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働きと入ること(10)

人類がここまで進歩してきたことは、前例のない状況である。神の働きと人がいのちに入ることは肩を並べて進むのであるから、神の働きもまた比類の無い程の大いなる好機である。現在まで人間がいのちに入ることは、人間がかつて想像し得なかった不思議である。神の働きは絶頂を迎え、それに続いて人間の「入ること」[1]もまた絶頂を迎えた。神は自らを可能な限り卑しめ、人間その他あらゆる宇宙の万物に一度も反抗したことが無い。一方、人間は神の頭の上に立ち、神を最大限まで抑圧している。万事が絶頂を迎え、義が現れる時が来ている。闇に地を覆わせ、闇に人々を包ませるままにしておくのは何故だろうか。神は数千年、ことによると数万年にわたり、それを見てきて、神の寛容さが限界に達して久しい。神は人間のあらゆる挙動を見続け、人間の不義がどの程度の期間はびこるかを観察し続けてきたが、人間は随分前から愚鈍になっているので、何も感じない。一体誰が神の業を見て来たというのか。一体誰が目を上げて彼方を見据えたというのか。一体誰が注意して聴いたというのか。一体誰が全能者の掌中にいたことがあるというのか。人間は皆、架空の恐怖に苛まれている。[2]草や藁の山が何の役に立つというのか。人間は生きて肉にある神を折檻して死に至らしめることしか出来ない。人間は草や藁の山でしか無いが、人間が「最も得意とする」事がある。それは、神を折檻して生きながら死に至らしめ、それが「人間の心に喜びを与える」と叫ぶことである。何とも役立たずの雑魚どもである。特に、止むことのない人の流れの中で、神に注目し、神を堅く破ることの出来ない障壁で包囲する。人間は熱狂してゆく一方であり[3]、人間は神を大群となって取り囲み、神は少しも身動きが取れない。人間は、ありとあらゆる武器を手に、あたかも敵を睨むかのように、怒りに満ちた眼差しで神を見上げる。人間は「神を木っ端微塵に引き裂く」願望を抑えられない様子である。何とも当惑する事であるが、人間と神が、なぜそのような与することの出来ない敵同士となったのであろうか。最も愛しい神と人間の間に、何か遺恨があるのだろうか。神の業は人間にとって全く無益なのだろうか。神の業は人間に有害であろうか。神が人間の包囲を破り、第三の天に戻り、人間を再び地下牢に放り込むことを深く怖れつつ、人間は神を睨み続ける。人間は神を警戒してやきもきし、人間のもとにいる神に対して「機関銃」の銃口を向けて、ほふくしている。それはあたかも、神が少しでも刺激すると、人間は神の身体や着衣など、全てを残らず一掃するかのようである。神と人間の関係は、もはや修復不可能である。神は人間にとって理解不可能である一方、人間は故意に目を閉ざしてふざけまわり、わたしの存在を見ることを全く望まず、わたしの裁きに対して一切容赦しない。ゆえに、人間が予期していないときに、わたしは静かに漂うように去り、もはや誰が上で誰が下かということを人間と比較しなくなるであろう。人間はあらゆる「動物」のうち最も卑しく、わたしは人間に気をかけることを、もはや望まない。わたしが自分の恵み全体を、平穏に住む所へと全て取り戻して久しい。人間は極めて不従順であるのだから、何を理由として、わたしの貴い恵みをそれ以上享受するというのか。わたしに敵対する勢力に対してわたしの恵みを無駄に与えることを望まない。わたしは、熱心でわたしの再来を熱烈に歓迎するカナンの農民に対してならば、わたしの貴い果実を与えるであろう。わたしはひたすら天が永遠であることを願い、またそれ以上に、人間が年老いないこと、天と人間が永遠に安らかであること、そして理想の時代をともに迎えるにあたり、常緑の「つげと糸杉」が永遠に神とともに、天とともにあることを願う。

わたしは多くの日と夜を人間と共に過ごし、人間と共にこの世に住んで来たが、人間に対する要求を追加したことは一切無い。わたしはただ前進するよう人間を導くだけであり、人間を導く以外には何もせず、人間の運命のために采配の働きを間断なく行い続ける。これまでに誰が天の父の旨を理解したことがあるだろうか。誰が天と地をめぐって来たというのか。わたしは人間の「老後」を人間と共に過ごすことを、もはや望まない。なぜなら、人間は過度に旧式であり、何も理解せず、わたしが催した祝宴で他のすべてから離れて暴食する事しか知らず、それ以外のことを考え無いからである。人間は過度に貪欲であり、人間の叫びや陰鬱さ、危険は大きすぎるので、わたしは終わりの日に、勝利という貴い果実を分かち合うことを望まない。人間には、人間自らが作り出した豊かな恵みを享受させるがよい。なぜなら、人間はわたしを歓迎しないからである。何故わたしが人間を無理矢理微笑ませる必要があるというのか。世界各地で温もりが欠如し、世界各地の風景には春の兆しが全く無い。人間は水生生物のように全く温もりが無く、死体のようであり、血管を通う血でさえも氷のように凍てついていて、心を冷やすからである。温もりは、どこにあるのか。人間は故無く神を十字架に架け、その後全く懸念を感じることが無かった。後悔する者は居らず、こうした残忍な暴君は、依然として人の子を再び「生け捕りにする」[4]こと、そして銃殺刑執行隊の前に立たせ、自らの心の憎しみに終止符を打とうと謀っている。わたしがこのような危険な地に居残ることが、何に役立つというのか。わたしが居残るとすれば、わたしが人間にもたらすのは、対立と暴力、そして終わりなき問題だけであろう。なぜなら、わたしが平和をもたらしたことは無く、わたしがもたらしたのは戦乱だけだからである。人間の終わりの日は戦乱に満ち、人間の終着点は暴力と対立の中で崩れ去るに違い無い。わたしは戦乱の「喜び」を「分かち合う」ことを望まず、人間の流血や犠牲に立ち会わない。なぜなら、人間による拒絶のためわたしは「落胆」させられ、わたしは人間の戦いを見守る気になら無いからである。人間は思う存分に戦えばよい。わたしは休み、眠ることを望む。人間の終わりの日は、悪魔に立ち会わせるのがよい。誰がわたしの旨を知るというのか。わたしが人間に歓迎されず、人間は決してわたしを待ち望んだことがないので、わたしは人間に別れを告げるしか無い。そしてわたしは人間の終着点を人間に与え、わたしの富を全て人間に与え、人間のあいだにわたしのいのちを蒔き、人間の心の畑にわたしのいのちの種を植え、人間に永遠の記憶とわたしの全ての愛を遺す。そしてわたしと人間がそれをもって互いを思い焦がれることが出来るような愛の贈り物として、わたしにあるもののうちで人間が大切にするものを全て人間に与える。わたしは、自分と人間が永遠に愛し合うこと、自分と人間の過去が、互いに与え合う素晴らしいものであることを望む。なぜなら、わたしは既に自らのすべてを人間に与えたからである。人間はどのような不平を言えるというのか。わたしは既に、自分のいのちの全てを人間に遺し、何も言わず努めて人間のために美しい愛の大地を耕した。わたしは人間に対してそれに相応する見返りを求めたことは決して無く、単に人間の采配に従い、人間のために一層美しい明日をつくるだけであった。

神の働きは潤沢かつ豊富だが、人間の取り組みは極めて乏しい。人間と神の合同による「企て」のほぼ全てが神の働きであり、人間の取り組みの程度については、ほぼ見るべきところが無い。人間は極めて貧しく盲目であり、「古代の武器」を手にとって今日の神に対する自らの力を測るほどである。こうした「古代の猿人ども」は、辛うじて直立歩行できるが、自分の「裸」のからだを全く恥じない。そうした者に神の働きを評価する資格が、どうしてあろうか。そうした四肢のある猿人の眼は怒りに満ち、石で作った武器を手に、神と争い、この世がまだ見たことの無い猿人の競技、すなわち終わりの日における猿人と神の格闘を始めようとしており、それは全土に知られるであろう。こうした半ば直立歩行している古代の猿人の多くが、さらには、自己満足であふれている。そうした者は顔を覆う毛はもつれ、殺意に満ちて前肢を挙げる。彼らは完全には現代の人類まで進化していないので、直立するときと、這うときがあり、額は玉の汗で覆われ、露のようであり、やる気がありありと見て取れる。自分たちの仲間である原始の古代猿人が太くのろまな四肢の全てを用いて立ち、辛うじて攻撃をかわせるが反撃する力は無いのを見て、彼らは自己抑制するのが精一杯である。瞬く間に、何が起きたか悟る間もなく、リング上の「英雄」が四肢を空に向かって立てて、仰向けに地に倒れる。長年にわたり間違いでありながらも地面に立っていた四肢は、突然逆さまに投げ出され、猿人はもはや反抗する意欲をもたない。それ以後、最古の猿人は地上から一掃される。それは極めて「悲惨」である。この古代の猿人は、そうして突然の終焉を迎えた。なぜ素晴らしい人間の世界からそんなに急いで去る必要があったのであろうか。なぜ仲間と次の段階の戦略を話し合わなかったのであろうか。神との力比べを秘密のままにしてこの世に別れを告げるとは、何と哀れなことだろうか。それほどまで年老いた猿人が「古代文化と芸術」を子孫に伝えることなく、一言ささやくこともなく死んでこの世を去るとは、何と迂闊なことであろうか。近親者を傍に呼び集めて自らの愛を伝える暇も無く、石版に言葉を残さず、天日を見分けず、筆舌に尽くしがたい自らの苦難をひと言も述べることも無かった。息を引き取るにあたり、瀕死の自らの身体の近くに子孫を呼び寄せて、空に向かって伸びる木の枝のように硬くなった四肢を上向きに伸ばして目を閉じる前に「リングに上がって神に挑んではならない」と告げなかった。これは悲劇の臨終を迎えたように見えるであろう。突然、リングの下からうなるような笑い声がして、半分だけ直立している猿人のひとりの気が変になっている。その者は、古い猿人より進化している鹿などの野性の動物を狩るための「石の棍棒」を手に、周到な計画を胸に秘め[5]、怒りに満ちてリングに飛び乗る。その者は何か手柄を立てたかのようである。石の棍棒の「威力」を用い、「三分間」何とか直立する。この第三の「脚」の「威力」は、何と強いことであろうか。その大柄で愚鈍で不器用な半直立猿人は、棍棒に支えられて三分間直立した。その尊敬すべき[6]老いた猿人が至って傲慢なのももっともである。確かに、その古代の石の武器は「評判どおり」である。柄も刃も鋒もあるが、刃に艶が無いことが唯一の欠点である。なんと嘆かわしいことか。その古代の「小さな英雄」を見ると、リングの上に立って、リングの下にいる者どもが無能で劣等な者であり、自分は勇敢な英雄であるかのように侮辱するような目つきで見ている。その英雄は、リングの前に居る者どもを、心の中で密かに忌み嫌っている。「この国は問題に苛まれているのは私達各人のせいである。あなたがたは何故、逃げ出そうとするのか。この国に大惨事に見舞われていると知りつつ、血みどろの戦いには参加しないというのか。この国に大惨事が迫っている。あなたがたが先ず憂い、後で楽しむ[7]ものでないのは何故か。あなたがたは、よくもこの国が崩壊し、国民が退廃してゆくのを傍観していることが出来るものだ。あなたがたは、国が征服される恥辱を受けることを望んでいるのか。あなたがたは全くの役立たずだ。」その者がこう考えると、リングの前で暴動が起こり、その者の眼は一層激昂し、今にも火を放とう[8]としているかのようである。その者は、戦いの前に神が倒れることを待ち兼ねており、神を死に追いやって大いに人々の心を喜ばせたくてたまらない。その者は、石の武器が名声を得るに値するかもしれないが、神に対抗することは決して出来ないことを知らない。その者が自分を防御し、倒れて再び立ち上がる間も無く、その者は両眼の視力を失って前後によろめく。その者は、自分の祖先の上に倒れて二度と立ち上がらない。その者は古代の猿人にしがみつき、叫ばなくなり、反抗する意志を全て失って自らが劣っていることを認める。これらの哀れな猿人は、どちらもリングの前で死ぬ。人類の祖先は、今まで生き長らえたのに、義の太陽が昇る日に何も知らずに死んだというのは、何と不幸なことであろうか。それほど大いなる恵みを逃すとは、猿人たちは数千年にわたり待ち続けてきたのに、恵みを受けた日にそれを陰府へ持ち込み魔王とともに「享受する」ことになるとは、何と愚かであろうか。恵みは生きている者の世界に残し、自分の息子や娘と共に享受するために取っておいてはどうであろうか。まさに自業自得である。多少の地位や名声、そして虚栄のために、殺されるという不幸を受け、慌てて地獄の門を真っ先に開き、その息子となろうとするとは、なんという無駄であろうか。そうした代償は全くの無駄である。それほど「国民的精神に満ち」ている年老いた祖先が、そこまで「自分に厳しく、他人に寛容」となって、自らを地獄に閉じ込め、無能で劣った者を地獄の外に閉め出すとは、何と哀れな事だろうか。このような「民衆の代表者」がどこにいるであろうか。「子孫の幸福」と「未来世代の平和な生活」のため、神の介入を許さず、それゆえ自らの命に全く配慮しない。無制限に自らを「国の大義」に捧げ、黙って陰府へ入る。そのような愛国心が何処にあるというのか。神と戦い、死も流血も怖れず、ましてや明日を憂うことなど無い。そうした者は戦地へ向かうのみである。彼らが自らの「献身の精神」と引き換えに得るのは、永遠の後悔と、地獄で永遠に燃え続ける炎による滅びだけであるというのは、何と哀れなことであろうか。

何と不思議なことだろうか。神の受肉が人間により常に拒否され、非難されるのは何故だろうか。人間が神の受肉を全く理解しないのは何故だろうか。神が来た時期が誤っていたのであろうか。神が来た場所が誤っていたのであろうか。そうなるのは、人間の「署名」なしに神が独自に行動したためであろうか。人間の許可なく神が決意したことが原因だろうか。事実の記録には、神は事前に通達したとある。神は受肉したことで何の問題も起こしていないが、神は人間の同意を得る必要があるというのか。さらに、神は人間に随分以前に思い起こさせていたが、人間は忘れていたのであろう。人間を責めることは出来ない。なぜなら、人間は長いことサタンにより大いに堕落させられ、天下の出来事を何も理解できず、霊的世界の出来事に至っては言うまでもないからである。人間の祖先である猿人がリングで死んだ事は、何とも恥辱的であるが、驚くには及ばない。というのも、天と地が相容れることは決してなかったのであるから、石でできた心をもつ猿人が、どうして神が再び受肉し得ることを理解できようか。そうした「60歳」の老人が、神の出現の日に死に、そうした大いなる恵みの出現する日に恵みを受けずに他界したというのは何と悲しいことであろうか。それはまさに驚異ではなかろうか。神の受肉は、あらゆる教派や宗派に衝撃波を及ぼし、それらの元来の秩序を「混乱に陥れ」、神の出現を待ち望んでいた者全ての心を揺るがした。慕わない者は居るだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者はいるであろうか。神は長年にわたり自ら人間のもとにいるが、人間はまだそれに気付かない。現在、神自身が現れ、大衆に対して自らの身分を示した。それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうして有り得ようか。神はかつて喜びと悲しみを人間と共にし、現在、人間と再び共にあり、昔の物語を人間と分かち合っている。神がユダヤから去った後、人間は神の消息を全く掴めなくなった。人間は神との再会を待ち望んでいるが、今日神と既に再会し、再び神が人間と共にあることをほとんど知らない。このことが過去の思いを起想しないことが有り得ようか。今から二千年前の今日、ユダヤ人の末裔バルヨナ・シモンは救主イエスを見て、主と同じ食卓で食事をし、長年にわたって主に付き従った後、主に対する一層深い愛慕を抱いた。シモンは心底から主イエスを愛し、主イエスを深く愛した。ユダヤ人は、寒い飼葉おけに生まれた金色の髪の赤ん坊がどういうわけで神の受肉の最初の姿であるのかを全く知らなかった。ユダヤ人はイエスが自分達と同様であり、違うと考える者はいなかった。人々がこんな平凡で普通なイエスに、どうして気付き得ようか。ユダヤ人は、主を当時のユダヤ人の息子のひとりと考えた。イエスを愛しむべき神として見上げる者はいなかった。そして人々は主に対して、富と豊かな恵み、平和と喜びを授けて欲しいなど、盲目に要求するだけであった。そうした者は、億万長者のように主には自分達が望むものの全てあることしか知らなかった。しかし、人間は主を愛されている存在として扱ったことは無かった。当時の人々は主を愛さず、主に反抗し、不合理な要求を神に突き付けるだけであった。また主は決して拒まず、人間は主を知らなかったにもかかわらず、人間に対して恵みを与え続けた。主は黙して人間に温もりと愛、慈しみを与えたほか、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の呪縛から解放したのであった。人間は主を愛さず、主を羨み、主の特別な才能を認めるのみであった。愛しむべき救主イエスが人間のもとに来た時に受けた屈辱がどれほど大きかったかを、どうして盲目な人類が理解することが出来ようか。主の苦痛を考えた者も、父なる神に対する主の愛を知る者も、主の孤独を知り得る者もいなかった。マリアが主の産みの母親であったが、慈悲深い主イエスの心にある考えを、どうしてマリアが知り得たであろうか。人の子が耐えた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人間は、主に要求を突き付けた後、冷酷にも主を心の奥へと追いやり、外へ追い出した。それゆえに主は来る日も来る日も、毎年毎年、往来を長い年月彷徨いながら、苦難のうちに三十三年を過ごしたが、その期間は長くもあり短くもあった。主を求める時、人々は笑顔で主を自宅に招き、主に要求しようとした。そして主が施しをした後、彼らは直ちに主を家から追い出した。人々は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人々は主の肉を食べ、主が人々のために作る食べ物を食べ、主が人々のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる。しかし人間は依然として主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。イエスは、どのようにして十字架で死ぬことになったであろうか。あなたがたは知っているであろうか。主は、自分に最も親しく、かつ主を食べ、主を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダの裏切りの理由は、イエスが取るに足らない教師に過ぎなかったことでは無かろうか。仮に、イエスが特別であり、天に由来する者であることを人々が本当に理解していたとすれば、どうして人々は主の身体が息をしなくなるまで、二十四時間にわたり十字架に架けることが出来たのであろうか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことの無い欲で神を授かるのみで、未だに神を知らない。人々は一寸を与えられて一里を奪い、イエスを自分の指令、命令に完全服従させる。これまでに誰が、枕する所も無いこの人の子に対して憐れみといえるものを示したというのか。これまでに誰が、主と力を合わせて父なる神の委託を完遂しようと考えたというのか。かつて誰が神のことを少しでも考えたというのか。かつて誰が、神の困難に配慮したというのか。微塵の愛もなく、人間は神を苦しめる。人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも行い、語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。主は自らのいのち何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。主は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。主は自らの全てを少しも余すこと無く、またこの世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の恵みを得ること無く、あなたがたに与えた。人間は主に対して極めてさもしく、主は決して地上の富を享受せず、主はその誠実で熱意ある心の全てを人間に捧げた。主はその全てを人類に捧げた。それで、主に対して温もりを与えた者がいるだろうか。誰が主に快適さを与えたというのか。人間は主にあらゆる圧力をかけ、あらゆる不幸を与え、人間の中で最も不幸な経験を押し付け、あらゆる不義を主のせいにし、そして神はそれを無言で受け容れてきた。かつて主が誰かに反抗したであろうか。かつて主が誰かから少しの返報を求めたことがあるだろうか。神に同情を示した者がこれまでいるであろうか。普通の人間として、あなたがたの中で、空想的な幼時を過ごさなかった者がいるであろうか。色鮮やかな青春を過ごさなかった者がいるであろうか。愛する者の温もりを知らない者はいるであろうか。誰が親戚や友人の愛を知らないというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。暖かい家庭が無いというのか。誰が腹心の友をもつ心地よさを知らないというのか。しかるに、そうした物事のうちどれかを神は享受したであろうか。誰が主に少しでも温もりを与えたというのか。誰が主に少しでも快適さを与えたというのか。誰が主に少しでも人間の倫理を示したというのか。かつて誰が、主に対して寛容であったというのか。かつて誰が、困難な時に主と共にあったというのか。かつて誰が、主と共に困難な生活を送ったというのか。人間は、主に対する要求を少しも和らげたことが無い。人間は何の良心の呵責も無く、主に対して要求を突き付けるのみであり、それはあたかも、主が人間の世界に来たのだから人間の牛馬や囚人となって、その全てを人間に与える必要があるかのようである。さもなければ、人間は決して主を許さず、主に対して寛容になる事は無く、主を神と呼ばず、主をそれほど尊重することは無いであろう。人間は、神に対して厳しすぎる態度を取り、それはあたかも人間が神を苦しめて殺すことに注力しているかのようであり、そうした後に人間は初めて神に対する要求を緩め、さもなければ人間は神に対する要求基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神により忌み嫌われないことが、どうして有り得ようか。それが現在の悲劇ではなかろうか。人間の良心は何処にも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、苦しめて死に至らしめる。これは人間が祖先から受け継いだ、神への信仰の「秘訣」ではなかろうか。「ユダヤ人」が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理はどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これらは人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る正しい道では無いのではなかろうか。そして、神の働きは人間がいのちに入ることを中心としているのではなかろうか。あなたがたが神の働きを人間がいのちに入ることと融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行うべき本分を能力が及ぶ限り尽くすことを、わたしは望む。そうした後に、神の栄光の讃美をもって、神の働きは完了するであろう。

脚注:

1. 「人間の『入ること』」とは、ここでは人間の不従順な態度をさす。人間が真にいのちに入ること(これは良いことである)を指すのではなく、人間の悪い態度と行動を指す。この語句は包括的に、神に反抗する人間の行動を指す。

2. 「架空の恐怖に苛まれている」は、人間の見当違いな人間としての生活を揶揄するために用いられている。悪魔と共生している醜悪な人間の生活を指す。

3. 「熱狂してゆく一方であり」とは、人間の醜悪な状態を揶揄的に指す。

4. 「生け捕りにする」とは、人間の暴力的で忌み嫌うべき姿勢を指す。人間は神に対して残忍で少しも容赦せず、不当な要求を行う。

5. 「周到な計画を胸に秘め」とは、人間がどれほど自分を知らないか、自分の本当の背丈を知らないかを指して揶揄的に用いられている。

6. 「尊敬すべき」は揶揄的に用いられている。

7. 「先ず憂い、後で楽しむ」とは、愛国的で自国のために大いに努力することを指す。

8. 「放とう」とは、神に倒されて怒りで湯気が立っている醜悪な人間の状態を指す。神に対する人間の反抗の度合いを示す。

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