしてのろいでもある。神は二千年にわたって地上における人間の生活を導くことができ、堕落した人類を罪から贖うこともできた。そして今日、すべての人が神に完全に服従するよう、神は自分のことを知らない人類を征服し、彼らを自身の支配下に置くこともできる。最後に、神は全宇宙の人々の中にある不浄なもの、不義なものをすべて焼き払い、自分が慈悲と慈愛に満ちた神、英知と不思議の神、および聖い神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。人類の中の悪人にとって、神は燃えさかる炎、裁き、懲罰である。また完全にされるべき人々にとって、神は苦難、精錬、試練であり、同時に慰め、支え、言葉の施し、取り扱い、そして刈り込みである。また淘汰される人々にとって、神は懲罰であり、報いである。教えてほしい。神は全能ではないのか。あなたの想像とは違い、神は磔刑に限らずすべての働きができる。あなたは神のことをあまりに見くびっている。神にできるのは磔刑を通じて人類を贖うことだけで、それで終わりだと信じているのか。そしてその後、あなたは神に従って天に行き、いのちの木から果実を食べ、いのちの川から水を飲むというのか……。果たしてそんなに単純なことだろうか。教えてほしい。あなたは何を成し遂げたのか。あなたにイエスのいのちがあるのか。あなたは確かにイエスによって贖われたが、磔刑はイエス自身の働きだった。あなたは人として何の本分を尽くしたのか。あなたは表面的に敬虔なだけで、神の道を理解していない。それが神を明らかにするあなたの方法なのか。神のいのちを得ていなければ、あるいは神の義なる性質のすべてを見ていなければ、自分はいのちをもつ者だと主張することはできず、天国の門をくぐる価値もない。

神は霊であるだけでなく、肉になることもできる。そのうえ、神は栄光のからだである。あなたがたは見ていないが、イエスはイスラエル人によって、つまり当時のユダヤ人によって目撃された。最初、彼は肉体だったが、磔刑に処された後、栄光のからだになった。神はすべてを包みこむ霊であり、あらゆる場所で働きを行うことができる。神はヤーウェ、イエス、メシアになることができ、最後は全能の神になることもできる。神は義、裁き、刑罰であり、またのろい、怒りであるが、慈悲と慈愛でもある。神がなした働きはどれも神を表すことができる。神とはどのようなものだと言うのか。あなたは説明することができない。本当に説明できないのであれば、神に関して結論を下すべきではない。ある段階で神が贖いの働きをしたというだけで、神は永遠に慈悲と慈愛の神であると結論づけてはいけない。神は慈悲と慈愛に満ちた神でしかないと、あなたは確信できるのか。神が慈悲と慈愛に満ちた神でしかないならば、なぜ終わりの日に時代を終わらせるのか。なぜこれほど多くの災難をもたらすのか。人々の観念と考えによれば、人類が最後の一人まで残らず救われるよう、神は最後まで慈悲と慈愛に満ちていなければならない。しかし終わりの日、神が地震や疫病や飢饉といった大災害をもたらし、神を敵と見なすこの悪しき人類を滅ぼすのはなぜなのか。人がこれらの災害に苦しむのを、神はなぜ許すのか。神がどのようなものであるかについて、あなたがたは誰も言おうとしないし、説明もできない。神は本当に霊だとあえて言うのか。イエスの肉体に他ならないとあえて言うのか。人のためにいつまでも磔刑に処される神だとあえて言うのか。

神の出現と働き(『言葉』I)

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