言葉は肉において現れる

目次

働きと入ること(10)

現在に至るまで、人間は前例の無い程の進化を遂げてきた。神の業と人間の真摯な取り組みは肩を並べて進むのであるから、神の業もまた比類の無い程の進化を遂げている。現在までにおける人間の真摯な取り組みは、人間が嘗て想像し得なかった奇跡である。神の業は絶頂を迎え、それに続いて人間の「取り組み」[1]もまた絶頂を迎えた。神は自らを可能な限り卑しめ、人間その他あらゆる宇宙の万物に一度も反抗したことが無い。一方、人間は神の頭の上に立ち、神を最大限まで迫害している。万事が絶頂を迎え、義が現れる時が来ている。闇に地を覆わせ、闇に人々を包ませるままにしておくのは何故だろうか。神は数千年、ことによると数万年にわたり、それを見てきて、寛容さの限界に達して久しい。神は人間のあらゆる挙動を見続け、人間の不義がどの程度の期間はびこるかを観察し続けてきたが、人間は愚鈍になり続けて来たので、何も感じない。一体誰が神の業を見続けて来たというのか。一体誰が目を上げて彼方を見据えたというのか。一体誰が注意して聴いたというのか。一体誰が全能者の掌中にあるというのか。人間は皆、架空の恐怖に苛まれている。[2]草や藁の山が何の役に立つというのか。人間は生きて肉にある神を折檻して死に至らしめることしか出来ない。人間は草や藁の山でしか無いが、人間が「最も得意とする」事がある。それは、神を折檻して死に至らしめ、それが「人間の心に喜びを与える」とふれ回ることである。何とも役立たずの雑魚どもである。特に、止むことのない人の流れの中で、神に注目し、神を堅く破ることの出来ない障壁で包囲する。人間は熱狂してゆく一方であり[3]、人間は神を大群となって取り囲み、神は少しも身動きが取れない。人間は、ありとあらゆる武器を手に、あたかも敵を睨むかのように、敵意に満ちた眼差しで神を見上げる。人間は「神を木っ端微塵に引き裂く」願望を抑えられない様子である。何とも当惑する事であるが、人間と神が、なぜそのような与することの出来ない敵同士となったのであろうか。最も愛しい神と、人間の間に、何か遺恨があるのだろうか。神の業は人間にとって全く無益なのだろうか。神の業は、人間に有害であろうか。神が人間の包囲を破り、第三の天に戻り、人間を再び地下牢に放り込むことを怖れる眼差しで、人間は神を睨み続ける。人間は神を警戒してやきもきし、人間の中にある神に対して「機関銃」の銃口を向けて、地の上で身もだえている。それはあたかも、神が少しでも刺激すると、人間は神の身体や着衣など、全てを残らず一掃するかのようである。神と人間の関係は、もはや修復不可能である。神は人間にとって理解不可能である一方、人間は故意に目を閉ざして知らぬふりをし、私の存在を理解することを全く望まず、私の裁きに対して一切容赦しない。ゆえに、人間がそれを期待しない場合、私は黙って立ち去り、人間よりも貴い存在と卑しい存在を比較しなくなるであろう。人間はあらゆる「動物」のうち最も卑しく、私は人間に気をかけることを、もはや望まない。私が自分の恵みを、自分が平穏に住む所へと全て取り戻して久しい。人間は極めて不従順であるのだから、何を理由として、私の貴い恵みをそれ以上受けるというのか。私は、自分に敵対する軍勢に対して恵みを無駄に与えることを望まない。私は、私の再来を熱望し、熱烈に歓迎するカナンの農民に対して、貴い果実を与える。私はひたすら天が永遠であることを願い、またそれ以上に、人間が年老いないこと、天と人間が永遠に安らかであること、そして理想の時代を迎えるにあたり、いのちに満ちた「つげと糸杉」が永遠に神や天とともにあることを願う。

私は多くの日と夜を人間と共に過ごし、人間と共に世界に住んで来たが、人間に対する要求を追加したことは一切無い。私はひたすら前進するよう人間を導いて来ただけであり、人間の運命のために采配の業を間断なく行い続ける。嘗て誰が天の父の旨を理解したというのか。誰が天と地をめぐって来たというのか。私は人間の「過去の時代」を人間と共に過ごすことを、もはや望まない。なぜなら、人間は過度に旧式であり、何も理解せず、私が与えた食べ物を腹に詰め込む事しか知らず、それ以外のことを考えたことが無いからである。人間は過度に貪欲であり、人間の叫びや陰鬱さ、危険は大きすぎるので、私は終わりの日に、克服という貴い果実を与えることを望まない。人間には、人間自らが作り出した豊かな恵みを享受させるがよい。なぜなら、人間は私を歓迎しないからである。何故私が人間を偽って微笑ませる必要があるというのか。世界各地で温もりが欠如し、世界各地の風景には春の兆しが全く無い。人間は水生生物のように全く温もりが無く、遺体のようであり、血管を通う血でさえも凍てついていて、心を冷やす。温もりは、どこにあるのか。人間は故無く神を十字架に架け、その後全く懸念を感じることが無かった。後悔する者は居らず、こうした残忍な暴君は、依然として人の子を再び「生け捕りにする」こと、そして銃殺刑執行隊の前に立たせ、自らの心の憎しみに終止符を打とうと謀っている。私がこのような危険な地に居残ることが、何に役立つというのか。私が居残るとすれば、私が唯一人間に与える物事は、対立と暴力、そして終わりなき問題であろう。なぜなら、私が平和をもたらしたことは無く、私がもたらしたのは戦乱だけだからである。人間の終わりの日は戦乱に満ち、人間の終着点は暴力と対立の中で崩れ去るに違い無い。私は戦乱の「喜びを分かち合う」ことを望まず、人間の流血や犠牲に立ち会わない。なぜなら、人間による拒絶のため、私は「落胆」させられ、私には人間の戦いを見守る心が無いからである。人間は思う存分に戦えばよい。私は休み、眠ることを望む。人間の終わりの日は、悪魔に立ち会わせるのがよい。誰が私の旨を知るというのか。私が人間に歓迎されず、人間は決して私を待ち望んだことがないので、私は人間に別れを告げるしか無い。そして私は人間の終着点を人間に与え、私の富を全て人間に与え、人間の心の土に私のいのちの種を植え、人間に永遠の記憶と私の全ての愛を遺す。そして私と人間が互いに待ち望むことが出来るような愛の贈り物として、私が持つ物事のうち、人間が大切にする物事を全て人間に与える。私は、自分と人間が永遠に愛し合うこと、自分と人間の過去が、互いに与え合う素晴らしいものであることを望む。なぜなら、私は既に自らのすべてを人間に与えたからである。人間はどのような不平を言えるというのか。私は既に、自分のいのちの全てを人間に遺し、何も言わず努めて人間のために美しい愛の土を耕した。私は人間に対してそれに相応する見返りを求めたことは決して無く、単に人間の采配に従い、人間のために一層美しい明日をつくるだけであった。

神の業は潤沢かつ豊富だが、人間の取り組みは極めて乏しい。人間と神の合同による「企て」のほぼ全てが神の業であり、人間の取り組みの程度については、ほぼ見るべきところが無い。人間は極めて堕落して盲目であり、「古代の武器」を手にとって神に対する自らの力を試すほどである。こうした「古代の猿人ども」は、辛うじて直立歩行できるが、自分が「裸」であることを全く恥じない。そうした者に神の業を評価する資格が、どうしてあろうか。そうした四肢のある猿人の眼は怒りに満ち、石で作った武器を手に、神と争い、前例の無い猿人の競争、すなわち終わりの日における猿人と神の競争を始めようとしており、それは各地に知られるであろう。こうした半ば直立歩行している古代の猿人の殆どが、自己満足している。そうした者の顔を覆う毛は絡み、そうした者は殺意に満ちて前肢を挙げる。そうした者は完全には現代の人類まで進化していないので、直立するときと、這うときがあり、額は玉の汗で覆われ、露のようであり、意欲がありありと見て取れる。原始の古代猿人の類いを見ると、太くのろまな四肢の全てを用いて立ち、辛うじて攻撃をかわせるが反撃する力は無く、辛抱するのが精一杯である。瞬く間に、何が起きたか悟る間もなく、リング上の「英雄」が四肢を空に向かって立てて、仰向けに地に倒れる。その長年にわたり地を彷徨ってきた四肢は、突然上下が逆になり、猿人はもはや反抗する意欲が消える。それ以後、原始の猿人は地上から一掃される。それは極めて「悲惨」である。この古代の猿人は、そうした突然の終焉を迎える。そうした者は、なぜ素晴らしい人間の世界から急いで去る必要があったのであろうか。そうした者は、なぜ仲間と次の手を相談しなかったのであろうか。神との力比べを秘密のままにしてこの世に別れを告げるとは、何と哀れなことだろうか。それほどまで年老いた猿人が、「古代の文明文化」をひと言も次世代に伝えることなく死んでこの世を去るとは、何と迂闊なことであろうか。そうした者には、近親者を呼び集めて自らの愛を伝える暇が無く、石版に言葉を残さず、天の光を見分けず、筆舌に尽くしがたい自らの苦難をひと言も述べることも無かった。そうした者は、息を引き取るにあたり、臨終する自らの身体の近くに自分の子孫を側に呼び寄せて、空に向かって伸びる木の枝のように、硬くなった四肢を上向きに伸ばして目を閉じる前に「リングに上がって神に挑んではならない」と告げなかった。そうした者は悲劇の臨終を迎えたと思われるであろう。突然、リングの下からうなり声がして、直立しかかっている猿人のひとりの気が変になっている。その者は、鹿などの野性の動物を狩るための「石の棍棒」を手に、周到な戦略を胸に秘め[5]、怒りに満ちてリングへと飛び乗る。 その者は、何か手柄を立てたかのようである。その者は、石の棍棒の「威力」で何とか「3分間」直立する。この第三の「脚」の「威力」は、何と強いことであろうか。その大柄で愚鈍で不器用な猿人は、棍棒に支えられて3分間直立した。その尊敬される[6]老いた猿人が至って傲慢なのも尤もである。確かに、その古代の石の武器は「名声にかなう」ことを示してはいる。柄も刃も鋒もあるが、刃に艶が無いことが、何とも嘆かわしい唯一の欠点である。その古代の「小さな英雄」を見ると、リングの上に立ってリングの下に居る者どもを見下し、それはあたかもその者どもが無能で劣等な者であり、自分が勇敢な英雄であるかのようである。その英雄は、リングの前に居る者どもを、心の中で密かに忌み嫌って居る。「この国は問題に苛まれているのは私達各人のせいである。あなたがたは何故、逃げ出そうとするのか。この国に大惨事に見舞われていると知りつつ、血みどろの戦いには参加しないというのか。この国に大惨事が迫っている。あなたがたが先ず憂い、後で楽しむものでないのは何故か。[7] あなたがたは、よくもこの国が崩壊し、国民が退廃してゆくのを傍観していることが出来るものだ。あなたがたは、国が征服される恥辱を受けることを望んでいるのか。あなたがたは全くの役立たずだ。」その者がこう考えると、リングの前で暴動が起こり、その者の眼は一層激昂し、今にも火を放とう[8]としているかのようである。その者は、戦いの前に神が倒れることを待ち兼ねており、神を死に追いやって人々を幸せにしようと必死になっている。その者は、石の武器が名声を得るに値するにもかかわらず、自分が神に決して対抗出来ないことを殆ど理解していない。その者が自分を防御し、倒れて再び立ち上がる間も無く、その者は両眼の視力を失ってよろめく。その者は、自分の祖先の上に倒れて二度と立ち上がらない。その者は古代の猿人にしがみつき、叫ばなくなり、反抗する意志を全て失って自らが劣っていることを認める。これらの哀れな猿人は、両者ともリングの前で死ぬ。人類の祖先は、今まで生き長らえ、義の太陽が昇る日に、何も知らずに死んだというのは、何と不幸なことであろうか。そうした者が、それほど大いなる恵みを逃し、自らの恵みの日にそうした猿人達は数千年にわたり待ち続け、その恵みを陰府へ持ち込んで、それを魔王と「享受する」とは、何と愚かであろうか。そうした恵みをこの世に残し、自分の息子や娘と共に享受するために取っておくべきであろう。そうした者は、まさに墓穴を掘っている。多少の地位や名声、そして虚栄のために、そうした者は殺されるという不幸を受け、慌てて地獄の門を真っ先に開き、その息子となろうとするとは、なんという無駄であろうか。そうした代償は全くの無駄である。それほど「国民的精神に満ち」ている年老いた祖先が、そこまで「自分に厳しく、他人に寛容」となって、自らを地獄に閉じ込め、無能で劣った者を地獄の外に閉め出すとは、何と哀れな事だろうか。そのような「民衆の代表者」は、どこで見受けられるであろうか。「子孫の幸福」と「今後の世代の平和な生活」のため、そうした者は神の介入を許さず、それゆえ自らの生活に全く配慮しない。そうした者は、無制限に自らを「国の大義」に捧げ、黙って陰府へ入る。そのような愛国心が何処にあるというのか。神と戦い、死も流血も怖れず、ましてや明日を憂うことなど無い。そうした者は戦地へ向かうのみである。そうした者が自らの「貢献精神」と引き換えに得るのは、永遠の後悔と、地獄で永遠に燃え続ける炎による滅びだけであるというのは、何と哀れであろうか。

何と不思議なことだろうか。受肉した神は人間により常に拒否され、非難されるのは、何故だろうか。人間が受肉した神に関する知識を全く得ないのは何故だろうか。神が来た時期が誤っていたのであろうか。神が来た場所が誤っていたのであろうか。そうした状況は、人間が「署名」して認めていないのに神が独自に業を行ったために発生するのであろうか。人間の許可なく神が決意したことが原因だろうか。事実の記録には、神が事前に通達したと記載がある。神の受肉には何の問題も無いが、神は人間の同意を得る必要があるというのか。さらに、神は人間に対して事前通達したが、人間が忘れていたのであろう。人間を責めることは出来ない。なぜなら、人間は長いことサタンにより大いに堕落させられ、天下の出来事を何も理解できず、霊的世界の出来事に至っては言うまでもないからである。人間の祖先である猿人がリングで死んだ事は、何とも恥辱的であるが、驚くには及ばない。というのも、天と地が相容れることは決してなかったのであるから、精神が石で作られている猿人が、どうして神が再び受肉し得ることを理解できようか。そうした「60歳」の老人が、神の出現する日に死に、そうした大いなる恵みの出現する日に、恵みを受けず他界したというのは、何と悲しいことであろうか。それはまさに驚異ではなかろうか。受肉した神は、あらゆる教派や宗派に衝撃波を及ぼし、それらの元来の秩序を「混乱」に陥れ、神の出現を待ち望んでいた者全ての心を揺るがした。慕わない者は居るだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者は居るであろうか。神は長年にわたり自ら人間の中に居るが、人間はまだそれに気付かない。現在、神自身が現れ、大衆に対して自らの身分を示しているが、それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうして有り得ようか。神は嘗て喜びと悲しみを人間と共にし、現在、人間と再び共にあり、人間が嘗て過ごした時代の物語を語っている。神がユダヤ州から去った後、人間は神の消息を全く掴めなくなった。人間は神との再会を待ち望んでいるが、神と既に再会し、再び神が人間と共にあることを知る者は、ほぼ居ない。こうした状況において嘗ての思いが起想されないことが有り得ようか。今から2000年前の今日、ユダヤ人の末裔バルヨナ・シモンは救主イエスを見て、主と食卓を共にして食事をし、長年にわたって主に付き従った後、主に対する一層深い愛慕を抱いた。シモンは心底から主イエスを深く愛した。ユダヤ人は、寒い飼葉おけに生まれた金色の髪の赤ん坊が受肉した髪の最初の姿であることを、全く知らなかった。ユダヤ人は主が自分達と同様であり、自分達と違うと考える者は居なかった。人々がそうした平凡で普通なイエスに、どうして気付き得ようか。ユダヤ人は、主を当時のユダヤ人の息子と考えた。主のことを愛しむべき神として扱う者は居らず、人々は主に対して、富と豊かな恵み、平和と喜びを授けて欲しいなど、盲目に要求するだけであった。そうした者は、億万長者のように、主には自分達が望む物事が全てあることしか知らなかった。しかし、人間は主を愛しむべき存在として扱ったことは無かった。当時の人々は主を愛さず、主に反抗し、不合理な要求を神に突き付けるだけであった。また主は決して拒まず、人間は主を知らなかったが、人間に対して恵みを与え続けた。主は黙して人間に温もりと愛、慈しみを与えたほか、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の呪縛から解放したのみであった。人間は主を愛さず、主を羨み、主の特別な才能を認めるのみであった。愛しむべき救主イエスが人間の中にきた時に受けた屈辱がどれほど大きかったかを、どうして盲目な人類が理解することが出来ようか。主の苦痛を考えた者も、父なる神に対する主の愛を知る者も、主の孤独さを知り得る者も居なかった。マリヤが主の産みの親であったが、慈悲深い主イエスの心にある考えを、どうしてマリヤが知り得たであろうか。人の子が受けた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人間は、主に要求を突き付けた後、冷酷にも主を心の奥へと追いやり、心から追い出した。それゆえに主は毎年、毎日街を彷徨いながら、苦難のうちに33年を過ごしたが、その期間は長くもあり、短くもあった。人間が主を求める時、人間は笑顔で主を自宅に招き、主に要求しようとした。そして主がそうした者に施しをした後、そうした者は直ちに主を家から追い出した。人間は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が人間に授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら、人間は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人間は主の肉を食べ、主が人間のために用意した食べ物を食べ、主が人間のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる一方、人間は主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の神として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。イエスは、どのようにして十字架で死ぬことになったであろうか。あなたがたは知っているであろうか。主は、自分に最も親しく、かつ主を食べ、主を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダの裏切りの理由は、イエスが単なる教師に過ぎなかったことでは無かろうか。仮に、イエスが特別であり、天に由来する者であることを人間が本当に理解していたとすれば、どうして人間は主の身体が息をしなくなるまで、主を24時間にわたり十字架に架けることが出来ようか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことの無い欲で神を授かるのみで、未だに神を知らない。人間は一寸を与えられて一里を奪ったほか、イエスを自分の命令に完全服従させる。嘗て誰が、枕する所も無い人の子に対して憐れみを示したというのか。嘗て誰が、主の軍勢に志願して父なる神の委託を完遂しようと考えたというのか。嘗て誰が、神の旨を広めたというのか。嘗て誰が、神の困難に配慮したというのか。微塵の愛もなく、人間は神を苦しめる。人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間の中で苦難を受けた2000年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起したというのか。主の業は、遠い昔に全て忘れ去られたのではなかろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。イエスが何時、あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して敵意を抱いたというのか。主が今までに行った業と述べた言葉は、極めて多い。そのうち、あなたがたに有益なものは全く無いというのか。主は自らのいのちと、自らの全てを、何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。主は自らの全てを少しも余すこと無く、またこの世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の恵みを得ること無く、あなたがたに与えた。人間は主に対して極めてさもしく、主は決して地の上の富を得ず、主は誠実で熱意ある心など、自らの全てを人間に捧げたが、主に対して温もりを与えた者が居るだろうか。誰が主に安らぎを与えたというのか。人間は主にあらゆる圧力をかけ、あらゆる不幸を与え、人間の中で最も不幸な経験を与え、あらゆる不義を主のせいにし、神はそれを無言で受け容れてきた。嘗て主が誰かに反抗したであろうか。嘗て主が人間に返報を求めたことがあるだろうか。嘗て神に同情を示した者が居るであろうか。普通の人間として、あなたがたの中で、空想的な幼時を過ごさなかった者が居るであろうか。色鮮やかな幼時を過ごさなかった者は居るであろうか。誰に愛する者の温もりが無いというのか。誰に親戚や友人の愛が無いというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。暖かい家庭が無いというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。しかるに、そうした物事のうち、神が享受したものは在るであろうか。誰が主に少しでも温もりを与えたというのか。誰が主に少しでも安らぎを与えたというのか。誰が主に少しでも人間の倫理を示したというのか。嘗て誰が、主に対して寛容であったというのか。嘗て誰が、困難な時に主に共にあったというのか。嘗て誰が、主に共に困難な生活を送ったというのか。人間は、主に対する要求を少しも減らしたことが無い。人間は何の良心の呵責も無く、主に対して要求を突き付けるのみであり、それはあたかも、主が人間の世界に来て、人間の牛馬や囚人となって、その全てを人間に与える必要があるかのようである。さもなければ、人間は決して主を許さず、主に対して寛容になる事無く、主を神と呼ばず、主をそれほど尊重することは無いであろう。人間は、神に対して厳しすぎる態度を取り、それはあたかも人間が神を拷問して殺すことに注力しているかのようであり、そうした後に人間は初めて神に対する要求を減らし、さもなければ人間は神に対する要求基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神により忌み嫌われないことが、どうして有り得ようか。それが現在の悲劇ではなかろうか。人間の良心は何処にも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、拷問して死に至らしめる。これは人間が祖先から受け継いで来た、神に対する信仰の「秘訣」ではなかろうか。「ユダヤ人」が見受けられない場所は無く、そうした者は現在も従来と同様の神に反抗する業を行いつつ、自分達が神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。聖霊に由来し、肉にある神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理は、どこにあるのか。真の義は、どこにあるのか。誰が神の性情を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。主が人間の中に来た時、神を知る者は居らず、主は拒まれたのも、不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。そうした事柄は、いずれも人間の貴ぶべき献身では無いのではなかろうか。それは人間の正しい真摯な取り組みでは無いのではなかろうか。そして、神の業は人間の真摯な取り組みを中心としているのではなかろうか。あなたがたが神の業を人間の真摯な取り組みと融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行うべき本分を尽くすことを、私は望む。そうした後に、神の栄光の讃美をもって、神の業は完了するであろう。

注:

1. 「人間の『取り組み』」とは、ここでは人間の不従順な態度をさす。いのちに対する人間の真摯 (かつ肯定的) な取り組みを指すのではなく、人間の否定的な態度と行動を指す。この語句は包括的に、神に反抗する人間の行動を指す。

2. 「架空の恐怖に苛まれている」は、人間の見当違いな人間的生活を揶揄するために用いられている。悪魔と共生している醜悪な人間の生活を指す。

3. 「熱狂してゆく一方であり」とは、人間の醜悪な状態を揶揄的に指す。

4. 「生け捕りにする」とは、人間の暴力的で忌み嫌うべき姿勢を指す。人間は神に対して残忍で少しも容赦せず、神に対して不当な要求を行う。

5. 「周到な戦略を胸に秘め」とは、人間がどれほど自分を知らないか、自分の器量を知らないかを指して揶揄的に用いられている。

6. 「尊敬される」は揶揄的に用いられている。

7. 「先ず憂い、後で楽しむ」とは、愛国的になって自国のために大いに努力する者となることを指す。

8. 「放とう」とは、神に倒されて怒りで湯気が立っている、醜悪な人間の状態を指す。神に対する人間の反抗の度合いを示す。