46. 死の淵から戻って
2007年、私は突然慢性腎不全になりました。クリスチャンである母と義姉、数人のカトリックの友人はこのことを知ると、みんなで私に会いに来て福音を説きました。主を頼ってさえいれば病気は治ると、母たちは言いました。ところが私は神をまったく信じていませんでした。病気を治せるのは科学的な治療方法だけで、科学で治せないのは不治の病だと思いこんでいたのです。そもそも、この世に科学の力より偉大な力などあるのでしょうか?神への信仰は一種の精神的な支えです。しかも私は公立学校の教師という立派な地位にあり、高等教育を受けて教養があったので、おいそれと神を信じるわけにはいかなかったのです。そんなわけで、私は母たちの勧めに従わず、よい治療をしてくれるところを探しまわりはじめました。二、三年のうちに、自分の住む県と省の大病院をほぼすべてめぐりましたが、それでも病状は改善しませんでした。それどころか悪化する一方だったのです。それでも私は頑として自分の見解にこだわり、科学で何でも変えられる、病気の治療は時間がかかるものだと言い張りました。
2010年、全能神教会のある姉妹が私のもとを訪れ、神の国の福音を説きました。主イエスがこの世にお戻りになったのは新しい働きをなさるためで、その中には真理を発して人々を裁き清めることも含まれているというのです。神の働きのこの段階は、人類を徹底的に救うことが目的ですが、人類が神に救っていただく最後のチャンスでもあるのですよ、と。私はまだその言葉を全面的に受け入れるつもりはありませんでしたが、これまでの数年間、よい治療を求めて失敗と挫折をさんざん味わったために、以前ほど頑なな態度はとらず、姉妹から説得されるままに神の御言葉の本を受け取りました。けれどもその時点ではもちろん、その本にある御言葉が神によって表された真理だとは信じていませんでした。相変わらず科学だけが自分の運命を変えられるという自説を曲げずに、病状を改善できるのは薬だけだと信じつづけていたのです。やがて食事よりも薬のほうを毎日多く摂取するようになりましたが、それでも改善の兆しはほんのわずかも見られませんでした。姉妹は数えきれないくらい私の家を訪れてくれましたが、私は依然として神を信じることを拒んでいました。そんな状態が一年ほど続いたのです。
ところがある日突然、両目の視界がぼやけ、両脚がひどくしびれて歩けなくなりました。医者の話では、数年にわたって大量の薬を飲み続けたせいで中毒が起こり、その結果こうした症状が起きたというのです。最初は県の病院に一週間入院し、その後北京にある軍の病院に移されて一か月治療を受けました。それから同じ北京の、漢方治療で有名な病院に移され、中国の伝統的な治療を受けました。しかしそこで二か月間治療を受けても、病状はまったく改善しませんでした。私の主治医は、この病院を引退した元神経科医長に頼んで私の診察をしてもらうことまでしてくれましたが、病状は少しも改善しませんでした。その後将来の義理の娘から、私のような厄介な難病でも治せると評判の医者が雲南省にいると聞きました。そこから紆余曲折はありましたが、私はなんとか車椅子でそこに連れて行ってもらえました。ところが一か月近く治療を受けても、病状が回復しなかっただけでなく、目と脚のために服用していた薬のせいで腎臓病が悪化する結果になったのです。これでは助からないのではないかとひどい不安に陥った私は、家に帰ることにしました。その後は、腎臓を守るために目と脚の治療と薬を断念しました。
そのころ、私は絶望のどん底にいました。自分はこんなにも科学を信じきってきたのに、科学は私の病気の治療には完全に無力だった、という思いにたびたび襲われました。科学で治療できるという望みが打ち砕かれると、私はひどく落ち込んで虚脱状態になりました。どのように生きていけばよいのかわかりません。痛みと苦しみでぼんやりする中、私はしばしばとんでもないことを考えました。「私はどうしてこれほど多くの病気にかかっていて、しかも薬で治してもらえないんだろう?科学を信じ、科学を信頼し、最善を尽くして最高の治療方法を探したのに、まったく効果がなかった。それどころか、病気は悪化するばかりだわ。ひょっとすると科学は私を本当に救えないんじゃないかしら?この世に神が本当に存在するんじゃないかしら?すべての人間の運命は、本当に神の御手の中にあるのかしら?」こうした疑問についてどんなに考えても、答えはひとつも見つかりません。その時期、私は激痛と苦しみに耐えながら毎日を送っていて、自分が寝たきりで役立たずの病人だと思うたびに、人知れず泣き伏していました。家族に多大な迷惑をかけていると感じ、これ以上重荷になりたくないと思いました。自殺したいと思ったのも一度だけではありません。けれども死ぬのは怖かったのです。そのため私は死の訪れを待ちながら、一日一日をただ漫然と過ごしていました……。
ある日、全能神教会の姉妹が私のために置いて行った本に夫が気づきました。「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」という見出しを見たとたん、夫は興味を引きつけられ、次の一節を私のために読み上げてくれました。「神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神が偉大な働きを行なったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか」(『言葉は肉において現れる』)。この短い一節に、私は心を激しく揺さぶられました。とくに「ならば自分の運を試してはどうか」という言葉が、繰り返し頭をよぎりました。まるで私の陰鬱な心に一条の光が差し込んだように、生きつづけることへのかすかな望みを見出せたような気がしたのです。私は夫をせきたてて神の御言葉の別の二章を読んでもらいました。そこには、神が御言葉をお使いになって人々を裁き清め、いのちの性質を変えられるという真理が書かれていました。その何もかもが私にとって耳新しいことで、読まれた御言葉の意味を完全に理解したわけではなくても、こうした教えが他の人々から聞いている主イエスの福音と違っていることは感じ取れました。そういった人々の言うことはたいてい、どうしたら神のお恵みを得られるかとか、私がひたすら神を信じれば病気は治るといったことだったので、私は信じていなかったのです。けれども全能神の御言葉ははるかに実践的に思えたので、聞けば聞くほどもっと聞きたくなりました。
それから私は、夫に毎日神の御言葉を朗読してもらいました。この本には、宗教的な人々は神を信じているが神を知らず、神に抵抗までしている、またしばしば日中に罪を犯して夜に告白すると書かれていました。私はこのことにいっそううなずかされました。というのも、私の母と義理の姉妹二人はみなクリスチャンですが、この神の御言葉通りの生き方をしていたからです。母たちは本当に罪を犯したあとその罪を告白し、その後また罪を犯す、といったことを繰り返していました。私の霊が目覚めたのはその時です。これが本当に神の御声なのかしら?もし神でないなら、その著者はどうして宗教界のことをこれほどまでによく理解しているのだろう?不信心者なら理解などできず、偉人や有名人でもわからず、宗教的な人々さえも自分が神を信じていながら神に抵抗していることに気づいていない。そう考えれば考えるほど、この本の御言葉は人が発せられるようなものではなく、俗世に受肉された神がおっしゃったことなのではないかと思うようになりました。
それから何日も経たないうちに、最初に全能神の国の福音を説いてくれた姉妹が、私が退院して家に戻ったと聞きつけ、もう一人の姉妹を連れて私の家にやって来て、ふたたび福音を説いてくれました。この時私は、良心が自分に話しかける声に気づきました。「私は寝たきりになったけど、この姉妹たちは私を嫌って見捨てるどころか、何度もうちに足を運んで福音を説いてくれた。普通の人にはとてもできないことよ。他の人はとっくの昔に私のことなど忘れてしまったはずなのに」。このような愛は神に由来するにちがいありません。私の考えでは、それは火を見るより明らかでした。というのも、そうした愛は俗世では決して見つからないものだからです。「困ったときの友が真の友」ということわざの意味を、その日私はしみじみと実感しました。家族が私のそばにいるのは、家族である以上避けられないことです。けれどもこの人たちは私とは赤の他人なのに、下心があるわけでも何か条件をつけるわけでもなく、一年以上も定期的に通って私に福音を伝え、私のような寝たきりの病人のために骨を折り、自分たちの信仰や愛、忍耐強さがいかに素晴らしいかを示してくれました。私は神の愛に心から感動し、それ以降は神の福音を拒む理由がなくなりました。そうして、夫と私は二人で終わりの日の神の働きを受け入れたのです。
2011年6月、夫と私は全能神教会での教会生活を正式に始めました。私の視力が落ちて自分では読めなかったので、ふだんは夫が私のために神の御言葉を読み上げてくれました。また教会の集会では、兄弟姉妹も神の御言葉を読んでくれました。たまに一人になったときは讃美歌にも耳を傾けました。あとになって私は、神の御言葉の中に自分が病気になり苦しんでいる根源を見出しました。「人間が生涯にわたって耐える、出生、死、疾病、老齢の苦痛は、何が根源なのでしょうか。これらの事が人間に発生する原因は何でしょうか。人間が最初に造られた時、こうした苦痛は人間に発生したか、というと、発生しなかったのではないでしょうか。それならば、こうした苦痛は、何に由来するものでしょうか。それらは、人間がサタンによって誘惑され、肉体が堕落したあとで発生しました。人間の肉の痛みや苦しみ、虚無感、人の世における極度の悲惨な出来事といったことは、サタンが人類を堕落させて初めて生じました。人間がサタンによって堕落させられた後、それは人間を苛み始めました。結果として人間は一層堕落してゆき、人間の病はますます深刻になり、人間の苦しみは一層激しくなりました。人の世の空虚感や悲劇、この世で生き続けることが不可能であることを、人は一層感じるようになったのです。そしてこの世に対する希望もますます感じなくなっていきました。この苦しみはサタンから人間にもたらされたものです。……そのため病気になって悩みを抱え、自殺することもあり得たり、また時には、世界は荒れ果てているとか、人生には何の意味もないとか感じたりすることがあります。言い換えると、こうした人間の苦しみはいまだサタンの支配下にあり、それが人間の致命的な弱さの一つを成しているのです」(「神が世俗の苦しみを味わうことの意義」『キリストの言葉の記録』)。病気の痛みによる苦しみがあまりにも大きいために、私が生きる意欲を完全に失い自殺したいと思ったことを、神の御言葉はまさしく言い当てていたのです。けれども神の御言葉は、病気の痛みと苦しみはすべてサタンが人々を害する手段なのだとも述べていました。私は最初のうち、神がこのようなことをおっしゃる訳がよくわかりませんでしたが、神の御言葉を読み進むうちに少しずつ、その真理が理解できるようになりました。
ある日の午後、夫がいつものように神の御言葉を朗読してくれていると、このような神の御言葉が耳に入ってきました。「人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。……科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる」(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉を聞いてやっと、人類の病気と苦しみはすべてサタンからもたらされていると神が言われた理由がわかりました。サタンは知識と科学を用いて私たちを堕落させているのです。サタンは「人間はサルから進化した」、「我々に救いを与える者は誰もい」、「知識は人の運命は変える」、「人間の運命は自分のの掌中にある」、「科学は人々を救う」、「人は自然を克服」などといった馬鹿げた考えを私たちに詰めこんでいます。サタンはこうした哲学や法則、思想、観念で人類を洗脳しているのです。人々はこうしたものに心と霊を奪われ、知識を妄信し科学を崇めるよう仕向けられています。そして知識で運命を変えられるという妄想を抱いたり、科学を用いてあらゆる難題を解決しようとしたりしているのです。サタンの馬鹿げた考えを取り入れて生活の基盤を形成してきたために、サタンに捕らわれ、縛られ、支配されてきたのです。そして神に由来するものすべてを否定し、神のお気遣いとご加護から遠ざかりはじめているのです。サタンは人形遣いが操り人形をもて遊ぶように人々を操っています。私はそのような形で害されている何百万人の中の一人にすぎなかったのです。私は病気になったとき、科学を信頼して治療を受けました。科学を盲信して崇め、有名病院の専門医なら、最新の技術と近代的な医療設備を用いて病気を治せるはずだと本気で思っていたのです。ところが病状は改善しないどころか、私は死ぬ間際まで追い詰められました。科学がもたらしたのは、非現実的な希望と癒えることのない痛みだけだったのです。科学が私に神を信じさせないせいで、私は繰り返し神に反抗し、抵抗し、その救済を拒みました。ところが私の反抗的な態度にもかかわらず、神は決して私の救済を諦めることなく、御言葉を用いて私を終始導いてくださったのです。かつて私の霊は知識と科学によって抑えつけられていました。その霊を神は少しずつ目覚めさせてくださったのです。一度は死の淵を覗いた私ですが、今は神の御前に出てその救いを得ているのです。
夫は毎日神の御言葉を読みつづけてくれました。そんなある日、私はこのような神の御言葉を聞きました。「神はこの世界を創造し、この人類を創造し、さらに神は古代ギリシア文化ならびに人類の文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の統治と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。……人類が良い運命を望むなら、また国が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は避けることのできない災難となる」(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉のおかげで、すべての人の運命は神の御手の中にあり、神が人間のいのちの源であることがわかりました。神の御前に出て、神に従い、神を崇めなければ、良い運命はもたらされません。神から離れて神に抵抗し、神を見捨ててサタンを頼りにするとき、その人は自らをサタンに引き渡しています。その結果、サタンに害されて踏みにじられ、果てしない災厄と際限のない苦しみにみまわれることになりますが、人はこのようにして自らを害し、自らに死をもたらすのです。そのとき、私は自分がいかに愚かで盲目で、惨めだったかを思い知りました。知識と科学に対する考え方が毒以外の何ものでもなく、私を堕落させるために使われたサタンの道具にすぎないことを理解したのです。私はこれまで長年にわたり悪魔によって毒されていたのです。今となればそのことが悔やまれてなりません。私は心の底から神への真の憧れを感じました。聖書に記されているニネベの人々のようにふるまい、神の御前でひれ伏し、告白して悔い改めたい、そしてあらゆる邪悪な手段を投げ捨てて、神が与えてくださる導きと糧を受け入れたいと思いました。神に従い神を崇めたいと思った私は、信者を我が家に泊める本分を割り当ててください、と自ら教会に願い出ました。兄弟姉妹との交わりでは、病気のために私を見下したり蔑んだりする人はいませんでした。それどころか私を精一杯助けて支えてくれたので、私はいつも彼らの偽りのない愛に囲まれていると感じていました。
それからしばらく経ち、病状が依然として改善しないので、私は神に、病気がよくなるようお助けくださいと訴えはじめました。ところが姉妹たちは次のように教えを説いてくれたのです。「神は万物の創造主でいらっしゃり、私たちはその被造物です。なので、神にどのように扱われようと、私たちはその計画と計らいを受け入れなければなりません。神に願いごとをすれば、ただ自分の理知のなさをさらけ出すことになります。病人を治したり、悪霊を払ったり、奇跡を行なったりすることが、恵みの時代の神の働きでした。けれども今は神の国の時代で、神の現在のおもな働きは、その御言葉によってすべてを成就し、御言葉を用いて人々の堕落した性質を清めて変えることなのです。神は、人々を神に従い、神に忠実で、神を知り、神を愛する者に変えて、そのような者の集団を次の時代へと導きたいと思われています。神が望まれているのは、神を知るようになった人々が自然に表わす愛と服従です。病気を治していただいた感謝の気持ちから、ご自身に従うことは望まれていません。このような神の御言葉があります。「神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである」(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)。つまり私たちは、自分がどれくらい祝福を望む気持ちに衝き動かされているか、神との関係がどれほど打算的になっているかを分析し理解しなくてはならないのです。また神の御言葉をもっと読んで生活の中でそれを実行し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、その取り扱いと刈り込み、試練、精錬を受け入れ、自らの堕落した性質の清めと変化を求めなければなりません。あなたの病気が良くなるかどうかは神の御手の中にあり、私たちは神の計画と計らいに従わなくてはならないのです」。
姉妹との交わりを通して、ただ神のお恵みを享受するだけでは、サタン的な性質は変わらないのだと理解するようになりました。終わりの日の神の裁きと刑罰を受け入れてはじめて、自分自身の堕落した性質を一掃し、良心と理知を取り戻し、それにより神の救いを得て神の御心にかなうことができるのです。終わりの日の神の働きを受け入れないクリスチャンはみな、神の豊かなお恵みを授けられていても、いまだに罪を犯して告白することを繰り返しながら生きています。なぜならそれは彼らの堕落した性質が清められていないからです。そのため彼らは神の祝福とお恵みを得ようとしていたずらに歩きまわり疲れ果てています。別の言葉で言うと、彼らは神との取引を望んでいるので、そのため決して神に認めていただけることはないのです。神の御心を理解した私は、病気を治してくださいと神にお願いするのをやめて、その代わりに病状がどうなろうと、神を信じ崇めようと固い誓いを立てました。被造物の一人としての本分を尽くし、真理を追求して神をもっと真剣に知るために探求し、自分の堕落した性質を一掃し、神に満足していただくため真に人間らしく生きようと心に誓ったのです。いったんこうしたことを実践しはじめると、心がとても解放され、病気の痛みに束縛されて制約を受けていると感じなくなり、死も怖くなくなりました。私が望んだのはただ、全身全霊を神に捧げて、神の命令と計らいに従うことだけだったのです。
その後は兄弟姉妹と頻繁に集まって神の御言葉を読み、真理について交わり、神を讃える讃美歌を歌いました。自分の心がとても豊かになったと感じ、それとともに苦しみが和らいできました。それ以上に不思議だったのは、いつの間にか足の麻痺が弱くなってまた少しずつ歩けるようになり、しまいには車椅子に頼らなくてもすむようになったことです。もっと思いがけないことも起こりました。ある日突然視力が戻ってきて、神の御言葉の本に印刷された文字が読めるようになったのです。私もついに自分の目で神の御言葉が見えるようになったのです!信じられませんでしたが、私は本当に奇跡を経験したのでした。私は言い表せない喜びを感じてその後も欠かさず神に祈り、感謝を捧げて神を讃えました。興奮した口調でこの良い知らせを夫に伝えると、夫は感動をあらわにしました。そして目に涙をためて、何度も泣き叫びました。「神様、感謝します、神様、感謝します!」そう、それはまさしく現実のことでした。私は神にほんの少し従っただけなのに、神はこの素晴らしい祝福をもたらしてくださったのです。終わりの日の神の働きにたとえ奇跡の御業が含まれていなくても、神の御言葉の権威は神の奇跡の権威をはるかに超越するということを私は深く感じました。神は本当に全能の神で、人々を愛する神なのです!
ある日夫は、県の病院で私のかつての主治医とばったり出会いました。私の腎臓病の治療はどのように進んでいるか、透析はしているかと医師から訊かれた夫はこう答えました。「透析はしませんでしたが、もう病状は改善しています。今は歩けるようになって視力も回復しています!」医者は目を丸くして言いました。「へえ、そんな奇跡もあるんですね。奥さんはもうしばらく前から透析を受けているものだと思っていましたよ」。
今現在、私は普通に生活しています。親戚や友人、近所の人は必ず驚いてこのようなことを言います。「こんなに早く病気が良くなるとは思いもしなかった。肉体的にも精神的にも、どこも悪いようには見えないね!」こうした言葉を聞くたびに、私は心の中で神への感謝の言葉を述べます。「神様、あなたが私に愛を示し、お救いくださったことは生涯忘れません。あなたのためにできることは何一つありませんが、生涯をかけてあなたに従い、あなたを崇め、あなたの被造物としての本分を尽くして、あなたの愛に報いようと私は心に固く決めています」。私はかつてひどく堕落していて、はじめのうち神の存在を認めず、たびたび神の救済を拒みました。それなのに神は私の過ちを責めなかっただけでなく、本当に素晴らしい方法で私をお救いくださったのです。私は神の慈しみをふんだんに受けていますが、自分がそのようなお恵みにふさわしくないのは承知しています。この強烈で動かしがたい経験から、科学と知識は人を救うことができず、ただ際限のない苦しみや恐怖、死をもたらすだけなのがわかりました。宇宙の万物を創造して支配なさる方のみが、いのちと必要な糧を人間に与えられるのです。神は人類の生存の唯一の基盤であり、人類の唯一の希望と救いです。良い運命を望むなら、神を崇めるしかありません。私は神に、サタンにすっかり騙されて死にかけた私のような者を、サタンの影響からお救いくださったことに感謝しています。神は私を生き返らせ、万物の創造主である神の御前に連れ戻してくださいました。私は今、輝かしいいのちの道を歩いているのです!