真理が道を示してくれた

日本 実在 

全能神は言われます。「神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行いたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。それらが人間の経験と教訓であり、この世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まして悔い改めないならば、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストおよび反キリストとなる。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる(『神の出現と働き』「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、5年前の体験を思い出しました。

教会の指導者に選ばれたばかりのときです。私は熱意にあふれ、本分に真剣に取り組みました。教会の仕事をしっかりやる決意でした。すべてのチームの仕事状況を調査して分かったのですが、仲間の何人かが適格ではなく、チームリーダーたちもそれを正そうとしていませんでした。原則が分かっていない人もいるのに、リーダーたちは交わりもせず、手を貸すのも遅く、教会の仕事に支障が出ました。私は気になり、思いました。「あからさまな問題が解決されず、誰も責任をもって仕事をしていない。次の集まりで話し合わなければ。何が間違っているかを彼らに分かってもらわないと」次の集まりでは、彼らの仕事についてリーダーたちに何度も尋ね、落ち度や問題点を指摘しました。彼らは実務ができていないことを分かっていて、変わろうとしてはいましたが、私はそれでも不満です。自分が厳しく分析して取り扱わなければ、何も成果は生まれないと思い、叱る口調で、「本分を尽くすにも投げやりで、実際の問題を何も解決していない。教会の仕事を邪魔している」などと言いました。その後は彼らの気持ちを聞くこともなく、問題を見つけて正した自分に酔いしれました。その2日後、同労者が言いました。「あるリーダーはあなたを怖がっていて、問題があれば取り扱われると思っています」これを聞いて動揺しましたが、自分は問題を見つけて正すという必要なことをしたのだから、取り扱いは彼らが学ぶためだったと思っただけでした。次にリーダーたちに会った時も、彼らの仕事ぶりばかり厳しく尋ね、問題を見つけると彼らを取り扱い、分析しました。私は確信を持って言いました。「兄弟姉妹の中には仕事について問われるのを恐れる人がいる。実務ができているなら何を恐れることがあるのか。仕事について学ぶことでしか問題を見つけて正せないのに」集まり後、あるリーダーが話しているのを聞きました。「まだ本分の尽くし方を学んでいるところで、難しいことも多い。集まりの交わりで解決したいのに、ストレスばかり」と。私は少しつらくなりました。集まりが実り多いものでなかったのは、自分のせいなのかと思いました。でもきっと、それは私の霊的背丈が低いからで、交わりが分かりにくかっただけで、新しいリーダーがプレッシャーを感じるのは当然です。そこで言い返しました。「ストレスは力になる。そう感じなければだめだ」と。その後、同労者によると、リーダーたちは私に会いたがらず、私に取り扱われるのを恐れてこう言ったそうです。「あのような取り扱いは感情的で、兄弟姉妹の啓発にはならない。問題や困難の解決には、もっと真理の交わりが必要だ」と。それでも気にせず、自分の動機は正しく、少々きつくても、責任をもって役目を果たしていると思っていました。何度同僚から警告されても、神の御前に行き、自省することはなかったのです。だんだんと気持ちが暗くなり、聖霊の働きを感じられなくなりました。苦しくて、つらかったです。その時初めて神の御前で自分を振り返りました。「なぜ本分で何も成果が出ず、壁が立ちはだかるのか。なぜ兄弟姉妹はいつも、私に抑圧されていると言うのか。本当に同労者が言うように、感情で人を取り扱っているのだろうか。でも教会の仕事のために厳しく言ったのだ。私が言わなければ兄弟姉妹は事の重大さに気づいたのだろうか?」苦しみながらも自分を正当化しようとしていました。本当に苦しみました。

祈りの後、次の御言葉を読みました。「教会の指導者や働き手として、神の選民を真理の現実へと導き、神の証人として仕えたいのであれば、一番大事なのは、人の救いにおける神の狙いと神の働きの目的について、より深い認識をもたなければならないということです。あなたは神の旨と、神が人に課す様々な要求を理解しなければいけません。現実的に努力を行ない、自分が理解できるだけのことを実践して、自分が知ることだけを伝えるようにしなければいけません。自慢したり、誇張したり、無責任な発言をしたりしてはいけません。誇張すれば人に嫌われ、のちのち自分を咎めるでしょう。これでは不適切に過ぎます。他人に真理を施すとき、その人が真理を得られるようにと、彼らを取り扱ったり叱りつけたりする必要はありません。自分自身に真理がないのに他人を取り扱ったり叱りつけたりするだけなら、あなたは恐れられるでしょう。しかしそれは、彼らが真理を理解したという意味ではありません。行政の働きの中には、他者を取り扱ったり刈り込んだりして、ある程度懲らしめても大丈夫なものがあります。しかし、真理を施すことができず、他の人に対して威圧することや叱ることしか知らないのであれば、あなたの堕落と醜さが明らかになるでしょう。時が経つにつれ、人々はあなたからいのちの糧や実践的なことを得られなくなり、あなたを嫌って忌々しく思うでしょう。識別力のない人ならば、他人を取り扱って刈り込むこと、怒りを露わにすること、あるいは癇癪を起こすことなどといった、否定的なことをあなたから学ぶでしょう。これは他の人をパウロの道、地獄に向かう道へと導くことに等しいのではないでしょうか。それは悪事ではないのですか。あなたの働きは他の人に真理を伝え、いのちを施すことに重点を置くべきです。あなたのすることが、どれも盲目的に人を取り扱って講釈を垂れることだとしたら、いったいどうしてその人たちが真理を理解するようになるでしょう。時が経つにつれ、あなたがいったい何者かを人は知るようになり、あなたを見捨てるでしょう。こんなやり方で神の前に他の人を連れて来ることがどうしてできるでしょうか。これがどうして働きをしていることになりますか。このようにして働きを続ければ、あなたは全員を失うことになります。あなたはいったい何の働きを達成したいのですか。指導者の中には、真理を伝えて問題を解決することができない人もいます。そのような指導者は代わりに他者を無闇に取り扱い、自分の力を誇示して人を恐れされ、自分に従わせます。そのような人たちは偽の指導者、反キリストです。性質が変化していない人たちは、教会の働きを行なうことができず、神に仕えることもできません(「真理の実体を持つ者だけが指導者となれる」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は私の状態を完全に暴きました。私はまさに、そのように本分を尽くしていました。問題を扱うための真理について交わることに集中していなかった。感情的で、相手を取り扱い、叱責し、非難していました。その結果、私は彼らを抑圧し、怖がらせ、彼らに避けられるようになりました。また堕落した性質で生きていたため、神を不快にしました。私は聖霊の働きを失い、闇に沈みました。そのとき考えました。兄弟姉妹の本分で問題に気付いたとき、私は真理を求めることも、神の御言葉を具体的な交わりのために探すこともほとんどせず、実践の道に導いてもいませんでした。傲慢な性質で、注意して叱り非難するだけでした。私が息苦しくさせていたのに、自分のことは振り返らず、責任をもって本分を尽くしていると思っていました。神の御旨をよく考え、実際の問題を解決していると。神は同労者を通じ、感情で人を任意に取り扱わないように注意してくれたのに、私は無視をしました。その結果、何人かの兄弟姉妹は消極的になり、私のことを恐れ、避けるようになりました。教会の仕事もうまくいっていませんでした。神は明らかに、真理の交わりを第一にして働くことを求めています。兄弟姉妹はまず真理を理解しなければ、堕落した性質と堕落の真相を認識できません。理解して初めて、神の御言葉を実践し、自分の本分を尽くす気になるのです。それなのに私は、厳しくしなければ問題を見つけたら容赦なく叱責し非難しなければと思ったのでした。それが、彼らが問題に気づいて修正する唯一の方法であり、成果を出す唯一の方法だと思ったのです。その時、これがどんなに馬鹿げた考え方かが分かりました。そうやって働くことで、役職を利用し、傲慢に人を叱り、抑圧していたのです。真理の交わりで他者の問題を解決していたのではありません。神はリーダーに、真理の交わりで兄弟姉妹の問題を解決するよう求めておられます。皆と同じ立場になり、実際の困難に基づいて神の御言葉について交わることを。自分の経験と理解を交わり、他者を導いて助けることを。誰かを取り扱い、暴く場合は、真理の交わりの土台に基づかなければなりません。人々が、神が求めることを理解できるように、問題の本質と要点を強調しなければなりません。自分の問題と問題の本質、問題で生じる危険な結果がはっきり分かるように、そして、真理に沿うためには何をすべきか、神が求めるとおり本分をどう尽くすべきかを知ることができるように。でも私は神が求めるとおりに本分を尽くしていません。同労者の注意に耳を傾けないどころか、本分においてサタン的な性質で人を叱るという本性と結果を自省することもありませんでした。彼らのため、教会の仕事のために良かれと思ってやったと正当化しました。本分で正しい道を歩んでおらず、他者のためにもまったくなっておらず、それどころか抑圧していました。彼らを惨めに、息苦しくさせていたのです。私は彼らの害になっていたのではないでしょうか。悪になっていたのです! サタン的な性質に基づいて本分を尽くすことがこんな深刻な結果を招くとは思いもしませんでした。そのように取り扱い、叱ったことを心から後悔しました。すぐに神の御前で祈り、求め、考えました。知らず知らずに悪を働いていた原因は一体何だったのか。

その後、神の御言葉を読みました。「自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!」(「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は私の悪事の根源を暴きました。私は傲慢でうぬぼれた本性に支配されていたのです。傲慢でうぬぼれた本性のせいで、人より責任ある立場だと思って威張り散らしました。兄弟姉妹の仕事にミスや見過ごしがあれば、彼らを見下し、立場を利用して叱り、取り扱いました。理解も同情もしませんでした。こんな傲慢な本性に支配され、自信も過剰でした。問題を解決するには厳しく取り扱うしかないと思っていました。自分の観念と想像を真理として見せ、自分のやり方が相手を抑圧していると気づいても、やり方を変えず、兄弟姉妹の話を聞こうとしませんでした。同労者に注意されても反省しませんでした。少しきつい言い方になっただけで、彼らが取り扱いを受け止められなかっただけだと。傲慢なサタン的性質で本分を尽くし、兄弟姉妹に害を及ぼし、教会の仕事を遅らせました。私がしたことはすべて神に抵抗する悪事だったのです!

神の御言葉を読みました。「あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行いたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。それらが人間の経験と教訓であり、この世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まして悔い改めないならば、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストおよび反キリストとなる。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする(『神の出現と働き』「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」〔『言葉』第1巻〕)。読むのもつらい言葉ですが、神の性質は背きを許さないことを感じました。何年も信仰しているのに、真理の原則を求めることに集中せず、自己流で本分を尽くしていました。傲慢な性質は抑えが効かず、力のある立場から人を叱り、縛り、最終的に兄弟姉妹を抑圧し、息苦しさと苦痛を与えました。人間性があまりにも欠けていました。兄弟姉妹の実際の問題を解決できなかったばかりか、彼らのいのちの入りを邪魔し、教会の仕事を滞らせました。これが本分を尽くしていたと言えるでしょうか。サタンの子分のようではありませんか。前は自分の動機は正しく、教会の仕事を大事にしていると思っていました。でも少しばかり熱心になり教義を知っているからといっても、本分で神を満足させるには不十分です。神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れなければ、サタン的性質は変わらず、本分は神の御旨に一致しません。自分の意志に関わらず悪事をし、神に抵抗するだけです。排除された偽指導者と反キリストのことを思い出しました。彼らは神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れず、真理を実践しませんでした。サタン的性質で本分を尽くし、傲慢でうぬぼれ、横柄で、気ままに人を取り扱い、叱り、見下し、横暴でした。他者に与える影響は害以外の何ものでもなく、教会の仕事を壊し、乱すだけでした。悪事と神への抵抗そのものだったのです! 主イエスがおっしゃったとおりです。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:22-7:23)この御言葉に少し怖くなりました。このままサタン的性質に頼って本分を尽くしていたら、教会の仕事を混乱させ、神に抵抗した悪人のように神に非難され、排除されるでしょう。そして分かりました。教会生活と本分に実りがないのは、神の私に対する暴きであり、私は神の御前に来て自分を振り返り、悔い改めるべきであることを。なんと傲慢な本性だったかと考えると、裁きを受けず、神の御言葉に触れず、事実が明らかにならなければ、服従できなかったことでしょう。サタン的性質で本分を尽くすことの危険な結末に気づくこともなかったでしょう。その時深く感動し、このままではいけないと思いました。真理を求めて堕落を解決しなければなりませんでした。

そして神の御言葉を読みました。「問題が自分に降りかかったときは、冷静になって正しく取り組み、選択を行なわなければなりません。真理を用いて問題を解決できるようになるべきです。普段から多少の真理を理解しておくのは何のためですか。それは単にあなたの空腹を満たすためでも、ただあなたに話題を提供するためでもなく、他人の問題を解決するためでもありません。何より、真理は自分自身の問題、自分自身の困難を解決するためのものです。自分自身の困難を解決して初めて、他の人たちの困難を解決することができるのです(「愚かな者は救われることができない」『キリストの言葉の記録』)。「自分が交わる人々のことを理解し、いのちにおける霊的な事柄について交わらなければならない。そうして初めて他の人たちにいのちを与え、彼らの不足を補うことができるのだ。説教するような口調で人々と接するべきではなく、そのような立場を取るのは根本的に間違っている。交わりにおいては霊的な問題への理解がなければならず、知恵を持ち、人々の心にあるものを理解できなければならない。他の人たちに仕えるなら、あなたは正しい人でなければならず、自分が持っているものを用いて交わらなければならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十三章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉を通じて他者の問題を解決するには、まず神の御言葉を実践し、入らなければならないと分かりました。真理を求め、自分の堕落を解決することが一番大切なのです。堕落した性質を認識することが大切です。そうすると他の人が堕落を露わにしても、どうやって助け、自分の体験と理解を交わるかが分かり、実践の道を示せます。相手にも正しく接することができ、相手の中に見える堕落とまったく同じものが自分の中にもあると分かります。そうすると相手より自分が優れているなどとは思わず、対等な立場で交われます。相手のためになるには、このように交わるしかありません。それなのに、私は何をしていたか? 本分で自分の入りに集中することも、自分の問題を反省することもなく、まるで堕落とは無縁のように、仕事のためにと働いていました。他者の問題を解決することにとらわれ、自分の交わりが役に立たないと、見下した態度で叱りました。人間らしく生きず、悪魔のようでした。神に嫌悪感を抱かせ、他者に反感を抱かせていました。兄弟姉妹は自分の本分をしっかり尽くしたかったのに、原則を完全に理解していないから、やり方が分からなかったのです。ミスや手抜きがあれば、共に真理を求めて問題を解決できるように、理解し、許し、導き、前向きに助けるべきです。本分を故意に放棄する場合だけ、叱責し、警告すべきで、それを通常の対応にしてはなりません。これを理解すると気持ちは明るくなり、その後はどうやって本分を尽くすべきかが分かるようになりました。

その後まもなく、真理を純粋に理解する素質の良いチームリーダーが、真理の交わりを通じて実際の問題を解決することができても、問題と困難に直面して弱さを感じ、逃げていたという話を聞きました。この話を聞いてすぐにウズウズしました。彼女は本分を真剣にとらえていないから、厳しく取り扱わねばと思ったのです。ふいに、自分の傲慢な性質に従って行動しそうになったことに気づきました。すぐに神に祈り、今度こそ神の御言葉に従って実践する決心をしました。チームリーダーを探し、彼女の状態と困難を理解できるように腹を割って話しました。交わりでは関連する神の御言葉を見つけ、自分の体験を活用しました。彼女は神から託された使命に専念していなかったことに気づき、変わりたいと思ってくれました。姉妹が自分を振り返り、変わろうとする様子は、私にとっても感動的でした。教会指導者は他者を啓発する真理の交わりに集中しなければならない。そのことが理解できるようになりました。それが人のいのちを利する唯一の方法です。

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