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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

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第1章 全能神が天と地とそこにあるすべてを創造した唯一の真の神であることを知らなければならない

2.全能神は再臨したイエスである

関連する神の言葉

神は、香港や台湾の同胞が内地と呼ぶ中国本土で人の姿となって現れている。神が天から地上に来た時、天でも地上でも誰もそのことを知らなかった。これが、隠れた形で神は戻るという本当の意味だからである。神は人の姿となって長い間働き、生活してきたが、誰もそのことを知らなかった。今日に至ってさえ、誰もそのことに気づいていない。多分、これは永久になぞのままだろう。神が今回肉となったことは、誰もが気づけることではない。聖霊の働きがどんなに大規模で強力であっても、神はいつも冷静で、決して内心をさらけださない。あたかもこの段階の神の働きは天国で行われているかのようだと言うことができる。すべての人にとって完全に明らかであるにもかかわらず、誰もそれに気づかない。神がこの段階の働きを終える時、すべての人は長い夢から覚め、過去の態度を逆転させるだろう。わたしはかつて神が、「今回人の姿となったことは虎の穴に落ちるようなものだ」と言ったことを覚えている。これが意味するのは、今回の神の働きでは神が人の姿となり、赤い大きな竜の住み家で生まれるので、今回神の地上への到来は非常な危険を伴っているということだ。神が直面するのはナイフと銃とこん棒である。神が直面するのは誘惑である。神が直面するのは殺意のある顔つきをした群衆である。神は今すぐにも殺される危険を冒している。神は確かに怒りをもって来た。しかし、神は人間を全きものとする働きをするために来た、つまり、贖いの働きの後に続く神の働きの第二部を行うために来たのである。この段階の働きのために、神は精一杯考え、配慮し、誘惑の攻撃を避けるために考えつく限りのあらゆる手段を用いており、謙虚に身を潜め、決して正体を誇示しない。人間を磔から救うことに関しては、イエスはただ贖いの働きを完成していただけで、人間を全きものとする働きはしていなかった。従って神の働きの半分しか行われておらず、贖いの働きを終えることは神の計画全体の半分でしかなかった。まもなく新時代が始まり、古い時代は遠ざかろうとしていたので、父なる神は働きの第二部を検討し始め、そのための準備を開始した。これまで、この終わりの日の受肉は予言されなかったかもしれず、従って今回神が肉となったことについて隠匿性が増す土台となった。夜明けに、誰にも知られずに神は地上に来て、人の姿で生活を始めた。人々はこの瞬間に気づかなかった。彼らはみなぐっすり眠っていたかもしれない。注意深く目を覚ましていた多くの人は待っていたかもしれない。多くの人は静かに天の神に向かって祈っていたかもしれない。しかし、これら多くの人たちすべての中で、一人として神が地上にすでに到着していることを知らなかった。神はもっと円滑に働きを実行し、よりよい結果を達成するためにこのように働いたのであり、それはさらなる誘惑を避けるためでもあった。人が春の眠りから覚める時、神の働きはそのずっと前に終わっているだろう。地上を歩き回り逗留する生活を終え、神は旅立つ。神の働きには神が自ら行動し、語ることが必要なので、また、人が手を貸すことなどできないので、神は地上に来て、自分で働きを行うために非常な苦しみに耐えた。人が神の働きの代役をつとめることはできない。従って、神は恵みの時代の危険より数千倍も大きな危険を冒し、自分の働きを行うために赤い大きな竜が住むところに降りてきて、この貧困に陥った人々の一団を救い出すために、この山のような汚物にまみれた人々を救い出すために、神の思考と気遣いのすべてを注ぎ込む。たとえ誰も神の存在について知らなくても、神が悩まないのは、知らないほうが働きのためになるからである。あらゆる人は残忍なほど邪悪なので、どうして神の存在を容認することができようか。そういうわけで神は地上ではいつも沈黙している。人がどんなにひどく残酷であっても、神はそれを苦にすることはなく、なすべき働きを行い続け、天の父に与えられたもっと大きな任務を履行する。あなたたちの誰が神の愛らしさに気づいているだろう。誰が父なる神の重荷に対して神の子以上の思いやりを示すだろう。誰が父なる神の心を理解することができるだろう。天の父なる神の霊はしばしば悩まされ、地上の神の子は心がずたずたになるほど心配して、父なる神の心のためにたびたび祈りを捧げる。父なる神のその子に対する愛を知っている者がいるだろうか。最愛の子が父なる神をどんなに恋しく思っているか知っている者がいるだろうか。天と地の間に引き裂かれて、二人は絶えず遠くからお互いの姿を注視し、霊において一緒にいる。ああ、人類よ。あなたたちはいつ神の心を思いやるのだろう。あなたたちはいつ神の心を理解するのだろう。父と子はつねに互いを頼りにしてきた。ではなぜ彼らは別れていて、一人は天に、一人は地上にいるのだろう。子が父を愛するように、父は子を愛している。ではなぜ父はそのように切望して待ち、そのように心配しながら切望しなければならないのだろう。彼らは長い間離れていたわけではなかったが、父がすでに何昼夜も不安げに切望し、愛しい子が早く戻ってくることを楽しみに待ち続けていることを誰か知っているだろうか。神は観察し、黙って座り、待つ。すべては愛しい子が早く戻ってくるためである。いつになったら彼は地上でさまよっている子と再び一緒になるのだろう。かつては一緒にいて、永遠に一緒にいるであろうにもかかわらず、どうして父と子は何千昼夜ものあいだ、一人は天に、一人は地上と別れていることに耐えることができるのだろう。何十年も地上にいることは何千年も天にいるようなものだ。父なる神はどうして心配しないでいられるのだろう。神が地上に来れば、人と同様に人間世界の多くの苦難を経験する。神自身は罪がないのに、なぜ神に人と同じ痛みで苦しませるのか。父なる神が子を熱心に切望するのは驚くに当たらない。神の心を誰が理解することができようか。神は人に多くを与えすぎる。どうしたら人は神の心に適切に報いることができるだろう。しかし人が神に与えるものは少なすぎる。したがって神はどうして心配しないでいられようか。

人々のうちほとんど一人も神の差し迫った心を理解していない。なぜなら人々の力量はあまりにも低く、彼らの霊的感受性は非常に鈍く、彼らはみな神が何をしているか気づかないし、注意を払ってもいないからである。そこで神はあたかも人の野蛮な性質が今にも突出しないかと人について心配し続ける。これはさらに、神が地上に来ることは大きな誘惑を伴っていることを示している。しかし、一団の人々を完成させるために、神は栄光に満ちて、人に何も隠さず、すべての意図を告げた。神はこの集団を完成しようと堅く決心していた。従って、困難や誘惑が来ようと、神は目をそらしてそのすべてを無視する。神は、いつか神が栄光を得た時、人は神を知ると堅く信じて、また、人が神によって完成されたとき、完全に神の心を理解するだろうと信じて、静かに自分の働きを行なう。現時点では神を誘惑したり、誤解したり、責めたりする人々がいるだろう。神はそうしたものを何も気にしない。神が栄光の中に降りていくと、人々は皆、神がすることはすべて人類の幸福のためであることを理解し、人々は皆、神がすることはすべて人類のよりよい生き残りのためであることを理解するだろう。神の到来には誘惑がつきものであり、神は威厳と怒りも伴って来る。人のもとを去るときまでには神はすでに栄光を獲得し、栄光と戻る喜びをたっぷり担って去っていくだろう。地上で働く神は人々がどんなに神を拒絶しても物事を重く受け止めない。神はただ自分の働きを行なっている。神の天地創造は何千年も前にさかのぼり、神は計り知れないほどの量の働きを行うために地上に来て、人間世界の拒絶や中傷を十分経験した。誰も神の到着を歓迎しない。すべての人は神を冷たい視線を投げやるだけである。この数千年に値する苦難の過程で、人の行動はかなり前から神の心を打ち砕いていた。神はもはや人々の反逆には注意を払わず、その代わりに人を変革し、浄化する別の計画を立てている。愚弄、中傷、迫害、苦難、磔刑の苦しみ、人による排斥など、神が肉体で経験したこと――神はこれらを十分に味わった。肉体の神は人間世界の苦難に徹底的に苦しんだ。天の父なる神の霊はずっと以前にこのような光景は耐えがたいと思い、首を反らし、目を閉じ、愛する子が戻って来るのを待った。神が望むのは、すべての人々が耳を傾け、従い、人となった神の前で大いに恥を感じ、神に逆らわないようになることだけである。神が望むのはすべての人々が神の存在を信じることだけである。大きすぎる代償を支払ってきたので、神はかなり前から人に多大の要求をすることをやめたが、人は呑気に構えており、神の働きを全く心にとどめていない。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(4)」より

神が初めて肉となったときは、聖霊による受胎によってであり、それは神が行なうつもりの働きに関係していた。イエスの名は恵みの時代の始まりを印した。イエスがその職分を始めたとき、聖霊がイエスの名に証しはじめ、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊がおもにイエスの名のもとに新しい働きを始めた。神を信じる人たちの証はイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためであった。旧約聖書の律法の時代の終わりは、ヤーウェの名の下でおもに行われた働きが終局を迎えたことを意味した。この後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神はイエスと呼ばれ、ここから聖霊がおもにイエスの名の下で働きを開始することになった。今日、人々はいまだにヤーウェの言葉を食べたり飲んだりし、いまだに律法の時代の働きを使っている。規則に従っていないのか。過去から抜け出せないでいるのではないのか。今日、あなたは終わりの日が来たことを知っている。イエスが来るとき、やはりイエスと呼ばれるのであろうか。ヤーウェはイスラエルの人々にメシアが来ると言ったが、メシアが現れたとき、メシアとは呼ばれずイエスと呼ばれた。イエスは自分は再び来ると、去ったときと同じように来ると言った。これらはイエスの言葉であったが、あなたはイエスがどのように去って行ったのかを目撃したのか。イエスは白い雲に乗って去って行った。しかしイエスは白い雲に乗って自ら人間のもとに戻ってくるであろうか。もしそうであったとしても、もはやイエスと呼ばれないのではないのか。イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでも依然としてイエスと呼ぶことができるか。神はイエスという名でしか知られていないのであろうか。新しい時代にイエスは新しい名前で呼ばれることはできないのであろうか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神全体を表すことができるのであろうか。それぞれの時代で、神は新しい働きを行い、新しい名前で呼ばれる。どうして神が異なった時代に同じ働きをすることができるのか。どうして神が古いものにしがみついていることがありえようか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき依然として同じ名前で呼ばれるであろうか。イエスはまだ贖いの働きをするのであろうか。なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか。この様に、神は違う時代には異なる名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、ひとつの名前だけで神を完全に表すことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を表すだけで、神の働きを表すためだけに必要である。よって、神は時代全体を表すために、どんな名前であれ神の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表されている。恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのになぜ神はまだイエスと呼ばれることができるのであろうか。どうして神は人々のあいだでイエスの外観を取ることができるのであろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことを忘れたのか。イエスはただ人類の贖い主であったということを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを行なうことができるのであろうか。イエスは白い雲に乗って去って行った。これは真実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、またイエスと呼ばれるなどということがどうしてありえようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間に見分けられるのではないであろうか。世界中の人々がイエスを見分けるのではないであろうか。その場合、イエスだけが神ということになるのではないのか。その場合、神の姿とはひとりのユダヤ人の外見であり、永遠に同じということになる。イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは去って行ったとおりにやって来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。それではイエスがあなたに前もって知らせることができたであろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。これは冗談ではないのか。神が地上に来るたびに、神はその名前、性別、姿、働きを変えることになる。神はその働きを繰り返すことはなく、常に新しく決して古くない。神が以前来た時、イエスと呼ばれた。神が今度再び来るとき、やはりイエスと呼ばれることがあるであろうか。以前イエスが来た時は、男性であった。今回も男性でありえるであろうか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架に釘づけにされることであった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖うのであろうか。やはり十字架につけられるのであろうか。それは働きの繰り返しにならないであろうか。神は常に新しく決して古くないことを知らないのか。神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。神の働きは常に前進している。だから神の性質は人間に次第に現わされる。そして現わされるのは神の本来の性質である。初めには、神の性質は人には隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と現したことはなく、人は神について認識がなかった。だから神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に現わした。しかし、これは神の性質がそれぞれの時代に変化するという意味ではない。神の心が常に変わるので、神の性質が絶えず変わるということではない。むしろ、神の働きが異なった時代で実行されるため、神の本来の性質のすべてが徐々に人に現わされ、人は神を知ることができるのである。しかし、これは神がもともと特有の性質は持たず、時代と共に徐々に変わっていったという証明などではない――そのような理解は間違いである。時代の移り変わりに応じて、神は人にその本来の特有な性質、神であることを現わす。ひとつの時代の働きで神の性質の全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく決して古くない」という言葉は神の働きに関してであり、「神は不変である」という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。

神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きを行い、それぞれ時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見せる。もし人々が新しい時代に、神の新しい性質の表れを見ないならば、人々は永遠に神を十字架に釘付けにするのではないであろうか。そうすることで神を定義するのではないであろうか。もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。神は終わりの日における新しい働きを行なっている。神はその性質をさらに明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神は新しい働きを担っているので、それは新しい性質を伴う。もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神は受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通して直接語りかけ、人間には神と直接接触する方法がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができたであろうか。もしも霊のみがこの働きを行なったならば、人間には神の性質を知る方法がなかったであろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言が肉に現れるとき、神がその全性質を肉体をもって表現するときだけである。神は本当に人間のもとで暮らしている。神は触れることができる。人間は本当に神の性質、神のもつもの、神であるものと関わりをもつことができる。この方法においてのみ、人間は本当に神を知ることができるのである。神はまた同時に、男たちと女たち両方の神である神としての働きを完了し、肉体における神の働きをすべてを達成した。神はそれぞれの時代で、その働きを繰りかえさない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日の働きを行い、終わりの日にその全ての性質を現わす。終わりの日は別の時代で、イエスがあなたがたは災害を被り、地震、飢饉、疫病などに遭遇しなければならないと言った時代である。それは新しい時代であり、そしてもはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。もし人々が言うように、神が永久に不変で、神の性質は常に憐れみ深くいつくしみに満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神は果たしてその働きを完成することができるであろうか。イエスが来た時、十字架につけられ、祭壇に自身を捧げることによってすべての罪人のために犠牲となった。神はすでに贖いの働きを完成し、すでに恵みの時代を終わらせた。それなら終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何か。同じことをするのはイエスの働きを否定することではないだろうか。もし神がこの段階に来て、十字架刑の働きをせず、いつくしみに満ち憐れみ深いままなら、神は時代を終わらせることができるであろうか。いつくしみに満ち憐れみ深い神はその時代を終わらせることができるであろうか。時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。よって、この様な性質は時代の意義を持ち、神の性質の顕示と表示はそれぞれの新しい時代の働きのためである。神はその性質を気まぐれに意味もなく顕すことはない。もし、人の終末が終わりの日に明らかにされるときに神が依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛情深く、人を義なる裁きにさらさずに寛容、忍耐、赦しを示すなら、人がどんなに深刻な罪を犯しても、義なる裁きなしに依然として人を赦すなら、神の経営のすべてに一体終わりはあるのだろうか。このような性質がいつ人類を正しい終着点に導くことができるのだろうか。たとえばいつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それでいつ正しい判決にたどり着くことができるのか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。同様に、ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

わたしが最初に彼らの中に出現したのは贖いの時代であった。もちろんわたしはユダヤ民族の中に出現した。従って神が地上に来るのを初めて見たのはユダヤ人であった。わたしがこの働きを直接行った理由は、わたしの贖いの働きの中で罪の捧げものとして、人となったわたしの肉体を使いたかったからである。そこでわたしを最初に見たのは恵みの時代のユダヤ人たちであった。わたしが肉体で働きを行ったのはそれが初めてであった。神の国の時代では、わたしの働きは征服し、完全なものにすることであるので、わたしはふたたび肉体の形で羊飼いとしての働きを行う。これはわたしが肉体の形で行う二回目の働きである。働きの最後の二段階では、人々が接触するものは、もはや目に見えない、触れることのできない霊ではなく、霊が肉体として実現化された人である。従って、人の目には、わたしはふたたび人になり、神の容貌も雰囲気も持たない。そのうえ、人々が見る神は男性だけでなく女性でもあるので、彼らには非常に驚異的で不可解である。再三再四、わたしの途方もない働きは、長年にわたり抱かれていた古い信念を粉砕し、人々は動転している。神は、聖霊、霊、7倍に強化された霊、すべてを包み込む霊であるだけでなく、人、普通の人、ことのほか平凡な人でもある。神は男性だけでなく、女性でもある。彼らはどちらも人間に生まれたという点で同じであるが、一人は聖霊によって受胎され、もう一人は生まれながらに人間であるが、霊から直接生じているという点で異なっている。彼らはどちらも神の肉体化した形で、父なる神の働きを実行するという点で同じであるが、一人は贖いの働きを行い、もう一人は征服の働きを行うという点で異なっている。どちらも父なる神を表すが、一人は親愛の情と慈悲に満たされた贖い主であり、もう一人は怒りと裁きに満たされた義の神である。一人は贖いの働きを開始するための最高司令官であり、もう一人は征服の働きを完了させる義の神である。一人は始まりであり、もう一人は終りである。一人は罪のない肉体であり、もう一人は贖いを完成させ、働きを続行し、罪によらない肉体である。彼らはどちらも同じ霊であるが、異なる肉体に宿り、異なる場所で誕生する。また、彼らは数千年も隔てられている。しかし、彼らの働きはすべて相互に補完し合っており、決して対立せず、同じ次元で語られる。どちらも人であるが、一人は男の赤子であり、もう一人は女の幼児である。

『言葉は肉において現れる』の「神について何を理解しているのか」より

神は霊であるだけでなく、肉体になることもできる。そのうえ、神は栄光のからだである。あなたたちは見ていないが、イエスはイスラエル人によって、すなわち、当時のユダヤ人に目撃された。彼は最初肉体であったが、はりつけにされた後、栄光のからだになった。神はすべてを包みこむ霊であり、あらゆる場所で働きを行うことができる。彼はヤーウェ、イエス、メシアになれる。最後には全能の神になることができる。それは義であり、裁き、刑罰であり、のろい、怒りであるが、慈愛と憐れみでもある。神の働きはすべてが神を表すことができる。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

わたしたちの世代は、従前の世代の人々が踏破しなかった道を受け継ぎ、数千年前からの神の再現、わたしたちとともにここにいて、またあらゆる物事を満たす神を目の当たりにすることが出来て、恵まれているとわたしは考える。あなたはこの道を歩むことが出来るなどとは決して考えなかったであろう。できるであろうか。この道は聖霊により直接導かれ、七倍に強められた主イエス・キリストの霊により導かれ、また現在の神によりあなたのために拓かれた道である。あなたは最も突飛な夢の中でさえも、数千年前のイエスが自分の前に再度現れるとは想像し得なかったであろう。嬉しいと感じないであろうか。神と直面出来る者は誰であろうか。わたしは、わたしたちの集団が一層大いなる恵みを神から得られるように、神に好まれ、神に得られるようにと頻繁に祈っているが、同時にわたしたちの集団のために悲しみの涙に暮れ、神がわたしたちを啓いて一層大いなる啓示を目の当たりにすることが出来るようにと願うことも無数にあった。

『言葉は肉において現れる』の「道(7)」より

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