1. 全能神はすべてのものを支配する唯一の真の神である

関連する神の言葉

この世界にあるすべてが、全能者の思いによって、全能者の目の下で、急激に変化している。人類が一度も聞いたことのない事が、突然到来する一方、人類が常に所有してきたものが、知らないうちに消え去ってしまう。誰も全能者の所在を推し量ることはできないし、まして全能者の生命力の超越性や偉大さを感じることなど到底できない。人には知覚できない事を知覚できるゆえに全能者は超越的である。人類によって捨てられたにもかかわらず人類を救う方であるゆえに全能者は偉大である。彼は生と死の意義を知っている。それだけでなく、被造物たる人類の存在の法則を知っている。彼は人類の存在の基礎であり、人類を再び復活させる贖い主である。彼は幸せな心に悲しみという重荷を負わせ、悲しむ心を幸福で引き上げる。これらは全て彼の働きのためであり、彼の計画のためである。

『神の出現と働き』「全能者のため息」(『言葉』第1巻)

広大な宇宙と天空では、無数の被造物が生き、再生し、生命の周期の法則に従い、一つの不変の規則を守っている。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければならないのか。誰がこの世界を指揮しているのか。そして、誰がこの人類を造ったのか。人類は本当に母なる自然によって造られたのか。人類は本当に自分の運命を支配しているのか。……人類は、宇宙と万物の支配者が誰であるかをまったく知らないし、ましてや人類の始まりも未来も知らない。人類はこの法則の中で否応なしにただ生きている。逃れることは誰一人できないし、誰もこれを変えることはできない。万物の中で、また天において、永遠から永遠に至るまですべてを支配しているのは、ただ一つの者だからである。それは、かつて人類が見たことのない者、人類が知ることもなかった者であり、その存在を人類が信じたことはない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えた者である。それは人類に施しと糧を与え、生存できるようにした者、人類を今日まで導いてきた者である。さらにそれは、人類が生き残る上で依存する唯一の者である。彼は万物を支配し、宇宙のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪と雨を呼び寄せる。彼は人類に陽光をもたらし、夜を導き入れる。天と地を整え、人間に山、湖、川、そしてそこで暮らすすべての生き物を与えたのは彼である。彼の業は至るところにある。その力は至るところにある。その知恵は至るところにある。その権威は至るところにある。その法則や規則の一つひとつは、彼の業が具現化したものであり、それぞれが彼の知恵と権威を明らかにする。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。人類は彼の業と力の前に、彼が実際に存在し、万物を支配していることを認めざるを得ない。彼を除いては、他の何も宇宙を支配できず、ましてや人類にいつまでも施すことなどできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命が神によって定められ、神が永遠に万物を支配することに疑いの余地はない。神の存在と権威は、人間に認められ、理解されるかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関係なく、人類は近い将来、そのすべてを自らの目で見ることになる。そしてこれは、神が間もなく実現させる事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人間は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じるときもまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配と目的の一部である。神の経営が止まることはなく、絶えず前進している。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が経営してきた働きである。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

いのちの道は誰でも持てるものではなく、また誰にとっても簡単に得られるものではない。いのちは神からしか生じ得ないからである。つまり、神自身のみがいのちの実質を有しており、神自身のみがいのちの道をもっている。ゆえに、神のみがいのちの源であり、永遠に流れつづけるいのちの生ける泉なのである。世界を創造してからずっと、神はいのちの活力に関する多くの働きを行ない、人にいのちをもたらす多くの働きを行ない、人がいのちを得られるよう多大な代価を払ってきた。神自身が永遠のいのちであり、そして神自身が、人が復活する道だからである。神が人の心にいないことは決してなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の根幹であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱床である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分のすべての役割においてしっかり生きられるようにする。神の力と、消えることのない神のいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのない代価を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない。このようにして、誰もが神の支配下で服従し、神の命令の下で生きなければならず、誰も神の手から逃れられない。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

宇宙、すなわち、天界のありとあらゆる惑星と星は、人間が出現する前に、既に存在していました。マクロレベルでは、こうした天体は、神の支配下で、誕生してからどれだけの年月が過ぎようと一度も変化することなく、軌道を規則的に回り続けてきました。どの惑星が、いつどこに移動するか、どの惑星がいつどのような役割を果たすか、どの惑星がどの軌道に乗るか、どの惑星がいつ消滅するか、あるいはいつ置換されるかなどといった事柄が、すべて寸分の狂いもなく進行しています。惑星の位置や惑星同士の距離は厳密な規則に従っており、正確なデータで表すことができます。惑星が移動する経路、軌道の一周における速度と規則性、特定の位置に到達する時刻、これらすべてを正確に数値化し、特定の法則で表すことができます。数十億年にわたり、惑星は、少しも逸脱することなく、これらの法則に従ってきました。どのような力をもってしても、惑星の軌道や、惑星が従う規則性を変えたり乱したりすることはできません。惑星の運動を律する特定の法則と、それを表す正確なデータは、創造主の権威により運命づけられており、惑星は創造主の統治と支配の下、そうした法則に自然と従います。マクロレベルでは、ある程度の規則性やデータ、そして奇異で説明できない法則や現象を見出すことは、人間にとってそれほど困難ではありません。人間は神が存在することを認めることもなければ、創造主が万物を造り、万物に対する主権を握っているという事実を受け入れることもなく、さらには創造主の権威の存在を認めることもありません。それにもかかわらず、人文科学者、天文学者、物理学者は、宇宙における万物の存在、そして万物の運動を律する原理と法則が、巨大で目に見えない暗黒のエネルギーにより統治され、支配されているという結論に達することが益々多くなってきています。この事実により、人間は、こうした規則性の中心に並外れた者が存在し、すべてを指揮しているということに向き合い、認めざるを得なくなっているのです。彼の力は非凡であり、その素顔を見ることができる人はいないものの、彼は常に全てを統治し、支配しています。彼の主権を超えることができる人や力は存在しません。人間は、こうした事実と向き合う中で、万物の存在を統治する法則は人間が制御できないものであり、誰にも変えられないものであることに気付かねばならず、また、こうした法則は人間が完全に理解できないものであり、自然に発生するものではなく、統治者の命令によるものであることを認めなければなりません。こうした物事は、すべて人間がマクロレベルで認識できる神の権威の表現なのです。

ミクロレベルでは、人間が地上で見る山々、川、湖、海、大陸、人間が体験する季節、地球上に生息する植物、動物、微生物、人間などの万物は、すべて神の統治と支配の下にあります。神による統治と支配の下においては、万物は神の思いに従って出現し、消滅し、その存在を統治する法則が生まれ、その法則に沿って生長し、繁殖します。これらの法則を超える人間や物事は存在しません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

神は万物を創造したとき、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めました。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在します。これらが様々な種類の地形を構成しています。そうですね。神はそれらの間に境界を定めました。境界の設定という場合、それは山には山の、平野には平野の領域があり、砂漠には一定の範囲が、丘には一定の面積があることを意味します。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量があります。つまり、神は万物を造った際、あらゆるものを極めて明確に分割したのです。……神が造ったこれら様々な地形や地理的環境の中で、神はあらゆる物事を、計画された秩序ある方法で管理しています。そうしたわけで、これらの地理的環境は、神によって造られてから数千年、さらには数万年が経った後でもいまだ存在し、依然として機能しているのです。火山が噴火したり、地震が発生したり、大規模な地殻変動が起きたりする期間もありますが、神はいかなる種類の地形であっても、それが本来の機能を失うことを許しません。人間が見て享受できるこれらすべてのものが地球上で秩序正しく存在できるのは、ひとえに神がそれを管理し、これらの法則を統治、支配しているからです。……

(中略)

……神は様々な地理的環境の境界を定めたほか、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界と法則も定めたのです。様々な地理的環境の差異、そして様々な地理的環境の存在が原因で、各種の鳥、獣、魚、昆虫、植物にはそれぞれ異なる生存環境があります。鳥、獣、昆虫は様々な植物の中で生活し、魚は水中で生活し、植物は大地で育ちます。……それが一箇所に固定されているか、あるいは鼻から呼吸できるかどうかを問わず、神が造った万物にはそれぞれの生存法則があるのです。これらの生物を造るはるか以前、神はそれらの住みかと生存環境をすでに用意していました。これらの生物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定された住みか、生存に適した一定の場所、生存に適した気温をもつ場所があったのです。こうして、それらの生物が方々を彷徨ったり、人類の生存を脅かしたり、人々の生活に影響を及ぼしたりすることはありませんでした。これが、神が万物を管理する方法であり、人類に最高の生存環境をもたらしているのです。万物のうち生物には、生き延びるための食料がそれぞれの生存環境の中にあります。その食料のために、生物は生来の生存環境に固定されているのです。そのような環境の中、生物は神が定めた法則に従い、引き続き生き延び、増殖し、前進します。この種の法則や神の予定があるため、万物は人類と調和して暮らし、人類は万物と相互依存の中で共生しているのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の本分を尽くし始める。あなたは神の計画のため、神の定めのために自分の役割を果たして、人生の旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである。人類が誕生して以来、神は宇宙を経営し、万物の変化の法則とそれらの運行の軌跡を指揮しながら、ずっとこのように働いてきた。万物と同様に、人間は秘かに、知らないうちに、神から来る蜜と雨露によって養われている。他のあらゆるものと同様に、人は知らないうちに神の手による指揮のもとに生存している。人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である。

夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。

『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)

世界の創造以来、わたしはこの一群の民、すなわち今日のあなたがたを、予め定めて選び始めた。あなたがたの気質、素質、外見、霊的背丈、生まれた家族、仕事、結婚――髪や肌の色、生まれた時間さえも含むあなたのすべては、わたしの手によって定められたのである。あなたが日々為すことや出会う人たちも、わたしの手によって定められたのであり、もちろん今日あなたがわたしの前に来たという事実も、言うまでもなくわたしの采配である。混乱に陥ることなく、落ち着いて前進しなさい。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十四章」(『言葉』第1巻)

人間の運命と万物の運命は、創造主の統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を創造主の権威から引き離すことはできません。人間は、万物の法則を通して創造主の指揮と統治を理解するようになり、万物の生存の法則を通して創造主の統治を認識するようになるとともに、創造主が万物を統治し支配する方法を、万物の運命を通して察知します。また人間は、人間と万物のライフサイクルのうちにあって、万物やあらゆる生物への創造主による指揮と采配を真に経験し、そうした創造主の指揮や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や勢力よりいかに優れていて掛け替えのないものであるかということを目の当たりにします。これに鑑みると、創造主の統治は、いかなる被造物にも侵害できないものであり、いかなる勢力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したりすることはできないことを、人間は認めざるを得ません。人間や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われます。これこそ、創造主の権威が真に具現化されたものではありませんか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

神は全人類の運命を支配する

(神の言葉の一篇より)

人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねる任務を全うするために心と体を捧げるのはわたしたちすべての責任であり、義務である。なぜならわたしたちの全存在は神から来たものであり、神の統治のおかげで存在しているからである。わたしたちの心と体が神の委ねる任務のためでも、人類の義なる目的のためでもないなら、わたしたちの魂は神の任務のために殉教した人々に値せず、わたしたちにすべてを与えた神にはなおさら値しないと感じるだろう。

神はこの世界を創造し、この人類を創造し、さらに神は古代ギリシア文化ならびに人類の文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の統治と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図に従って起こるということを必ず信じているであろう。神のみが国や民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する。人類が良い運命を望むなら、また国が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は避けることのできない災難となる。

ノアが箱舟を造った時代を振り返って見なさい。人類はひどく堕落し、人々は神の祝福から迷いはぐれ、もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を神の光なしに生きていた。そして人の本性は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。このような人々はもはや神の約束を受けることはできなかった。彼らは神の顔を見るにも、神の声を聞くにも相応しくなかった。なぜなら彼らは神を見捨て、神から与えられたものすべてを放棄し、神の教えを忘れてしまったからである。彼らの心は神から遠く離れて行くばかりで、それにつれてあらゆる理知と人間性を失い堕落し、邪悪さを増していった。そして彼らは死に歩み寄り、神の怒りと罰を受けた。ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を造り、あらゆる種類の生物をそこに集めた。こうしてひとたびすべての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族七人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。

それでは現代に目を向けてみなさい。ノアのように神を礼拝し、悪を避けることのできる義人はいなくなってしまった。それでもなお、神はこの人類に恵み深く、この終末の時代においても人類の罪を赦す。神の現われを切望する人々を神は探し求める。神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を神は探し求める。神の前で赤子のように従順で、神に抵抗しない人々を神は探し求める。あなたが何の勢力にも妨げられずに神に献身するならば、神はあなたを好意の眼差しを注ぎ、祝福を授ける。たとえあなたが地位が高く、名声があり、知識が豊富で、有り余るほどの資産の持ち主で、多くの人々の支持を得ていたとしても、それらのものが、あなたが神の前に出て神の召命と任務を受け、神の命じることを行う妨げにならないならば、あなたの為すことはすべて地上で最も意義深い行いであり、人類の最も義なる事業となる。もしあなたが地位や自分自身の目標のために神の召命を拒むならば、あなたの為すことはすべて神にのろわれ、さらには忌み嫌われるであろう。あなたは大統領かもしれない、あるいは科学者、牧師、長老かもしれないが、あなたの地位がどんなに高くても、自分の知識と能力を頼りにして事業に着手するならば、あなたは必ず失敗し、必ず神の祝福をのがすことになる。神はあなたの為すことは何も受け入れず、あなたの事業が義であるとは認めず、あなたが人類の益のために働いているとは見なさないからである。あなたの為すことはすべて、人類の知識と力を用いて人から神の保護を奪い去ることだが、それは神の祝福を否定するために行われると神は言う。あなたは人類を暗闇の方向へ、死の方向へ、人が神と神の祝福を失ってしまった終わりなき存在の始まりへ導いていると神は言う。

人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人はやはり必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、衰退への道を突き進み、神によって滅ぼされる。

あなたの国は今のところ繁栄しているかもしれない。しかし、国民が神から離れていくことを許すなら、その国はますます神の祝福から遠ざかることになる。あなたの国の文明はどんどん踏み躙られ、やがて人々は神に反対して立ち上がり、天を呪うことになる。こうして一国の運命は人の知らないうちに破滅する。神は強大な国々を興して神に呪われた国々を取り扱い、さらには、そうした国々を地球上から一掃することさえあり得る。一つの国や民族の興亡は、その支配者が神を崇拝しているかどうか、その国民が神に近づき、神を崇拝するように導いているかどうかにより決まる。しかし、この終末の時代に、真に神を求め神を崇拝する人はますます少なくなっているので、神はキリスト教を国教とする国々に特別な恩恵を授ける。神はそれらの国々を結集させて世界において比較的に義である陣営を形成する。一方、無神論の国々と真の神を崇拝しない国々は義なる陣営の敵になる。このようにして、神はその働きを行うための場所を人類の中に持つだけでなく、義なる権威を行使できる国々を獲得し、神に抵抗する国々に制裁と制限が課せられることを許可する。しかしそれにも関わらず、神を崇拝するために進み出でくる人がこれ以上いないのは、人間が神からあまりにも遠く離れてしまい、神をあまりにも長く忘れてしまっているからである。地上にはただ義を行使し、不義に抵抗する国々が残るだけである。しかし、これは神の願望とは程遠い。どの国の支配者も神が自国民を統括することを許さず、どの政党も神を崇拝するために人々を結集させないからである。神は各国、民族、政権政党の中心において、さらには各人の心の中においてでさえ、本来の正当な位置を失った。確かにこの世界には義なる勢力が存在するが、神が人の心の中で何の地位も占めていない統治は脆弱である。神の祝福がなければ、政治の舞台は混乱に陥り、一撃に耐えられなくなってしまう。人類にとって神の祝福がないことは、太陽がないようなものである。支配者がどれほど熱心に国民のために貢献しようが、どれほど多くの義なる会議を人類が開催しようが、どれも流れを逆転させることはなく、人類の運命を変えることもない。人々が衣食に困らない国、平和に共に暮らす国はよい国であり、良い指導者の国だと人は考える。しかし、神はそうは思わない。神は、神を崇拝する者のいない国は滅ぼすべき国であると考えている。人の考え方は、神の考え方とはあまりにも食い違っている。だから、もし国の長が神を崇拝しなければ、その国の運命は悲劇的なものとなり、その国に終着点はない。

神は人間の政治に参加しないが、国または民族の運命は神に支配されている。神はこの世界と全宇宙を支配している。人の運命と神の計画は密接に関連しており、誰もどの国も民族も神の統治から免れない。人間の運命を知りたいなら神の前に来なければならない。神に従い、神を崇拝する人々を神は繁栄させ、神に抵抗し、拒絶する人々に衰退と絶滅をもたらす。

神がソドムを滅ぼしたときの聖書の場面を思い出してみるがよい。また、ロトの妻がどうして塩の柱になったかも考えてみるがよい。ニネベの人々が荒布をまとい、灰の中に座していかに罪を悔い改めたかを思い返し、二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよい。ユダヤ人はイスラエルから追放され、世界中の国々に逃亡した。多くは殺され、ユダヤ民族全体が、前例のない亡国の苦痛に苛まれた。彼らは神を十字架に釘付けにし――凶悪な罪を犯し――そして神の性質を侵害した。彼らは自分たちが為したことの代価を払い、その行動の責任の一切を取らなければならなかった。彼らは神を罪に定め、神を拒絶したので、たどる運命は一つしかなかった。すなわち、神の罰を受けたのである。これが彼らの支配者たちがその国と民族にもたらした苦い結果と災害であった。

今日、神は働きを行うために世界に戻ってきた。神が最初に留まった所は、独裁的支配の典型、すなわち無神論の頑強な砦、中国である。神はその知恵と力によって一群の人々を獲得した。この間に、神は中国共産党にあらゆる手段をもって追跡され、塗炭の苦しみにさらされ、枕する場所もなく、避難場所を見つけることもできなかった。それにも関わらず、神は意図した働きを続行している。つまり神は声を発し、福音を広める。誰も神の全能性を推し量ることはできない。神を敵と見なす国、中国で、神は決してその働きをやめてはいない。それどころか、ますます多くの人々が神の働きと言葉を受け入れている。神は最大限可能な限り、人類の一人一人を救うからである。わたしたちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。すべての民族、国家、そしてあらゆる業種の人々が神の声に耳を傾け、神の働きに目を向け人類の運命に留意することで、神を至聖、至尊、至高たる、人類唯一の崇拝の対象とし、アブラハムの子孫がヤーウェの約束の下に生きたように、最初に神が造ったアダムとエバがエデンの園で暮らしたように、人類全体が神の祝福の下に生きることができるようにすることをわたしは強く勧める。

神の働きは強い波のように打ち寄せる。誰も神を引き留めることはできず、誰も神の前進を停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然受けるべき罰を受ける。

神の出現と働き(『言葉』I)

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序文

神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を…

質問 9:終わりの日の神様の働きを受け入れますが、どうすれば神様の裁きと刑罰を経験し真理と命を得て罪深い本性を消し去り救われて天国に入れるのですか?

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質問 1:あなたは、主イエスが中国に再臨され、その働きをなされている、と証しをされていますが、これは主イエスが聖書の中で預言していますので、私は本当だと思います。「いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)。でも私たちは、主が終わりの日に再臨され、私たちを天の国に連れて行ってくださるか、少なくとも、雲まで引き上げられて空中で神様に会えるものと思っています。パウロも聖書の中で言っています。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)。しかしなぜ主は、聖書に記されているように来られないのですか? 終わりの日の全能神の裁きの働きは私たちが天国に連れて行かれることと何の関係があるのですか?

回答:沢山の人が、主が再臨されたときに、信者を大空に持ち上げてお会いになると信じています。でもそれは主ではなく、パウロの言葉によるものです。私たちには、パウロの言葉が人間の考えなのか、聖霊の啓きから来たものなのか知るすべはありません。これは主イエスが再臨について言われたことです。…

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